第9話 エレンの苦悩

 ファンケルベルクの忘れ形見が部屋から出て行った後、ヴァルトナー家の女主人エレンはソファにもたれかかって深いため息を吐いた。


「……疲れた」


 エルヴィン・ファンケルベルクは、1年程前に母を、二ヶ月前に父を亡くしている。

 昔から家同士での結びつきが強いエレンは、エルヴィンのことを心底心配した。


 不幸のどん底に落ちた彼が、両親の後を追うのではないか……と。

 けれど、それはどうやら杞憂だった。

 先日ヴァルトナー邸に姿を現したエルヴィンに影はなく、立派に育っていた。


 少し、立派すぎるような気もするが。


「石けんと化粧水には驚かされたわ……」


 これは、長年様々な化粧品に触れているエレンをも驚かせる代物だった。

 ずっと悩まされていた肌のくすみが消え、潤いが戻って来たのだ。


 たった一週間で、十歳は若返ったに違いない。

 それも素顔で、だ。

 ――ここが、商品の最も凄いところである。


 どんなに高品質の化粧品を使ったところで、素顔が良くなければ仕上がる美貌の上限が低くなる。

 だが素顔が綺麗になれば、化粧後の美しさの上限がぐっと上がるのだ。


 このような立派な商品を生み出すほどの逸材だったとは、夢にも思わなかった。


 まさか、商人として生きていくつもりだろうか?

 内心は隠していても、そういう願望があるのでは?

 実際、彼の交渉は巧みの一言に尽きた。


 石けんを1万クロン、化粧水を5万クロンと、あえてとんでもない値段を付けることで、エレンに癇癪を起こさせた。


 これが普通の商人ならば、買いたたいて終わり。

 安く仕入れて高く売って、潰れるまで稼がせてもらう。


 だが相手はファンケルベルク――とても付き合いの深い貴族で、かつ子どもである。

 その相手から、安すぎる価格を提示されれば、どうしたって親心が出てしまう。


 その感情の揺れを、利用された。


 実際、今回の化粧品の価格は、エレンが想定していたよりも幾分高くなってしまった。

 感情を乱された結果、『この商品にはこれくらいの値段を付けて交渉しなさい!』という、親心を出してしまったのだ。


 こちらの反応を見たエルヴィンはというと、


「笑ってたわねえ、あの子……」


 一瞬、自分の企みが成功したときのような、を浮かべていた。

 つまり彼は、自分の立場、場の空気、ラウラの反応、そしてエレンとの関係性すべてを考慮し、交渉の場で巧みに利用したのだ。


 相手の策にはまったのは悔しいが、それ以上に、交渉の場で感情を動かしてしまった自分がはずかしい。


 商人は、いつも冷静でいなければならない。

 それは貴族だって同じだ。


「この私を感情的にさせたんですもの、まず間違いなく、商人としての才能はあるわね」


 鍛え上げれば相当なやり手になるに違いない。


 もし商人として生きていくなら、ヴァルトナーへの婿入りを進めてみようかしら?

 そんな考えは、続くエルヴィンの言葉で完璧に打ち砕かれた。


『一人、どうしても消したい人がいましてね』


 その言葉を聞いた瞬間、背筋が凍り付いた。

 9歳児が出す殺気ではない。


 一瞬、消したい人とは自分のことではないか? と思ってしまった。

 このエレン・ヴァルトナーが、だ!


 海千山千の商人たちとシノギを削り、貴族婦人会で毒舌を飛ばし合い、様々な圧力に耐えて、鍛え抜かれた精神力をもつエレンですら、その身を震わせるほどだった。


 なんと彼は、たった一人の商人を殺すために、石けんと化粧水を開発したのだ!

 その者からヴァルトナーの後ろ盾を引き剥がし、ファンケルベルクの舞台に引きずり下ろす。そのために、あれほどの商品を開発するとは……。


 あまりにもファンケルベルク的。

 手筋が洗練されている。

 子どもが考えるような手法ではない。


 彼は間違いなく、ファンケルベルクの血を引いている。

 それも、かつてない程濃縮している。


 あれが9歳児だというのが、信じられない。


 おまけに、殺意を見せた時の魔力……。

 あの量は、人間のそれではない。


 あれほどの魔力量を持つ人間を、これまで見たことがない。

 あまりに膨大すぎて、エレンには計れない。


「国定魔法士何百人分……。いいえ、比べるならドラゴンかしらね」


 あまりに異常すぎる。

 三十余年、積み重ねてきた己の尺度が、一発で破壊されそうだ。


「才能……」


 というには、あまりに言葉が平凡すぎる。

 あれは、あの子は、そのような言葉ですら計れないものを持っている。


 何度、忘れようと思っても、脳裏に冷たい瞳が浮かぶ。

 ぶるり。体が震える。


 エルヴィンの、心臓も止まるほどの鋭い視線が、忘れられない。


「これは……ラウラを嫁に出すべきかしら」


 歴史上、ファンケルベルクとヴァルトナーが対立したことは、一度たりともない。

 だが、今後対立しないとは限らない。


 あのエルヴィンがこのまま育っていけば、ヴァルトナーだけではまず間違いなく対抗出来なくなる。

 ならば、枷を填めてしまえばいい。


 ヴァルトナーをぞんざいに扱ってはいけないという状況を作る。

 あるいは、こちらに目が向きそうになったら、内部から目標を変更させるのだ。

 自然にそう仕向けられるように、いまからラウラを教育しなおさなくては!


「これから、忙しくなるわね」


 せっかく、自分の跡取りが出来たと喜んだのだが……。

 裏の世界に送り出すだろう後ろめたさよりも、将来娘と肩を並べて仕事が出来なくなる寂しさに、エレンはため息を吐くのだった。

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