第83話 本当の笑顔


「ローザリンデ、生きていてくれた」

迎賓館に面した庭園が見える回廊で、私は石柱に身を隠すようにして彼女を見ていた。最後に会ったのは、婚約を解消して欲しいと頼んだあの日。元々細身だったけれど、今は少しふっくらしたようだ。手を引いている大柄な男が帝国の皇太子なのだろう。青紫色の小さな花を優し気に見下ろしていた君が、彼を見上げて微笑んだ。口もとに、白く真珠のような歯がのぞいている。高位貴族の令嬢としては“はしたない”といわれてしまうかもしれない。私の見たことのない、この上なく幸せそうな笑顔。


「本当は、そんな風に笑うんだね」

5年も婚約者だったのに、知らなかった笑顔。私が知っていたのは、ほんの僅かに首をかしげて儚げに微笑む姿ばかりで。嫋やかな令嬢らしくあったそれは、どこか少し困っているようにも見えた。いま目の前にいる君と、あの頃の君はまるで別人のようだ。生きていてくれて、そんな風に笑ってくれて。本当によかった。

「ローザリンデ……」


小さく名前を呼んでみる。父上に、会うことは禁止されているから、決して君に届いてはいけないけれど。君が生きていてくれることを確かめるように、私はもう一度繰り返してみる。


君より愛した人がいたはずだった。真実の愛だと思っていたのに。だから婚約解消だなんていって、令嬢が一人で家を出るような苦境に追い込んでしまったのに。気が付けば君の妹が婚約者になり、君が帝国皇太子の寵愛を受けて帰国したと知った途端、エイミー一家は夜逃げをしてしまった。


おそらく、皇太子の勘気を恐れてここよりも更に帝国から遠い国へ行ったのだろうというのが大方の見解だ。元々、歴史の浅い男爵家で、爵位や領地への執着はさほどなかったのかもしれない。でも、せめて私に別れの挨拶くらいしてくれてもよかったのではないだろうか。手紙すら残さず、私が贈った宝飾品などは持ち出して、家はもぬけの殻だという。置き去りにされたのは私と罪と、それから。

「真実の愛、か……」


私は小さく息をついた。今目の前にいる二人のほうが、余程“真実の愛”ではないか? 帝国からの勅使は、君が病気療養に訪れた地で彼と出会ったという。だが、実際には、君は夜更けにたった一人、家から逃げ出した。貴族令嬢の身で、彼と出会うまでのその旅路にはどんな困難があったのかと思うと、恐ろしく、そして胸が痛む。そんな、供も連れない令嬢と、一国の王たる父上でも容易には目通りできない帝国の皇太子が、今では顔を寄せ合って花々を覗き込んでいるなんて。


「私の婚約者だったのにな」

わかっている。先に裏切って、手を離したのは自分だと。見苦しく、未練がましい。それでも、今の君の隣にいる自分を想像してしまうことを止められない。君の笑顔が眩しすぎて。

「ローザリンデ……」


「我が主の伴侶、いずれ皇太子妃になられる方の御名を気安く口にされるのは困りますね」

背後から声がした。振り向くと、砂色の髪をゆるく縛った細身の男が貴族然とした笑みを浮かべて立っていた。

「何者だ?」

「私は帝国皇太子アーノルド殿下のお傍近くにお仕えしております、ヴォイドと申します。こちらの庭園、主の滞在中には王国の方は出入りを禁じられているはず。王太子殿下といえども、許されることではありません」

それとも、我が帝国に叛意が? と、男が口もとから笑みを消した。


「すまない、決してそのようなことはない。ただローザリンデの、いや、ディケンズ公爵令嬢の元気な姿を確認したかっただけだ。私はすぐに立ち去ろう」

「それがよろしいかと」

ヴォイドと名乗った男が視線を壁のほうに流すと、陰からすっと騎士が現れた。

「王太子殿下を本館までご案内するように」

命じられた騎士が頷いて、私を目で促した。私はもう一度庭園を振り向く。


「彼女は、帝国では幸せに暮らしているんだろうか」

「ご覧の通りですよ」

ヴォイドは、私を通り越して庭園を見ながら答えた。楽し気な笑い声が聞こえてきそうな二人の様子にズキリと胸の奥が痛む。よかったと思わなければ。これからは隣国の皇太子妃として、それから、婚約者の姉として顔を合わせることになる。しっかりしなければ。断ち切るように踵を返して、騎士の先導に続こうとしたとき。


