湿った地
北見崇史
湿った地
信ちゃんと出会ったのは、炭火焼きと真っ黒なラーメンが有名な居酒屋でした。
じつをいうと、あそこはあんまり好きじゃなかった。服に煙のニオイが付くし、客はおじさんばっかりで、私をチラ見しながらいやらしい話題でニヤニヤするし、トイレが男女兼用ですっごく狭くって、なんというかやりづらかった。
店内は清潔感がなくて、換気扇はススと埃で真っ黒になっていて、椅子や机がいつもベタベタしていた。席に着くなり店員さんに布巾をもらって、ササッと拭き取っていました。いちおう客なんですけど、そうしないと気がすまなかったのが私なんです。キッチリしているって、信ちゃんは褒めてくれますけど。
アッコとよく行きました。
アッコというのは茜のことであって、アキ子や明菜とかではない。会社の同僚で、よくあの居酒屋へと私を誘ってくれた。おじさんに交じってたまに好みの男が来るらしくて、タカの目になって狙っていた。私は付き添い的な感じだったかな。目がギラギラしていたよ。よくおごってくれて、だからお財布的にはありがたかった。
信ちゃんは、その時はまだ大学生でした。就活していた四年生。結局、彼の地元に戻って公務員をするんですけど、いちおう銀行員を目指していました。お金に関係する仕事がしたかったとか言っていましたけど、お金をたくさん稼ぐタイプではないと思います。
{内臓アラカルト焼き}、っていうのがあったんです。牛とか豚とかのホルモン系でした。安くてボリュームがあっけど、盛り付けられた感じがグロくて、私は好きじゃなかった。
ある日、学生君たちがワイワイ言いながら焼いていて、その中にいたのが信ちゃんで、私の夫となる人です。
その大皿は、たとえるならホラー映画でゾンビさんにお腹を食い破られた結果、でろでろ~っと出てきたやつ。「うわっ、グロ」って、アッコとハモッた時に目が合った。向こうは三人組の学生君たちで、左の男子が未来の夫。
「これ、すごく美味いんですよ。一緒に焼きませんか」
そう言って誘ったのは真ん中の男子で、当時の人気商品のcmに出ていたイケメン俳優に似ていた。私は興味なかったけれど、アッコが食いついたんだ。私が言うのもヘンかもだけど、ほんと肉食女子なんだよね。
真ん中と右の男子が話しかけてきたけど、黙々と内臓を焼いていたのが信ちゃんだった。友人が私たちをナンパしているのに、空気も読まずに一心不乱でトングを握っていました。
こう言うと信ちゃんに怒られそうだけども、なんだかカワイイと思った。あの時は、まだ女を知らない男子だったしね。
私から声をかけると、戸惑いながらトングで内臓をとってくれた。うっ、と思いながら食べたのだけど、その時に目が合って、なんとなく話したらけっこう弾みました。相性が良かったみたいです。それから連絡を取り合って付き合うことになりました。トントントンと月日が経って、同棲し始めましたとさ。
信ちゃんが大学を卒業してからは、彼の実家がある町に帰ることになりました。勤め先が市役所になったので、そういうことです。お義父さんのちょっとしたコネもあったみたい。
銀行員は残念だったね。私は専業主婦をしたかったので、安定している公務員はかえって良かったと思う。仕事をやめて、お嫁さんとなってついていきました。アッコが泣いてくれたのがつらかった。
なんだかんだで、この町に来てから、もう四年が経ちました。信ちゃんのお父さんが貸家業をやっていて、古いんだけど一軒家をタダで貸してくれました。いまのところ二人だけで住んでいるので、広さを持て余し気味なんです。
だから、犬を飼うことになりました。ほんとうは柴犬が欲しかったんだけど、なぜかハスキー犬になってしまいました。お義父さんの知り合いがハスキー犬を飼っていて、子犬をわんさか産んでしまったんです。まあ、断れませんよね。一頭のオスを引き取って三才になりました。犬のくせしてイケメンなんですけど、いつもオラオラして偉そうです。
「信ちゃん」と呼んだら、じつは信ちゃんにはあんまり印象が良くない。亭主なんだから、ちゃん付けは恥ずかしいとのことですが、信ちゃんは信ちゃんなんですから仕方ありませんね。出会った時から信ちゃんです。
ここはずいぶんと寒いところで、夏でも気温は二十℃そこそこにしかなりません。海沿いなので霧が多くていつも薄暗く、お日様が恋しくなります。おかげさまでモチ肌キープですが、気分は憂鬱になりますよ。信ちゃんも故郷は陰気すぎて、あまり好きじゃないと言っていました。所詮は田舎ですしね。
冬は、どこもかしこもカッチカチに凍ります。破裂した水道管との遭遇は人生初でした。水洗トイレなんですけど、しばらくバケツで水を流していました。信ちゃんは几帳面だからしっかりしますけど、たまにやってくるお義父さんはけっこう豪快な人で、小さいほうはもちろんのこと、大きいほうも流さずにそのまま放置です。便座のふたを上げた瞬間、「うげっ」ってなっちゃいました。二度と来ないで下さいと、心の中で激しく叫んだのはナイショです。
私には、これといって趣味はないですが、信ちゃんにはあります。というか、できました。アウトドアに凝るようになりました。もともと人付き合いを積極的にするタイプではないので、一人で何かできるというのは都合がいいみたいです。ポン太と一緒にソロキャンプを嗜むようになりました。ちなみに、ポン太はハスキーのイケメン犬ですね。私は心の中でオラオラ君って呼んでいますけど。
私たちの家は住宅地の真ん中にありますが、車で五分も走れば広大な湿原があります。そこは国立公園になっておりまして、遠めに見ると草が生えているだけのだだっ広い土地なんですが、湿地帯としては国内最大らしいです。北の大地の大自然ということです。
湿原は、国立公園なので立ち入りは制限されています。湿地の真ん中を横断する道があるのですが、ゲートがあって一般人は入れません。でも監視されているわけでもないので、徒歩や自転車でぶらりと散歩しても平気です。ランニングやウオーキングしている人が毎日いるくらいです。
晴れてはいるけどとても寒いある日、信ちゃんはポン太を連れて、テントを張りに出かけたんです。なんと、真冬にですよ。ハスキー犬とのソロキャンプは一番寒い一月下旬となりました。
「どうして寒いときなのよ。夏に行けばいいじゃない」
「湿原が凍らないと歩けないよ。沼地みたいなものなんだから」
「ひょっとして、湿原の奥に行く気なの」
「そうだよ。凍らないと絶対に行けないからな。そこでテントを張って、ポン太と一緒に星空を見ながら焼き肉をするんだ」
「内臓アラカルト焼き、とか」
信ちゃんは笑っていた。だって、お肉屋さんでホルモンをたくさん買ってきたんですよ。犬の分を含めても、たいがいな量があります。サガリとかロースがないのは、いちおう家計のことを考えてくれているのだと思うことにする。
「二泊三日でゆっくり、まったりと、ゆる~くキャンプしてくるよ」
いや、氷点下二十度近くなるのに、どう考えてもキツ~いキャンプでしょう。死んじゃうって。
「ゲートのところまで送ってくれよ」
湿原へ通じる道のゲートで、信ちゃんとポン太を降ろした。夫は晴れ晴れとした表情なんだ。犬は前足で地面の雪をほじくってオラオラしています。なにが楽しいのだろうと不思議に思う。アウトドア好きの趣味って、ほんと意味不明。わざわざ苦行に出かけるとか、どこの修験者なのだろう。
湿原はカチンコチンに凍りついているので、見渡すかぎり枯草と氷雪原が続いていた。信ちゃんは、あの奥へソリを引いて歩いていくとのこと。
「ソロキャンプの醍醐味をメールで報告するよ。ラインで実況するのもいいかな」
「メールやラインじゃなくて、キッチリと音声を聞かせなさいな。いちおう、奥さんとしては心配なんだからね」
「いちおう、なのかよ」
信ちゃんのソロキャンプには慣れているけど、真冬の国立公園では初めてだし、見つかればかなり怒られると思うのだけど、そこがすごく心配。せっかく公務員に嫁いだのに、夫が失業して専業主婦でなくなるようなことは避けたい、とは女の本音です。
「行ってくる」
信ちゃんが出発した。ポン太が張り切り過ぎて積雪の上でゴロンゴロンしている。やっぱりハスキー犬だわ、と思った。
一人で家に帰り、夜になったので晩御飯を食べた。私だけの食事がなんとつまらないこと。ニャンコでも欲しいなあと考えていたら連絡が入った。
「かなり歩いて奥まで来たよ。誰もいなし車もないから、すごく静かで、耳が聞こえなくなったと心配したよ。ポン助が屁をして、僕は健康なんだなってホッとした」
オラオラするくせに、よくオナラをするんです、あのハスキー犬。
「そこは、さぞかし寒いでしょうね」これは皮肉。
「いいや、そうでもない」強がっているのかな。さすがに泣き言はいえないから。
「はいはい、ヤセ我慢ヤセ我慢。ゼッタイ寒いんだから」
「ホントだよ。なんだか知らないけど一部地面が凍っていない場所があって、その付近がなんというか、ヘンに生あたたかくてさ、なんか不思議なんだ」
「危ないんじゃない。氷がとけて落ちたりしないの」
「それは大丈夫だよ。あそこから離れたとことにテントを張ったから」
「ちなみに、いまの気温はマイナス十度なのね。そこはもっと寒いはず。生あたたかいなんてことはないでしょ。温泉でもわき出しているの」
「石油だったら、僕たちは大金持ちだな」
「うちにかぎって、そんなことはないでしょう」
ワンワンと返事をしたのは、信ちゃんではなくてポン太なんだけれど、なんだか吠え方が気になった。怒っているような感じがする。あまり聞いたことのない声色なので、胸騒ぎがしてきた。
「ねえ、ポンちゃんが吠えているけど、またおだってオラオラしているの」そうであれば問題なし。
「いや、さっきから機嫌が悪そうなんだ。キツネでもいるのかな。これから焼き肉するのに、招かざる客だよ」
ポン太ポン太と名前を呼びながら信ちゃんが宥めているんだけど、ポン太は治まらない。
「まさか、クマじゃないよね」
信ちゃんのとの通話が一時中断している。ポン太を落ち着かせるのに手こづっているんだ。一分ちかく待たされて、ようやく返事がきた。
「え、なに」
「だから、クマじゃないの」
「いまは一月だから、クマは冬眠しているだろう。縁起でもないこと言うなよ」幽霊よりも怖いと言っていた。
「でも、なにかいるんでしょ」
ポン太の吠え方がふつうじゃない。私は遠くにいるけども、ハスキー犬の様子がケイタイを通してよく見えるんだ。たぶん、ヘタに触っちゃうと噛みつかれる状態じゃないかな。
「暗くてわからないよ。たぶんキツネかタヌキだと思うけどな。鹿かもしれない」
「ケイタイのカメラで見せて」自分の目で確かめたくなった。
「だから、暗くて無理だって」
当然だけど、大自然の国立公園の中には灯りがない。建物もなにもないただの平原だから、すごく暗いと思う。
「ポン太を落ち着かせてから晩飯にするよ。そっちのメニューはなんだい」
