帰宅すればそこは事件現場
犬若丸
トリあえず
「トリあえず、焼き鳥でも食べようよ。トリだけに」
そいつは面白くもないふざけたギャグを半笑いしながら口に出した。
こたつの上に置いてある3割引シールが貼られたもも肉醤油だれの焼き鳥パックは今夜の晩酌に楽しみしていたものだ。
残業した金曜の夜に疲れた独身男のご褒美にと楽しみに帰宅したのだが、金色の麦のビールが冷蔵庫になかった。
疲れ果ててはいたものの舌と胃は焼き鳥、ビールを求めてる。食わず飲まずにもいられない金曜の夜、渋々とコンビニへと向かった。
外出する時間、およそ15分。
ボロアパートに戻れば、知らない男が横倒れになっていた。
そして、開口一番に「とりあえず」と発した女の手にはバタフライナイフが握られていた。
どちらとも面識はない。もしかしたら通勤時ですれ違っているかもしれない。
コンビニに向かう際は鍵をしっかり閉めて出ていった。これは明らかな不法侵入である。
だというのに女は目を点にしてこちらを見ていた。ありえない場所で人が侵入してきたと驚いていた。
まるでこんなボロアパートにまだ住んでる人がいるのかと凝視し驚愕した思いが顔から伝わってきた。
悪かったな。こんなボロアパートで住んでいて。
しかし、次の瞬間には3割もも肉焼き鳥を一緒に食べようと言う。
それを言っていいのは購入者だ。お前じゃない。
そもそも、なぜ見知らぬ女がいる?
なぜナイフを持って食事に誘う?
なぜ見知らぬ男がいる?死んでいるのか?
疑問が浮かび新しい疑問が浮かんではまた別の疑問が浮かぶ。
脳内で困惑し、呆然としている間に女は缶ビールが入ったビニール袋をひったくり、中を覗く。
「えー、きんむぎぃ?あたしサッポロ派なんだよね」
それを言っていいのはお前じゃない。そのビールはお前の為に買ったわけじゃない。
夢と缶ビールが詰まったビニール袋を片手にもう片手には焼き鳥パックを持つと女は機嫌が良くなったのか鼻歌を垂れ流しながら我が家のように堂々とレンジがある台所に行く。
「死んでるのか?」
殺人犯と思える女に質問してみる。
女が持っているナイフには血がついていない。倒れてる男から流血はしていない。
死んでいるのではなく、死んだように寝ているのかもしれない。
だからといってボロアパートの一室に不法侵入しているのかは謎である。
「確認してみれば?」
ニヤリと笑ったその顔でバカにした言い方する。
遺体に触れて死亡確認してみろ。怖くてできないだろ。
挑発にも捉えられるが、遺体に触れるのが怖い臆病者なので乗るつもりはなかった。
「とりあえずさ、座ろうよ。あたしも仕事終わりで疲れてんだよね」
殺人現場を目撃したので殺されるかもしれない。
そういう疑問は不思議と浮かばなかった。
殺意もなく、親しげにする女が楽しそうに話しかけてくるせいかもしれない。
レンジの中からオレンジ色の発光が漏れ、もも肉に絡まった醤油だれが香ばしく漂う。
連勤残業明けの金曜夜。どんなものにも空腹とビールには勝てない。
とりあえず、死体と疑われている男の傍でこたつに入る。
幾分かしないうちに温められた焼き鳥と缶ビールが置かれ、女は向かい合うように座ると「乾杯」と楽しげに缶を叩いた。
「とりあえず」とはこういう意味なのだろう。
向き合わなければいけない問題がある。命の危機でもあるこの状況を置いておき、己の欲に従う。
解決するのはあとででいい。考えるのもあとででいい。
今は焼き鳥と缶ビールが欲しい。
プルタブを開ければ軽く弾けた音を鳴らす。溢れた泡を一滴も溢してならないと急いですすった。
仕事終わりのビールは最高だった。
帰宅すればそこは事件現場 犬若丸 @inuwakamaru329
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