ナマルくんの思い出

 いつだったかわからなくなるほど遠い昔、ナマルくんの世界がありました。そんなことを想うたびにセッコの胸はきゅうッと痛みます。


 セッコには時間がありません。本当はあと六十年くらい生きていられるはずだったのにセッコは今朝方、取り引きをしたからです。ナマルくんにもう一度会いたい一心で。


 セッコが初めてその世界をのぞいたのは、公園に置いてある遊具の土管をくぐり抜けたときでした。今から思えばなんで土管の向こうにナマルくんが立っていたのか、簡単にわかることです。ただ、偶然に、その人工のトンネルを通ってたどりついたところが、ナマルくんのいる世界だったから、と、セッコは考えたのです。そこを通り抜けなければナマルくんと出会うことはなかった、と、セッコは信じているのです。まぶしいほどの夕焼けがナマルくんのシルエットに輝いていたからなのです。


「取り引きには残りの人生を捧げてもらいます。セッコさんの場合にはあと六十年ありますから、逆算するとマイナス三十歳までさかのぼって、そのナマルくんの世界を垣間見ることができる、というわけです。え? 意味がよくわからない? まあ、すべてわたくしにお任せください。悪いようにはいたしませんよ」


「もう一度、ナマルくんに会えれば、それでいいんです」


「よろしい。ではさっそく」


 その言葉を聞いた直後だったから、魔法というやつはよっぽど効果のあるものなんだなあ、そんな感想をもらすひまもないほどに、セッコの体は六十年の命を奪われました。


 ――気がつくとまだ生まれてもいない形。前世ともひと味ちがう気がするし、魂だけの存在ッてやつが今のわたしなのかしら、そんな疑問を抱くからには自我は失われていないんだ、と、少しホッとしてあたりを見回すとそこはあの公園。――セッコは夢中で横たえてある土管まで駆け寄ると、土管の向こうに誰もいないのをしっかり見てから一気に夕焼けに向かうそのトンネルをくぐったのです。


 土管のトンネルを抜けると、そこはただただナマルくんの世界でした。


 まぶしいほどに染まった空を背に立つシルエット。それがセッコの見たナマルくんです。いつだったかわからないほど遠い昔とそっくり同じナマルくんはセッコをジッと見つめています。


 ――どうやらわたしの姿はナマルくんから見えているらしい、とすると、魂などではないはずだ、じゃあ、わたしは何になったというの、――セッコのなかで問いがぐるぐる回って止まらないうちに、ナマルくんが両手を差し出しました。その手にセッコはゆっくり乗りました。


 セッコはカブトムシになっていました。――


 セッコはナマルくんの世界にとってかけがいのないものだったのです。


 ――わたし、女の子だったのに、どうして角の生えた、オスのカブトムシになったんだろう、――セッコの考えていることがナマルくんには通じません。ナマルくんはセッコを両手で捕まえたまま、世界に向けて、


「みんな、見てよ。ついにカブトムシを捕まえたよ。公園の土管から出てきたんだよ」


 ナマルくんの思い出のなかでセッコは永遠に生き続けます。いつだったかわからなくなるほど遠い昔の出来事です。


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