「冷凍のパスタをチンするだけ。一人だから」侘しい夕食なのよ、と嫌味を言おうと思ったけどやめた。まだポン太が吠えている。夫の気持ちをムダに暗くしないほうがいい。
ケイタイでのおしゃべりが終わった。すぐにでもキャンプを止めて帰ってくるように説得したほうがよかったのかも、と悩みながら就寝した。
ハッとして起きたらケイタイの呼び出し音が鳴っている。ベッドに置いてある時計を見ると二時を少し過ぎていた。部屋がほぼ真っ暗なので夜中ということになる。この時間に誰かと話したくはないし、夫ならなおさらだ。
「もしもし、どうしたの信ちゃん。具合が悪くなったの」
「臭いんだよ。あったかくて、すごく生臭いんだ。だから、だ、・・・」
吠える声が続いていて、信ちゃんの言っていることが聞き取りづらかった。
「ポン太、うるさい。静かにっ」と𠮟りつけたのは夫ではなく私だ。ケイタイ越しなので届いているかはあやしい。効果はないと思う。
「寒いのに湿ってるんだ」
「なにがよ」
「これはなんだ。どうしてこんなに」
声が途切れた。聞き返しても、その次の言葉がケイタイから出てこない。
「もしもし、信ちゃん、どうしたの。やっぱりなにかいるの」
ポン太の吠えが止まっている。ふっ、ふっ、と夫の息遣いが聞こえた。いや、ひょっとしたら心臓の鼓動かもしれない。耳を澄ましていると徐々に小さくなって、なんの響きも感じられなくなった。その静寂がすごく怖いので、耳から離そうとした時だった。
ギャアアアアー、と絶叫だった。
「うっわあああ」
死ぬほどびっくりして起き上がって、心臓に手を当てて呼吸を整えた。何度も瞬きしてから辺りを見渡した。
ここは夫婦の寝室で、真っ暗なので真夜中だろう。時計を確認すると、二時を少し過ぎたところだった。悪い夢を見ていたようだけど、まだ微睡から醒めていないのではと疑心暗鬼になる。夢の中で、さらに悪夢に遭遇したくない。良くない状況が何度もループする映画のようで気色悪かった。
信ちゃんはテントの中で寝ている頃だろう。連絡してみようとケイタイを握ったけど、ちょっと迷ってからやめにした。きっと寒くて眠れなくて、ようやく寝ついたころなのに、私が邪魔をしてはいけないと思った。そうっとしておいた方がいい。
なんだか眠れず、ウトウトしていたらまた夢を見てしまった。信ちゃんとポン太が出てきた。
「ポン太、汚いからやめなさい」
ポン太が地面に鼻をつけて、両前足で一生懸命地面を掘っていた。そこは草地なんだけど、とても湿っていて、ぐちゃぐちゃしている感じだった。このまま好きにさせておくと、全身が泥だらけとなって家の中が大変なことになる。シャンプーする係の私がたいへんなんだ。
「ポン太、やめないとお風呂だからね」
我が家のハスキー犬はお風呂が嫌いだ。その単語だけはよく覚えていて、入浴を強いるとイヤイヤながら指示に従う。ただし、この時は一切の従順さをなくしていた。私のことを眼中の外において、ひたすら湿地を掘っていた。
「ポン太、あんたなにやってんの。その足どうしたの」
泥だらけになった前足がヘンだった。こげ茶色の泥に赤色が見えていた。汁状の赤なので、ハスキー犬が出血していると考えられる。
「ポン太、ポン太、やめなさい」
かなり強めに注意したのだけれど、ポン太はいうことをきかない。泥に自分の血を混ぜ込みながらオラオラと威勢よく掘り続けていた。
「だめだって、もう」
今度は湿地の土中に鼻を突っ込んだ。前後左右に激しく振りまくるところは、さすが肉食系男子だと褒めたいのだけど、やりすぎにもほどがある。あんまりにも激しくやるから、鼻の皮がむけて白い骨の部分が見えていた。接着力のなくなった皮がベロベロとぶら下がっているんだ。よほど痛いはずだけど、この子、こんなになっても、どうして止めないのだろう。その湿った地面の、どこに血を流してまで執着するほどのものがあるというの。
「ああ~」
鼻だけではなくて、ポン太の前足もひどいことになっていた。もう肘の関節まで毛皮がめくれている。縦に切れ目を入れて、ひっぺがえしたようになっていた。腱の筋が見えるし、骨だって露わだ。痛々しくて、とても見ていられない。
「湿っているからいいんだよ」
私のそばで信ちゃんが言う。もっと説明が欲しいと思ったけれども、それ以上の深追いはいけないと、私の中の誰かが叫んでいた。
「でも、まだまだだ」
そう言うだろうと思った。信ちゃんは、いつもそうくる。
「ほら、こうするんだ」と言って、みぞおちの部分に両方の指を突き立てた。ズブズブと肉の中へ沈んでゆく。血が大量に流れだして私の胸を濡らした。指が刺さっているのが夫の体なのか私なのか、わからなくなった。痛くて痛くて、悲鳴をあげようとしたけど声が出ない。内臓を手で引き裂かれる痛みがきつくて、喉の器官が出血するまで金切り声を張りあげないと割に合わない。でも悲鳴が出ないのは、まさに夢見心地だからだろう。
生臭かった。魚とか肉みたい感じでもなく、腐っているようなわけでもなく、不思議な臭気だった。いままでに感じたことがなくて、なんかイヤだ。胃の不快感ではなくて喉のリンパ腺がゾワゾワする。
「もっともっと湿ったほうがいい」
その言っているのが夫だとわかったら、軽くパニックになった。たぶん耳元で囁いているんだけど、死ぬほど生臭い息を鼻の粘膜にすり込まれているようで辛い。離婚したいと思った。
「生臭いからイヤだって」と叫んで起き上がった。ポン太がキャンと鳴いてとび降りた。夢から醒めてベッドでぼう然としていたら、信ちゃんが立っているんだよ。照明がついているので部屋は明るいけど、もう朝になっている。
え、なんで。
「ポン太が君の顔を舐めまくっていたよ。こいつのヨダレはたしかに生臭いからな」と言って、ケラケラと笑っていた。どうしてこの時間に帰ってきたのよ、と訊く前に返答がきた。
「湿原の奥でこいつを見つけたんだ。だから急いで帰ってきた」
迎えの車を用意するのは私なのだけれども、その約束期日は明日のお昼だ。夫は歩いて帰ってきたようだ。
「こんなに寒いのに、あそこだけ湿っていたんだ。おかしいだろう。すごく気になって夜通し調べてみたんだよ」
信ちゃんの目の下にうっすらとクマができている。真っ暗な氷点下十度以下の湿地で、一生懸命探し物をしていたようだ。いったいなにを見つけたというのだろう。
「そうしたら、ポン太がこいつを掘り当てたんだ。顔を突っ込んでいたから泥だらけでさ、おかしな顔になってて、君にも見せたかったよ」
そんな汚らしい犬を家に入れるつもりはない。それよりも、信ちゃんが手に持っている物が気になった。
「なんなの、それ」
「だから、これが湿地に埋まってたんだって」
信ちゃんが私の目の前に突き出したのは、A4サイズくらいの黒くて四角い板だ。
「ええーっと、鉄板? 焼き肉を焼く鉄板プレートを拾ってきたの」
「鉄板じゃないよ。ほら、分厚いだろう」
手渡されたものを持ってみた。真っ黒なプレートは二センチくらいの厚さがあった。鉄だと思ったけど驚くほど軽かった。素材感は鉄っぽくなくて、どちらかといえば石とか岩に近い感じだ。
「軽いだろう。それでいて見た目はすごく重そうで不思議なんだ。金属でもないし鉱物でもない」
「プラスチックとか」自分で言いながら、プラスチックとは思えなかった。
「いや、それもないな。ためしに携帯コンロの火であぶってみけど溶けなかったよ」
火で炙ったのだったら焦げとかがありそうだけど、そういう形跡はなかった。きれいな黒色というかまったくの漆黒で、奥行きがあるように錯覚してしまいそうだ。指を突っ込んだらそのまま沈んでしまうかもと、ちょっと恐ろしくなるほどの底なし感がある。
「セラミックか、でなければなんらかの特殊な樹脂かもしれないけど、まあ、問題はそこじゃないんだよ」
貸してみな、と言って私の手から取った。そしてタブレット端末を操作するように、表面をポンポンポンと触れた。疲れきってはいるけど好奇心に満ちた目が爛々としている。こんなに張り切っている信ちゃんは珍しい。
「ほら、これを見て。こうなるんだよ」
プレートの正面を垂直に立てて私に見せた。四角い真っ黒が、すぐ目の前にある。こんなに近くに持ってこなくても、と思った時だった。
「ちょ、なんなの」
黒い表面が動いていた。なんていうか、波紋みたいにざわついている。さらに奇妙な模様が立体的に浮き出してきた。文字なのか記号なのかちょっとした絵なのかわからないけど、液晶画面が3Ⅾの動画を流しているかと思ったけれども、触ってみると確かな凹凸があった。まるで液体が自在に形を作っているようなんだ。
「こんな技術、どこを探してもないよ。ありえないって。まるで、この板が生きているようだ」
信ちゃんは興奮していた。真っ黒プレートを奪い取って、ポン太にも見せていた。
「宇宙人の落とし物じゃないの」
わりと本気だった。きっとUFOから落っこちたんだ。だから、私たちが持っているのはマズいと思った。こういう得体のしれない物体があると、トラブルになってしまう気がする。
「警察に届けたほうがいいよ」
「警察は関係ないだろう。事件じゃないんだし」
「でも拾ったものだから、ネコババはいけないでしょう」
「なあ、これは誰のものでもないよ。だって、大自然の誰もいない湿地の中に埋もれていたんだからさ。僕は古代の遺物じゃないかと考えているんだ」
「異物だったら、よけいに持っていたらダメじゃないの。いらない物なんだから」
「ふふ」
信ちゃんは苦笑していた。どことなく嘲りを感じるのは気のせいなの。私、ヘンなこと言ったかしら。なんだか気分がよろしくない。
「あの湿地は尋常じゃない。ほかにもいろいろあるんじゃないか。調べてみる価値はある」
決心に満ちた目線を私ではなく、オラオラ犬に向けている。少しモヤモヤしてきた。
「まさか、また行く気なの。帰ってきたばかりなのに」
「すぐには行かないさ。まずは、これが何であるかじっくりと調べてからだよ」
「明後日から仕事なのよ。なに、のん気なこと言っちゃってるの」
私たち夫婦の生活基盤は信ちゃんの勤め先からのお給料で成り立っている。こんなバカみたいなことで仕事がおろそかになって、クビにでもなったら目も当てられない。私は専業主婦でいたいし、できればパートとかをしたくはない。
「もちろん、仕事が終わってからだよ。ネットとか図書館とかでリサーチだ」
次の日、信ちゃんは部屋に閉じこもってリサーチしていた。一緒に買い物へ行こうと誘っても、ノートパソコンから目を離さなかった。ポン太の散歩も、休みの日は彼の役目なんだけど、結局私がやることになった。冬は寒いのでなるべく早く済ませたいのだけど、湿原に行ってから元気が二倍になったみたいで、オラオラ犬についていくのは骨が折れた。次に飼う犬はトイプードルかチワワにしよう。
ポン太を引っぱって家に帰っても、信ちゃんの出迎えはなった。不機嫌であることを知らせるために足を鳴らして廊下を歩いた。居間について熱いココアでも飲もうと支度をしていると、ドカドカドカと大仰な足音をたてながら夫がやってきた。
