毒舌王甥殿下は全方位殲滅機能をお持ちのようです

ルーシャオ

原因は薔薇のドレス

 それはある夜の舞踏会での出来事だった。


 舞踏会というと誰もが思い浮かべるのは、貴族の紳士淑女がきらめくホールで上質な音楽を背景に踊り、ウィットに富んだおしゃべりを楽しみ、翌朝まで権力者たちの社交場で遊ぶ——そんな光景だろう。


 だが、この日は違った。その出来事を境に、アルウィーズ王国の舞踏会の規則や仕様がガラリと様変わりするほどに衝撃的で、多くの貴族を恐怖のどん底に陥れてしまったせいで舞踏会後には皆が皆、大慌てで各々の領地に引きこもってしまったほどだった。


 その場にいた詩人は、古にあったという『魔女ワルプルギスの夜』にちなみ、『鏖殺オーバーキルの夜』とワインをたらふく飲んで命名したが、しばらくはその名が使われることはなかった。なぜなら、その舞踏会の夜を経験した貴族たちは、ほぼ全員がその場で起きたことの詳細に関して長く口をつぐんだからだ。


 ただ——ある貴族令嬢は、端的に真相を語った。


「あの人はその場にいる貴族たちを糺しただけです。私は数少ない観衆としてそれを鑑賞していましたから、よく存じておりますわ」


 ともかく、アルウィーズ王国において四月三十日夜から五月一日未明にかけて起きた『鏖殺オーバーキルの夜』は、時代の転換点だったのかもしれない。


 一体全体、何が起きたのか。


 さて、短いながらも記憶に鮮烈に残る、物語のはじまり、はじまり。









 私の名は、イザベル。


 つい先日まではカーシル侯爵家令嬢、そう呼ばれていた。今の私の肩書きはモンニェス公爵カムデンの婚約者、あるいは、未来のモンニェス公爵夫人だ。


 私の背負っていたカーシル侯爵家の紋章『青い薔薇』は、モンニェス公爵家の紋章『黒い薔薇』へ。同時に、お気に入りの青い薔薇のドレスも濃く染めて、喪服にならない程度に黒くなった。尊敬するおばあさまから譲り受けた青い薔薇のドレスは、どんな淑女のドレスにも勝る宝石のようなものだったけれど、私はカムデンの頼みでモンニェス公爵家の人間になるのだと示すために濃く染め、舞踏会でお披露目することになっていた。


 今まで私が参加したどんな舞踏会よりも大きく、さらには国王陛下夫妻以下王家の面々までも参加するとあって、貴族たちはこぞって参加の意向を示し、誰が真の主役となれるかを競い合った。


 大きな宝石、美しい髪飾り、麗しい貴婦人、彫像のような美男子、機械よりも正確に刻まれるダンスステップ、誰に見染められるか期待に胸を膨らませる年頃の乙女たちに、無粋にもこの舞踏会が将来のアルウィーズ王国の縮図となるだろうと考える謀略家気取りの老人たち。


 まさか彼らも舞踏会の最初の曲目、ワルツが奏でられる前に事件が起きるとは予想だにしていなかっただろう。


 それは、私の婚約者であるモンニェス公爵カムデンの発言に端を発し、彼の指先は私の青い薔薇がより濃く染まり、きわめて濃紺となったドレスへ向けられた。


「イザベル、どういうことだ!? こんな晴れの舞台に喪服で来るなんて。どういう了見だ? 私をコケにしようと?」


 あろうことか、真に迫った怒りの表情でカムデンは私を責めはじめたのだ。


 これには、私も呆けてしまいそうになった。カムデンは自分の発言を憶えていないのか、あろうことか私の黒に近い青の薔薇のドレスを、喪服と嘲ってきたのだ。


 カムデンがこのドレスの由来を知らないはずはない。私が教え、私がどれほどこのドレスを大事にしているかを話したことがある。だからこそ、『黒い薔薇』のモンニェス公爵家となるようにと染めたのに。なぜ、どうして。


