第二章 ハンナ
第10話 喫茶店での出会い
私が彼女と出会ったのは、桜が満開の季節だった。
場所はK駅の駅ビル二階、喫茶「オリーブ」で。
当時私はK駅近くの英会話教室に勤めており、なんの変化もない日々を過ごしていた。
ある時、友人からとある人物の情報を得た。
「オリーブに、お前が買ったペンダントとよく似たペンダントをしている女性がいる」
連絡を受けて、私はその友人が経営する喫茶店を訪ねた。
東側に床から天井まである大きな窓があり、そこのカウンター席に「彼女」はいた。
「あの、すみません。お隣いいですか?」
勇気を出して声をかけると、読書中だったらしい彼女は顔を上げて驚いたように私を見た。
まあ、突然私のような「外国人」って感じの人間に声をかけられたら、多くの日本人は驚くと思うけれど。
彼女はズレた眼鏡を直しながら、蚊の鳴くような声を出した。
「ええ。どうぞ……」
私はありがたく右隣の席に座り、バッグを足元に置いた。
さて。どう切り込むか――。
彼女は襟付きのブラウスを着ていた。当然、その下のデコルテは見えない。友人は彼女が一瞬かがんだ隙にそのペンダントを見たと言っていたが、同じチャンスはなかなか訪れなさそうだった。
まずは、仲良くなるしかないか……。
ちらと見ると、彼女はトレーの上のアイスコーヒーを勢いよくすすっていた。その姿がなんだか必死に見えて、蛍のことを思い出す。
立花蛍。
私の最も愛した女性。
彼女も飲み物を飲むときはいつも必死に吸い込んでいた。小柄だったために、肺活量がそんなに多くなかったのだ。ときおりむせてしまうこともあったが、それがまたチャーミングだった。そんなことをこの女性を見ていて思い出す。
「それ、美味しそうですね。私もそれ頼めばよかったな」
彼女の目の前にはまだ手付かずのBLTサンドがあった。それをきっかけにまた話を続けようとする。警戒させないように、最大限の笑みを浮かべて。
しかし、逆に戸惑わせてしまったのか、女性はぎこちなく微笑むばかりだった。
「ここからの眺めもいいですよね。もう桜が満開だ」
気にせず、別の話題を振る。
窓からは東口のロータリーと、その向こうにある大きな公園が見えていた。
公園内にはいまいましい桜の木がたくさん植わっていたが――私以外に、それを嫌いなやつはそういないだろう。
「桜は、あまり好きではありません」
と思ったのに、意外だった。
好きじゃない? 桜が?
「どうして?」
私は、元恋人と死に別れた季節を嫌でも思い出してしまうからだった。
じゃあこの女性はどうしてなんだろう。
なぜ桜が嫌いなのか。
しばらく待ってみたが、回答は得られなかった。私は当たり障りのない予想を口にしてみる。
「まあ……この時期は花見客で混みますからね、どこもかしこも。私も、実はそれほど好きじゃないんですよ桜。あ、すみません。ペラペラと。うるさかったですよね。もう黙ります」
あまり最初から飛ばすのは良くない。
押すだけじゃなく、引くこともしなければ。
「お待たせいたしました~」
その時、ちょうど前もって注文していたものが届いた。
アイスレモンティーとドーナツセット。店員の早苗ちゃんがそれをカウンターの上に置いてくれる。私はドーナツがなにより好きだった。女性のことはさておき、まずはそれを食べることにする。
「うーん、美味しいっ! いやー当たりのお店だここは!」
店長の涼とは友人だったけど、この店に来たのは初めてだった。
私がドーナツ好きだと知っているので、「じゃあうちの店にも置くか」なんて言ってくれていた。
もとはベーカリー一本のカフェでやっていこうとしてたのに、こうして律儀にドーナツも置いてくれてるとは。私は大変感激していた。
なので、多少オーバーに褒めちぎる。
裏で私の声が聞こえたのか、涼とその恋人の早苗ちゃんが苦笑している気配がした。
「うーん……本当に美味しい。やっぱりここのお店にして正解だったな~」
さらに褒めて、褒め殺そうとして、はたと気づいた。
そうだ、目的はこれじゃなかった。
あわてて隣の女性に視線を戻す。
「ね、ここの料理ってどれも美味しいの?」
馴れ馴れしい方がいいかもしれない。
いろいろ試してみる。
彼女が注文していたのはBLTサンドだった。入り口のショーケースに並んでいたパンとは違うメニューだ。カウンター席にはスタンド型のメニュー表も置いてあり、そこにはがっつりとした料理が載っていた。
それを注文しているということは――結構ここに通っていると見えた。涼はその女性はよく来る客だと言っていた。その情報は、正しかったようだ。
女性はあいかわらずいぶかしげに私を見てくる。
一度ちゃんと名乗った方がいいかもしれない。
「あ、ごめんなさい。自己紹介もせずにさっきから。私、この近くの英会話教室で講師をしている、ハンナと申します」
「は、ハンナ……さん?」
ようやくまともな返事を返してくれた。
ここからだ。虚実を織り交ぜて、彼女の警戒心を解かなければ。
「はい。ずっとこのK駅付近に勤めてたのに、食事処をあまり開拓してこなかったな~と思いまして。この店は本日、初めて来たんです」
「そ、そうでしたか」
「あなたも、このあたりで働いてらっしゃったり、近所にお住まいだったりするんですか?」
「ええ、まあ……」
どちらだろう。
どちらにしても、職場か家がここから近い。だからよく利用している。そういうことだろう。
「なるほど。で? ここの料理は全部美味しいんですか? もしそうならまた来て別のも食べてみようかなって思うんですけど」
「あ、ええと、たぶん」
「たぶん?」
「わたしは全種類食べたわけではないですけど、他の料理も美味しかったので。たぶん、そうだと思いますよ」
「じゃあ、また来ようかな」
上々だ。
これだけわかれば今日のところはもういいだろう。この女性がよくこの店に来るなら、私もまたここに通えばいい。
「あ、そうだ」
忘れるところだった。彼女の名前だけでも知っておかなければ。
「あの、もし良かったら、お名前伺ってもいいですか?」
「は?」
指先についたチョコをすばやく舐めとりながら、やさしく微笑んでみせたが、反応はあまりよろしくなかった。怪訝な顔をされる。
「またこの店に来たときに、お会いすることもあるかもしれませんし。ね?」
押せ。押すしかない。
あきらかにナンパの文脈でしかなかったが、それでも良かった。
彼女が身に着けているであろうペンダントを確認するためには、どんな犠牲も厭わない。
私はバッグから名刺を取り出すと、一枚差し出した。
そこには、英会話教室「ノア」英語講師ハンナ、と印字されていた。その下にはボールペンで個人の連絡先も。
「はいこれ。英会話に興味なくても、私に興味あったら連絡してください」
「どういう……意味ですか?」
「私は気に入った人には全員、こうして連絡先を渡してるんですよ」
「気に入った人……」
「ね? お願いです。名前、教えてください!」
両手をすりあわせて懇願する。だが、丁重に断られてしまった。
警戒心MAXという感じ。
あ~、失敗したかなあ。
でも、この人、小動物みたいでかわいいかも。
それが、私が彼女に抱いた最初の印象。
窓の外の桜の花が憎いほど美しい、春の日のことだった。
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