第2話
社宅に帰って長いため息が出た。やっと一人になれる。ドアノブには長いタオルをっけたままにしていた。いつでも自殺できるようにそのままにしてある。三度これで首を括ったけど、怖くて途中で力を抜いた。
どうでもいい、もうどうでもいい。どうやったら楽に死ねるのかな。でも僕が死ぬのはおかしい。僕は何もしていない。むしろ親切心で傘を貸そうとしただけ。男どもの気持ち悪い嫉妬心が僕を有象無象の不気味なものに仕立て上げた。僕は醜いやつになった。死ぬべきはあいつらなのに。なぜ僕が死ぬところまで追い詰められているんだ。
ベッドの掛布団を頭まで被った。しばらくすると息苦しくなる。このまま死ぬことができたら解放されるんだろうか。掛布団の隙間を手で押さえた。鼻の呼吸では足りなくて口を大きく開けて空気を取り込んだ。
掛布団を投げた。口から冷たい空気を一気に取り入れる。やっぱり死ねない。死にきれない。でも生きれば明日もまた辛い時間が始まる。あの課長さえ死ねばちょっとは楽になるのに。横になると、今日、ぶつけられた暴言が頭の中に渦巻きながら意識が遠のいていった。
シングルベッドを二つひっつけて課長と奥さんらしき女が寝ている。女は課長に背を向けて、課長は女の方を向いている。課長の手が伸びて女の背中を掻くと女は嫌そうな唸り声を上げて課長の手を払った。家庭では相手にされていないのだろうか。それを僕にぶつけているのだとしたら迷惑では済まされない。
そもそもこれは夢だろうか。夢のわりには意識がはっきりしている。横向いた課長の身体に乗ると、重みを感じたのかゆっくりと目を開けて僕を見た。情けない声を上げて体をよじり始めた。腕を課長の首に伸ばして掴み、思い切り力を入れた。大きい声が出たのに女はいびきをかいて寝続けている。
「や、や、や」
喉が絞られて声が出ないのか、課長はうめき声すら出ない状況だった。僕は手を緩めることはしない。死ねばいい。僕がどれだけ苦しんだか。課長の力が抜けたことに気づき、僕は喉から手を離した。指先には課長の喉の感触がはっきりと残っているのに、首には手の形が残っていない。でも課長は意識がない。
夢とはいえ課長を殺すことができて、身体の奥がほんのりと温かい。とはいえ出勤すれば憎き課長が憮然として席に座っているのだろう。
足取りが重いまま職場に向かう。課長はまだいなかった。いつも誰よりも早く来るのに珍しい。結局始業を迎えても課長は姿を現さなかった。憎き課長の顔がなくて幸運だった。
部長が僕の課に入ってきた。部長が姿を現すことはめったになく、全員立ち上がった。つられるように僕も立ち上がった。部長は座ることを促さずに小さく咳払いをした。
「今朝、和田課長の奥様から会社に連絡があって、和田課長が亡くなったらしい」
職場にざわつきが広がる。僕以外の社員同士が目を合わせている。
「まだ詳しいことはよくわからない。みんな、突然のことで困惑してるだろうが、普段通り仕事を続けてほしい。課長に相談している案件は私に回すように」
部長は足早に部屋を後にした。社員たちは業務に戻る余裕がなく、しばらく騒然としていた。でも僕の耳に届いた言葉があった。
「小田島が殺したんじゃね?」
僕のことを一番に嫌っている山口の声だった。陰口を言われすぎて誰が何を言っているかすぐに認識できる能力が身についた。
課長が、死んだ。僕が夢で殺したのが正夢になった。嬉しい。これで土下座から解放される。唇の端が持ち上がるのが我慢できず、口元を手で隠した。体内の底から嬉しさが迸った。それはもはや快感だった。
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