 いいや、私はここで怯んではならない。私にも怒りはある、大事なものを汚され、騙された怒りがあるのだ。


 しかし、私は言い返そうとしたが、後の祭りだった。


「何を言っているのです、カムデン様。私は、あなたとモンニェス公爵家のために、もっとも大切な青い薔薇のドレスを、あなたの家の紋章である黒い薔薇へと近づけようと」

「そんなことは頼んでいない! 見てみろ、周りの淑女たちは皆、明るいドレスばかりだというのに、君は喪服だ! 私との結婚が葬式と同じだとでも言わんばかりだな!」


 ここで、やっと私は気付いたのだ。


 周囲の、私たちへ視線を向けてくる淑女たちのドレスは、すべて白色もしくは春色のドレスばかりだ。ドレスコードを確認していない私が悪いとばかりの目を向けてくる彼女たちの顔は、私がカムデンの仕掛けた罠に見事に嵌まった獣のよう、と見下していたのだ。


 カムデンは怒りを露わに——それさえも演技だろうが——私へ強く迫る。


「とにかく、今すぐ脱げ! できないなら、君との結婚は白紙だ! 早く、今すぐに!」


 ——今ここでドレスを脱げ、ですって?


 またしても私は呆気に取られかけてしまった。馬鹿げているにもほどがある、衆人環視の中でドレスを脱いで詫びを入れろと、私の婚約者は命令してきている。


 全国からはるばる集まった貴族たちの前で、貴族令嬢が裸になるなど、貴族社会における死刑宣告にも等しい。


 わなわなと震える唇から反論の言葉も失われるくらいの侮辱だ。


 だというのに、私へのあまりの仕打ちに助け舟を出そうなどと考える貴族は、周囲には誰一人としていなかった。


 好色家と名高いリステル伯爵デルバート卿がやってきて、無罪であるはずの私への断罪の舞台の端緒を開いた。


「モンニェス公爵、何を騒いでおいでです?」

「ああ、デルバート卿! お恥ずかしい、婚約者が喪服を着ていて」

「何? ああ、イザベル嬢、いつもの青いドレスをそんなにしてまで……結婚がお嫌なのですかな?」

「違います、言いがかりはやめてくださいまし!」


 私が少し強い口調で抗議すると、別の男性貴族がすぐさま私を叱責した。


「何ということだ、デルバート卿の厚意を無視するなど! 謝りたまえ!」

「いやはや、これは痴話喧嘩では済みませんよ。悪いことは言わない、控え室に戻って早く着替えなさい、イザベル嬢」

「これはひどい。国王陛下の御前で、婚約者に恥をかかせようなどと」

「よりによってこの舞踏会で。そんなにもカーシル侯爵は娘をやりたくなかったのか」


 どんどん集まってくる貴族の『紳士淑女』たちは、面白い出し物を見つけたとばかりに、好奇の視線を私へ向ける。


 今日の舞踏会の最初の劇は、公爵閣下による断罪劇だ! そう叫ぶ誰かの声は、私へのますます膨らんでいく叱責の合唱の中から聞こえてきた。


「ほら、謝れ、謝れ!」

「あらやだ、あのご令嬢ったら、はしたない真似をして」

「落ち目のカーシル侯爵家は、未だにモンニェス公爵家を恨んでいるのかしら?」

「前摂政殿下に目にかけていただいたから家が保っているようなものなのに」

「ははっ、モンニェス公爵は慈悲深い。ドレスを脱げば許すというのだから、早く脱いだらどうだね?」

「やめなさいよ。ここは舞踏会よ、下卑た劇場にするつもり? そういうことはよそでやってちょうだいな、ああやだやだ」


 見知らぬ声が、心ない言葉が、どんどん私の心を蝕んでいく。宮廷楽団の素晴らしい音楽は止まり、この騒動にホール中の人々が耳を傾けるか当事者になろうとする。


 大勢というのは、一人の反論など実に容易くかき消すものだ。誰が正しいか悪いか、そんなことはどうでもいい。。彼らの常識ではそうなっている。


 恥辱と怒りと、泣き出しそうになる心を、私は唇を噛んで必死に抑える。無意識にドレスの裾を握りしめた両手は、指先が痺れるほど強く握られていた。


 たった一つ、今の私が理解していることは、『カムデンは私を嵌めた』ということ。それについて私は思考しなくてはならない、反論や反撃に移るためにも、カーシル侯爵家の名誉のためにも。


 だけど——今にも、俯いた私の心は折れそうだ。周囲に味方はおらず、誰一人として私を憐れまない。カムデンの勝ち誇った顔は、私の怒りをさらに燃え上がらせる。私の悲しみを責める一言一言ごとに増幅させていく。