「わかった、わかったよ」
信ちゃんは興奮していた。なにかいいことがあったようで、最近ではめずらしく私の手を握ってきた。氷点下の外気で冷え切っていたので、夫の手がとても温かく感じられた。ただし、すぐ手を離してポン太をなでたのにはイラッときた。
「なにがわかったのよ」
「なにがって、板だよ。湿地で見つけたやつ」
あの不気味な真っ黒プレートのことを言っている。
「やっぱり宇宙人だったでしょ」
もちろん冗談で言ったのだが、夫は真に受けたようだ。違う違うと、まじめな顔で首を振っていた。
「アイヌの伝承に、あの湿地についての話があるんだ。パシクルのアイヌに古くから伝わる話でさ。なんでも人の前にいた人のことらしい」
「らしいって、どういうことよ。そもそも人の前にいた人って意味がわからない。なんなの」
「ネットにあったのは、それだけだったよ。書籍の要約だから、ちょっとしかなかった」
アイヌの人たちの伝記に湿原のことがあって、その中に信ちゃんが遭遇した不思議な湿地についての記述らしきものがあったらしい。
「今度の休みに図書館で借りてみるよ」
買うのではなく無料で借りるという考えは、主婦としては褒めてあげたい。
「ほどほどにしてよね。それと板は物置にでもしまっておいてよ」
なんだか気味が悪くて、あの変な技術をあんまり見たくはない。浮き出てくる模様のような文字にザワザワする。あれって男の人が好きになるのかもしれない。根拠はないんだけど、いやらしい感じがした。
日曜日になると、信ちゃんは朝から図書館にこもって帰ってこない。ポン太の散歩は私の役目となってしまい、小雪が舞う寒くて乾燥した中を歩いた。ハスキー犬はオラオラと走って元気いっぱいだ。すごい力で引っ張られて転んでしまった。路上の氷にイヤというほど膝をぶつけてしまい、三分ほど唸ってしまう。次は小鳥を飼うんだと誓いながら家に帰ってきた。
コートを脱いでしばらくストーブの前でじっとしていて、ふっと顔を上げて気がついた。
「あれ、もしかして死んでるのかな」
居間のサイドボードの上に水槽がある。金魚を三匹飼育しているのだけど、なんだか様子がヘンなんだ。二匹が水面付近に浮かんで、バタバタともがいている。どんな病気になったのかと、死にそうなやつを一匹掬って紙皿に置いて観察した。
「共食いしてるじゃないの」
そう思ったのは、金魚の内臓が露出していたからだ。弱った同類を突っついて食べるのは、虫や魚ではよくあることだから。あんまし見たくないけどね。
「え、違う」
よく見ると、内臓類はきちんとそろっていた。ほかの金魚に食べられたのなら、もっとボロボロになっているはずなのだけど、すごく整っているように見えた。腸なんて、だらりとたれさがることなく、くるくると形よく丸まっている。ちょっかいを出されているという風体ではなかった。
「ポン太、うるさい。静かにして」
ハスキー犬が吠えていた。しっぽを振っていないので喜んでいるわけではないのはわかる。いや、それどころか牙を見せて唸って、敵意がむき出しだ。どうしたんだろう。こんなのは初めてで、まさか飼い犬にかまれたりとかはイヤだなと思っていたら、ふいに静かになって、どこかへ行ってしまった。オシッコなのかな。噛まれなかったことにホッとして、あらためて金魚に注目した。
「どうなってるの、これ」
まだ死んではいないけど、なぜか目玉がない。というか、顔がどこにもない。ウロコもなくて白身がむき出しになっている。すごくヘンな考えが浮かんできたのだけど、まさかね。そんなことがあるはずないでしょう。
いやいや。
「でも絶対そうだわ」
どう見てもこれって、裏返っているでしょう。なんていうか、表と裏が逆になっている。汗でびしょ濡れになった手袋を乾かすために裏返しにしたりするけど、それを魚でやったような感じがする。それに、とってもきれいに仕上がっているのが不思議でならない。内部が露わになっているくせに生きていて、水から出して数分経つのにピッチピチと跳ねている。
「ふぁっ」
瞬間的に寒気が走った。家の中はいつも通りなんだけど、すごくヘンな感じで、この気持ちはとってもイヤで、胸騒ぎが治まらない。体のそこいらに異物感がある。
「きゃっ」
ふくらはぎに、なにかが触った。悲鳴をあげてとびあがり、胸に手を当てて鼓動を抑え込みながら足元を見た。
お座りした犬がワンと吠えた。ポン太だ。さっきの機嫌悪さがウソみたいに従順な顔をしている。
「びっくりさせないでよ、もう。ちゃんとオシッコしてきたの」
ポン太はソワソワと落ち着かない。家の中でこの態度をするのは、抜き差しならぬ生理現象がある時だ。
「いやだ、ウンチのほうなの」
いつもは散歩の途中で出すのだけど、っていうか、さっきしたよね、けっこうおっきなやつ。
「あ、ちょっと、ここじゃダメだって。ポン太、ハウスハウス」
腰を屈めたイケメンハスキー犬が、情けない顔をしている。ここで出されるのは災害なんだけど、もう止められそうもない。体調が良くないのかな。汚物掃除を覚悟したけど、ウンチが出てこないんだ。
「あんた、どうしたのよ。やっぱり具合悪そう。信ちゃんはまだ帰ってこないし、どうしようか」
いつもオラオラしているイケメン犬が、負け犬のような姿を見せている。時どき振り返っては、お尻を気にしていた。下痢したのかもしれない。苦しみを訴えるような、すがってこようとする鳴き声が可哀そう。なんらかの病気なんだと確信して、お尻を上げさせて確認してみた。
「うわ、ひどい」
脱腸、というのか脱肛なのか知らないけれど、肛門の内側が飛び出していた。何十センチってほどではないけれど、私の親指の長さくらいは出ている。真っ赤な粘膜が、いかにも腫れていて痛々しい。押し込んでやりたいけど、露出した神経を触るようなもので、すごく痛いに決まっている。キャンキャン鳴くどころか、確実に噛みついてくるわ。
ガーゼを当てて包帯で巻いてやろうと思った。だけど、ガーゼはあったが包帯が見当たらない。どこにしまったかと引き出しをガチャガチャやっていたら、ふと気づいた。
「どうして、ここにあるのよ」
金魚の水槽の裏に、あの真っ黒プレートがあった。袋とかに入っていないで、むき出しのままだ。信ちゃんが置き忘れてしまったみたい。図書館で調べてくるって張り切っていたいから、きっと現物を持っていく気だったんだ。
気味が悪くて触るのもイヤなのに、丸裸で置くなっていうの。あとで信ちゃんを叱ってやるのは確定だけど、とりあえず物置にでも放り込んでおこう。その前にポン太の応急手当をする。
「わっ」
突然、水槽の中から金魚がとび出してきた。今日は何度悲鳴をあげさせられるのよ、と愚痴るのをなんとか耐えた。よりにもよって、真っ黒プレートの上に着地しているじゃない。ピチピチと跳ねて活きがいい。さっきのは妙な病気になっていたけど、これも苦しくておかしくなってしまったのかな。
すぐに戻さないと死んじゃう。真っ黒プレートに触れないように金魚を摘まみ上げようとしたら表面に模様が浮かんだ。立体的に盛り上がって、それがなんていうか、波打つように浮き沈みしている。模様よりも文字に近いかもしれない。すごく不思議な技術で、それは前にも見ているのでそんなに驚きはしなかったけど、別のことでギョッとしてしまった。
金魚がおかしくなっている。表面がボコボコして、細かな泡が次々にできて弾けているように見えた。気色悪くて触りたくない。なんなのこれ、生きたまんま蒸し焼きになっているみたい。
「うっわ」
大変なことに気づいてしまった。
「裏返ってるー」
焼けているわけでも蒸されているわけでもない。金魚の体が内側からひっくり返っているんだ。
ええーっと、だから、なんていうか、内側の組織と外側が、ぶちゅぶちゅって音を立てながら入れ替わっている最中なんですよ。
例えるなら、汗で濡れた手袋を乾かそうとするでしょう。その時に内側を出して表と裏を逆にするのだけど、そういう感じに似ている。これ、さっきも言ったかな。
もちろん、私が手を下しているわけじゃなくて、金魚自体が勝手にやっていた。異様だと感じたのは、表裏が逆になったのにもかかわらず、まだ生きていることだ。ひっくり返った内臓が空気に触れているのに、ピチピチ跳ねているって、どういうこと。これで二匹目だ。異常現象にも程がある。スーパーナチュラルでしょ、これ。
ポン太の情けない鳴き声がなんともいえない。そうだ、まずはこっちの処置をしないといけない。金魚さんには悪いけど、信ちゃんが帰ってきたらなんとかしてもらう。
「うげえ」
突然、胃がムカムカして吐いてしまった。あまりにも急な嘔吐感だったので、トイレに行くこともできなかった。カーペットを汚してしまったことよりも、もっと重大なことに気づいてしまった。
これは妊娠したのだと悟った。まだ簡易検査もしてないし病院にも行ってはいないが、子供ができたと直感した。すごく、そう思う。生理もきてないんだよ。子供は夫婦ともども望んでいたのでうれしい出来事なのだけど、心のどこかで歓迎していない私がいる。きっと、この真っ黒プレートのせいだ。金魚がありえない姿でバタバタしているのを見せつけられているのだから、気分がおかしくなっているんだ。あとで信ちゃんに死ぬほど嫌味を言ってやる。
吐いちゃった汚物を片付けるのか、ポン太のお尻を手当てするのか少し迷ってしまう。妊娠のことで気持ちが動転しているんだ。情報量が多すぎて頭がヘンになりそう。
「あ、ダメ、ダメだって」
お尻を下げたポン太が後ろ足を引きずるようにやってきて、私の吐いたものをクンクンしている。まさか食べないとは思うけど、もし鼻先でも付けようものなら保健所へ連れて行くからね。
「ポン太」
ハスキー犬の様子が、かなりおかしくなった。中腰にして、さも苦しそうに悶えている。ウンチしているように見えた。いつもよりも長めのを出して、こんな時になんなのと軽く絶望していたら、事態はもっと悪くなっていた。
排便しているわけじゃない。肛門から腸がとび出しているんだ。さっきはほんの少しだったけど、今度のは長いよ。よせばいいのに、クーンクーン鳴きながらイキんじゃっている。それ以上力をこめたら、お腹の消化器官が全部出てきちゃうでしょう。やめなさいって。
いきなり、「痛いっ」と思ったけど、じっさいはそれほど痛くなかった。何かが私の顔に当たって瞼にくっ付いているのだけど、それがけっこう大きくて目が開かない。つかんでみると、金魚だった。三匹いるうちの最後の朱文金だ。でも、なんかが違うんだ。
「うわ、これもだ」
裏返っていた。ほかの二匹と同じで、体の内側が外側になっていた。こんもりとした内臓が露わになっていて、すごく小さいけど心臓がドクドクしているのがわかる。
この子、信じられない跳躍力で水から出てきたんだ。私に噛みつく必要はないと思うんだけど、たぶん、必死だったんだろう。すぐに水槽へ戻してやろうとしけど、唐突に私の内臓がヘンな感じになった。得体のしれない異物が内側から押しているような感じがしてたまらない。やだこれ、まるでエイリアンの映画みたいじゃないの。
