第22話 黒い髪の男

結局、私は彼を見捨てることができなかった。小屋のキッチンというかダイニングというか、扉を開けて最初の部屋の片隅に、使用人部屋のベッドをもう一つ置いてそこへ寝かせている状況だ。黒馬はタビーと相部屋をしてもらっている。


小屋を仕舞って移動することも考えたけれど、このままここに置き去りにすれば人も馬も無事ではいられなさそうだ。そのことに、“私”の日本人としての価値観も、私の価値観も耐えられなかったのだ。事あるごとに『ああすればよかった』『こうすることもできたんじゃないか』と何年も思い悩む自分が簡単に想像できた。


今の私には結界魔法もあるし、水や食料の心配もない。幸い、見た感じ大怪我はなさそうだし。本人と黒馬が移動できる状態になるまで様子を見て、あとはお引き取りいただけばいい。それまでに何か問題が起きたら、その時はタビーに乗ってまた逃げ出せばいいのだ。そう心に決めた。でも、さすがに自分の個室だけは譲れなかったので台所に寝かせることにした。怪我人に個室を譲らないことは少し気が引けたけれど、私だって年頃の娘だし。屋根と壁にベッドに布団まであるのだからそこは感謝してもらいたい。


森の入り口辺りから小屋まで、裏の倉庫にあった麻布を敷いてロープをかけ、タビーに引っ張ってもらった。そのせいか少し汚れてしまったので、浄化魔法をかけてみた。身に纏う衣装はやはりどれも一級品だ。それだけではない。彼そのものが“一級品”だった。短く整えられた黒い髪はサラサラで、ツヤツヤと天使の輪をつけている。閉じられた瞳を覆う、長く影を落とすまつげ。高い鼻梁と小さく呼吸を繰り返す薄い唇。綺麗だけど男らしくもある。こういう人をいうのだろう。


「黒い髪の人もいるんだ」

私は少し、懐かしさを感じていた。焦げ茶の人はたくさんいたが、黒い髪の人は彼が初めてだ。

「目も黒いのかな?」

全くの見知らぬ他人に、少しだけ親近感をもった。


倉庫のほうに移動すると、黒馬が飼い葉を食べていた。桶に出した水は水位がかなり下がっている。一体どこからどれだけ走ってきたのか。

「お疲れ様だったね」

角砂糖に人参も大サービスをして、浄化魔法をかけた。隣でタビーが前足を掻いてアピールしてくる。

「もちろんタビーの分もあるよ」

人参と角砂糖を差し出すと、鼻を鳴らして喜んだ。タビーにはブラッシングもサービスしておく。一通り二頭の世話をして、キッチンに戻ると彼はまだ目覚めないようだった。そろそろ日が落ちてくる。食事の支度をしておくことにした。

「そうだ、面倒なことにならないように」


あちらこちらに棚や木箱を増やし、食糧や薪、食器や生活用品を多めに出しておく。アイテムボックスがこの世界、この近辺でどんな風に思われているのかわからないのだから、気づかれないにこしたことはない。彼がここにいる間はアイテムボックスを使わなくてもいいよう準備をした。


個室に戻って自分の服装も確認してみる。コルセットを使わない簡易な室内着に、逃亡劇で少しくたびれた乗馬靴。鏡の中には少し日に焼けた私がいた。公爵家にいた頃の、シルクとレースで飾られた陶器人形のような姿を思い出す。

「うん、なかなかいい生活感でてきたわね」

自分に向かって一つ頷き、腕まくりをして食事の支度に向かった。


そして、次の日になっても彼は目を覚まさなかった。

「どうしよう、頭でも打って本当は重症なのかも…」

黒髪で覆われた端正な顔を覗き込む。そっと、口のあたりに手をかざしてみる。

「よかった、息してた!」

微かな吐息を感じて、胸を撫でおろした。本当は水分を摂取したほうがいいんだろうけれど、

意識のない人に水を飲ませる方法がわからなかった。汗はかいていないし、額に触っても熱はなさそうだ。けれど、冷やすよりは温めたほうがいいだろうと思い毛布を追加する。


ため息がでる。顔がなまじ整っているだけに人間味がないというか、生気がないというか。不安になり、もう一度、呼気を確認しようと伸ばした手を掴まれた。悲鳴を上げる隙もなく、くるりと視点が回った。私、天井を見ている。目の前には綺麗な顔。綺麗な青紫の瞳が私を睨みつけていた。


「お前、何者だ」

「私、私は」

「ここはどこだ?」

「ここは森の湖の畔で」

両手が敷布団に縫い付けられて身動きができない。

「俺を狙ったのはお前か?」

「違います! 私は、黒い馬がきてあなたを心配していたから」

「黒い馬?」

私は何度も頷いて見せた

「今、裏のうちの厩に」

そこまで言いかけたところで、彼が力尽きたように崩れ落ちた。

「痛っ! 重い! どいて、タビー、これをどけてよー」

扉を開けられないタビーに無理な願いを叫ぶ。のっしりと半身を抑えられ身動きが取れない。柔道の寝技のようだ。まさかこの人も転生者なのだろうか。くだらぬことを考えながら、この重石から逃れるべく私は必死にもがいていた。

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