 今ここで掴みかかってカムデンのその悦に浸る顔を叩いてやりたい、しかしその前に周囲の男性陣に取り押さえられるだろう。暴力を振るおうとしたと烙印を押し、必要以上に私とカーシル侯爵家の貶める材料にするだけだ。


 これはもう、私にはどうしようもない状況だ。そう思った。


 舞踏会のホールに雷鳴が落ちたかのごとく、高らかな哄笑こうしょうが響き渡るまでは。


「ふふっ、ははははは! 揃いも揃って馬鹿ばかり、馬鹿騒ぎとはこのことだ!」


 主役の登場とばかりに現れたのは、一人の男性だった。遠くまで響き渡るような、舞台俳優でもなかなか出せない号令のような、とかくはっきりとした明朗なその言葉は、ざわめく貴族たちをたった数秒でしんと黙らせた。


 仮面舞踏会用の目元を隠すガラスと布製のマスクを被った礼服の男性は、のっしのっしと貴族たちを追いやって、私のもとにやってくる。


 そこで、片膝を突き、私の右手をすっと持ち上げて、穏やかな口調で舌を回す。穏やかだったのは最初だけで、聞く言葉の尖り具合に私は思わず悲鳴を上げそうになった。


「ああ、失敬、イザベル嬢は違いますよ。あなたはただの八つ当たりの被害者、何も悪くはない。そのくらい、見ていれば分かりますとも。ええ、知恵を絞らずとも明らかに! 疑いのかけらなど持つこともなく! でしょう? 紳士淑女の皆様方?」


 ペラペラ舌が回るごとに、異様な熱気を帯びかけていたホールの空気が冷水を浴びせられたように静まっていく。


 この男性が誰なのかは、この場にいる貴族たちのほとんどが知っているだろう。


 『毒舌貴族』、『王甥殿下』イオン・アルワース。面白がって場をかき乱すことにかけては右に出るもののいない、おまけのように王位継承第一位のアルワース大公の姓がくっついていると公言して憚らない青年。


 とはいえ、私はあくまで噂を聞いていただけで、実際に会うのは初めてだった。他人の人生を狂わせることを喜ぶ道化師、他人の不幸を面白がるその性格のせいで彼を恨む貴族は多い、と兇状の絶えない人物だが、顔を合わせてみれば、少なくとも外見はごく普通の金髪碧眼の青年だった。


 なので、イオンの登場によりカムデンが顔を青ざめ、内心を誤魔化すように怒りの矛先をイオンへ変えたことで、彼に関する噂話は急速に現実味を帯びていった。


「イオン・アルワース! 貴様、その不遜な口を今すぐ慎め! ここにおわすのは貴様よりも博識で、常識をわきまえた方々ばかりだ!」

「これはこれは面白いことをおっしゃる、モンニェス公爵! 公衆の面前で婚約者にストリップを強いる方は違いますなぁ! それなら薄汚い酒場の舞台でも見ていればいいだろうに、わざわざここで! 国王陛下の御前で! そんな出し物をしようなどと! いやはや権威主義者の鑑だ、己を売り込むために婚約者の裸をも使うなんて趣味が悪ぅい! ははははは!」

「なっ……!?」


 私の手を取ったまま、立ち上がって大笑いのイオン。


 イオンにとっては単なる仕切り直しにすぎないだろうが、清々しいくらい舞踏会にふさわしからぬ単語の山が、カムデンめがけて雪崩撃つ。これにはカムデンも周囲の貴族の失笑が自分に向けられていることに気付き、デルバート卿をはじめとした貴族たちが、自分の味方でも何でもないことを思い知っただろう。彼らの本質的な性分は、あくまで茶化して他人を貶めたいだけだからだ。正義も悪も知ったことではない。


 もちろん、イオンのカムデンへの口撃はまだ始まったばかりだ。


「おおかた、追い詰められているのでしょう?」

「は? 何を言っている?」

「だってあなた、こんなことをして国王陛下のご機嫌を取らねば家を保てないくらい、追い詰められているんですしほら」

「はあ!? 言いがかりはよせ! 貴様、我が公爵家を侮辱するつもりなら、干戈かんかを交えてでも名誉を守らねばならなくなるぞ!」

「そんなお金ないでしょう、あなた。虚勢を張っても、懐からいくら出るんですかねぇ」

「舐めるな! 貴様がいくら王家の縁戚だからと言って、諸侯が味方に付くと思うな!」

「いえ、その前にあなた、いくら出せるんです? 真面目な話、モンニェス公爵家から諸侯にいくら付け届けができると? せいぜいが別荘のお局メイドの化粧代くらいでしょう? はっはっは、ナイスジョーク。諸侯がメイドの尻に敷かれているとお思いのようだ、はっはっは!」


