第76話 夢のあとさき
気がつくと、私は何もない部屋にいた。壁もない、天井も見えないから、部屋ではないのかもしれないけれど、太陽も空も見えない。灯りもないのに、ぼんやりと明るい不思議な空間。ここは、どこなんだろう。手をついて、体を起こす。“私”、何をしていたんだっけ。そうだ、家から逃げて、そして。ネズミーランドにいった。お昼を食べに家を出て、“私”、“お母さん”にみつかってしまって、そして……。フロントグラス越しに見た、運転手さんの形相を思い出した。
「“私”、あの車にひかれてしまったんだ」
ああ、ようやく逃げたと思ったのに。東京での暮らしにも馴染んで、一生懸命働いて、楽しいことをたくさん見つけていこうって思っていたのに。“私”は膝をついて、拳で何度も床を叩いた。悔しくて、やりきれなくて。でも、何度床を叩いても、手は全然痛くない。やっぱり、“私”の人生は終わってしまったのか。
「どうしてっ!!」
“私”は母を憎んでいた。利用するだけで、気持ちを返してくれないから。愛しているから、愛されたいと願ってしまうから、その分だけ“お母さん”を憎んでいる。切り離すことのできない相反する感情が私の心を押し潰してしまう。
だから逃げた。離れて、視界に入らなければ、塞がらない傷も忘れることができた。癒すことができないのなら、なかったことにするしかなかった。自分を守るために。全てを捨てて東京まで来て、一人で静かに暮らして。やっと、自分の中で折り合いをつけられたと思っていたのに。
どうしてあそこで“お母さん”に出会ってしまったの?
どうして“私”は振り向いてしまったの?
どうして“私”は逃げないで、“お母さん”を助けてしまったの……。
でも、目の前でひかれたのが“お母さん”だったなら、きっと“私”はそれにも耐えられない。そう、もう一人の“私”がいう。そうだ、結局、あの場所で、あのタイミングで出会ってしまったから。
「どうして……」
頭を抱え込んで、床にうずくまった。
その時、眩しい光が差し込んできた。見上げると、柔らかな白い光がふわりと降りてきて、人のシルエットを象った。
「あなたの次の人生で、その望みを叶えましょう」
柔らかな女性の声がする。
「あの、どちら様ですか?」
「私はそうね、地球風にいえば天使のようなものかしら? 神様のお仕事の実務をお手伝いしていて、私は人の輪廻を担当しているの」
不思議と、“私”は天使様を疑う気持ちにならなくて、納得していた。
「どうして“私”の願いを叶えてくれるんですか?」
「あなたの“献身”に応えて」
「“献身”、ですか?」
「結果として母親を庇って亡くなったけれど、あそこにいたのが犬でも、猫でも、子供でも、お年寄りでも、あなたは同じように庇っていたでしょう? それは“献身”だわ。でも、“お母さん”だったことで、あなたは新しい苦しみを背負ってしまった。あなたの魂の慟哭が神様に届いて、こうして私を遣わされたの」
「何を叶えてくれるのですか?」
「何でも。次の生で、あなたがなりたい自分になるために望むことを全て」
「“私”は……強くなりたい」
「叶えましょう」
「自由になりたい」「やり直したい」
「叶えましょう」
「親のことは全て忘れたい」「どうしても親に認められたい」
「叶えましょう」
「“私”のままで、幸せになることを諦めたくない」「何もかも新しい自分になりたい」
「叶えましょう」
光の天使が両手を差し出すと、床に蹲っていた“私”の体がふわりと浮いた。
「おかえりなさい」
“私”はいつの間にか光の球体になって、天使の両掌に包まれていた。今まで荒れ狂っていた感情が吸い取られたように、とても穏やかな気持ちになった。
「相反する望みもまた、人の性ゆえ。次の生では二手に分かれて、それぞれに望みを全うしてくればいいわ」
天使がそういうと、“私”だった球体は天使の右手と左手の上に二つに分かれた。
「さあ、いってらっしゃい」
二つの球体がゆっくりと浮き上がり、次第に輪郭が消えていった。
「ローザリンデ、目覚めなさい」
私は、いつかの不思議な空間で目を覚ました。手をついて体を起こす。柔らかな白い光が女性のシルエットを作っている。
「天使様……」
「思い出した? あなたは右の掌の子ね。新しい自分で、やり直しを望んだ」
「はい、思い出しました」
「今日こちらに呼んだのはね、謝るためよ」
「何か不都合がありましたか?」
「さっき、舞踏会であなたが倒れてしまったでしょう? 体が、魔力を一度に全力で使い切った負荷に耐え切れなかったの。日本風にいえばブレーカーがあがったようなものよ。強さを望んだあなたたちに、ゲームの仕様を拝借して力を付与したのだけど、こちらで産まれて育ったあなたの体は、日本で生きていた時よりもかなり弱いのね。想定外だったわ、ごめんなさいね」
「いえ、こちらこそ、教えていただいてありがとうございます」
「これからは気をつけて。魔力の負荷自体は少し休めば問題ないけれど、倒れる時に怪我でもしたら大変よ」
その体、本当に脆弱だわ、と天使様が心配そうにいった。
「自覚しています。あの、私訊きたいことがあって。ポーション類はどうでしょうか? 使っても大丈夫でしょうか?」
「あなたの物だもの、あなたが使う分には問題ないわ。でも、その体だと効き過ぎてしまうかもしれないわね」
「私以外のこちらの人は?」
