二 若君との再会





「――――あの戦から五年も経つのか」


 かつての戦場から、遥か北の山に点在する爪牙族の集落。

 冬の終わり、外は雪解け水が川に流れ出し、段々畑にも引き込まれ、春を少しばかり早とちりした山菜が芽吹き始めていた。年季の入った水車小屋からは、ギィー…と木が音を立てている。


 水車小屋の隣の家の中で、盲の男が壮年の男の腰を揉みながら呟いた。


十兵衛じゅうべえ、まだおトキちゃんのこと、引き摺ってんのかい。あ痛てててて」

「……嫁さんの話は止めてくれ、旦那」


 この盲こそ大神十兵衛であった。十兵衛は大きな背を丸めながら、両手を客の腰に当て、押し、さすり、解していく。


 雪の中に紛れれば忽ち見失うような美しい灰銀の毛皮を、留紺とめこん色の着物に包み、鋭い眼光を放っていた琥珀色の瞳は失われ、傷ごと藍の覆いで隠していた。


められっかよ、爪牙の武士もののふの中でも一番槍の十兵衛が…嫁の死に顔を見られずに、こォんな所で按摩なんてよ」

「いや、按摩も悪かねえ……今は竹杖が槍の代わりになっちまったんだよ、旦那」

「何もお前が……くそっ」


 十兵衛は客の肩を揉みながら苦笑の吐息を漏らした。爪牙らしい獣耳がピルピルと下向きに震える。


「今でもなぁ……持ってるんだぜ、瓦版」

「そんなもん、ちり紙に使っちまってくれねえか」

「出来るかよゥ…お前さんの名前が、大手柄を立てた『もののふ』だって載ったんだぜ。ひよっこみてえな坊ちゃんを庇って傷を負いながら、その後も十も二十も西の田舎侍をよぉ…討ち取ったって」

「そりゃあ…随分話が盛られちまってるぜ、精々…」

「それが帰ってきたら、おめぇ……傷ってのがよりによって」


 客は心底無念といった風に本人に代わって嘆いた。十兵衛は戦で顔に傷を負い、目を潰されてしまったのだった。


 十兵衛は嘆く客に、話題を変えた。手から伝わる体の歪みを整えながら、客の右肩をぽんぽんと叩く。


「旦那、くわを担ぐ時にいつも右に担ぐだろう。それに、ごろ寝する時にも右を下にしとるんじゃねえか」

「おぉ、言われてみりゃあそうかもしれねえ」

「体の左半分が怠けとる」


 今度は客の左肩を手で叩く。客は笑って「怠けさせちゃいかんなぁ」と呟いた。

 里の住人は皆で田畑を耕し、良質な木材を切り出し、鶏を飼って生活していた。そんな村人たちの体の調子を整えるのが、今の十兵衛の大事な仕事だ。


 金を受け取り、客の家を後にした十兵衛は、竹杖を手に里を歩く。幸い、集落の皆が十兵衛の事情を知っており良くしてくれている。


「よう十兵衛、さっきお前の家の方に誰か歩いてったぜ」


 今日も村の者に声を掛けられて、十兵衛は歩みを止めた。


「誰かが儂の家に? 村の奴じゃねえのか」

「見ねえ奴だったなぁ……随分襤褸っちい格好でまるで幽霊みたいでよ。ありゃあ爪牙じゃねえぞ」


 つまり、余所者が態々十兵衛を尋ねてきたと言うことか。十兵衛はふむ、と鼻息を漏らすも笑って村の男に別れを告げた。

 集落の外れに、十兵衛の住まう庵がある。そのすみかに向かう道の途中には、小さな墓が建っていた。

 決して立派とは言い難いが、こぢんまりとして、良く磨かれた其処には十兵衛の亡き妻が眠っている。

 朝と晩、その墓に手を合わせるのが、盲目の十兵衛の日課であった。


 竹杖で己の進む先を探り、そろそろ墓の前へとさしかかるだろうと闇の中で感じ取っていた十兵衛の嗅覚に、懐かしい匂いが触れた。

 匂いにつられ、脳裏に蘇る一人の貴人の姿。そして戦場の記憶。心臓がドクリと大きく動いた。



「――そんな、まさか」



 ちょうど亡き妻の墓の手前で、十兵衛は足を止めた。



「……ん……」



 人の気配があった。普段、他に人の気配の無い道である。そこに、何処かで十兵衛の本能に刻まれた忘れられない匂いがするのだ。俄に信じ難いと眉をひそめたが、間違いなかった。