 それを聞いた私は、笑いを堪えて平常心を保とうと努力した。


 そこに関しては周囲の男性貴族たちに同情する。イオンはカムデンの貧乏性を罵っただけでなく、男性貴族たちはそこそこ気に入った平民の愛人を別荘のメイドにあてがって囲ったりするものだから、当て擦りならぬ「お前の愛人によく賄賂を渡せばお前を意のままに操れる、何番目かの愛人の言葉に左右される程度の骨抜きにされた甲斐性なしどもめ」というしょうもない意味の罵倒があちこち心当たりのある貴族たちに飛び火していた。同伴している夫人や令嬢たちの冷ややかな視線に耐えかねて、必死に目を逸らしている名家のご当主を散見する。


 つまり、カムデンはそう思って自分の愛人に金を渡してくる、と受け取る貴族もいただろう。見事な買収行為賄賂への牽制である。これでカムデンは、諸侯を味方につけるためには予算の数倍から数十倍以上の金を支払わなければならなくなり、実質的に早期の『付け届け』は不可能となった。


 すっかり私の気持ちが明るくなりつつあるところで、今にもイオンへ飛びかからんとばかりに怒り心頭のカムデンに対し、イオンはこそっと耳打ちする。


「ところで、私の懐にはこちら、拳銃くらいありまして」


 礼服の左懐を軽く手で叩きながらそんなことを言われては、カムデンでなくてもその意味を理解した瞬間逃げたくなるものだ。


 要するに、これ以上口答えするなら、平和であるはずのここでお前を今すぐ殺すこともできるぞ、という暴力的脅迫なのだ。自分は暴力を振るっても、他人に振るわれることにはまったく慣れていない貴族にとって、予想だにしない直接的な身の危険は思考をパタっと停止させるもので、カムデンは無言で口をぱくぱく開けていた。


 大満足のイオンは懐に手を差し込みながら、わざとらしく早口かつ小声で口上を述べる。


「面倒な戦争よりも、ここであなたを始末したほうがずっと早く事が終わりますねぇ。ちょうど舞踏会で諸侯がいらしてますから、口止めするにも今日だけで終わりますし」

「やめろ、そんな脅しを口にするなど、ひっ!?」


 イオンが懐から手を引き抜いた。その意味を把握しているのはイオンとカムデン、そばで内緒話を聞いていた私だけだ。


 身を縮めて一歩後退りしたカムデンへ、イオンは手のひらに収まらないほど大きな真鍮の鍵を見せつける。


 それでどうやってカムデンの命を奪えるやら、鍵を見せびらかしながら、イオンは得意満面に顔を綻ばせる。してやったり、まさしくそんな顔をしている。


「ジョークですよ、ジョーク。ほら、こちら我が家の裏庭の扉の鍵です。いつも使うものだから、ついに門番から借りて合鍵を作りましてね、ええ」


 本当にイオンの礼服の懐に拳銃があると一瞬でも信じてしまっていたカムデンは、おちょくられたとようやく理解して、赤っ恥のあまり真っ赤な顔が盛大に歪んでいた。見たこともない婚約者の取り乱しっぷりと負けっぷりに、もう私はポーカーフェイスではいられない。クスッと笑いがこぼれてしまい、カムデンから殺意たっぷりに睨みつけられた。


 ——でも、全然怖くない。ふふっ。


 ここからどうなるのだろう。いつのまにか、私はイオンに期待していた。次はどんな面白いことをしてくれるのか、ワクワクして待っている。青い薔薇もドレスも何もかも、今は問題ではなくなってしまったのだから。


 そこへ、さすがに見かねた舞踏会の主役が現れた。


 アルウィーズ王国現国王夫妻、五十も半ばを越えた国王と、不機嫌そうな顔の痩せっぽっちの王妃だ。


 国王にとって今回の舞踏会はどれほど多数の貴族たちを集められたかという権威の喧伝にもなり、さらには自らがホールに持ち込まれた玉座の主であり、自分はこんな血気盛んな貴族たちも従えられるのだぞ、というアピールの絶好の機会だった。