「げえ」とまた吐いてしまった。
あはは、つわりだ、つわり。
妊娠を確信したことを忘れていた。異物じゃなくて、大事なベイビーちゃんじゃないの。エイリアンなんて言ってごめんなさい、と将来の息子か娘に謝っておく。
キャンキャンとポン太が切なく鳴いていた。そうだ、早いとこお尻にガーゼを当てて病院に連れていかないとなあ、なんて、のん気に考えている場合ではなかった。
「だめよ、ダメダメダメダメ。ポン太、まだダメだって」
ハスキー犬のお尻から出てくるモノが止まらない。モリモリモリモリーって、次から次へ出てきて床にとぐろを巻き始めた。赤黒いくせにみずみずしくて、まるで生きているみたいにウネウネ動いている。
たいへんにグロテスクな光景なんだよ。少なくとも、つわりの最中に見るものではない。いっそウンチだったほうが、愛犬の命を心配しないだけまだマシ。
「な、なに」
なになになになに。
うわー。
どうして金魚が歩いているの。これって、おっかしいでしょう。内側と外側がさかさまになった小さな魚が、ちょこちょこ歩いているんだけど。この子、ちっさいくせしてすごく生臭い。活きの悪くなったカレイを捌いたようなニオイがする。
ポン太が前足だけで歩いている。お尻からたいがいに出過ぎたでろんでろんを引きずって、一生懸命に進もうとしていた。そんな体で、どこへ行きたいのよ。床が汁だらけになっているよ。
いやだ、いやだ。
裏表がひっくり返っためっちゃ生臭い金魚がヘコヘコ歩いて、足もないのにどうやって進んでいるのかわからないけど、私の足元に来たんだ。
「ひょあっ」ってなっていたら、なぜか通りすぎてポン太のお尻から出ているウネウネした茶色いモノに噛みついてピチピチしているじゃないの。
もうだめだ、信ちゃんに連絡してなんとかしてもらおうとケイタイを握ったのだけど、いきなり吐き気がして、「げえー」ってやったところで気絶したみたい。ハッとして起き上がったら、ベッドの上にいた。
「生ものに中ったのかな。昨日は刺身とは食べてなかったとは思うけど、ワインを飲み過ぎたとか」
信ちゃんだった。ベットのそばで腕を組みながら私を見ている ちょっと、からかうような口調だった。
私は居間で倒れていた。自分が吐き出した汚物に顔をつけてふせっていたとのこと。図書館から帰ってきた信ちゃんが見つけて、死んでいると思って天をあおいで絶望し、それどころじゃないと抱き起した。
すると私は、「眠いんだからベッドに連れて行って」と言ったらしい。まったく記憶になくて戸惑ってしまう。
「それと、お姫さま抱っこじゃなきゃイヤだってゴネられたのには萌えたよ」
絶対に、断じてそんなことは言っていないのだけど、信ちゃんがたしかに言っていたと断言した。あはははと笑ってごまかしておいた。そして、我が家の重大事を報告しなければならない。
「あたったんじゃないよ。できたんだよ」
「ん?」という顔のテンプレートだった。
「とぼけんじゃねえぞ、オッサン。おめえさんが仕込んだのはハッキリしてんだ。てやんでえ」と、江戸っ子の口調で言ってみた。ちょっと照れているのはナイショなんだ。
信ちゃん、「???」って顔している。
「私、妊娠したんだよ」
「え、マジか」
そうですよ、マジと書いて本気と読むのです。あれ、逆だったっけ。
「うおおー、マジか。それで、男の子、それともお嬢さま、どっちなんだ」
「まだ病院にはいってないし、妊娠検査薬でも確かめていない。でも、間違いはないと私の第六感が告げているから」
「君の第六感とやらが外れたことはないからな。そうかあ、お嬢さま誕生か」
「うちの子なんだから、お嬢さまはないわあ。たとえ男の子でも、おぼっちゃまもないからね。ふつうの庶民の子」
将来、大物になって両親に楽をさせてくれることは願っているけど。メジャーリーグの選手とか。
「月曜日に産科へ行ってみたらどうだい。もちろん、第六感は信じているよ」
「もちろん、そうする。吐いて気絶しちゃったみたいだし、病院には行っとかないと。って、ああーっ。た、大変なんだった」
そこまで言って、ある重大な事件を思い出した。
「ポン太が、ポン太がえらいことになっているのよ。私より先に、あの子を獣医さんに連れて行かなきゃ」
私が口を大きく開けて訴えているのに、信ちゃんはまたもや「?」の表情だ。
「ポン太ならここにいるよ」と言う。
「え」
ポン太がいた。ベッドの横で舌をだしてヘラヘラしている。
あわててベッドから降りた。お尻を押さえて、じっくりと検分する。肛門はなんともなかった。いつもといえばいつも通りのハスキーアナルなんだ。取り返しのつかないくらい露出していたのに、すっかり元通りになっている。そのことはすごく喜ばしいことなんだけど、なんだか釈然としない。
「おいおい、妊娠したからって犬のお尻のニオイを嗅がなくてもいいんだぞ」
「べつに、嗅いでるわけじゃないから」
ポン太が脱肛していると告げた。それはひどい有り様だと説明したんだけど、テキトーに流された。たしかにいま確認した限りで異常はないんだ。それよりも気になることがあるようだ。
「金魚を知らないか。水槽にいないんだよ」
知っている。三匹は体の裏と表が逆になって勝手に水槽からとび出してしまったのだと言ったら、後半部だけ信用してくれた。
「うちの金魚たちはやたら元気だからなあ。床に落ちてポン太が食べたのかなあ」
ポン太が食べたんじゃなくて、ポン太のお尻からとび出してしまった肉を食べていたのだと言ったが、相手にされなかった。
「そうだ、あの真っ黒なプレートが水槽の横にあって、あれがヘンな模様を浮かばせたら、なんだかおかしくなっちゃった。金魚さんたちが裏返ったり、ポン太が痔になったり」
痔という症状は、かなり控えめな表現だ。脱腸していたと言っても、どうせ信じてくれない。
「ごめんごめん。居間に置きっぱなしだったか。図書館に持っていこうとしたけど、やっぱりやめたんだ。人に見られたらヤバいしな」
信ちゃんは、あの真っ黒プレートのことを秘密にして、自分だけで正体を突き止めるようだ。
「ねえ、捨ててよ。ホントに気持ち悪いんだから」
「捨てないよ。いま調べている最中なんだから。すごく価値のあるものかもしれないんだ。お宝かもしれない」
正体がわかったら鑑定にだしてお金を儲けるつもりなのだろうか。私の夫、あんがいと欲深いかもしれない。
「あれがヘンなことしたんだって。呪われたプレートなんじゃないの。放射能を出しているとか。ピラミッドの祟りとか」
「呪いと放射能じゃあ、ホラーとSFでジャンルが違うだろう」
「私はイヤだって言っているの」
「お腹へったよ。今晩のメニューはなんだい」
「え、もうそんな時間」
夕方になるまで気絶というか、居間でふせっていたらしい。ストーブを消していたら風邪をひくところだった。
「あの石板は気にするなよ。きっと気絶した時に悪い夢でも見ていたんだって。僕がお姫さま扱いしていなかったからだな。うんうん、ごめんよ」
そう言われて気が抜けてしまった。たしかに、あれは悪夢だったのだろう。うつぶせで寝ていたみたいだから、息苦しさが無意識に影響したんだ。金魚さんたちは行方不明だけど、ポン太はいたって元気だし、気にしないほうがいいのかな。妊娠して、神経のバランスが崩れてしまったのかもしれない。
その晩はおそばの宅配を頼んだ。簡単な献立にしようと台所には立ったんだけど、妊婦は無理をするなと気遣いされた。信ちゃんは大盛り天ぷらそばで、私はかけそばというエコスタイルにした。
「それで、どんななことがわかったの」
「アイヌの民間伝承の本を調べていたら興味深いものがあったよ。パシクルに伝わる話で、人が現れる前にいた人がいたそうだよ」
「この前も言ってたけど、ええーっと、よくわからないのだけど」
「人類の前にさ、なにかすごいのがいたってことさ。神のような能力をもってこの世を支配していたらしい」
「神話なの」
「なんだろうな。なんせ口承だから具体的ではないんだけど、神々しいというより禍々しい存在だったみたいなんだ。ひどく残酷で恐ろしいんだけど、絶大な力っていうか、技術を見せつけていたらしいんだ」
「ホラーな話だったら、私はそういうのは好きじゃないから」
断然、お笑いのほうがいい。いまどきホラーなんて、センスないのにもほどがある。
「お化けものじゃないよ。だいたい昔話だから信憑性もないし、まあ、参考程度かな」
そう言ってビールを一口のんだ。さらに物欲しそうな顔でやって来たオラオラ君に犬用ジャーキーを与えてから、プハーと息を吐いた。
「それが、あのプレートとなんの関係があるのよ」
「伝承の事実を彼らの祖先が見たわけでもない。なにせ、人類が登場する前の話なんだから。いうなれば、前人類ということだね」
たしかに、人類がエデンの園の実際を言い伝えすることはできない。神様の時代になんて、人はいなかっただろうし。でもそうすると、どうやって前人類のことが言い伝えられているのだろうか。ヘンだよね。
「冬でも凍らない湿地に前人類の遺物があって、そこから出てきたモノに触れて知ったってことだよ」
「触れて知ったって、どういうことなの。意味がわからない」
「僕もわからないよ。ただ、そう書いてあったってだけ。そして、それ以上はなにもない」
アイヌの民間伝承関係の本には、それだけの記述しかなかったとのこと。
「だたの民話ってことなの。こう言っては悪いけど作り話じゃないの。昔々の創作話、日本昔話みたいなものよ。昔のアニメだけど、ネットでただで見れるのよね」
「せめて柳田国男ぐらいは言ってほしかったなあ」
その人が誰だか知らないけど、私の教養のなさを貶されたような気がしたので、ほんの少しむくれた顔をしてやった。大卒でなくてすみませんねっ。
「そんなにブーたれるなよ」
とりあえずお腹がいっぱいになったので、機嫌を直すことにした。ポン太のお尻も大事に至らず、よけいな出費をしなくてよかったよかった。獣医さんは、人間様より高くつくから。
「明日も休みだから、ネットで調べてみるよ」
「なにを」
「あの石板だよ。なにせ、お宝なんだから。養育費になるよ」
すっかりと夢中になってしまっている。これは飽きるまでやらせないと終わりそうもない。なんか、ため息が出てきた。
「ヘンな石なんかよりも、きれいな奥さんと、未来の王子様、お姫様のこともお忘れなく」
少し膨らんだかもしれないお腹をポンポンと叩いて言ってやった。
「もちろんだよ。そのために稼ごうとしているんだからさ」
あの真っ黒プレートは信ちゃんの部屋にある。隙を見て捨ててしまいたいが、それをやるとかなり気まずくなりそう。やっぱり、飽きるまで待つしかないみたいだ。
休日。信ちゃんは朝からネット三昧で自室にこもりっきりだ。さすがに妊婦を気づかってポン太の散歩はやってくれたが、お昼を食べているときも難しい顔をして、私の語りかけにも生返事ばかりだった。
