第6話 忘れもの

 無視だ。無視をしよう。

 あの人に会っても、もう絶対に口を利かない。

 

 翌日。

 わたしはそう強く決意して、喫茶「オリーブ」に向かった。


 もう惑わされない。

 あの人にこれ以上心を乱されるのはごめんだ。

 あんまりしつこかったら迷惑だってちゃんと言う。それか店の人にクレームを言って、出禁にしてもらう。二度とあの人のペースには乗らない。


 店を覗くと、今日はほどほどにお客さんが入っていた。

 あの人は……いない。良かった。一応周りを警戒しながら店に入る。いつもの窓際の席は幸いにも空いていた。


 今日はどうしようかな。

 久しぶりにオムライスにしようかな。

 店員さんを呼び、注文する。料理が届くまでまた小説を読んで待つことにする。


「お待たせいたしました~」


 しばらくすると、ふわふわの卵焼きが乗ったオムライスが運ばれてきた。濃いめのケチャップが目に鮮やかだ。わたしはさっそくスプーンを手に取り、その山をケチャップごと崩す。中のチキンライスが顔を出し、いい匂いが立ち昇る。


「いただきまー……」

「すみません。お隣、いいですか?」


 食べようとしたそのとき。

 またあの声が聞こえてきた。


「なんで、また……」

「嬉しい。今日も会えましたね。あ、昨日なにか体調悪そうでしたけど大丈夫でしたか?」


 いないと思ったのに。

 例の女性がそこにいた。

 どうしてわたしが食べようとすると、いつも現れるんだろう。

 まあいい。わたしは彼女を無視して、食事を続けた。


「あ、今日はオムライスですか。美味しそうですね。私もまたあなたと同じのにしよう。すいませーん」


 女性が注文をしようと手を上げる。

 この同じ料理を頼まれる、というくだりももう気にしないことにした。イライラするけれど、いちいち反応していたらこの人の思うつぼだ。

 と、ふいに彼女のバッグから音が鳴りだした。


「おっと。職場からだ」


 女性がスマホを取り出してタップする。なにかトラブルがあったのか、電話口からは「すぐに戻れ」といきなり男性の声が漏れ聞こえてきた。


「うん、わかったわかった。すぐに戻るよ。はい、それじゃ」


 通話を手短に終えた女性は、なぜかわたしに近づいてきて言う。


「急に戻らなきゃならなくなりました。残念ですが今日はこれで。あ、明日もまた来ますよね? ではまた明日」

「は?」


 約束なんかしない。

 しないのに。

 わたしが呆れて唖然としている間にも、女性はすばやく店を出て行ってしまった。

 なんだったんだ。


「はあ、でもこれでようやくゆっくり食べられる」


 改めてわたしはオムライスに向き合った。せっかく熱々なのだから、冷めないうちに。急いで口に運ぶ。

 うん、ケチャップ味のご飯と鶏肉と卵が優しいハーモニーを奏でている。とっても美味しい。

 満足感を噛みしめながら口を動かしていると、さきほどまではなかったものがカウンターの上に存在しているのに気付いた。


「ん? なにこれ」


 それは、白地に青い小花柄の模様が入ったタオルハンカチだった。

 さっきの女性以外は誰もこのあたりに来ていない。ということは……これはあの女性の忘れもの?


「どうしよう、これ……」


 このまま、この席に置いたままにしておこうか?

 それとも店員さんに届けておく?

 あるいは――。


「いやいや、わたしこれ以上あの人に関わりたくないんだって」


 勤め先は、わかっている。それはここから遠くない。だったら届けてあげるのが一番——。


「いや、だから。そこまでする義理ないんだって! 何考えてるのわたし」


 そんなことしたら、もっとあの女性から執着されてしまう。

 そうしたらもっと仲良くなってしまうかもしれない。

 無理、無理無理! ダメだ。


「はあ、どうしよう」


 わたしはそのハンカチを見つめたまま、途方に暮れてしまった。


 その後わたしがどうしたかというと不可抗力ながら「持って帰ってきてしまった」。

 なぜ嫌なのにそうしてしまったか。

 それは、カウンター席に別のお客さんが来てしまったからだ。

 わたしはとっさにハンカチを自分のバッグに入れてしまった。

 帰るとき、レジで店員さんに渡そうともしたのだけど、次のお客さんが並んでしまい、うまく手放すことができなかった。


 結局、あの人のものを、他人のものを盗んだみたいになってしまった。

 ああ、どうしよう。

 こんなことになるなんて。


 やはり最後の方法しかないのだろうか? でも、それだけはしたくない。

 ぐるぐると考えている間にも昼休憩の時間は過ぎていく。

 わたしは、あのハンカチを持ったまま百葉書店に戻るしかなくなってしまった。


「お帰り、萌枝ちゃん」

「ただいま戻りました……」

「ん? なんだかいい匂いがするねえ。香水でもつけてるのかい?」

「えっ」


 店長の葉子さんがわたしに近づいて、くんくんと匂いを嗅いでくる。

 そういえばさっきからいい香りが自分の周りでしている気がする。雑貨屋などに寄って香水を試した覚えはないのだけど……。と、そのとき、突然雷に打たれたみたいに嫌な予感が脳裏を駆け巡った。


 あの、ハンカチだ。


 さっきハンカチをテーブルから拾いあげたときにいい香りがした。

 あの香りと同じなんだ。

 きっとハンナという女性が普段から身につけている香水なのだろう。それがハンカチにも吹きつけられていた。そう考えるとすべてのつじつまが合う。


 今それをこの場で確認するには、難易度が高すぎた。

 いきなりわたしがここでハンカチの匂いなんか嗅ぎはじめたら「どうしたんだい、それ?」なんて葉子さんにくわしく尋ねられてしまうに決まっている。


「い、いい匂いですよね~。はは。さっきお店で試してみたんですけど、ど、どうですか?」

「ん? うん、いい香りだね。いいと思うよ」

「あ、ありがとうございます……」


 とっさに嘘をついてしまった。

 罪悪感がすごい。

 いままで浮気なんかしたことないけれど、もししたらこんな感じなのだろうと思った。バレかけて背中に冷や汗をかくとは、こういうことか。

 ごめんなさい、葉子さん。

 ごめんなさい、夏先輩。


 急いでバックルームに駆けこむ。

 そしてすぐにバッグの中のハンカチを取り出した。すると、やはり予想通りの香りが。


「ああ、なんでこんなことに……」


 明日、明日必ず返そう。

 オリーブで直接会ったときに。

 渡したら、なにかいろいろ勘ぐられたり都合のいいことを想像されそうだけど、構うものか。


 ——なんで持ち帰ってるんですか?

 ——なんでずっと保管してくれてたんですか?

 ——なんで返してくれたんですか?

 ——ひょっとして……


 うん、構うもんか。

 全部あの人が忘れたのが悪い。

 わたしはなにも悪くないんだから。

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