 だから首を突っ込んできたのだが——御愁傷様と言わざるをえないことになるのは、想像に難くない。


 穏やかな年長者として振る舞う国王は、イオンをたしなめる。


「そのあたりにしておけ、イオン。モンニェス公爵も興奮は治まっただろう、せっかくの舞踏会なのだから、今のことは」


 無礼講ということにしておけ、そう言いたかったのだろうが、イオンは堂々と呑気な調停者気取りの国王の言葉を遮った。


「叔父上、あなたもう少し頭を働かせたほうがいいですよ。小狡い甥からの苦言ですが」

「お前は、またそんな言い方を」

「前摂政殿下とは茶飲み友達でしてね。色々と叔父上の『信頼する家臣』たちの名を伺っておりますれば、ほら」


 前摂政とは現国王が幼少のみぎりにその補佐についていた親類のパヴァーフ大公のことで、だいぶお年を召していることから舞踏会には出席していないが、おそらく前摂政に頭の上がらない国王は意図して呼ばなかったのだろう。前摂政も呼ばれるとは思っていないに違いない。


 その前摂政とよりによってイオンは繋がりがある、それだけですでに国王の顔色は悪い。不機嫌な王妃は逆に夫の不利を密かに喜んでいたが、それだけだ。


 このときを待っていた、とばかりにイオンは群衆の中から禿頭の紳士を呼びつける。


「ムスリン頭取、こちらへ。頼んでいたものは?」

「ありますよ。首尾は上々です」

「な、何だ。イオン、何をするんだ」

「何って、出し物ですよ。叔父上のための舞踏会です、賑やかしでも是非とも微力を尽くさねば。ほぉら、宮廷での賄賂の証拠がたっくさんありますよ! これはいい! 見るだけで楽しい!」


 イオンのかけ声に応じて、ムスリンは秘書に持たせて運んできていたトランクを次々と開き、中の書類を手当たり次第配りまくる。


 その書類にどんなことが書いてあるのか、読んでみたい、でももし自分に関することなら。貴族たちのそんな思いは、好奇心に勝てなかった。その結果が、一人残らず貴族たちの阿鼻叫喚の地獄絵図につながり、みんな仲良く地獄への門に殺到することになろうとも、だ。


 貴族に的を絞った国内の資金の流れは、この日、明らかとなった。つまりは、別荘のメイドに金を渡す程度の規模ではなく、貴族層から納税される税金の数倍以上の金の流れが、すっかり解明されてしまったのだ。


 しょうもないある家の明細リストに無名の女優が名を連ね、税金着服の仕方と賄賂を使った海上貿易の儲け方が分かる裏帳簿に、他国の保険会社と銀行を騙して極限まで融資を受ける方法、日のもとに出てしまった数々の国際犯罪。それらにはちゃんと実在の貴族の家名と、領地名が記されていて、書類の回収に躍起になるものもいれば、読み込んで頭に叩き込もうとするものもいる。


 もはや、舞踏会どころではない。


 名誉と生存を賭けた醜い自称高貴な人々の奪い合い合戦にご満悦のイオンは、宮廷楽団の指揮者へ注文をつける。


「君、音楽を続けたまえ。できるだけ悲しげなやつを」


 指揮者は上品に頷き、楽団へ舞踏会では演らないような悲鳴に似た弦楽器の楽曲を始めた。


 台無しになった舞踏会と、貴族の乱痴気騒ぎに怒り狂った国王が、内混ぜになりすぎて正体不明となった怒りのあまり、イオンへ激しく叫び立てる。国王の威厳はどこへやら、血の気の引いた王妃もやりすぎだとイオンを責める目つきをしている。


 私は一歩、そっと後ろに下がり、それを見物することにした。


「イオンッ! お前は、お前というやつは! 今日を狙っていたな!?」

「ははは、今頃になってお気付きで? 甘いですよ叔父上、前摂政殿下が茶を飲むたびに嘆くわけですふふははは! おっと失礼、笑いが止まらなくて」

「うぐぐぐっ! おい、衛兵! イオンを摘み出せ! 早く!」


 国王命令だ。だが、衛兵は誰も来ない。それもそのはずで、貴族の大乱闘が始まって国王に近づくことさえできず、イオンを摘み出すような優先順位の低い命令は聞いていられないのだ。