昼過ぎにお義父さんから電話がきて、鹿肉の余りがあるから取りに来いと言われた。私としては、つわりがあるのであんまり肉を食べたい気分ではないのだけど、信ちゃんはジビエ料理が好きだし、スジ肉はポン太のエサにもなるので、もらっておくのはなにかと経済的なんだ。ただし自室でネット三昧な夫は、私一人で行けと言う。
「私、妊婦なんですけど。重いものを持たせちゃったりしますう?」
「あはは、大げさだなあ。鹿肉ったって余りなんだから、そんなに量はないよ。それに、僕が行くとなにかと気まずくなるだろう」
お義父さんと信ちゃんはケンカをしている最中で、現在ちょっとした冷戦状態だ。だから鹿肉を理由に息子を呼んだのではないかな。根が快活な人なので早く仲直りがしたいのだろうけど、私の感によると、雪解けにはまだ早いと思う。いま父子が対面すると、よりヒートアップしてしまいそうだし、その最中でオロオロする役を私はやりたくはない。
だから一人で行くことになった。義実家は、それこそ国立公園である湿原の入り口付近にあって、家の後ろはだだっ広い原野だ。一軒家で大きな納屋がある。車で行くと、自称鹿撃ちの名人であるお義父さんが出迎えてくれた。
「あれ、信二はどうした」
「お腹を壊したみたいで、ちょっと、そのう」
こういう気遣いが面倒くさい。
「ふーん」
だけど察しているような顔をしている。
「とりあえずよう、いま捌いているから、好きなとこ持っていけや」
「ええっと、余りものではないのですか」
「だから、さっき撃ち殺したばかりだ。好きなだけ持っていけ」
お義父さんが納屋に来いと言うので一緒に行くことにした。
「きゃっ」
そこに入って真っ先に目に入ったのは、四肢を広げて天井からぶら下がっている大きな鹿だった。しかも衝撃なのは、どうやら解体の最中だったみたいで、地面に敷かれたブルーシートに取り除かれた内臓がこんもりと山になっていたことだ。とくに、とぐろを巻いた腸はグロテスクであって、私が女子高生だったら悲鳴をあげていただろう。
納屋の気温は外気と変わらず氷点下付近なのだけど、それでも十分に獣臭かった。お義父さん、悪い人ではないのだけど、豪快すぎるというかデリカシーがなさすぎというか、だから息子とケンカすることになるんだよ。
「腸はまだ洗ってないんだ。ほかの奴らは捨てるけど、洗って食えば結構うまい。あと心臓と腎臓もいけるぞ。柔らかくて食いやすいんだ」
「内臓系は、ちょっと」と遠慮してみる。だって、あれを持って帰れって、まるでゾンビの死骸みたいなんだよ。
「茹でて犬に食わせればいいんだ。あいつの大好物だろう」
たしかにポン太はお肉大好きだけど、ちゅるちゅるも舐めるニャンコなやつだから、これ全部は多いでしょう。それに、おデブなハスキー犬はカッコ悪い。
「まあ、内臓は下ごしらえが面倒だからな。だったら背ロースはうまいから持ってけよ。それと後ろ足を一本な」
背ロースはいただきますよ。でも足一本はどうやって持って帰ればいいのでしょうか。車の後ろに載せたら警察に止められてしまいそう。
「いま皮剥いでやるから、ちょっと待ってな」
待つというのは、家に戻って居間でお茶を飲んでいろということなのか、この場に残って俺の作業を見ていろ、ということなのか、どっちなのだろう。寒いし獣の皮剥ぎなど見たくもないのでここにはいたくないのだけど、なんかいなきゃならないライブ感がある。お義父さん、いまは独り身だから誰かが来ると張り切っちゃうんだよ。
「ほら、見てな。生皮はな、ここに切り込みを入れてから、肉から皮をナイフでこそげるように剥してやるんだ」
鹿は死んでいるので痛みを感じないのだが、見ているこっちが痛々しい。
中学のオタク同級生が、中世だかの海賊が捕まったら生きたまま皮を剥される死刑があったって言っていたことを思い出してしまった。しかもお義父さん、意外と手際が悪いというか、ギリギリの手つきが危なっかしい。
「痛っ」
案の定、指を切ってしまったみたいだ。
「大丈夫ですか」
「なあんもだ。なんともねえ」
左手の人差し指を深く切ったみたいで、血がダラダラと流れ落ちている。なんともないとは思えないのだけど、お義父さんは絆創膏を六枚くらい巻いて血を止めていた。
「この指じゃあ、ちょっと肉は無理だなあ」
「どうぞ、おかまいなく。それよりも病院行かなくて大丈夫ですか。一緒に行きましょうか」
「そうだ。干した鹿肉があるな。あれ、塩の加減が抜群でいいツマミになるから持っていけよ」
ケガの心配は無視されてしまい、あくまでも鹿肉に固執してくる。今度は乾燥状態のジャーキーらしい。私はおそらく食べないけど、信ちゃんが喜びそう。
「いやでも、血がけっこう出てますよ」
「もう止まったって。いいから家に戻るぞ。地下室にあるから」
絆創膏が真っ赤っかの手を振っている。すごく痛そうなのだけど平気な顔で歩き出した。男の人は案外と痛みに鈍感なのかもしれない。
お義父さんの後に続いて家に入り、地下室へ降りた。そこに干し肉が保管してあったのだけど、取扱注意でとても物騒な物を見せつけられてしまう。
「お義父さん、すごいですね」
本物の鉄砲があった。掃除か修理でもしていたようで、猟銃が三つ大きな机の上に置いてある。弾もあって、そこだけ戦場みたい。ランボーかな。
「このライフルで仕留めたんだ。四百メートルはあったかな」
金ぴかで尖った弾を見せながら、いかにも鉄砲な銃を見せびらかしていた。射撃の腕を自慢したいようだ。ていうかしている。義理とはいえ父親なので、少し付き合わなければいけないかな。なんでもいいから、とにかく褒めよう。
「その弾、すごくピカピカしていますね」
「7.62mm×51mmだ。軍隊でも使っているんだ。強力なんだぞ」
そんなことを言われても殺し屋じゃないのだから答えようがないけど、テキトーに話を合わせてみる。
「カモ撃ちとかも、これでするんですか」前にカモ肉をもらったことがあった。
「それはこっちの弾だ。銃も違う。いわゆるショットガンだな」
そのショットガンを見せてくれた。ライフルとあんまり違いが判らないけど、銃の筒の部分が太くてエモい。
「散弾だから、ゴマ粒みたいな小さな弾をたくさんバラまくんだ。だから威力がなくて、せいぜい殺せても鳥だな」
「ショットガンって、鹿には使えないんですね」
「いいや、このスラグ弾だったらクマでもやれっぞ。親指ぐらいの鉛の塊が一発だけ入っている。昔、ゾンビ映画で警官にショットガンで撃たれたゾンビが腹に大穴開けてたっけ」
その弾をつまんで見せてくれた。ほかの散弾と色違いだけど形状は同じだ。ちなみに、私はゾンビ映画が大嫌いなんだよ。
「まあ、強力すぎるってことだな」
それから銃の話が十分ほど続いて、のん気に相槌を打っていたら永遠に終わらなさそうなので、テキトーなところで話の腰をポッキリ折って、鹿肉ジャーキーを頂いて帰った。絆創膏をグルグル巻きにした指だけど、溢れ出る血を止めきれなくて、手渡されたビニール袋に血がついてしまった。
「おいおい、血が滴る生肉を持ってきたのか。なんかすごいなあ」
ノックもせずに信ちゃんの部屋に行き、机の上に鹿肉ジャーキーが入ったビニール袋をドンと置いてやった。
「もう、私は行かないからね。妊婦をなんだと思ってんのよ」
「なにを怒っているんだ」
「なんか、いろいろ気分が悪い。使いっぱしりにされるし、お義父さんが指を切ってケガを見せつけられるし」
「父さんはよくケガをするんだよ。ああ見えて、いろいろ雑だからな」
たしかに、こまめに整理整頓するタイプではない。
「それよりも進展があったんだ。大収穫だよ」
「なんの話?」
「あの石板だよ。あ、この部屋にはおいてないから安心してくれ。さっき物置に移しておいたから」
あの真っ黒プレートは見たくもないので私から遠ざけていることは評価するけど、全然諦めていない。信ちゃんって、けっこうのめり込むタイプだったりするんだ。
「アイヌの人たちの伝承に、なにか見つけたの」
「国内はさっぱりでさ、そっち方面の収穫はなかったんだけど、海外のサイトを漁っていたら、アメリカの大学に記述があったんだ」
「アメリカっていうと、ええーっと、ハーバードとかの大学?」
「ミスカトニック大学」と、信ちゃんはキメ顔で言った。
アメリカの大学には詳しくないけど、その名称は聞いたことがない。ていうか、どうして自慢しているのだろうか。
「ええっと、どんな大学なの」
「ミスカトニック大学は、かなり前に大きな事故があって、いまはなくなっているらしい。廃校っていうか、そんな感じかな」
「廃校になった大学にサイトがあるって、ヘンじゃないのさ」
「図書館の蔵書を電子データにして残していたんだ。古代からの珍しい蔵書が多くて、大学がなくなって閲覧できないからネットでオープンにしているってことだ。SPFだかSCPだか、なんだかの財団が管理しているって書いていたけど、翻訳ソフトだからイマイチ正確な記述じゃないんだよな」
信ちゃんは大学を出ているけれど英語が話せるわけではない。以前、駅の待合室で外国人に話しかけられて、アタフタしながら逃げようとしていたのは面白かった。
「それで、あのプレートの情報が、なんでアメリカの大学なんかにあるの。だってアイヌの言い伝えだったじゃないのさ」
「中世ごろのアラブの人が書いた本に、いにしえの支配者についての話があるんだ。人類が登場するずっと前に地球にいて、魔術的な技術ですべてを統治していたって話さ」
「なんか、聞いたことがあるような」
「アイヌの伝承にそっくりだろう」
「そのアラブの人が書いた本が、ミスカトリック大学の図書館のサイトにあったってこと?」
「ミスカトリックじゃなくて、ミスカトニック大学な」
「もう、どっちでもいいじゃない。だから、その本がなんだってんのよ」
そんな些細な間違いを指摘してくる夫に、少しイラっとした。
「かなりヤバい内容らしい。なんせ著者が精神に異常をきたしながら書いたってことだからな。狂いながら書いたのか、書いていたら内容の酷さに頭がおかしくなってしまったのか、とにかくいろいろと、いわくがあるみたいだ。一部では魔導書扱いされている」
「よくそんな気持ち悪い本を見ていたよね。たとえ電子データといえども、私は絶対にイヤ」
「本自体の生画像じゃないからな。内容もありのままってわけではなくて、項目ごとの要約がテキストになっていたよ。翻訳ソフトがイマイチだったけど。あ、この肉旨いわ。さすが父さんだ」
血の付いた袋から鹿肉ジャーキーを摘まみだして、ムシャムシャと食べている。今日はいつになく食がよい。
「その本には題名とかあるの」
「ネコのなんだか、だったかな。ネコのミカン、的な感じだったと思う」
「猫のみかんって、にゃんこに柑橘系を食べさせて大丈夫なの。にゃんにゃん」
「いや、そういう問題じゃないんだって」
夕食の支度もあるし、ちょっと疲れてきたから閑話休題にしたかったのだけど、信ちゃんは私の甘えを無視するんだ。ちゃんと、まねき猫のポーズまでしてあげたのに。