「王太子殿下は早急にご父君とお話しされたほうがよいでしょう。自身と、王家と、王国の未来のために」

ヴォイドの声に足を止めて視線を移すと、彼は二歩三歩近づいて、私の耳元に口を寄せた。

「この国は遠からず併合される。上手くいけばご令嬢の家臣になれるが、失敗すれば、この城の門前にその首を晒すことになる。自分を憐れんでいる暇などないぞ」


それだけいって、すいっと離れて行った男を見つめる。唾を飲んだ私を気にする風もない。

「ああ、それから」

先ほどの冷たい声音が嘘のように、優し気に私に手を差し出した。

「こちら、お預かりしてきましたよ。二人で初めて街歩きをした時に贈った思い出の品なのでしょう?」


コロリと私の掌にあらわれたのは、確かに、初めてエミリーに買い与えた髪飾りだった。

「なぜ……?」

これがここに? どうしてこの男がこれを? 縮んだ喉からは言葉が続けられず、ただ、貴族然と口もとだけが薄く微笑む男を見た。


「この大陸で、我らの手の届かぬ場所などありません。地理的に、管理した場合の利益よりも手間のほうがかかるから手を付けずにおいているだけで」

「それは……」

エミリーは逃げきれなかったということか。財産を奪われるような目にあったというのか。


「帝国の法に触れたわけではありませんから、裁いたりはいたしませんよ。ただね、あちらこちらで自分たちにばかり都合の良い話を広められてはいささか面倒ですから。少し、人生に制限をつけさせてもらっただけです」

男は、何ということはないという風にそういった。


「生きているのだな? 囚われているのか?」

「あなたが知る必要のないことです。それよりも、自分の心配をしたらいかがです?」

これ以上話すことはないと示すように、男はもう一度騎士に小さく頷いてみせた。


「こちらへ」

低い声を発した騎士の後に続いた私の背中に。

「婚約解消の次は命乞いなんてことにならないように」

からかうような声が投げられた。

―――――― 王家が、この国がなくなってしまう

もしかしたら、自分の命も。突き付けられた現実に、手が震えだした。ローザリンデの妹が婚約者になり、王家はディケンズ公爵家に頭を下げた。エミリーには逃げられ、王太子としての面目を失った。それで終わったと思っていたのに。私の愚行の落とし前はまだついていなかった。それは、これから始まるのだ。





「さて、と」

悄然と去っていく王太子の背中が見えなくなったことを確認して、ヴォイドは庭園に歩をすすめた。


「殿下、そろそろお部屋にお戻りください。お茶の用意が整いました」

「そうか。ではローリ、一息つくか」

「はい、ノルド様」

ローザリンデの手を取ってゆっくりと歩き出すアーノルドの、斜め後ろをヴォイドがついていく。


「して、首尾は?」

「上々でございます」

「オレを撒き餌にするなど、帝国広しといえども其方くらいのものだな」

「お陰様で、王国のあらゆる勢力が状況を確認にきておりましたので。話し合いも効率的に行えました」

「話し合い、か。物は言いようであるな」

「ご令嬢の生家がいつまでも辺境の陪臣では聞こえが悪うございます。適当な時期にイルメリア王家には退場いただきます。円滑に事を運ぶためには事前の準備が重要でございますので」

「全く、頼もしい家臣を持ったものだ。それで、もう十分か?」

「はい、いつでも帰国できます」


頭上で声を潜めている二人を、ローザリンデは横目でちらりと見上げた。なにやら、また悪だくみをしているようだ。帰国という単語が聞こえて、心が弾む。生まれ育った国ではあるけれど。今回良かったことは、城に向かう道すがら、公爵家の厩番と庭師達に会えたことだけだった。自分が“帰る場所”は、もう帝国なのだと思う。あの宿場町の市場の賑わいが思い浮かぶ。マクラウド老家のみんなに用意したたくさんのおみやげを、早く渡したいと心が浮き立った。



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いつもご高覧いただき、ありがとうございます。

家人の入院等があり、しばらく更新が滞っておりました。

大変お待たせして申し訳ありません。

本日より、更新を再開させていただきます。

今後ともどうぞ、よろしくお願い申し上げます。

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