真神村の花嫁

ハルカ

奇妙なメッセージ

 里帰りをしている婚約者から、奇妙なメッセージが届いた。


『はなさないで』


 たったそれだけの短い言葉。

 内容に心当たりはない。『何を?』とたずねてみるが返事はない。

 最初は送り先を間違えたのだろうと思ったが、翌日になっても返信に既読がつかず電話も繋がらない。時間が過ぎてゆくほど不安がつのる。


『どうした?』


 もう一度そう送ってみたが、やはり既読にはならない。

 もしかしたら何かトラブルに巻き込まれたのかもしれない。

 悩んでいるあいだにもどんどん時間は過ぎてゆく。居ても立っても居られなくなり、僕は『そちらに行く』と送って部屋を出た。




 婚約者の美花みかはあまり故郷の話をしなかった。

 ただ一度だけ、故郷を出た理由を話してくれたことがあった。


 彼女の両親は早くに他界し、彼女は年の離れた姉に育てられたのだという。しかし、彼女が十六になる頃、姉から「家を出ていけ」と言われるようになった。

 その口ぶりは、それまで優しかった姉からは想像できないほど強い口調で、ときには狂気を感じるほどだったという。

 しかし彼女らには親戚もおらず、美花は誰にも相談できず途方にくれていた。

 そんなある日、姉はひときわ怒り狂ったように美花を追い出そうとしたので、恐ろしくなった彼女は身の回りの荷物だけまとめてとうとう家を出た。


 しかし、電車に乗って適当な土地で降りたのはいいが、村から出たことが数えるほどしかなかった彼女は困り果てていた。

 大きな町に出てくれば何とかなるだろうと思っていたが、誰に頼ればいいのか、これから先どうすればいいのかわからない。

 困って立ち尽くしているところに声をかけてきたのが、僕だった。


 声をかけたのは、下心がなかったと言えば嘘になる。

 彼女はとても美しい娘だった。

 しかし、話を聞いているうちに、彼女の純真さとあまりの世間知らずな様子に、かえってこちらが心配になるほどだった。

 冗談めかして家に泊まるかと聞いたら彼女は素直に頷いた。よほど他に頼れる人間がいなかったのだろう。

 いつしか僕は親身になって彼女の相談に乗り、一緒に仕事を探してやったりもした。そうしているうちに僕らは恋人同士の関係になり、ついには婚約に至った。


 もう故郷へ帰ることはないだろう、と美花は言っていた。

 彼女にとって帰るべき家はもうないのだから。

 だから、彼女が故郷へ帰ると聞いたときはとても驚いた。僕の知る限り、僕と知り合ってから彼女が故郷へ帰るのはこれが初めてのはずだ。

 帰郷の理由はあえて詮索しなかったが、今になって思えばきちんと話を聞いておいたほうがよかったのかもしれない。




 美花の出身地であるK市は、今でこそ人口十五万ほどの都市だが、元はいくつかの町村が合併して現在の形になったという。その中でも彼女の出身地は「真神まがみ村」といって、山間部にある小さな村だ。地図では見落としてしまいそうな小さな文字を追い、僕は彼女の故郷へと向かう。電車を乗り継ぎ、山道をバスに揺られ、最後は車も通れないような山道を歩き、ようやく村に辿り着いた。


 村の入り口には、まるでここから先が村の土地だと示すように大きな岩が鎮座し、その周囲には紙垂のついた注連縄が回してある。

 そこを通り過ぎると、自然豊かな風景が広がっていた。

 舗装もされていない土の道を歩いてゆくと、一面に広がる田園の稲を揺らすように風が吹き抜けてゆく。


 一見するとのんびりした田舎のように見えるが、どことなく村全体を影が覆っているように見えるのは、迫るようにそびえる小高い山のせいか。

 山の中腹にはいくつかの鳥居が見える。山頂に神社があるのだろう。田畑の隅や辻、あるいは緩やかな曲がり角など、至るところに小さな祠がある。


 美花はどこにいるだろうか。彼女のことを聞けそうな人がいたら聞いてみよう。

 そう考えながら歩いていると、遠くに花嫁行列が見えた。花嫁は古風な白無垢に身を包み、輿に乗せられている。その口紅は遠目からでも鮮やかで、緑に囲まれた村の風景の中で、そこだけ一輪の花が咲いたかのようだった。