「その本、っていうか中身の抜粋のテキストデータによれば」
口を尖らせながら話している。怒っているわけではないけど、いつもの感じでないのが気にかかる。
「かつて地球上に君臨していた支配者たちは、彼ら自身の悪魔的な技術のために滅んだんだ。なにか、とてつもない凶悪な化け物を創りだしてしまったようなんだよ。それらは憐憫の一欠けらもなく残忍で、支配者たちに想像を絶する痛みを与えることに長けていたらしい。ひどく恐れられていたんだ」
「化け物とか、すごく物騒な話になってきたんだけども。ゾンビとかオークとかも出てくるのかな」
この話題自体にリアリティーを持たせたくなかったので、無意識的にだけど茶化している私がいた。
「さらに彼らの遺構がどこかに残っていて、その化け物を作り出した技術が残されているとのことなんだ」
だけど、私の横やりなど信ちゃんは意に介していない。
「まさか、あの真っ黒なプレートに関係があるのではないでしょうね」
これ以上の深入りをするべきではないと、私の中の別の人が叫んでいる。
「ズバリ、そうなんだよ。アラブの人の本に石板に関する記述があってだな、僕が凍っていない湿地で見つけてきたあれに似ているんだ。石なのに表面が波打って模様とかを形作るやつ。頭がおかしくなったアラブの人も見たってことだよ」
「その本って、べつに本当のことが書かれているわけではないでしょう。昔のホラー小説みたいなものでしょ」
信ちゃんは細かく首を振る。私の話など端から否定する気だ。彼の中では、もう結論が出ているようだ。
「これは僕の推測だけど、あれには支配者たちが滅んだ詳細が記録されているんじゃないかな。石板表層に浮き出てくる文字みたいな模様が示していることが、きっとそうだよ。ぜひとも解読したい」
「そんなこと知って、どうするのよ。どうでもいいじゃないの」
「なに言ってんだよ。これは大発見なんだぞ。人類が登場する遥か昔に高度な文明を築いていた種族が存在していただなんて驚愕でしかないだろう」
「なんにも証拠がないじゃない。頭がおかしくなった人の創作でしょ。中二病のアラブの人が書いたホラー小説なの。くだらないって」
「だったら、あの石板をどう説明するんだ。石の表面が流体となって、自由自在に表示するんだぞ。どういう仕組みでそうなっているのか、さっぱりわからない。現代の技術でも、絶対に無理だ」
「折り曲げるケイタイがある時代なんだよ。そんなの、なんぼでもできるでしょ。NASAかどこかが開発しているのよ」
「・・・」
「・・・」
少しきつい態度になってしまった。二人とも無言になって空気が重かった。妊婦になったばかりで夫婦喧嘩はしたくない。でも、夫が薄気味悪いことに没頭するのは反対だ。
「まあ、ちょっと落ち着こうよ」
気まずくなった空気を切り裂いて、肉ジャーキーを私に差し出した。そのとき気づいたんだ。
「信ちゃん、その指どうしたの。おっかしくなってない?」
ジャーキーを摘まんでいる人差し指の先っぽがヘンだ。形が滑らかではないし、色もドス青い。
「ああ、これか。知らないうちに爪が取れてたんだ。でも痛くないよ。内側から肉が盛り上がってきていて、爪があった場所をふさいでいるんだ。なんともない」
爪が剥がれているのに、なんともないわけがない。昨日の夜はたしかに爪があった。しっかりと切りそろえられたきれいな指でなければ、私は相手にしないのだから。
「ねえ、あのプレートに触ったからじゃないの。きっと放射能とか毒ガスとか出しているのよ。ウランとかが混じっている石なんだわ」
そう考えると、金魚が裏返しになったことに説明がつく。ただ、夢の中の出来事だったのかもしれないけれども。
「あれを、いますぐ捨てて」
「あ?」
信ちゃんは露骨にイヤそうな表情になった。私は本気で言っているのだけれど、ふざけているのだと思われたのかもしれない。
「水曜日の夜にもう一度、あの湿地へ行ってくる」
そう宣言したんだ。
木曜日が祝日なので、水曜日から泊りがけでキャンプしてくるって言うんだ。
信ちゃんの表情が見たこともないくらいに硬い。暴力を予感させるわけではないけど、あからさまな否定は、良くないことへの序章となるような気がした。夫婦生活うんぬんよりも、家族としてしての存続をなによりも優先しなければいけない。私はもう、私だけの体ではないのだから。
「行くなら明るいうちのほうがいいんじゃないの。ほら、足元もよく見えるし」
「枯れ草がちょぼちょぼ生えた雪原を歩いたら目立つだろう。いちおう国立公園の中だし、道路パトロールに通報されても厄介だ。この前みたく、真っ暗な中を歩くよ」
言い方が少し柔らかくなってホッとする。
「心配しなくていいよ。またポン太を連れていくから。クマが出るわけでもないし、支配者たちが創り出した化け物は大昔の話だ。まあ、アラブの人の小説だろうけどもさ」
フィクションだと思っていたら、わざわざ湿原に行くわけながい。
「あんまり無理しないでね。夢中になるのもいいけど、寒いんだから凍傷とかも気をつけないと」
「大丈夫だよ。ちょっと小遣い稼ぎに精を出すくらいだから」
分不相応な欲は人を滅ぼすのだよ、と言いたかったが、その言葉を吐き出さずにのみ込むことにした。
妊娠検査薬を試してみた。陽性となっていて、やっぱり妊娠しているっぽい。しっかりと確定させたほうがいいのだけど、信ちゃんの、のめり込みが気になって病院に行く気になれなかった。仕事から帰ってきた夫に妊娠検査薬の話をしてみると、生返事が返ってきた。気もそぞろに夕食を食べて自室へこもってしまった。いちおう病院には行くように言ってくれたが、あんまり興味がなさそうな感じだった。
水曜日の夜、信ちゃんの二度目の厳冬ソロキャンプの日となった。車で湿原の入り口まで乗せていった。外はすごく寒くて、立っているとオシッコがしたくなった。
「今度はもっといろんなものを見つけてくるよ」
「ポン太、ちゃんと番犬するんだよ」
信ちゃんと顔を合わせることがなんだか憚られたから、ハスキー犬の頭を撫でながら言った。愛犬はやる気満々で、オラオラとした態度を見せつけていた。
「じゃあ行ってくる」
「気をつけて」
明りのない真っ暗な雪原にソリを引いた男と犬が消えてゆく。なんともいえない不安感が湧き上がってきた。彼らの姿が見えなくなったので、急いで車に戻ってヒーターを目いっぱい強くして発進した。少し気持ち悪くなったが気にしないことにした。
帰宅すると、家の前にお義父さんの白いSUVが停まっていた。車内で待っているのだろうと思ったけど、中をのぞくと誰もいなかった。ひょっとして、と思って物置小屋へ向かうと、小さな窓から明かりが漏れている。勝手に入ってなにかを物色しているようだ。ちなみに小屋に鍵はかけていない。
「おお、突然来て悪かったな。留守だったんで勝手に入ったぞ。ツルハシが壊れてしまってな、ここに余分なのがあるだろう。一本もらっていいか」
寒冷地にツルハシは欠かせない。地面にへばり付いてしまった氷を叩き割るのに必要なんだ。うちには三本ばかりある。どれもお義父さんからもらったもので、欲しいのなら持っていっても全然問題ない。
「信二はどうした。珍しく飲みにでもいったのか」
「なんか、そうみたいです」
国立公園の奥深くにアラブの人の小説に登場する大昔の支配者の遺構を探しに、犬とともにソロキャンプに出かけたとは言えない。お義父さんは豪放な物言いをするけど、あんがいと昔気質なところがある。自分の許容範囲にない行動は、非常識とみなし攻撃的になったりするんだ。このクソ寒いのに湿原の奥地でキャンプなんてバカなのかと、私が叱られてしまいそうだ。
「こんなきれいな奥さんがいるのに、どうしようもない奴だなあ」
「褒めていただき、ありがとうございます」
お義父さんに、いやらしい気持ちがないのはわかっているので安心して褒めてもらえる。私のような顔立ちはまったく俺の趣味ではないと、以前酔っぱらった時に言われたことがある。蹴っ飛ばしてやりたかったが、よく考えてみればそれほど悪い話でもなかった。
「お、なんか動いたぞ。そこだ」
「えっ」
突然、不穏なことを言うので体が固まってしまった。足元を見ながらオタオタとしてしまう。
「そこだ。ペール缶の後ろに隠れたな。ネズミだろう」
バケツみたいな鉄の缶の背後に、ネズミが隠れているみたいだ。チュー助は大嫌いなので、できれば穏便に外へ出ていってもらいたい。いますぐに。
「クソネズミめ。踏みつぶして、ぶっ殺してやる」
お義父さんのやる気が容赦ない。手にしたツルハシをかまえて動物愛護的に残虐極まりない行為をするみたいだ。やりっぱなし体質なのを知っているので。ちゃんと死骸を片付けてくれるのか非常に気にかかる。
「ちょっとばかし、その缶を動かしてくれ。出てきたところを潰すから」
「私がやるんですか」
妊娠している嫁に不潔な有害動物の駆除をさせるんですか、と言ってやりたかったが、お義父さんはツルハシを振り上げて、今か今かと待ち続けている。私の気持ちなど眼中の外のようだ。すでに目が血走っている。
「す、すぐに、やっちゃってくださいよ」
仕方ないので手伝うのだけれど、素早く簡潔に、そして衛生的にやってほしい。
「これ、かなり重くて動かないですよ」
「エンジンオイルが満タンに入っているからな、指で引っぱったってダメだ。グッと握って腰を入れないと」
このエンジンオイル、たぶん、お義父さんが置いたのだろう。うちの車のオイル交換をタダでやってくれている。だから文句は言えないし断ることもできないし、これはやるしかない。そう思って取っ手を握った時だった。
「え?」
オイル缶の後ろから何かが出てきた。ゆっくりした動きで、ネズミみたいに素早くはない。
「お肉?」
ぶよぶよとした肉の塊だった。大きさは男の人の拳くらいだ。お義父さんが鹿肉の内臓を持ってきて、それが落ちていると思った。お肉をネズミが食べているから微妙な動きをしているんだ。
いいや、違う。違うよ。
これって、お肉そのものが動いているんだ。だって、缶の側面にくっ付いて、もぞもぞと震えながら這い上がってくる。湯気が立っているから体温があるってことで、そうすると恒温動物なので、しっかりと生きていることになる。
でも、どう考えてもお肉そのものしか見えないし、いま気づいたけど内臓みたいものまである。これって既視感があるなと記憶の中をまさぐっていて、ハタと気づいた。
金魚だ。
あの気味悪い真っ黒プレートのそばで、体の表と裏がひっくり返っていたではないか。この肉の塊も、きっとそうなったんだ。確証はないけれど、私の第六感は外れにくいと評判だし、そのことについては自画自賛している。いや、そんな自慢よりも、この肉の塊の元はなんだろう。金魚にしてはボリュームがあり過ぎる。
「おい、どうした。逃げていなくなったか」
お義父さんの位置からは、私の体が邪魔になってこれが見えない。ぜひとも確認してほしいのだが、それの変化に目を離せなく固まってしまった。
おしりの穴、かな?