 国王の命令は絶対、そんな認識は今の衛兵の彼らにはない。イオンは、本心からそれを憐れんだ。


「叔父上、ここまで人望がないとはちょっと想定外でした……」

「違う! お前がまた何か悪さを」

「いえ、衛兵には何も……うわ、かわいそうですね……見なかったことにして差し上げますから……」

「ぎいいいッ! お前のせいだろうがーッ!」


 地団駄踏む国王は、まだまだ若いイオンに力で勝つことはできない。それどころか、さすがに国王の身の安全を確保しようとやってきた衛兵たちに両脇を押さえ込まれている。


 さらに、イオンは特大の言葉の爆弾を国王夫妻へも投げつけた。


「あと叔母上、叔父上が行かないからって夏離宮をの巣にするのはそろそろおやめになったほうが」


 面白いくらい、王妃の顔色が青や紫を通り越して真っ白になった。それを聞いてしまった国王が叫んだ。


「お前、あれだけ余には浮気をするなと言っておきながら!」

「違いますわ! 私は恵まれない人々を助けて」

「その代価に若い男へ体で支払えはドン引きですよ叔母上」

「余計なことを言うでない!」

「余の世継ぎが生まれぬのはお前のせいかーッ!」


 そんな感じで王家の直系お家断絶の真相が明らかとなり、おそらく国王は将来王位をイオンに渡さざるをえなくなったことを察しただろう。


 とまあ、ここまで色々と起きれば、私が壁の花になろうが誰も気にしない。むしろ、遠巻きに眺めて、テーブルに置かれていた配られる前の数種の果実酒を口にし、前菜のサーモンとチーズを好きなだけいただけるのだから、役得だ。


 明日、この国は崩壊するかもしれない。そんな気分にさせるほどの混乱は、しばらく収まりそうにない。それどころか、本当にしょうもない理由で起きる戦争の前兆がそこかしこで生まれていた。


「……あちこち被弾しすぎて、とんでもないことになったわね」


 発端は何だったかなど誰ももう憶えていないだろうし、それどころではないから、私のドレスのことはそのまま忘れ去ってもらいたい。うん、それがいい。


 子どものようにキャッキャとしながら、イオンがひょいと騒動の渦中から静かな壁際へと一時避難してきた。


「たーのしー! あはははは!」

「イオン殿下。お忙しそうですけれど、ちょっとよろしいかしら」

「ああイザベル嬢、何か?」

「ついでだから、モンニェス公爵から婚約破棄の言質を取ってきてくださらないかしら。もちろん、善意のボランティアとしてではなく、私の取引相手として」


 イオンはそれならば、とやる気に満ちた笑顔で承諾してくれた。そういえばカムデンはどこにいるだろう、と私がホールを見回すと、殴られたのか頭から血を流して逃げ出そうとしていた。しかし、すぐに他の貴族の誰かに捕まって悲惨な悲鳴を上げて連れ去られた。


 それを一部始終見ていたこのときの私とイオンの顔は、きっと秋空のごとく晴れやかだったに違いない。


「ならば、この騒動が落ち着いたあと、ささやかなお茶会を開きましょう。そこであなたの愚痴を聞きたいのですが、対価としては不十分ですか?」

「いいえ、いいえ。なら、私は美味しい茶葉とお菓子をお持ちしますわ」

「それはいい! 楽しみにしていますよ! では、のちほど招待状をお送りしましょう!」


 そう言い残して、イオンは「それでは、気を付けてお帰りを」と私にホールの出入り口の一つを教えてカムデンのもとへと向かっていった。比較的人の出入りの少ないそこから私は脱出して、とっとと家——カーシル侯爵家に帰る。


 後日、楽しいお茶会の席でイオンはこんな提案をしてくれた。


「あのドレスを漂白してウェディングドレスにしましょう。そうして、『白い薔薇』の紋章を持つチェンバーランド辺境伯家に輿入れすればよろしいかと。大丈夫、現当主は私の又従弟ですから、生存能力はピカイチですよ。それに軍事的才能もあります、何かあってもあなたをお守りできるので安心です」

「なるほど、それは大変よろしいわ。ぜひ」


 こうして私は青い薔薇のドレスを丁寧に漂白してくれる専門家までもイオンに紹介してもらい、チェンバーランド辺境伯家へ嫁いだ。


 ——おばあさま、大切なドレスは孫の花嫁衣装になったけれど、いいわよね?


 やがてアルワーズ大公イオン王甥殿下はイオン国王陛下と肩書きを変え、アルウィーズ王国は平和になりましたとさ。



おしまい。

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