君に花束を

執行 太樹

 

 


 病室の扉が静かに開いた。私は、扉の方に目をやった。

「すみません、起こしてしまいましたか」

 そこには、妻の姿があった。半分開いた扉から顔だけ出して立っていた。

 いや、いいんだと私は言った。妻は、そのまま寝ていてくださいねと言いながら、ベッドの横に据えている椅子の方に歩み寄った。手には、またいつものように花を入れた袋を提げていた。袋からピンクのガーベラが覗いている。

 私は横になっていた体を起こした。

「そんなに毎日来なくてもいいぞ。お前も忙しいだろうし、毎日来てもそうそう体調は変わらんのだから」

私は、椅子に座りガーベラを袋から出している妻に言った。

「良いんですよ。私が来たいから、来ているんです」

 妻はガーベラの花の薫りを楽しんでいた。ほら綺麗でしょ、とあどけなく笑っていた。花好きなところは、40年前とちっとも変わっていなかった。

 今日は気持ちの良い風が吹いていますよ、と言いながら、妻は病室の窓を開けた。暖かい春風が、カーテンを撫でながら部屋に吹き込んだ。心地良い風だった。ベッドの横にある花瓶に活けられたベゴニアの花が、風に揺れた。淡いピンクやオレンジなど、鮮やかに彩られた花々が薫り立った。妻は、花瓶の水を取り替え始めた。

「あいつは、元気にやっているのか。」

 私は、息子のことを尋ねた。はい、元気でやっていますよ、と妻は言った。

 息子夫婦は、先月長女が生まれたばかりだった。父親になった息子が、仕事に精を出しすぎていないか、家族を顧みずに働いていないか、私は気になっていた。妻はそんな私の心配を見透かしてか、あの子は大丈夫ですよ、と言った。あなたの孫も、すくすく育っていますよ、と微笑んで言った。私は、そうかと応えた。

 私の人生は、仕事一筋だった。家族を顧みずに、仕事のために生きた。家族を養うためだった。家族に、何不自由無く、幸せに暮らしてほしかった。そのために、必死で働いた。そして昨年、退職した。余命宣告を受けたのは、退職して1年後のことだった。胃がんだった。がんが体中に進行していた。3週間、もって1ヶ月と病院の先生に言われた。それがちょうど2週間前だった。その日から妻は、毎日見舞いに来ている。

 私は、黙々と水を取り替えている妻の背中を見つめた。妻の背中は、思ったよりも細く、小さくなっていることに気づいた。私は、そんな妻の背中を、じっと見つめた。

 おい、と私は妻に言った。妻は手を止め、はい、と私の方を見た。

「・・・・・・もう、いいぞ」

 私は、妻にそう言った。妻は、何も返事をしなかった。そして黙ったまま、水の取り替えを続けた。

「お前ももう若くないんだ。毎日病院に来るのも、そんなに楽じゃないだろ。家でゆっくりしたり、たまには出掛けたりして、自分のしたいことをして良いんだぞ」

 本心だった。私が妻にできることは、これぐらいしかなかった。妻は何も言わなかった。ただ黙って私の話を聞いていた。お互い、しばらく黙っていた。窓から吹き抜ける風の音だけが聞こえた。

 水を取り替えた妻が、またベッドの横の椅子に腰掛けた。そして、私の方に体を向けた。

「ここまで一緒だったんです・・・・・・。最後まで、一緒に居させてください」

 妻は、優しくそう応えた。微笑んだ瞳は、昔のままだった。

 

「ちょっと外に行きませんか。今日は、風が気持ち良いですよ」

 妻が言った。そうだな、と私は応えた。

 私は妻に車椅子を押されて、病院の外に向かった。外に出ると、春の暖かい風が全身を包み込んだ。妻は、病院の外にある庭へ私を運んだ。

「ほら、あなた。タンポポが咲いていますよ。あっちには、綿毛になったものもありますよ」

 庭には芝生が敷き詰められていた。まるで緑の絨毯のような芝生に咲いているタンポポが、春の訪れを告げていた。モンシロチョウが、ひらひらと花びらのように舞っていた。

 妻は、芝生の隅に咲いていたタンポポに近づき、座り込んで眺めた。タンポポの黄色い花びらを、優しく撫でていた。

 私は、妻の姿を尻目に、空をただぼうっと眺めた。そして、自分の人生を振り返った。

 仕事に生きた人生だった。欲しいものは、ある程度なら手に入った。しかし、人間は、結局死ぬ時は何も残らないのではないか。私は人生で、何を残せたのだろう・・・・・・。

「おれの人生、何が残ったんだろうな。お前に、何を残せたんだろうな」

 今思えば、私の人生は、自分勝手だったのかもしれない。空は青々としており、雲1つなかった。吸い込まれそうなほどの青さだった。

 妻は立ち上がり、私の後ろに回った。そして、私の肩にそっと手をかけた。

「あなたは、大切なものを残してくれましたよ」

 妻の声は、私に語りかけるようだった。妻は続けた。

「わたし達には、家族がいるじゃないですか。みんなと暮らした時間があるじゃないですか。あなたと過ごした時間は、消えたりなんかしませんから・・・・・・」

 妻は語りかけるように言った。私は黙っていた。

「あなたと一緒にいて、私は幸せでしたよ」

 妻の言葉は、私の心に優しく響いた。

 私は、花が好きな1人の女性のために生きた。その人が、幸せだったと言ってくれた。悪くない人生だった。もっと色んなところに連れて行ってあげれば良かったな。

 ありがとう・・・・・・。私は前を向きながら、そうつぶやいた。後ろから、こちらこそと言う声が聞こえた。

 一瞬、風が強く吹いた。足元のタンポポの綿毛が空に舞い上がった。2人の過ごした日々の思い出が、タンポポの綿毛とともに、青空に吸い込まれていった。





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君に花束を 執行 太樹 @shigyo-taiki

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