肉塊の真ん中付近に肛門らしきものがあった。すり鉢みたいに凹んでいて、なんていうか、小さいのだけどアナル特有の縦筋が見える。
なんて、のん気に見ていたら、その凹みがググッと盛り上がってきた。ウンチでも出してしまうのかと思ったら、現実は予想の斜め右上をいっていた。
「え、ええーっ」
なんと、頭だった。ハムスターみたいな動物の頭が、その肛門とおぼしき穴から迫り出してきたんだ。
お鼻にヒゲがあって、そしてつぶらな瞳で耳は大きい。これってハムスターではなくてネズミだ。たぶん、ドブネズミ的なやつ。それがどういうわけか体の裏と表が逆さまになって、さらに肛門っぽい穴から顔が出てきて、へくへくと鼻を動かしている。どういう状況なのか不明だけれども、これは絶対に見てはいけないものだと確信した。ムダに良すぎる自分の視力を呪いたくなった。
「なんだ、いなくなったのか」
せっかちな男は好きではないので、ありのままに直面してもらうことにする。背骨が固まっていたけど、なんとか体をそらしてみた。
「ああ?、なんだそりゃあ」
ツルハシを持ったお義父さんが目を凝らして、背をかがめて近寄ってくる。背中を押すイタズラをしてやりたかったけど、さすがに止めた。ホラー映画でありがちな展開を予想できたので、よちよち歩きで距離をとることにした。
だけど、狭いところなのに無遠慮な巨体が張り出していてすり抜けができない。夫以外の殿方に胸やお腹を押し付けるのはイヤなので、おもいっきり息を吸って体をスリムにさせた。そのままするすると行こうとした時だった。
「うぎゃっ」
「キャッ」
お義父さんがバカ大声で呻いたので、びっくりして悲鳴をあげてしまった。驚きが治まらないから、その場で五秒ぐらい足をジタバタさせた。とにかく落ち着こうとして深呼吸をした。少し時間を置きたかったのだけど、足元がバタバタとうるさい。大きな体が地面を転げまわっていた。
「うおおおおーー、顔に食いついてきやがったーっ、こんちくしょうめー、こんちくしょうめー」
お義父さんの顔に、あの肉塊がくっ付いていた。
「痛えー」
いや違う。齧りついているんだ。肛門から出てきたネズミの顔が鼻の肉に噛みついている。これは大惨事で、だからお義父さんがたいへんだ。
「くっそー、コラア―」
私が怒られているわけではないけれど、申し訳ない気持ちがした。お義父さんが鼻に齧りついた肉塊をつかんで投げた。
「きゃっ」
私の頬をかすめて、それは外に投げ出されてしまった。狙ったわけではないのは重々承知なんだけど、「気をつけてよっ、危ないじゃないのさ」と文句を言ってやりたかった。
「ぐわあ、痛え」
「お義父さん、大丈夫ですか。ちょっと見せてくださ」
鼻から血が出ている。皮膚がえぐれてはいるけど、そんなに深くなさそうだ。前に指を切ったときのほうが、よっぽど深かった。
「なんだって鼻に噛みつきやがるんだっ」
だけど精神的なやられ具合は、今回のほうが大きいようだ。
「ありゃあ、なんだ。信一のやつ、腐ったネズミでも飼ってんのか。この家、どうなってんだ」
信ちゃん、最近はヘンなことにのめり込んでいるけど、腐ったネズミなんかさすがに飼わないよ。もちろん、私もだ。
「くそう、ぶっ殺してやる。どこだ、どこに逃げやがった」
よほど頭にきたのか、お義父さんがものすごい剣幕で物置から出ていった。私の横を通り過ぎるさいに殴られるのではと、ちょっとばかし身を縮めたよ。
庭に出て積雪をほじくって怒鳴り散らしている人は放っておいて、確かめたいことがある。
「ああ、やっぱりだ。どうして置いていったの。持っていけばいいのに」
あの真っ黒プレートが物置の床に落ちていた。てっきり信ちゃんの荷物バックに入っていると思っていたけど、ここに置いていったんだ。だったら、あの裏返っていたネズミの説明もつく。いや、正確にはつかないのだけど、とりあえずこの真っ黒プレートの影響で、ああいうふうになっちゃったんだ。
「もうダメ。限界だから」
ひとり言だが、我が夫に聞こえるように念じて言ってみた。これは捨ててくる。橋の上から川へ放り投げてやればいいんだ。あとで激怒されることは承知だ。あんまりつっかかってくるのだったら、離婚、離婚と喚いてやる。
「うわあ」
突然、ケイタイの呼び出し音が鳴って焦ってしまった。急いで耳に当てようとするが、手が冷えきっていてちゃんと握れずモタモタしてしまう。切れそうな直前に、なんとか間に合った。夫からだ。
「信ちゃん、どうしたの」
悪い予感がした。胸というよりお腹の下の方がザワザワする。よく当たる私の第六感が呪わしい。
「ポン太がいないんだ。そっちにいってないか」
いきなり犬のことだった。
「こっちには来てないよ。お義父さんがいるけど」
「あの湿地はダメだ。あそこに行かないようにリードを氷に繋いでたんだけど、絶対にほどけないと思ったけど、あいつ、首輪抜けしやがったんだ」
「湿地がダメって、どういうことなの」
良くないことが起きたのか、あるいは見つけてしまったみたい。
「殺した」
「はあ?」
いきなり、なんのこと。いや、なんてこと言うのよ。
「叩き殺したよ。斧でバラバラになるまで叩き切ってやった」信ちゃんの声のトーンから、ウソや冗談の類ではないと確信できた。
「な、なにをさ」誰をじゃないことを切に願った。
「鹿だ。僕とポン太が湿地に着いたときに嵌って動けなくなっていた」
とりあえず人間じゃなくてよかったけど、鹿を斧で切り刻むって尋常じゃない。氷を叩き割るのに斧は持参していたけど、どうして動物にひどいことをしたのか。その状況を想像して具合が悪くなった。
信ちゃんの声の背景に遠吠えがある。ポン太なのだけど、なんか様子がおかしい。
「ポンちゃん、近くにいるんじゃないの」
吠えているんだけど、悶えているような、懇願しているような、すごく弱った鳴き方なんだ。ポン太はだめかもしれないと、なぜだか急に直感した。
「斧を湿地に落として、だから、ずぶずぶと沈んでいくから、だから、拾おうとしたんだ」
「とにかく、落ち着いて話そうよ」
「ちくしょう、触れてしまったんだ。やつらのアレに」
「信ちゃん、なんの話をしているの。大丈夫なの」
「そしたら見えたんだ。ハッキリとだ。走馬灯みたいだった。あのクソッたれた胸糞の光景が、ものすごく残虐なことを、ああー、くっそー、あんなことをしてはいけないんだ。チクショー」
ひどく怒鳴っていた。温厚な人からこんな怒声を聞かされるのは辛い。
「信ちゃん、深呼吸。深呼吸して」
「あの石板は記録だけじゃない。奴らの道具だ。とんでもない怪物をつくりだす技術の一部なんだ。あいつらの生体工学は異質に発達しすぎて、地獄の底を突き抜けやがったんだ。僕は、よりにもよって本体に触れてしまった。鹿もポン太もだ」
「信ちゃん、お願いだから私の話を聞いて。ぜんぜん会話になってないよ。意味がわからないって」
「あの湿地には支配者たちの残滓が埋まっている。死と苦痛しかない悪夢の滓だ。あれに触れてはいけない。起動させてはいけない。物置にあるやつは物置ごと焼け。絶対に触るな」
夫の叫び声に切迫感があり過ぎる。
「もう、この腕はもうダメだ。切り落としたいけど、そんな勇気はない。痛くて無理だ。ポン太がもし家に戻ったなら、すぐに殺さないとダメだ。叩き殺せ。そして焼け」
「信ちゃん、ケガをしたんでしょ。救急車よぶから、ちょっと待ってて」
だけど救急車は湿原の奥まで行けない。ある程度のところまで自力で戻ってきてほしい。
「くっそ痛いぞ。くっそー、信じられん痛みだ。この前の指も、そうだった。君には隠していたけど、あれは異様な痛みだった。心配させたくなかったらウソをついた」
夫婦になって何年も経つのだから、ちっちゃなウソをつかれたことぐらいで、私は傷つかないから。なんともないんだって。
ああー、もうー、気ばかり焦って手がもちゃもちゃして、もたつく。ケイタイを落としてしまった。どこからか聞こえてくる夫の声が切なすぎるんだ。
「く、く、すごく痛いんだ。全身に回ってきた。も、もう、しゃべるの、が、クトゥ、ル、が、・・・」
ケイタイがない。足元に落としたはずなのに、どこに行ったのよ。こんな時にイライラするー。
「あった」
自分で蹴り飛ばしていたのに気がつかなかった。急いで拾い上げようとしたら、なにかが手の甲にくっ付いた。
「痛いっ」
すっごく痛かったんだよ。驚きと激痛が同時にきて、瞬間的に頭にきた。
「このっ、なにさーっ」
手にくっ付いていたモノをおもいっきり投げ飛ばしたら、そいつが物置の壁に当たったんだけど、弾けずにしがみついていた。
「あっ」
さっきのネズミだった。あの真っ黒プレートで体が裏返った気色悪い化け物ネズミだ。そいつが私に噛みついてきた。肛門から迫り出してきた口で噛んできたとかだったら、すっごくイヤだ。バイ菌で手が爛れる。
「て、て、手が」本当に爛れていた。手の甲がおかしいよ。皮がえぐれて中の肉が裏返っている。すごく痛い。
ハッとした。
あいつがいない。どこ行ったの。また噛まれたくはないんだよ。手の甲がこんなふうになったっていうことは、きっと汚らしいバイ菌を持っているんだ。焦ってオタオタしていると、どこからか怒号が近づいてきた。
「おい、あのくそネズミはいるかーっ、どこいったーっ、ぶっ殺してやる」
ものすごい勢いで、お義父さんが入ってきた。ホッとしたのと同時にギョッとした。
「お義父さん、なにを持ってきたんですか」
「銃だ」
太いほうの銃を持っていた。しかも、不自然に短いような気がする。ちっともエモくないんだよ。
「銃身をグラインダーで切ってきた。散弾がバーッて散らばるから、あのくそったれネズミをぶっ潰せる。絶対に一匹だけじゃねえぞ。ぜーんぶ、ぶっ殺してやるからな。ざけんなっ」
すごく激高していた。そしていまさら気づいたんだけど、お義父さんの顔がヘンなんだよ。具体的には、鼻のあたりが酷いことになっている。なんというか、皮膚がブクブクして泡立っているというか、まるで内側から肉がわき出しているみたいだった。
「あのあの、お義父さん、落ち着きましょう。警察を呼んだ方がいいです。駆除業者とか」
「うっせーっ」
怒鳴られてしまった。鬼ジジイのような顔で私を見ている。一瞬、撃たれることを覚悟した。
「くっそー、どこいったーっ、どこだーっ」
「お義父さん、ここで撃つと近所迷惑になりますよ。ていうか、通報されます」
我が家で発砲事件とかは絶対にダメだから。公務員なんだから、信ちゃんがクビになっちゃう。
お義父さん、また鬼ジジイの目で私をガン睨みしたあと、そのへんにあった布で銃の先っぽをグルグルと巻いた。そして、テキトーな場所めがけて引き金を引いたんだ。
{ぼふっ}て、鈍い音が鳴った。
ヤバいー。
発砲しちゃった。うちの物置で銃撃事件だよ。ヘタに警察呼んだら捕まっちゃうじゃないの。お義父さんが逮捕される。それはいいのだけど、私たちに迷惑が及ぶのは避けたい。
「ほらーっ、そこにいたー」
「え、どこ」
裏返しネズミがいた。物置小屋の壁に使わなくなったコタツのテーブルを立てかけているんだけど、そのすき間から出てきて、アナルみたいな部分をこっちに向けている。手の甲の痛みが酷くなった。
「あのテーブルをよけろ。そんだらぶっ放してやるから」