「――篤実様」



 光が無くとも、十兵衛の脳裏には十分なほどに目の前の光景が見えていた。濡れた落ち葉、冷たい墓石、眠りについた木々、蹲っている一人の人間。


 十兵衛は己の身体の横に竹杖を避けて、その貴人の前に膝を突き、顔の覆いを外し頭を垂れた。


「お久し振りに御座いまする」

「…………お主…十兵衛か」


 やや間を置いて、笛の様に澄んだ声が響いた。疲労の色が濃かったが、間違いなく五年前と変わらぬ四の宮の声であった。

 半ば寝落ちかけていたかつての若武者が、ゆっくりと立ち上がる。十兵衛には、その髪の一筋がハラリと滑り落ちる気配までありありと想像できた。

 そうして彼は、頭を垂れたままの十兵衛の頭上より穏やかに告げた。


「余のことを、憶えているか」

「はい。この大神十兵衛、槍は手放しましたが若君への忠義は、片時も忘れること無く――」

「そなたは、余の知る中でも…指折りの勇士」


 カサ、と微かに枯れ葉を踏む音と共にその小柄な気配は十兵衛へと前に出て、そして倒れ込んだ。



「若ッ!」

「――――お主に、余の……世話を命じ……」



 冷え切った身体は十兵衛の腕に、庇から滑り落ちる雪のように収まった。




「またお目にかかれるとは、思ってもおりませんでした」


 気を失ったかつての将を、十兵衛は己の布団に寝かせて零した。

 腕の中に残る、咄嗟に受け止めた身体の冷えた肌や、彼が身に纏う衣の泥や脂の張り付いた感触、何日も湯浴みをしていないのだろう獣じみたにおいを改めて思い返す。

 不意にぞわりと胸の奥がザワつき、股座またぐらが苛だちそうになる。十兵衛は慌てて首を横に振った。


 改めて耳を澄ませば、微かな呼吸音がする。


「儂はてっきり、殿上人として若君が名を馳せると思ってたんだが…田舎過ぎるせいか……噂も流れやしねえ。それが……」


 ぐる…と喉を鳴らし、十兵衛は胡座を掻いて暫し沈黙した。


 かつて夫婦で暮らした庵は、戦場から帰った次の冬に妻が病でこの世を去って以来、もっぱら十兵衛が一人で暮らしている。毛皮のある十兵衛でも、冬は火のぬくもりが恋しい位に寒い。人の身体の若君は尚更だろう。火鉢を傍へと引き寄せて、薄っぺらい布団を丁寧に若君の肩まで覆うように掛けた。


「ん…ぅ……」


 僅かな呻き声にも、十兵衛の耳はピンと震えた。しかし、まだ篤実は目を覚まさない。再び規則的な呼吸が聞こえ十兵衛はホッとした。

 ごくり、と唾を飲み込む。

 何故だか無性にその頬へ触れてしまいたくなるのだが、ぐっと堪えた。


「――――おトキを若様に会わせてやりたかったなぁ」


 共に戦場を駆けた、美しい若武者にして帝の四番目の御子、篤実雪政親王。妻も、その顔を見られるなど、生前考えたことも無かっただろう。何せここは、都からも戦場からも離れた北の田舎なのだから。亡き妻の顔を想像しながら、筵の上で尾をぱふんと弾ませた。


