第75話 “私”がきえたあと4
「じゃあね、“お母さん”」
出張と偽って、今日、実家から逃げ出した。部屋にあるものは毎日少しずつ運び出してトランクルームに移したり、売ったりしていった。奨学金を返済したり、家にお金を入れたりしていたので、毎月手元に残るお金は少ない。昼食はお弁当を持参したりして貯金を心掛けていた私の部屋にあるのは、通販やホームセンターで揃えられるものばかり。基本的には組み立て式で、ばらせば小さくなる。さすがにベッドはばらしても少し大きいパーツも残ったけれど、頼み事以外には“私”に興味がない“お母さん”は気が付かなかった。
土日は買い物だ病院だと連れまわされることがあっても、平日は“私”の通勤でしか使わない車に乗せて置き、どんどんとものを持ち出していった。最後の夜に使った中古で買った寝袋を丸めて旅行かばんにつめて、いってきます、と“お母さん”に声をかけた。今、“私”の部屋は本当にからっぽだ。“お母さん”がドアを開ければすぐにわかる。バレたらどうしよう、面倒になる。そんな不安になる“私”と、バレるわけがないと冷めた“私”がいた。
“お母さん”が“私”の部屋のドアを開けることはない。用事がないから。それは子供の頃からのことだから、よくわかっている。“私”がきちんと家事をして、お金を家に入れて、“お母さん”の行きたいところに車をだしている限り、“私”の部屋は安全地帯だ。“お母さん”が“私”の部屋のドアを開けるのは、自分の要求が満たされなくなったとき。だから、“私”は脱出する今日この日まで、これまで通り、いや、これまで以上に“お母さん”の要求を満たしてきた。みせかけだけ。車の下取りは手配したけど、新車は買わなかった。当然だ。私にだってこれからの生活がある。
部屋の増築は、最低の手付金だけ払った。痛いけれど、これで揉めずに逃げ出せるなら必要経費と割り切った。逃げようと決めた日から、我ながら随分と人が悪くなった気がする。車に乗って、エンジンをかける。アクセルを踏んで、バックミラーの中に、家が、“お母さん”がどんどん遠ざかっていく。ああ、嬉しいのか、恐ろしいのか。胸がドキドキとして苦しい。事故を起こさないように、気持ちを落ち着けなければ。意識して深呼吸をしながら、私はディーラーを目指した。車を引き渡して、いよいよだ。
東京行きの特急電車に乗ってしまえば、もう誰も私に追いつけない。ともすると浅くなってしまう呼吸に気を付けながら、ホームで買った冷たい炭酸水を片手に私はとうとう窓際の指定席に着ついた。平日だからか、隣の席は誰もいない。手を組んで目を瞑り、私はその時を待つ。ほんの数分のはずが、とてもとても長く感じた。そして、その時はきた。発車のベルがなり、ドアが閉まる。ゆっくりと電車が動き出し、そして加速していくのを感じる。私は手を解いて息を深く吐き出し、背もたれに体を預けた。
「逃げ切った……」
嬉しい、寂しい、解放感、達成感、それから心細さ。そんな気持ちが溢れてしまう涙を、そっとハンカチに吸わせた。これから東京まで4時間ちょっと。目を赤くしていたら怪しまれてしまうかもしれない。目立たないようにしなくっちゃ。さっき買った炭酸水で一人ひっそりと祝杯をあげる。あとは東京について、予約していたウィークリーマンションに飛び込むだけ。今日から、これからは一人。長く勤めた公務員も辞めてしまった。転職活動は平行していて、いくつかの会社は一次選考を通っている。新しい住まいの目星もつけている。予算にも時間にも限りがあるのだから、急いで、効率良く進めなくちゃいけない。でも。今日は休んで、明日からは新生活の準備を始めるんだ。だから、今日だけはちょっと泣いてもいい。人目につかないように、私は車窓に向いて流れていく深い緑の木々を目に映し、炭酸水を飲みながら、声を殺して泣いた。
これからは一人、誰かを頼ることはできない。そう考えて、“私”は思わず声をあげて笑ってしまった。今までも一人だったし、誰にも頼れなかったか。家族という名の人達が、同じ家の中にいただけ。これからは一層体調管理に気をつけて、買い物に行けない状態になっても困らないようにレトルト食品などを買い置きしておこう。これからは何でも、一人分でいい。“私”は改めて体も心も軽くなったことを実感した。