「効き目はあるけれど、体格や元の体力にも個人差があるし。その程度がどれくらいかは試してみないとわからないわね。薬って本来そういうものでしょう?」
「……私以外には使わないほうが安心みたいですね」
「それが無難かもしれないわね」
「こちらの世界には、魔法も、スキルも、ポーションも、ステータスもないのですね?」
「ないわ。持っているのはあなただけ。ゲームのマップも、マルスもいない。さっきも話したけれど、あなたたちの望む強さを設定するのにマルスがわかりやすかったから使っただけ。あなたにはマルスのアイテムボックスも持たせたでしょう?」
「はい、ありがとうございます。おかげさまで助かっています」
「あの中になかったマルスの最新装備はね、左の掌の子が持っているわ。あの子は日本で生きていた体のままで幸せになりたいと望んだでしょう? あなたが転生なら、あの子は転移なのよ。そうはいっても、肉体は日本の体をコピーして、こちらで再生成したから肉体年齢はとても若いんだけどね。全てを忘れたいというから、魔法やステータスを持たせても使い方がわからないでしょう? それでマルスの能力を装備に付与して持たせたの。望み通り、すばやさと強さは抜群よ」
「“私”もこちらにいるのですか?」
「ええ、望み通り、日本人の姿で、マルスの強さを持った女性として、過去は忘れて自由に暮らしているわ」
「私、“私”の顔や名前が思い出せないんです」
「出会えばわかるわ。あなたは思い出したから。彼女のほうはわからないけれど、それが望みだからね」
「いつか、会えるでしょうか?」
「会えるわ、あなたが望めば」
会いたい、と思った。あと、そうだ。
「あの、あの事故の後どうなったでしょうか? “お母さん”は無事だったでしょうか?」
「ええ、あの交通事故からはね。ちょっと擦りむいて、腰を打ったくらい。ただ、家を出て行かれたこと、自分を庇って事故にあった瞬間を目の当たりにしたことで、あの人にとってはあなたを二度失った衝撃になってしまったのかしらね。現実で暮らすことやめてしまった。今は療養施設に入っているわ。『親孝行な長女が、毎日お見舞いに来て病気の自分を甲斐甲斐しく世話をしてくれる』って、いつも周りに自慢している。でも、本人は幸せそうよ」
「そうですか……」
不思議、“お母さん”は妹がいれば楽しく暮らせる人だと思っていたのに。そもそも、“私”が逃げたのは自分を守って新しい生活を始めるためで、元の家族の不幸や復讐を望んではいなかった。自分の生活の範囲外で、みんなで勝手に幸せに暮らしてくれればいいと思っていたのに、まさか“私”の存在を失くしたことが“お母さん”にそんなに大きな影響を与えていたなんて。
ふと、思う。もしも生前の“私”が知ったら、喜んだだろうか? “私”を失ったら、妹も父も、あんなに大騒ぎしていた孫にすら心を残さずに、その世界を閉ざしてしまったという“お母さん”。あの家庭にとって、“私”という存在が、他の誰より大きな支えとなっていたことに。
「いいえ」
きっと“私”は逃げ出しただろう。公爵家と同じだ。親の愛を望みはしたけれど、親の望みを叶えるための便利な道具になりたい訳ではない。ああ、私はまさしくやり直しをしていたのだ。逃げた先で終わってしまった“私”の、右の掌の半分。今回は逃げきって新しい生活の先に、たくさんの大切な人達を得ることができた。
「人の心はいろいろな色や形をしているから。誰かと誰かの望む形が一致することのほうが珍しいのよ」
だから、手に入れたら大切にしなくてはね、と。物思わし気な私に、天使様が優しくいう。好きな人に好かれること。大切にしたい人に、大切にされること。誰もが願い、必死に手を伸ばす奇跡
ふと、子供の頃に遊んだ積木を思いだす。丸く繰り抜かれた穴に、三角の積木は入らない。星形に繰り抜かれた穴に、四角い積木は入らない。時間の経過で自然と形が変わったり、誰かに合わせるためにはみ出したところを削り取ることができる人もいるのだろう。“私”と“お母さん”はそうではなかった。
それだけなのだろう、と今は思える。それもきっと、今の暮らしが幸せで、物理的にも心理的にも大きな距離が保てているから。私はローザリンデで、前世はあくまでも前世。“お母さん”の関心を求める“私”はもういない。
「ごめんね」
遠い日本のどこかへ送る、それが私の決別の言葉。
さあ、そろそろ目覚める時間よ、と天使様がいった。
「あの、ありがとうございます。私、こちらの世界で辛いこともあったんですけど、今はとても幸せです」
女性のシルエットが柔らかく輝いた。
「私たちは、あなたの望む力を与えただけ。それをどう使ってこの世界を歩き、どこへたどり着くのかは結局あなた次第なのよ。だから、あなたが今幸せならば、それはあなたの成果。おめでとう」
「……ありがとうございます」
ふふっと天使さまが声をたてて笑った。
「この世界の人間は感謝しなくてはね。世界を支配できる力が、いいえ、滅ぼすことすらできる強大な力が可愛らしい女の子の中にある。自分と周囲の人のささやかな幸せしか望まないあなたでなかったら、戦乱や混沌の時代が来てもおかしくないほどの力なんだから」
二人が幸せに生きて、帰ってくるのを待っているわ。その声を最後に、白い光は消えた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます