第15話 チェルシーは覚悟を問う
「これは……」
チェルシーの顔が驚きに染まった。何故ならその本はフローディア国の文字ではなく、聖女の文字のみで書かれた本であったから。チェルシーの問うような視線にリズベットは答える。
「聖女が書いていたとされる日記よ」
「日記、そんなものが存在していたんですね。確かに相当古いもののようですが。でもこれは一体どこから?」
「過去に偽聖女事件ってあったの知っているかしら?」
「ええ、詳しくは知りませんが、そういう事件があったのは知っています」
「その時、教会側から迷惑かけたお詫びとして、ユーフィリアが教会から譲り受けたものらしいわ」
「なるほど、聖女を崇める教会がずっと保存していたのですね」
チェルシーが言うように教会はこの日記を大切に保管していた。それをユーフィリアに渡したのは司祭がやらかしてしまった事に対して、教会側が出来る最大限のお詫びであった。
「私達はこれまでこの日記が本物であるか分からなかった。多分守ってきた教会の人達ですらも。でも聖女の文字を読めるあなたがいる。あなたこそがこれを本物たらしめる」
「私が?」
「ええ、私は聖女の文字が読めないから、いくら見たって分からない。聖女がこの世界にいた証を証明できるのはあなただけよ」
チェルシーは震える手でリズベットから聖女の日記を受け取った。そのまま試しにパラパラとページをまくってみる。今や懐かしき日本語を見て、チェルシーに郷愁の感情が吹き荒れた。転生者ゆえに感じていた孤独、焦がれてやまなかった同胞の存在、他に転生者がいないか何度探した事か。
文字は人の人格をよく表す。彼女の文字は実に丁寧に書かれており、生真面目そうな性格である事が伺えた。瞬間チェルシーの心が叫んだ。何で違う時代だったのか。どうして生きて出会う事は出来なかったのか。それでも日記は時を経てチェルシーの元へと渡った。これは運命なのか。
そしてチェルシーはとあるものを見つけた。
「タチバナリツカ」
「え?」
「聖女フローディアの本当の名はタチバナリツカです」
チェルシーは裏表紙に書かれた文字を見て、泣きそうな声でリズベットに告げた。
「度々ですみません。少し、部屋に戻ってもいいですか? 日記はちゃんと読みますので」
「……ええ」
「失礼します」
余程衝撃的であったのか、チェルシーは心ここにあらずと言った様子であった。一方でリズベットとしてはチェルシーがここまでダメージを受けるとは予想外であり、転生者の孤独と言うものを甘く見ていたのを痛烈に感じた。
チェルシーが応接室から出る直前、たまらずリズベットは声をかける。
「チェルシー、その、ごめんなさいね」
しかし上手い言葉が思いつかず、つまらない謝罪しか出なかったもどかしさにリズベットの顔をしかめる。どうにかしたいと思っているリズベットの優しさを感じ取ったチェルシーは、彼女を安心させるように微笑んだ。
「いえ、嫌とかじゃないんですよ。単に心に感情がついてこないだけで。何か色々考えちゃうのは確かですけど、これだけは言えます。私は今日この日、聖女の日記と出会えた事を幸せに思います。だから気にしないでください」
去っていったチェルシーを見送り、リズベットは何とも言えないやりきれなさを覚えた。直接確認してはいないが、察するにチェルシーは望んでこちらに来たわけではないのだろう。彼女たちが持つ知識は、リズベット達からすれば喉から手が出るほど欲しいものだ。
だが違う記憶を持つという事は、過去の価値観から逃げられないという事でもある。過去の常識と今の常識の狭間で生きる。その苦悩はいかばかりか。
「転生人、異世界の多くの知識を持つ彼女達……叡智を持つ者達であっても孤独は耐え難いものなのね。聖女フローディア、本当の名はタチバナリツカ……か。あなたはどうだったのかしら?」
リズベットは今は亡き聖女に問いかけた。
チェルシーが戻ってきたのはそれから一時間後の事であった。
「長くお待たせしてすみません」
「いいのよ。無理して来たのはこっちなんだから」
チェルシーのただでさえ赤かった目が真っ赤になっているのを見て、リズベットは今の彼女の心情を察した。少し顔色も悪いようにも見え、リズベットも心配になる。
「今日はここでやめにして、明日出直しましょうか?」
