糸を離した罪人は

葛瀬 秋奈

アリアドネの糸

 目が覚めたら地獄だった。

 いい夢をみていたのに最悪の気分だ。

 違う。これもまた夢だ。おそらくきっと。


 ゆっくりと辺りを見回す。

 真っ暗な血の池に人だか肉塊だかわからなくなった亡者共が蠢いている。俺だけが人の形を保ったまま、折り重なった亡者の山のてっぺんに鎮座しているというわけだ。


 我ながらどうかしている。年寄り連中の反対を押し切って故郷を飛び出したくせに、これを罰当たりとみなす倫理観は手放せてないところも含めて。


 どうしたものかと考えていると、すっと光が差すように銀の糸が垂れてきた。見上げると遥か高みの天上へと続いている。


 『蜘蛛の糸』だな、と思った。


 昔の人の小説でそういう話があった。俺は文学にはさほど興味がなかったけれど、仏教絡みの話は比較的興味深く読んだのを覚えている。

 寺育ちだったのもあるが、それを理由に水嶋さんが勧めてくれたからというのが大きい。彼女は偏屈な俺の数少ない友と呼べる人だった。


 確か、好き勝手して地獄へ落ちた罪人に対して、たった一つの善行を理由に仏の慈悲がもたらされる話だったか。つまり、この糸を登れば極楽へ行けるわけだ。

 都合が良すぎて虫酸が走る。無意識でそれを期待している自分に対して。


 糸を握ってみた。か細い割に意外と手応えはしっかりしていて手に馴染む。軽く引っ張っても切れそうにない。

 これなら、と糸をたぐるように登ってみる。現実よりも体が軽くてするすると上がっていけそうだった。

 ふと下を見ると、亡者の山は物語と違ってそのままだった。本当に都合が良すぎる。


 そして手の中の糸がいつの間にか藍色の毛糸に変わっているのを見て、蜘蛛の正体を察した俺は手を離していた。


「はなさないで」


 遥か彼方で聞き覚えのある声がする。


「離さないで」


 蜘蛛の糸のようにか細いすすり泣きが聞こえる。泣かせるつもりはなかったのだけど、もう俺は手を離してしまった。


 極楽浄土には善人だけがいればいい。

 俺は怪物退治の英雄ではない、ただの罪人なんだから。一番救いたかった人すらも肝心なときに助けられない大馬鹿野郎なんだから。


 積み上げてきた業が重くのしかかる。


 落ちていく。堕ちていく。

 天上がどんどん遠ざかる。

 

 俺は石のように血の池に落ちて、あとには銀色の蜘蛛の糸がきらきらと垂れ下がっていた。

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