 輿のあとを追うように、和装姿の村人たちが列になって歩いてゆく。

 しかし新郎の姿は見当たらない。歩いている者は年寄りばかりだ。

 地方の風習はよくわからないが、僕には花嫁がどこかへ向かっているように見えた。花婿の家に向かう途中なのかと思ったが、行列はこの先にある山へ向かっているようにも見える。あるいは山頂の神社で式を挙げるのかもしれない。


 そういえば、と僕は思い出した。

 もしかしたら美花はこの結婚式に参加するために里帰りをしたのだろうか。参列者の中に彼女の姿もあるかもしれない。あるいは結婚式なら人も集まるだろうし、誰かに彼女のことを聞いてみるのも悪くない。

 そう考え、僕はつかず離れずの位置を保ちながら花嫁行列のあとを追っていった。




 思った通り、花嫁行列は山道へと向かっている。

 その入り口には古びた鳥居が立っているが、その柱は異様に太く、見慣れたものとはどこか違った印象を受ける。

 その鳥居の脇にもまた注連縄のかかった岩があり、行列はそこを通り過ぎていった。なだらかな坂道はどうやら山頂へと続いているようだ。


 山道を囲む雑木林は不気味なほど静かだった。

 行列をなしている村人も黙って歩いており、足音がだけが響いている。

 いくつかの鳥居をくぐりぬけ、ようやく山頂へ辿りついた。


 山頂には開けた場所があり、その奥に古びた拝殿が見えた。その横には大きな松明があり、ちりりと空を焦がしている。

 予想通り、境内には多くの村人が集まっている。僕は式の邪魔にならないよう気をつけながら美花の姿を探して歩き回った。

 しかし、これだけ多くの人が集まっているのにも関わらず、あたりはまるで時間が止まったかのような静寂に満ちている。

 結婚式といえばめでたいもののはずなのに、誰もが押し黙るばかりだ。


 それに、よそ者の僕が珍しいのか、時折一瞥するような視線を感じる。

 だが、またすぐに視線を外されてしまう。これではとても美花について聞けるような雰囲気ではない。

 困っていると、一人の老人に話しかけられた。


「お客人。よそから来なさったのかね」


 皺の刻まれた顔と年季を帯びた話し方、そしてその立派な身なりから、彼がこの村の運営を担う役職についている人物だということは想像に難くなかった。

 もしかしたらこの人なら美花のことを知っているかもしれない。


「はい。東京の方から来ました」

 そう答えると、彼はゆっくり頷いた。

「それはずいぶん遠くから来なさったね」

「人を探しに来たんです。美花という若い女性なんですが、ご存知ありませんか? 婚約者なんです。この村に来ると言っていたんですが」

「はて。聞かない名前じゃのう。まあ、焦らずゆっくりしていきなされ」


 そう言って老人は拝殿のほうへと消えていった。

 仕方なく僕は山を下りることにしたが、境内のどこにも山道への入り口が見つからない。あたりを見回すが、どこも似たような雑木林に囲まれている。

 どうやら完全に迷ってしまったようだ。


 そうこうしているうちに日が傾いてきた。

 ここに来るまで一本道だったとはいえ、慣れない山道を一人で下るのは危険だ。誰か一緒に山を下りてくれる人を探さなくては。

 境内はいつのまにか人がまばらになっており、残っている村人も僕を一瞥してすぐに立ち去ってしまう。

 仕方なく僕は拝殿へと引き返すことにした。




 拝殿に入ると、中は黄昏時のように薄暗い。

 ろうそくの光だけがぼんやりとあたりを照らしている。

 厳粛な空気の中、笛や太鼓の音が鼓膜を揺らす。すでに婚姻の儀礼は始まっているようだった。


 座敷には参列者用の座布団が並べられている。僕はその末席に静かに座らせてもらった。もしかしたら美花は儀礼の手伝いをしているのかもしれない、あるいは巫女役をしているのかもしれないなどと淡い期待を抱きながら儀礼の様子を見守る。

 

