終わりの音が、隣から……
陰陽由実
終わりの音が、隣から……
「私、漫画を描くのやめようと思う」
私の隣でミリペンを握っていた先輩がぽつりと言った。
私は先輩の書いた漫画に消しゴムをかけていたから、うっかりその紙をぐしゃりとしてしまいそうになった。
「どうしてですか」
それはもう当然の問いだった。
それ以外には口に出せなかった。
だって、先輩、今までいくつもの作品を描いてきたのに。
「なんかね、もう疲れちゃった」
あはっ、と笑う先輩は、漫画をやめると言っておきながら、そのペンをいつも通りに動かしている。
私は先輩の描いた漫画、いつもすごいと思っているのに。
こんなものを描ける人、他にいないと思っているのに。
「先輩の作品、好きですよ」
自分の顔がどうなっているかはわからないけれど、どうにかそれを絞り出した。
「私は、先輩が細かいところまで考えて描いているの知ってます」
配置がどうとか、コマの数がどうとか、そういう細かいところは漫画を描かない私にはよく分からないけれど、悩みに悩んで作っている。
「ありがとう」
「先輩がいろんな人に漫画を読んでもらって、いろんな意見聞いて、できるだけ活かそうとしてるの知ってます」
それはもういろんな友人や先生方に作品データを渡して回って、ちょっとでも多くの視点からものを見ようとしている。
「ちょっと、恥ずかしいけどね」
「SNSで認知度高めたり、いろんな出版社に出しに行ったりしたじゃないですか」
ネット世界に疎い先輩のために、あれこれレクチャーしたり、いろんな雑誌を買ってきては応募している。
「できそうなことはいろいろしたけどね」
「なんでですか」
俯いてしまって、先輩の顔が見られない。
視界がぼやけていく。
「本当に、上には上がいるんだなって、毎日のように感じるの、疲れちゃったんだよね」
先輩の漫画は、世間からの評価は普通なものらしい。
「どうやっても、何やってもうまくいかない。そろそろ嫌でも現実を見なきゃいけないんだよ」
先輩は来月大学を卒業する。就職も決まっているらしい。
もうただひたすらに漫画ばかりに時間を割くことはできないらしい。
「私は割と容量が悪いからさ。仕事しながら漫画も描くなんて、両方が出来損ないになってしまうよ」
先輩はミリペンの蓋を閉めた。
「だから、ここら辺が引き際だったんだよ。ほら、最後の作品が濡れちゃうだろ」
私が持っていた紙をするっと取り上げて、変わりにハンカチを渡してきた。
「これが私の最後の作品。もしかしたら、これで未来が変わるかもしれないけれど、正直あんまり期待はしてない……」
私の肩を軽く叩いて、それから背中をさすってくれた。
「いつも手伝ってくれてありがとうね。助かってたよ」
止められないのか。
先輩が漫画を手放すのをどうにか阻止できないのか。
いや、先輩が決めることだ、他の誰かが無理に止めたとして、そこから先輩が作る作品は先輩らしくなくなってしまう。
「本当に辞めちゃうんですか」
「うん。どうしようもないからね」
「そうですか」
ずび、と鼻をすすった。
漫画から離れないでほしい。
漫画を離さないでいてほしい。
でも、先輩は意思が固いから、あれほどまでに頑張れていたんだ。
「わかり……ました……」
「うん。聞いてくれて、分かってくれてありがとう」
それから何日か過ぎた頃、先輩は隣の席には座らなくなった。
終わりの音が、隣から…… 陰陽由実 @tukisizukusakura
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