自分ではしっかり準備していたつもりで、あまり華麗にならなかった“私”の脱出劇。でも、その後は順調過ぎる程で。手持ち資金の残高を気にしながら、予想以上にあっさりと家も仕事も決まった。まだ前職の有休消化中だったので、初出勤までは新旧二冊のガイドブックを手に、念願の東京観光に繰り出した。
一人でも、ネズミーランドに行って鳩バスも乗った。新宿駅をうろうろして本当に迷子になったり、行きたかった大学も見に行ってしまった。後輩がいった通り、全然回り切れなかったけれど。我慢してきたことを全部、吐き出してしまいたくて。夜は寝落ちするまでゲームもやった。ホールのケーキを丸ごと、切り分けもせず自分だけで食べてみたり。
時々は会社の面接があったから髪をいじることはできなかったけれど、ゲームキャラみたいな金髪のウイッグに赤い口紅を塗ってみた。似合わな過ぎて笑ってしまった。できなかったこと、やりたかったこと、“お母さん”が『みっともない』『だらしない』っていってたこと、楽しいことだけ。義務も責任もない。自堕落で自由な一時の猶予期間を満喫して、“私”はまた真面目な社会人として働き始めた。桜が咲いたら坂に、クリスマスシーズンになったら、有名な夜景スポット巡りをしようと決めていた。
東京は本当に大きくて、人がたくさんいて、無関心で。たくさんのなんとかハラスメント対策が行き届いている新しい職場では、週に何度かテレワークがあることもあり、家族のことも、年齢のことも、詮索されることがなく。逆をいえば親しい人を作るのはとても大変そうだけど、“私”は案外と容易く、気楽に東京暮らしに馴染んでいった。
その日は在宅勤務の日だった。東京に来てからは家にお金を入れなくなった分、生活に少し余裕ができて、あちらこちらと食べ歩きをするようになった。といってもお手頃チェーン店ばかりだけど。東京では当たり前のチェーン店でも、地元には出店していないことが多かったし、ランチなら夜よりお得な値段設定のメニューがいろいろ食べられるから、“私”の外食はお昼が断然多かった。今日は中華のランチセットを食べようかと、うきうきと駅前を歩いていた時。
「“お姉ちゃんっ”」
叫び声がして。私はなんであの時、振り向いてしまったんだろう。東京にはお姉ちゃんが星の数程いるはずだ。あの場にだって、きっと私以外に振り向いた人がいたはずだ。気が付かないふりをして、人並に紛れてしまえばそれでおしまいだっただろうに。しばらくテレワークにしてもらって、家に閉じこもっていればそれで終わっただろうに。
でも、“私”は振り向いてしまった。自由になったと思っていたのに。あの声に“お姉ちゃん”と呼ばれたら、応えることが長い暮らしの中で身についてしまったのかもしれない。振り返った道路の向こう側に、“お母さん”がいた。老けた? いつも小綺麗にしていたのに、髪がもっさりして、服もなんだかパッとしないというか、だらしないみたい。ああ、“私”が垢抜けた東京の人達を見慣れたせいかな? そんなことを一瞬で考えて、そして、逃げなくちゃと思った。
家を知られるのはまずい。とにかく走って、逃げて、どこへ? 道路を挟んでにらみ合いながら、私は必死で考えていた。それが“お母さん”にも伝わってしまったのだろう。
「待って、“お姉ちゃん”。探したの、話を聞いて!」
そう叫びながら、“お母さん”が“私”のほうに駆けだした。道路を横切って。ここは東京で、地元と違って車だって星の数程走っている。“お母さん”は機敏ではない動きで道路に飛び出して。“私”は地元から逃げた。今も逃げようとしていた。なのに。
「“お母さん”!」
私は“お母さん”よりは何倍か機敏に反対側から飛び出して、“お母さん”を突き飛ばした。長い、長い、一瞬。なんで? 逃げるつもりだったのに? それから、ちゃんと信号を守っていた運転手さんの、慄く顔が車の窓越しに見えた。ごめんなさい。
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