 闇の向こうから聞こえる寝息に耳を澄ませていると、十兵衛の腹が鳴った。夕餉を食べ損ねているのだ。

 膝を立てて立ち上がり、里芋を入れた粥を拵えることにした。客からもらった魚を、生姜と一緒に叩いてつみれにし、豆と大根と一緒に味噌で煮る。

 温かく立ち上る湯気に、最初は生の魚のにおいが強かったのが、徐々に火の通った飯の匂いに変わっていく。粥を煮る鍋は掻き回したときの手応えと、やはり米から飯の匂いへと変わっていくのを感じ取って火から下ろす。

 つみれ汁と芋粥をよそい、匙と共に手に持って布団のそばへと膝頭で進んでいった。


「……若君」


 十兵衛に、篤実の顔色はわからない。碗を傍らに置いて声を掛け、耳を澄ませ反応を待った。

 息はしている。僅かに空気が揺れている。弱々しいが、この闇の向こうで生きている。


「冷えて、辛くはねえか…」


 十兵衛は布団をそっとめくり上げ、手を探し、両手の中にすっぽりと包み込み温めた。十兵衛の毛皮の無い掌の中に、百日紅さるすべりの枝の様に滑らかで、つきたての餅のように柔らかな、しかし、まだ冷たい掌が収まった。指を絡めればより早く温められるだろうか等と考えて、十兵衛は己の考えが不敬であると、直ぐさま咳払いして気を散らした。


 すると、布団が擦れる音と共に包み込んだ薄い手がピクリと動いた。


「……ぶれい…もの…」


 その声は微かに笑んでいるようだった。そして、十兵衛の分厚い手を、彼はゆっくりと握り返した。

 何故かその様子が、自ら肉食の獣に身を差し出すうさぎの様に思えて、十兵衛の心臓はまた胸の中で大きく跳ねる。十兵衛は深く息を吸い鼓動を鎮め、口を開いた。


「若君、飯は食えますか」

「……ああ、食べられる。よい、においがする」


 そんなよこしまで礼を欠いた妄想ばかり浮かぶのは、空腹のせいであろう。そう自らに言い聞かせながら、十兵衛は竃に置いた鍋の方へと振り返り、それから再び目の前の若君へと顔を向けた。


「魚のつみれ汁と芋粥です。あり合わせで、その…若君の口に合うかわからねえが……」

「嫌味か? くくっ…」


 衣擦れと音と共に、篤実が身体を起こす。それだけでなく、ゆっくりとした動作で姿勢を正す気配がした。


「滅相もない。儂の貧乏舌で作った飯を若君に召し上がっていただくなんて、恐れ多いだけで…」

「大神十兵衛。…早速だが、世話になる」

「はっ」


 穏やかな声に、ふと十兵衛は頭が熱くなった。妻の声は、どこかこんな風だったような気がした。わさびを食べたわけでも無いのに、鼻の奥がツンと痛み、十兵衛は深く息を吸って、若君のために用意した夕餉を差し出すと半歩下がった。


「膳も無い家で、申し訳ねえ」

「構わぬ。いただこう」


 する…と布団の上を若君の膝が滑る。息を吹きかけ、ちゅる……と粥を吸う音を立てて、篤実は少しずつ食べ始めたようだ。


「十兵衛、何をしておる。そなたも食べぬか」

「…は、いえ。儂は若君が済んでからで……」

「傍でこのようにじっと見られては、食べにくくて仕方ない」

「失礼いたしました、若君。だが…」


 まだ何か言うのか、と言いたげに篤実が手を止めた。十兵衛は、ひしひしとその視線が己へ注がれるのを感じ取りながら、怪我で酷い傷を負った、もう開かない瞼を撫でながら口を開く。


「儂にはもう、若君を見る目は無えんで、決して……」

「………くっ、くはっ」


 ククククッと喉奥で堪えていた篤実は、やがて声を上げて笑いだした。


「わ……儂は!」

「嘘吐きめ」


 心臓がギュッと掴まれたかのようだ。



「お主の心の眼が、余を見ておったであろう」



 たったその一言で、十兵衛は喉が渇いて仕方なくなった。


「み……水を取って参ります、若」


 逃げるように立ち上がった十兵衛の背中は、何時もよりも毛がぶわりと立って膨らんでいた。

 裏の井戸へとかめを手にやって来て、ぐるるる……と弱り気味に喉を鳴らし、耳を寝かせた挙げ句に溜息を吐いた。背を丸め冷たい水を汲み取り、柄杓で一杯飲み干す。


「……冷えてきたな」


 肌に感じる温度や空気の乾き、森に生きる生き物の鳴き声からして、もうすっかり夜であると知った。瓶を水で満たし庵へと戻ると、篤実が十兵衛の姿を認めたのか名を呼んだ。


「十兵衛」

「飯は、口に合いましたか。若君」

「ちと、塩が強かった」

「この辺の味噌は、都に比べるとそうかもしれねえ。次は薄く……」

「いや、そんなことはしなくてよい、十兵衛」


 篤実は碗を手に立ち上がった。つられて十兵衛が顔を上げると微かに笑むような吐息が聞こえた。


「これがそなたの味なのだな。この儘で良い。して……どこに下げれば良い?」

「いや、若! 儂が片付けます、どうかごゆるりと」


 十兵衛は水瓶を足元に置き、篤実の気配のする方へ手探りで進む。その手を篤実が取り、空になった碗を握らせた。


「では、余は先に休む。十兵衛、寒いのは余は好まぬ故」

「はい、湯湯婆ゆたんぽを……」

「いや」


 するり……と十兵衛の着物の上から、冷えた薄い掌が撫でた。そうして、肘の辺りが摘ままれる。


「若君?」

「……余に添い寝せよ、十兵衛。その方が良い」


 篤実の言葉に十兵衛は無い目を瞠った。


「…じゃが、若君。儂は…」

「余の命が聞けぬか?」


 十兵衛の脳裏には、五年前に見た若者が首を傾げながら、自分を睨め付ける様がありありと再生できた。息を詰め、眉間に皺を寄せた後渋々頷く。


「――御意、若君」


 篤実の手が十兵衛の着物の袖を再びキュッと握った後、手の甲を名残惜しげに撫でて離れていく。

 とさりと横に鳴る音を聞いて、十兵衛は掻き込むように夕餉を済ませた。

 湯を沸かし熱い茶を飲んだ後に布団に近付くと、篤実は大人しくしていた。だがその僅かな気配の違いから狸寝入りをしているのがばればれであった。なにせ十兵衛は盲になった分気配に敏いのだ。


「……失礼します」


 布団をめくり、潜る。五年振りにして、初めてしとねを共にする若君の背は、こうして並ぶと以前よりも伸びている。それでも頭が十兵衛の胸元に収まり、つま先はすねの辺りまでしかない。


「十兵衛」

「はい」


 囁く声に十兵衛は擽ったさをおぼえて、狼耳をぴるるるっと震わせる。


「…余を抱き締めよ」


 ぶわぁっ、と全身の毛が逆立った。


「さ…すがにそんな無礼はできねぇ、若君」

「……よい。余とそなたしかおらぬ」


 布団の中で、十兵衛よりも細い身体が擦り寄せられる。己と違い毛皮の無いつるりとした肌。濃縮されたひとのにおい。

 あの戦場で庇い、抱き締めた若君のにおい。ずっと嗅いでいたい、生き物の本能に絡み付くにおいがする。


「余は――におう、か? 十兵衛」


 この人は己の心を見抜く目を持っているのだと、十兵衛はかえって恥ずかしくなった。


「あ、明日、湯を沸かしましょう。それか風呂を借りに」

「……そうか」


 獣の匂いをまとわりつかせた若君が、腕の中に身を落ち着けて、十兵衛は尚のこと眉間の皺を深くした。あまりにもその匂いが濃くて、近い。横を向いた十兵衛は、後ろ向きであるらしい若君の身体に腕を回し、意識を静かに眠らせていった。

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