BLACK BIRD
クロノヒョウ
第1話
「隣、いい?」
ホテルのバーのカウンター。
隣に座ってきたのはいかにもモテそうな雰囲気をもった若い男の人だった。
「一人?」
「本当は二人のはずだったけど一人になっちゃった」
私はそう言ってはにかんで見せた。
卒業旅行。
本当ならばこの山の中にある静かなホテルで彼と二人、のんびり過ごしているはずだった。
一週間前、彼は浮気をした。
就活が大変だったのはわかる。
私が先にすんなり内定して、ことごとくお祈りメールをもらっていた彼が焦っていたのもわかる。
だからといって浮気を許せるほど私の心は広くなかったのだ。
せっかく予約が取れた人気のホテル。
もったいないと思い一人で来たのはいいものの、周りは山のため温泉に入るくらいしかやることがなかった。
一人での寂しい夕食を終え、早速来たことを後悔しながらバーで飲んでいる時だった。
「……浮気か。その彼はバカなことをしたもんだね」
私は酔った勢いと旅の恥はかき捨て精神でその男の人にぼろぼろと愚痴をこぼしていた。
「俺だったら絶対浮気なんてしないのに。恋人を傷つけるなんて最低だよ」
「とか言って、彼女とか何人もいそう。絶対モテるでしょ」
「ああ、よく言われるけど、俺ってこう見えても一途なんだよね」
「ええー、怪しい」
「なんだったら、とりあえず試してみる?」
「はい?」
男の人は私を見つめながらいたずらっ子のような顔で笑っていた。
「いやいや、会ったばっかりだし、とりあえずとかおかしいでしょ」
「そう? 俺は一目惚れなんだけどな……」
そう言った男の人の甘えるような表情と甘い言葉が私の思考をぐるぐるとかき混ぜた。
やけになっていたのと寂しさとお酒の勢いで私はふらふらと男の人の部屋についていった。
「本当にいいの?」
ベッドに横になった私を覗き込む彼。
「とりあえず、でしょ?」
そう言って笑う私。
「あっ」
彼は帯をほどくと浴衣をはだけさせた。
そして下着もつけていない私の体を優しく愛撫した。
「んっ」
彼は優しかった。
身も心もすみずみまでほぐされてしまった私は彼のぬくもりに溺れていた。
「……おはよ」
「ん……」
目が覚めると裸の自分に見なれない天井。
「お、おはよう……ございます」
昨夜のことを思い出して恥ずかしくなる私。
急いで脱ぎ捨てられた浴衣を拾って袖を通した。
静かな部屋に鳥のさえずりだけが聴こえてくる。
「フッフッフッフッフフッフーン」
ベッドの上で鼻歌を歌いだす彼。
「知らない? BLACK BIRDっていう歌」
私は首を振った。
鼻歌を歌いながらじっと私を見つめる彼。
「あ、あの、すみません、お邪魔しました!」
私はいても立ってもいられなくなって逃げるように走り出していた。
「あっ、待って、ねえ!」
彼の言葉に止まることなく部屋を出た。
あれから一ヶ月、私は社会人になって慌ただしい日々を過ごしていた。
仕事を覚えるのに必死でただ家と会社を往復する毎日。
そんな中でもふとあの日の彼のことを思い出してしまう。
何も話さず逃げるように出てきてしまったことを後悔していたのだ。
ただ一夜を共にした男の人。
せめて名前だけでも聞いておけばよかった。
連絡先も聞いておけばよかった。
もう一度会いたいと思っている自分に驚いていた。
「あ……」
歓迎会の帰りだった。
会社の近くの居酒屋で飲んでカラオケに行き、もう一軒と言う上司に終電だからと頭を下げて一人で繁華街を歩いていた。
『BLACK BIRD』
そう書かれたバーの看板を見つけた。
忘れもしない、あの人が鼻歌で歌っていた歌。
あの人のことで知っているのはただそれだけ。
あれからあの曲を探し、今では毎日聴いている歌だ。
イントロの鳥のさえずりがあの日の朝を思い出させてくれる。
私と彼を繋ぐ唯一のもの。
私は引き寄せられるように『BLACK BIRD』のドアを開けた。
「いらっしゃいませ」
細長いカウンターテーブルが目に飛び込んだ。
そして懐かしい声も。
私は一番奥のカウンターに腰をかけると顔を上げて思いきり笑ってみせた。
「とりあえず、生ビールをお願いします」
「はい」
彼も嬉しそうに笑っていた。
「どうぞ」
注いだばかりの生ビールを置くと、彼は私を見て言った。
「とりあえず、自己紹介から」
「ですね」
私たちはしばらく笑いあった後、とりあえず自己紹介をはじめた。
完
BLACK BIRD クロノヒョウ @kurono-hyo
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