 拝殿の奥には立派な祭壇が置かれており、そこには大きな岩が祀られている。

 あれがこの神社のご神体だろうか。


 その祭壇の手前に、花嫁がたたずんでいた。

 花婿の姿はここでも見当たらない。そのかわり奇妙な獣の面を被った男たちが花嫁を取り囲み、その周りをぐるぐると歩き回っている。ずいぶん奇妙な風習だ。

 あの面は犬だろうか。いや、犬にしては口が大きく裂けているし、狐にしては鼻先がそこまで鋭くない。


 そのとき、面を被った男の一人が遠吠えのような声を上げた。

 他の男たちも次々とそれに続く。

 その中央で、花嫁はただ白無垢に身を包んだままうつむいている。

 赤い口紅を塗っているはずなのに、その顔は青ざめて見えた。


「……えっ」


 僕は自分の目を疑った。

 男たちに囲まれてうつむいているその女性は、まさに僕の婚約者である美花だった。僕は誰よりも近くで彼女を見てきたのだから、間違いない。


 呆然としていると、一人の老人が進み出た。

 その服装に見覚えがあった。先ほど拝殿の前で僕に声をかけてきた老人だった。

 彼はその手に獣の面を持っている。そして、それを花嫁にもかぶせようとした。

 なんだか嫌な予感がした。この面をつけてしまったら、もう二度と彼女を取り戻せないような、そんな気がした。


「美花!」


 僕は思わず立ち上がり、彼女の名を呼ぶ。

 しかし彼女の目はただ虚ろで、こちらに視線を向けようともしない。その見つめる先には祭壇があり、あのご神体の岩が置かれている。まるで岩に魅入られているかのようだった。

 その一方で、獣の面をつけた男たちは無言のままこちらを見ていた。


 背中を冷たい汗が流れ、指先が震えるのを感じる。

 この村は、どこかおかしい。

 ここに足を踏み入れたときから異様な空気を感じていた。深い闇の奥底に、僕には見えない何かが潜んでいるような、そんな気配が漂っているのだ。


 こんなところに彼女を置いてはいけない。

 僕は美花に駆け寄る。

 その途端、参列席にいた村人たちがこちらへ一斉に押しかけ、僕の手足を強く引っ張った。あっという間にバランスを崩し、僕の身体は床の上に倒された。

 目の前に誰かの足元が見える。

 押さえつけられる頭をどうにか持ち上げてたしかめると、そこにはあの老人が立っていた。


「神聖な儀式を邪魔するでない。真神まがみ様の祟に触れるぞ」

「……真神様?」

「連れて行け」

「美花!」


 大声で名前を呼ぶが、やはり彼女はこちらを見ようともしない。村人に手足を引っ張られ、僕はなすすべもなく外へと連れ出された。




 連れていかれたのは、小さな蔵だった。

 といっても宝物殿や祭事に使う道具をしまうような蔵ではなく、中はがらんどうとしている。窓には鉄格子がはまり、入り口にも南京錠がかかっている。本当にただ人を閉じ込めておく目的で作られた場所のようだった。

 外はもう暗くなり始めており、灯りとなるものといえば拝殿横の松明の光くらいだ。蔵の中には墨で塗られたような闇が満ちていた。


「出してくれ! おい! 出せ! ここから出せ!」


 どれだけ叫ぼうが喚こうが構うことなく、村人たちは戻ってゆく。

 その足音がすっかり遠ざかって聞こえなくなる頃、誰もいないと思っていた暗がりから声が聞こえた。


「……どなたですか?」


 驚いて声のしたほうを振り向く。

 暗闇にじっと目を凝らすと、そこには赤い着物の若い女性がいた。その姿はまるで暗がりに咲いた一輪の椿のようだった。

 なぜ彼女はここに閉じ込められているのだろう。警戒しつつ、相手を刺激しないよう平静を装い、僕は答える。


「あの、僕は東京の方から来た者です。この村に立ち寄ったらたまたま結婚式の行列が見えて、それで興味本位でついてきたらこんなことになってしまって」

「結婚式とおっしゃいましたか?」


 僕の話を遮り、彼女はこちらに詰め寄ってきた。


「え、ええ」

「花嫁はどんな人でしたか」

「どんな? えっと……」


 どんなと言われても、白無垢に身を包んだあの女性は僕の婚約者だ。

 だが、目の前にいるこの相手をどこまで信用していいのかわからない。彼女もまた何か理由があってこの蔵に閉じ込められているのだろう。

 僕が悩んでいると、女性は声を震わせた。


「お願いです。どうか教えてください。その花嫁は私の妹かもしれないのです。きっと私が失敗したせいで身代わりにされてしまったんだわ」

「えっ、妹?」

「はい。私は里花りかといいます。妹は私よりも七つ年下で、美花という子です」


 この女性は、美花の姉なのだろうか。

 言われてみれば目元が似ているような気もするが、それにしては聞いていた話とずいぶん違う。たしか美花は姉に追い出されてこの村を去らなくてはならなかったはずだ。

 美花の話から想像する姉の姿と今ここにいる人物が、うまく重ならない。


「あの、身代わりというのは?」

「真神様の花嫁役です。この村には古くから真神様という神様がおわします。その御心を鎮めるために若い娘を花嫁として捧げるしきたりがあるのです」

「しきたり……ですか」

「しきたりなんて言うと迷信だと思われるかもしれません。でも違うのです。一度嫁いでしまえば二度と真神様のところから戻ることができなくなります。だから私は真神様を殺そうとして……失敗したの」