「いいえ、話を進めましょう」
しかしチェルシーはかたくなであった。確かめるように見つめてくるリズベットに対し、チェルシーはぎこちなくも笑みを見せる。
「本音を言うと吹っ切れるどころか、まだぐちゃぐちゃではあるんです。でもこんなの一日二日で直るものでもありませんし。一人の方が余計考えちゃいますので」
「……無理はしないでね」
「ありがとうございます」
折れそうなのに己を奮い立たせるチェルシーの気丈な姿を見ては、リズベットも止めるわけには行かなかった。リズベットもまた覚悟を決めて、チェルシーの言葉を待つ。
「やっぱり……聖女様も私と同じでした」
そのチェルシーの言葉は悲しみに満ちていて。
「リズベット様、一つ確認してもよろしいですか?」
「……ええ」
リズベットの返事を確認した後、チェルシーはおもむろに語り始めた。
「私達、異世界からやってきた者は常に悩んでいます。何故なら私達の知識はとても、とても大きな力です。でも私達は元の世界でそれを享受していた側で発明者ではありません。リズベット様はそれでも凄いと言ってくださいました。実行する力があると。凄く嬉しかった。でも問題はそれだけじゃないんです。仮にです。もし私が一つの国を消滅させる武器の作り方を知っているとしたらどうします?」
リズベットの背筋が凍った。そのようなおぞましいものがあるのかとゾッとした。チェルシーは仮にと言ったが、その虚ろな表情を見ると嘘のようには到底思えなくて。そんなものがこの世にあるとしたら、それはまさに神の一撃である。神の一撃を人の手に持たせても良いのか。
チェルシーの言った事はリズベットにとって盲点であった。技術の進歩は素晴らしいものであるが、技術にはもちろん武力にかかわるものだってある。技術は誰かを救うだけではなく、誰かを殺してしまうなんて事もありうるのだ。
時に人は戦わなければならない。それを知るリズベットとしては覚悟はあるつもりであったが、見通しが甘かったと痛感する。国一つが吹き飛ぶとはスケールが違いすぎた。
「そんなものが……本当にあるというの?」
「あくまで極端な例ではありますけど、ある、ない、で言ったらあります。作り方を知っているのは嘘ですけどもね」
「…………」
リズベットは冗談だと、そんなものはないと言ってほしかった。でもチェルシーは残酷であった。あると言い切って見せた。そんな悪魔のような兵器が。
「私達は技術の進歩の先が、決して幸せだけではない事を知っています。過去にその悪魔の兵器が使われた事だってあるんですよ?」
「そんな……」
リズベットはチェルシーが告げたむごたらしい事実に絶句する。
「技術の進歩は良いだけではありません。相応に悪い事だってあります」
チェルシーは過去の自分を思い出しながら語る。技術の発展度合が自分に一任されているという孤独。ストローと言う現代の消耗品であっても、何かあってはいけないとチェルシーは悩みに悩み抜いて、この世界に出す事に決めた。
自分の選んだ物は不幸を招かないはずだ。チェルシーはそう信じてこれまで邁進してきたが、その判断が正しいかは今でも分からない。予期せぬ場所から不幸がやってこないか、恐れない日々はない。
「私達は何時だって自分のした事で誰かが不幸になる事を恐れています。私達が余計な知識を持ち込んだばかりに世の秩序が乱れてしまう事を」
リズベットはチェルシーは私達と言った事を聞き逃さなかった。すなわちこれはタチバナリツカなる者も異世界人として、同じ思いを抱えていた事になる。そしてリズベットは思い至った。だから畑を作った後、聖女は土を育てる方法を残さなったのだろうか。その技術によって何かが起こらないように。
「リズベット様は凄く良い人です。頭も良くて、明るくて、そして優しい。そんなあなただからこそ一線を超える前に尋ねたいのです。リズベット様……」
チェルシーのそれは何とも慈悲深い声であった。
「あなたは私達と同類になる覚悟はありますか?」
「もしも失敗してしまった時、その全ての責任を負えますか?」
聖女の、チェルシーの、異世界人の苦悩と重圧がリズベットの双肩にのしかかった。
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