第8話 ハンナの元恋人

「そのハンカチをくれた、亡くなられた人って……」

「ええ。私の、元恋人でした。英会話教室でかつて私が受け持っていた生徒さんだったんですけどね」


 私が受け持っていた生徒さん?

 ええと、講師と生徒が付き合ってたということだろうか。それは……なんというか、よく職場をクビにならなかったなと思う。そういうのって普通、会社の規定で禁止されているんじゃないだろうか。


「あ、もちろん、職場では付き合ってませんでしたよ。でも意気投合して、職場以外でも会うようになって、そのまま……。彼女は五年前に希少がんにかかってしまって。あっという間でした……」


 五年前。

 夏先輩も同じころに亡くなった。しかも、同じこの桜の季節に。

 妙な共通点に、運命的なものを感じてしまった。非常に不服だけど。


「お待たせいたしました~」


 そのとき、ちょうど二人分のカツサンドが到着した。

 わたしとハンナの前にトレーがそれぞれ置かれる。


「あ、じゃあ、さっそくいただきましょうか。うわー。これもすごく美味しそう!」

「……いただきます」

「いただきます」


 おごられることを了承したわけではないけれど、とりあえずいただくことにした。

 サクサクの衣をまとった分厚いカツが、甘じょっぱいソースをたっぷりと身にまい、やわらかめの食パンにサンドされている。わたしは口を大きく開けてひとかじりした。


「うーん、美味しい!」


 心の中の声とほぼ同時に、横からハンナの歓声があがった。

 ソースはともに挟まれている千切りキャベツにも染みていて、それが口の中で混ざり、得も言われぬ食感となっている。ああ、懐かしい。思い出の味だ。


「ほんと、ここのお店はどれも美味しいですね。あなたと食べられて、私とっても嬉しいです」

「……」


 そう言って本当に嬉しそうに笑う。

 まるで。

 そこに大輪の花が咲いているようだった。明るい。夏のひまわりのような。そんな目を引く美しさがあった。


 やめて。


 目がつぶれそう。

 いや、つぶれてほしい。わたしは、夏先輩が好きなのに。この人を好ましいと思うことなんて、したくないのに。

 嫌な人だったらよかった。わたしにとって、ずっと迷惑な人でいつづけてくれたらよかった。でも、違った。この人はただ毎日自分らしく生きていただけ。大切な人を失っても、毎日楽しいことを探して、新しい人と出会おうとしていた。それだけの人だった。


 久しぶりのカツサンドはとてもとても美味しかったけれど、なんだか胸が苦しくなって、だんだんうまく飲み込めなくなってきた。助けを求めるようにお水を口に含む。


「はあ……」


 一呼吸置く。

 落ち着くために、胸元のペリドットに手を置いた。

 この宝石の石言葉は、「夫婦の愛」「幸福」「希望」だ。贈られたあと、自分で意味を調べた。

 夏先輩はきっと、わたしたちが夫婦になることを夢見ていたのだろう。でも、それは果たされず、残されたわたしの幸福や、希望を代わりに願ってくれていた。このお守りがなければ、わたしは今頃もっと悲しみにとらわれていただろう。


 ――あなたが幸せになるなら、いつかはあたしのこと忘れていいよ。


 そう手紙には書かれていた。

 でも、わたしは忘れたくなかった。あなたを好きだった気持ちを、ずっとずっと覚えていたい。


「はー、ごちそうさまでした! あ、ほんと気にしないでいいですからね。お礼です。お礼ですから。おごるの断らないでくださいね」


 ハンナはウエットティッシュで口を拭きながら、おどけた調子でわたしにそう言ってきた。そのコミカルな様子に、思わずフッと小さく吹き出してしまう。


「あ、笑顔。初めて見ました。かわいい! ほんとあなたってキュートですよね。ギャップが、たまらないな~」


 なんだろう。こう、息を吐くように甘い言葉が出てくるの、本気でやめてほしい。心臓に悪いったらない。お世辞だってわかりきってるのに、ついうっかり本音だと信じてしまいそうになる。