 里花さんは瞳を震わせ、うつむく。

 僕は拝殿で見た婚礼の儀を思い出していた。

 あの儀式は、ただの伝統や風習として分類するにはどこか生々しい雰囲気があった。白無垢の花嫁を中央に据え、獣の面を被った男たちがその周囲をぐるぐると歩き回る。その様子はまるで、獣が獲物を追い詰める様子と似ていた。


 それに、あの獣の面も気になった。あれではまるで獣の嫁になるみたいだ。

 もしあの面をかぶせられたら美花が別の何かに変わってしまいそうな、そんな危うさがあった。


「あなたは、万が一にも妹を……その真神様とやらに嫁がせないために、家を追い出したのですか?」

 僕が尋ねると、里花さんは驚いたように息を呑んだ。

「どうしてそれをご存知なのですか」


 やはりそうか。里花さんはあえて美花を家から遠ざけるために、家を出て行けと言ったのだ。

 きっとこの人は信用していい。

 それに、誰か協力者がいないと美花を連れ戻せる雰囲気ではなさそうだ。

 僕はそう決心し、自分が美花の婚約者であることを告げた。すると里花さんは目を潤ませて何度も僕にお礼を言った。


「……ああ。あなたが妹を助けてくださったのですね。ありがとう、ありがとうございます」

「僕はこの先も彼女と暮らすつもりです。だから、彼女を連れて帰るためにこの村へ来ました」

「来てくださってありがとうございます。妹を救うためなら、私も何でもいたします」

「それは心強いです。僕も、誰か協力者が必要だと思っていましたから」


 美花は今、村人たちの手の中にある。

 どうにかして彼女を連れ出さなくてはならない。

 問題はどうやって連れ出すかだ。

 あるいは、村人たちを説得する手立てはないだろうか。


「もし誰も嫁がない場合、どうなるのですか」

「そのときは、真神様の御霊が村中に解き放たれると言われています。そうなったら村人は全員、真神様に食い荒らされることになるでしょう。ですから私たちの先祖はお告げがあるたびに若い娘を真神様に捧げてきました。村の若い娘たちは昔から真神様の御霊を留めるための役目を担っているのです」

「そうでしたか……」


 まるで人柱だ。実際にそんな恐ろしい神が存在しているのかどうかはわからないが、仮にその話がただの迷信だとしても、村人の多くがその話を信じているなら村人たちにとってその迷信は事実となってしまう。

 対話の道はやはり難しいだろう。


「里花さん。花嫁となる娘が差し出されるということは、この村にはその娘を犠牲にしてでも生き残りたいという人間ばかりだということです。村人全員が、自分たちのために若い娘を見捨てているのです。それなら、あなただって美花だって、この村を見捨てていい」


 僕がそう告げると、里花さんは目に涙を浮かべて微笑んだ。


「……ありがとう。そう言ってくれる人なんて、今までいなかった」

「この村を出ましょう。美花と一緒に、三人で」


 里花さんならきっと頷いてくれるだろうと、そう思っていた。

 しかし、彼女は首を横に振った。


「嬉しいけれど、それはできません。私はもうあまり長く生きられないから」

「……そんな! それでも一緒に来てください。あなたが死ねば美花が悲しむ。彼女にとっての親族はあなた一人だけだと聞いています」


 僕は彼女を説得しようと試みる。

 美花の姉だという人物をこの村に置いてはいけない。

 だがそのとき、突然僕の目の前で里花さんが着物を脱いだ。闇の中に衣擦れの音が響く。一糸まとわぬ姿になった彼女を、松明の明かりが舐めるように照らす。


 僕は思わず息を呑んだ。

 抵抗したときに縛られたのだろう。薄暗い部屋の中でも見えるほど、その腕や足には太い縄で縛られた跡がくっきりと残っている。それよりも目立っていたのは、背中にある大きな傷だった。


 彼女の白い肌を割くように、獣の爪で深くえぐられたような深い傷跡がある。そして肩や太ももは、食いちぎられたように一部が欠けていた。

 そのあまりの痛々しさに、思わず顔をそむける。


「もう痛みも感じないのです」


 告げられた言葉に打ちひしがれる。

 彼女自身がもう長くないと言うのであれば、きっとそうなのだろう。

 里花さんは静かに着物を直し、改めて僕を見つめた。


「だから私はこの身体を、あなたと妹の美花のために使いたい。あなたたちが無事にこの村を出られるように」

「でも、それじゃあ、里花さんはどうなるんですか」

「私のことはどうか構わないで。ただ二人で逃げることだけを考えてください。どうか美花を守ってやってください。妹は私にとってたったひとつの大切な存在なのです」


 そこまで言われてしまえば、もう僕には頷く以外の選択肢はなかった。


「……わかりました」

「私が合図したら、美花の手を取って走ってください。私が時間を稼ぎます。そのまま二人で山を下りて、村の出口を目指してください。何があっても、何を見ても、何を聞いても、絶対に振り返らずまっすぐ走って。村の外に出ればあの子は正気を取り戻します。いいですか、絶対に手を離さないで」

「わかりました」


 里花さんを安心させるように力強く、僕は頷いてみせる。

 その時、外から複数の足音が近づいてくるのが聞こえた。


「今ここで聞いたことは、決して他の人には話さないでください。いいですね」


 彼女は耳元でささやくように念を押す。

 僕は、ただ小さく頷くしかできなかった。




 やってきたのはあの老人だった。

 おそらく彼がこの村の長なのだろう。うしろには村の男たちを大勢連れている。

 僕たちは抵抗することもできないまま、ふたたび拝殿に連れていかれた。


 儀式はまだ続いているようだった。

 美花はさきほどと変わらず祭壇の前にたたずみ、その周囲を面をつけた男たちが囲んでいる。美花の顔に獣の面がつけられていないのを確認し、少しだけ安堵する。


 老人が祭壇の前に立ち、嬉々として声を張り上げた。


「真神様。神聖なる婚礼の儀式を中断してしまい申し訳ございません。かわりに贄を奉納いたします。人の肉をお楽しみいただき、どうかお心をお鎮めくださいませ」


 周囲の男たちは面を被っていてもわかるほど爛々とした目で彼女を見ているのがわかった。それは獣が手負いの小動物を追い詰めるときの様子に似ていた。男たちはじりじりと里花さんに近寄り、逃げ場を奪ってゆく。


 さきほどまで男たちに取り囲まれていた美花は、その場から男たちが離れてもただその場に立っていた。目の前で自分の姉が嬲られようとしているのに、その目は夢でも見ているかのようだ。