「あの、あなた本当にわたしに一目惚れしてるんですか? なんか、すっごく嘘くさいんですけど」

「ええっ? そんな、心外だな……本当ですよ。信じられないっていうなら、元恋人の写真も見せますけど」

「はあ? 別に、それとこれ、関係ないでしょ」

「ありますあります。ほら、見て」


 そう言って、ハンナはスマホを操作し、アルバムに収められてる写真を一枚表示させた。ハンナと小柄な女性が並んで写っている。自撮りだろうか、すごく近い位置に顔がある。


「ね? どことなくあなたに似てません? 小柄で、眼鏡をかけていて、でも女性らしい体形で、知的さがにじみ出てるの」

「はあ……わたしにはよくわかりませんけど。ていうかわたしと似てるってなんですか? 元カノに似てる、だから気に入った? そう言われても全然嬉しくないですよ」

「えっ。そう、ですか? まあ、言われてみればそう、ですね……。すみません」


 今頃気づいたのか、ハンナは大きくショックを受けていた。

 いや、普通そうなるのはこっちだと思うんだけど。わたしはその元カノの代わりじゃない。なんだか無性にイライラしてきた。


「……ん?」


 イライラするって、なんだろう。別にどうでもいいことでは? この人にどう思われようと、わたしとは今後も関係のない人なんだから。この人がわたしに元恋人の姿を見たって別にいい。関係ない。わたしだって、このハンナって人を夏先輩の代わりに見立てたって――。

 って、何を考えてるの。おかしい。これ以上考えちゃダメ、言葉にしちゃダメだ。


「あ、あったあった。ついでにこれも見てください。これは闘病をがんばっていたころの彼女の写真です」


 そう言って、もう一枚の写真を見せられた。

 どこかの病院だろうか。病室のベッドに、髪のない女性が半身を起こして座っている。病気で亡くなったというのは本当だったようだ。放射線治療をしているのか、頭に毛糸の帽子をかぶっている。


「蛍と言います。治療効果は、けっこうあったんですけどね……」


 なんと言っていいかわからなかった。

 結局、亡くなってしまったのは夏先輩も同じだったからだ。交通事故で入院して、普通だったらそのまま順調に退院するはずだったのに。最後までどうなるかわからないのが病気やけがの治療だ。


 わたしはもう一度、その写真を見つめた。

 夏先輩のお見舞いにも何回か行ったなと思い出す。あれはクラスターが起きる前のことだった。感染症が広がってからは家族である葉子さんもめったに面会できなくなったと聞いたけど。


 ふと、違和感を覚えた。

 あれ? この女性……。

 そうだ。わたしは、この女性に会ったことがある。夏先輩の入院する病院で。


「あ……」


 そしてもうひとつ、さらに気になるところがあった。この女性は――淡い緑色の宝石のペンダントをしていたのだ。


「これ……」

「ん? どうしましたか?」


 まさか。そんな。

 でも、見間違いじゃない。


「ごっ、ごめんなさい。そろそろ昼休憩が終わる時間だから。行きますね」

「えっ?」


 カツサンドの最後のひとかけらを急いで口に放り込み、二千円をカウンターに置く。


「ちょ、ちょっと! おごるって言ったのにこれ……!」

「おつりは、取っておいてください」


 わたしは食器の乗ったトレーを持つと、返却口に返しにいった。ハンナが背後で何か言っている。でももう、振り向けなかった。


 足速に駅ビルを出る。

 外は、強い風が吹いていた。

 なんとか百葉書店に戻ると、店長の葉子さんがちょうどレジで接客中だった。わたしは軽く会釈をしてからバックヤードに入る。バタンとドアを閉め、息を整えるが、心臓がけたたましく鳴っていた。


「嘘でしょ……」


 つぶやくと同時に、チリリとうなじに痛みが走る。ネックレスの鎖が髪を巻き込んでいた。

 夏先輩を思い出す。

 夏先輩を思い出す。

 ロッカーの扉を開けて、裏に張られた鏡を見る。


「同じ……」


 金のオーバル型の枠にはめられた淡い緑色の宝石、ペリドットのペンダント。

 ブラウスの中に隠していたチェーンを引き出して、その宝石を見つめる。


 どうして、あの写真の女性がこれと同じものを身につけていたのか?

 たまたま同じデザインだっただけ?

 もし、このペンダントが、あの女性のと同じものだったとしたら……夏先輩はどうしてこれをわたしにくれたんだろう。


「夏先輩……」


 どういうことなんですか?

 聞きたくても、その相手はもうこの世にいない。

 わたしは頭の中がぐちゃぐちゃになった。ハンナに、あの女性にこれからどんな顔をして会ったらいいかわからない。でも、いずれは聞かねばならないことだと思った。


 彼女と彼女のペリドットについて。

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