 男たちの手が触れそうになったそのとき、里花さんが高く手を挙げた。合図だ。

 僕は床を蹴って駆け出し、ぽつんとたたずんでいる美花の手を取った。


「おいで」


 そう言って手を引けば、彼女もそのままあとについてきてくれた。

 村人たちが寄ってたかって僕らを止めようとするが、同じ手は食うものか。なりふり構わず体当たりをし、退路を開く。


 背後で女性の鋭い悲鳴が聞こえた。

 美花ではない。里花さんの声だ。

 だが、振り返ることはできない。手を離すこともできない。里花さんと約束したから。


 月明りだけを頼りに、暗い山道を進んでゆく。

 幸いにも美花は手を離すことなくついてきてくれている。

 そのまま山を下り、山道の入り口の鳥居をくぐる。平坦な道に出ても街灯のひとつもなく、昼間に通った道を必死で思い出しながら、村の出口を目指す。


「美花、美花……!」


 何度も呼びかけるが、やはり彼女は答えない。

 ただ黙って手を引かれるばかりだ。


 そのとき、山の方から遠吠えが聞こえた。

 最初はひとつだったその声が、繰り返しているうちにだんだん増えてゆく。仲間を呼んでいるのだ。

 早くあの声が届かないところまで逃げなくては。


 顔を上げると、ようやく村の入り口が見えてきた。

 来るときにも見た大岩が変わらずそこに鎮座している。あの大岩の向こうまで行けば、もう村の外だ。


 だが、あと少しというところで美花の足が止まった。


「……美花?」


 呼びかけても返事はない。

 振り返ることもできない。

 僕にはただ、彼女の手を引くことしかできない。

 それなのに、いくら引いても彼女は動こうとしなかった。


「頼む! 歩いてくれ、美花!」


 呼びかけるが、やはり彼女は反応しない。

 しっかり手を繋ぎ直したそのとき、彼女が深く息を吸う気配がした。

 まずい。そう思った次の瞬間、美花が喉を震わせる。普段物静かな彼女からは想像もできないほどの大きな声だった。その鋭い遠吠えは村中に響き渡る。

 獲物はここだと報せるかのように。


 月明りが僕らを照らし、地面に影を落とす。

 美花の影がゆっくり形を変えてゆくのを、僕は目の当たりにした。体つきが大きくなり、手も足も太くなり、髪は激しく乱れ、体中が長い毛で覆われる。その形はもはや人間のものではなかった。


 僕は思わず振り返ってしまった。

 美花だったものの顔は、耳まで口が裂けていた。開いた隙間から白い牙が無数に覗く。彼女の全身は獣のように厚く毛が生え、爛々とした目は狙うように僕を見ていた。

 まるで現実味のないその光景に、僕の身体は硬直して動けなくなる。

 体中の血液が逆流しているかのように鼓動が速まる。


 闇の中、ひたひたと足音が聞こえた。

 暗がりに目を凝らすと、たくさんの「何か」が僕らを取り囲んでいた。

 野犬かと思ったが、犬よりも足が太く体つきも大きい。まさかこれは狼か。日本ではとっくに絶滅したと思っていたのに。


「真神様……」


 嬉しそうに美花が呟く。

 しかしそれは彼女の涼やかな声ではなく、濁った響きのものだった。


「美花、だめだ」


 僕は絞り出すように呟いた。

 ここで恐怖に呑まれて手を離してしまったら、彼女を手離すことになる。

 そして、そのことを僕はきっと一生後悔するだろう。


「手を離して。私は真神様と添い遂げたい」

「そんなわけあるか!」


 美花が送ってきた不思議なメッセージ。

 『はなさないで』というたった6文字の言葉。今ならあの意味がわかる。

 たとえ彼女がどのような姿になろうとも、この手を離してなるものか。

 今この場で何を言われようとも、彼女が本心では何を望んでいるのか僕は知っている。


 僕は繋いでいる手をしっかり握り直し、反対側の手でポケットからスマホを取り出す。本体の側面にあるボタンを素早く何度か押すと、スマホはまばゆい光を放った。いざというときのために、簡単な操作で機能が作動するように設定しておいたのだ。


 突然の強い光に驚いたのか、獣たちは足を止め、警戒するようにこちらをうかがい始めた。僕は美花の手をしっかりつかんだまま、彼女を連れて獣たちのあいだを慎重にすり抜ける。


 村の境にある大岩が近付いてくる。

 その岩はまるで遠吠えする狼の姿のような形をしていた。

 スマホのライトが、僕らの進むべき道を煌々と照らしている。その道に従い、僕は村の出口へと向かう。


 岩が近付いてきたそのとき、狼のうち一匹が僕らに飛び掛かってきた。

 逃さないとでも言うように。 


「走れ、美花!」


 僕は美花とともに最後の数メートルを走り抜ける。

 村の外に出れば、もう狼は追ってこないはずだ。里花さんの言葉を信じ、岩の向こうへと飛び込む。すぐ近くで狼の唸り声が聞こえる。

 そのまま、僕は意識を失った。




 気が付くと、ベッドの中にいた。

 腕の中で何かがもぞもぞと動くので慌てて見ると、美花の姿があった。

 二人とも寝間着姿だ。

 村を出るときにずっと繋いでいたその手は、ベッドの中でも繋がれたままだった。


「美花? 起きてる?」


 声をかけると、美花は泣いていた。


「……怖い夢を見たの。とても怖い夢。それに、とても悲しい夢」

「もう大丈夫だよ。無事に帰ってきたんだ」


 安心させるように声をかける。

 美花は僕の胸に顔をうずめた。


「手をはなさないでくれてありがとう」


 その後、僕らがあの村の話をすることはなかった。

 村人たちがどうなったかは知らない。

 ただ僕は今でも、里花さんの言葉を守り、ずっと手を離さずに彼女を守っていくつもりだ。

 これから先、何があっても、ずっと。

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真神村の花嫁 ハルカ @haruka_s

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