お義父さんに命令されたのだけれども、銃身を切ったショットガンだったら、私まで撃たれてしまうのではと心配になった。
「早くやれ、早っ」
すごく急かされている。目が血走っているというか、かなりおかしい。鼻のあたりがもう滅茶苦茶で直視できないくらいになっている。危険な感染症なのは間違いない。私の手もそうなりつつある。
「やれっ」
ハイと返事してテーブルをどかした。下の方にいる一匹だけだと思ったけど、ぜんぜん違った。一匹見つけたら百匹はいるとゴキブリの例えがある。
「ぎゃっ」
裏返しネズミが大勢いた。ちょうどテーブルの形に隠れていて、つまり四角くなって壁に貼り付いていた。二十匹以上いる感じだ。さらに信じられないけど、それぞれが繋がっている。血管か触手か知らないけれど、肉の一部が伸びてみんながくっ付き合っているんだよ。だから、全体的には肉の巣みたくなっている。
うわあ、なんだろう。気色悪いというのを通り越して、なんかの芸術作品みたい。裏返った肉同士のアートみたいな感じなんだよ。気がヘンになりそう。
「死ねっ」
お義父さんが銃口をこっちに向けた。
「あひゃ」
ヘンな声が出た。すぐにしゃがんで頭を抱えたけど、くぐごもった銃声が聞こえない。
あれっ、と思って顔をあげたら死ぬほどビックリした。
「お、お、さん」
たいへんだ。お義父さんが包まれている。壁に四角く貼り付いていたあの気持ちの悪い肉の巣が、いつの間にかに飛んで、そんで頭というか上半身に貼り付いていた。まるで巨大な肉の蝶が覆いかぶさったみたいなんだ。
「くっ付いてる、くっ付いてる」
くっ付いているんだよ。肉の巣が触手か血管かわからないけれど、ヘンな突起をみょ―っと伸ばして、まるでお義父さんの顔からエキスを吸いだしているようなんだ。これは、どうなっているんだろう。
「違う」違う。
吸い取っているんじゃなくて、裏返しにしているんだ。顔の肉に触手のようなものをたくさん差し込んで、それが皮膚の内側からひっぺ剥しているんだ。お義父さんの顔が、みるみるグロテスクになってゆく。ベロベロしてぐちゃぐちゃしていて、人ならざる何かに変貌していた。
私は、どうしていいのかわからない。お義父さんを助けたいのだけど、あの肉の巣になった裏返しネズミたちを取り去る手段に逡巡してしまう。素手でつかむのは危険だし、かといって棒で突っついたくらいじゃどうにもならなそうだし、途方に暮れた。
「う、うちゅ、ちゅ、っちゅ、うちゅ」
お義父さんがなにか言っているんだけど、顔中の肉が酷いことになっているので発音が拙い。
「うちゅ」
宇宙、ではない。すでに私は気づいているが、その指示に従うのはすごく難儀なんだ。
「う、ちゅ」
撃て、と言っているんだ。銃を握った手をしきりに突き出している。まだ意識は失っていないようだ。
でも、そうすると、お義父さんごとということになる。私だけではどうにもできない。警察は呼びたくないけど、そうするしか方法がないと思う。少し待っていてほしい。
家に戻ろうと思って振り返ると、物置小屋の入り口に気配があった。ロクでもないことはこれ以上はいらないけれど、凶事というのは常に向こうからやってくるんだ。身構えていると、それがぬーっと入ってきた。
「ああ」
ポン太だと確信した。だけど、あの居丈高なオラオラ犬とはかけ離れた姿だった。
裏返っていた。金魚やネズミと同じように、体の内側が外になっていて肉肉しいかぎりなんだ。内臓なんか、お腹にくっ付いているだけで、いまにも取れて落ちそうだった。現に腸を一メートルばかり引きずっている。気絶してしまいそうなほどのおぞましい姿なんだけど、頭がないのでギリギリ耐えていられる。
うわああ。
裏返ったポン太の前のところから、なんかがせり出してきた。おっきなアナルみたいな形状なんだけど、そこからポン太の呻きが聞こえてくる。こんなことは予想したくないけど、きっと顔がせり出してくるんだと思う。鼻が長くてイケメンだったハスキー犬が出てくるんだ。いっそのこと卒倒して気を失いたいけど、いまは私一人の体ではない。
ドンッ、て音がした。死ぬほどビックリして振り返った。お義父さんに覆いかぶさっていた肉の巣が、半分くらい弾け飛んでいた。壁にボツボツと穴が開いて、汚らしいのに新鮮な肉片がへばり付いている。ここの掃除は信ちゃんにしてもらう。だって絶対に触りたくない私がいるんだよ。
「ぐはぁーーーーー」
またまたビックリした。
いきなり、お義父さんが身を起こした。あのネズミ肉と一緒に自分の顔を撃ったのだと思ったけれど、うまいこと表面だけをこそげていた。さすが射撃の名手だ。
いや、いま言ったことは取り消し。やっぱり顔の左半分がえぐれていた。骨がちょっと見えるのは、視界がバグっているのだと思いたい。
「俺の中に入ってきたー。おっかしなのが入ってきたぞー。なまら入ってきたべあ」
叫んでいるのだけど意味がわからない。いえ、じつはなんとなくわかるような気がする。だけど、その内容を追求したいと思わないよ。
「お、お義父さん。病院に行きましょう。けっこうヤバいですって、ぐえっ」
せっかく気づかってあげているのに、いきなり首をつかまれた。お義父さんの左手が、ものすごい力で締め上げてくる。苦しいのだけど、それより何倍もの激痛が頭の中を走っていた。頭や目の裏にある柔らかな神経を、剣山のトゲトゲでガリガリやられているような感じだった。うわー、なんだろう。お義父さんの手に毒のトゲでもあるのかな。
「おまえは穢れている。もう、手遅れだ」
もうやめてよ。私、妊婦なんだよ。赤ちゃんが生まれる体なのに、どうしてこんなことするの。ひどすぎるでしょう。
「俺とおまえは、もうダメだ。あのクソッたれた犬もな。呪われてしまったんだ。あのバケモノどもに」裏返しになって帰ってきたものを、ポン太だとわかったみたいだ。
ボン、って空気が響いた。私を締め上げながら、もう片方の手で銃を撃ったんだ。
「ポン、ちゃん」
ポン太が撃たれていた。露出した肉がけっこう飛び散っているのだけど、死ぬ様子がない。ワナワナしながら右往左往して、汚らしい醜態をさらし続けている。イケメンのハスキー犬だったのに、とんでもない爛れ犬になってしまった。
「コイツはしぶてえ。クッソが」
「きゃっ」
私が放り投げられてしまった。物置小屋の角材に頭というか背中を強烈にぶつけた。息ができなくなったと思ったら意識がぼやけていく。銃に弾を込めて裏返ったポン太を撃ち続けるお義父さんを見ながら、奈落の底へ落ちていった。
「な、なにっ」
目覚めたのだが、私が誰なのかわからなくて焦った。しかも手足が強烈に痛い。きつく縛られていて、しかも大の字みたいに立たされている。意識が真っ白すぎてパニックになった。ジタバタと暴れてみるが、しっかりと縛られていて絶望するしかない。暗くてここがどこかもわからない。光のない状態がとてつもなく怖い。
突如、ハッとした。
その瞬間にすべてを思い出した。家の物置小屋で肉ネズミの巣にお義父さんが襲われて、そんで顔にくっ付いたそれを撃って、私を放り投げたんだ。
「ポン太」と呼んでみた。目の前は相変わらずの暗闇でなにも見えないし、返事もない。自分がどういう状況の下でこうなっているのか悩んでいると、いきなり眩しくなった。照明が点いたんだ。
「さっきは投げちまって悪かったな」
お義父さんがいた。ここは見覚えがある。
「気絶していたから、うちの地下室に連れてきたんだ」
お義父さんの家の地下室なんだ。銃の自慢話を聞かされた部屋なんだけど、問題なのは、どうして私の両手両足が桎梏状態なのかということ。
「ヘンなことをするつもりはないから心配しないでくれ」
痴漢的なことはしない、という意味だと理解できた。だけど、それならどうして私を縛っているのだろう。
「こいつを見ろ」
そう言って、私の足元に放り投げたのは白い袋だ。口を縛るヒモがあって、よく砂とか入れて土嚢にするやつだ。それが床に当たった衝撃で中のモノが出てきた。
「おまえんとこの犬だ。斧で叩き切ってやったが、なぜか死なねえ。バラバラになっても、まだ動いてやがる」
ポン太の残骸だった。袋からとび出した肉片から、生臭さと犬臭さが伝わってくる。汗をかいた後のケモノ臭さが鼻にきている。信じられないことに、それらはワナワナと動いていた
「こいつは燃やす」
可哀そうだけども、そうするのがいいと思う。できれば、ちゃんと死なせてからからにしてあげたい。
「俺もこいつと同じだ。こうなったらもうダメだ。バケモンになる前に死ぬしかねえ」
お義父さんの顔が、さっきよりもさらに酷いことになっていた。バケモノになりかけているというのは、けして大げさな表現ではない。
「肉が内側からめくれてくるんだ。すごく痛え。だんだん広がっていて、そのうち内臓もひっくり返るって」
顔の半分がめくれあがっている。鶏ひき肉をこねてぐちゃぐちゃのつくねを作って、さらに血を混ぜ込んで、それを骸骨に貼り付けたような感じで、すごくグロい。顔の神経とかどうなっているのだろう。痛みが強いのか、しきりに顔をしかめていた。
「あのあの、顔が大変だから病院にいかなきゃ。それと、私をほどいてください。すぐほどいて、ほどけーっ」
最後は叫んでしまったけど、お義父さんは私を無視して顔を気にしている。露わになった内側をボリボリと掻いて、肉を削り落としていた。
「あのくっそネズミが貼り付いて、やつらが俺の中にも入ってきた。この板にあったバケモノだ」
お義父さんが真っ黒プレートを握っている。うちの物置から持ってきたんだ。それに触れてはいけない。体がひっくり返ってしまうんだから。
「すぐに捨てて。そんなもの持っちゃダメ。お義父さん、お義父さんっ」
私が喚こうが叫ぼうが、お義父さんは黒いプレートを見つめていた。嫌がっているのではなくて、魅入られている感じがする。
「なに、なに」
さっきから音がするけど気のせいかと思っていたら、ハッキリと耳の中へ入ってきた。
クテトトとかヨぐソィフとか、正確に発音できないというか、元々の言葉が何なのか想像できないことを口走っていた。囁くような、それでいてお腹の底に溜まるような重さがあるんだ。低音がよく響くウーハーのようでもあるけど、ちょっと違う。耳の奥の柔らかい箇所に毛虫が這っているような、わきの下に百匹の吸血ダニが刺さっているような、とても不快な感じがした。ゾワゾワが止まらない。
「クティ、るう、うう、ヨグ、チョト、チュ、ちゅ」
幼児みたいな言葉遣いをするお義父さんが腹立たしかった。顔の半分以上がゾンビよりも醜くグロテスクなオッサンのくせに、赤ちゃん言葉を話すな。私を放せ。
「わあああああ」と、その半分バケモノが叫んだんだ。黒いプレートを顔の前に持って、まるで鏡に写した自分の顔を愛でるように見つめている。
「え」
なんか出てきた。
真っ黒プレートの表面から、白くて細い糸みたいなものがたくさん出てきた。ご飯をほったらかしていたら生えるカビみたいなやつ。もやし状のやつ。何十本も、おそらく百本くらいはあるんじゃないかな。それらがワサワサしながら伸びて、お義父さんのミンチ肉みたいな顔にめり込むようにくっ付いているんだよ。
「お義父さん、それをなげて、ぶんなげて」
「ほらな、こうなるんだ。俺の顔がバケモノにつくり変えられてんだ。クッテューーフフ、早く死ななきゃダメなんだ。すげえ痛え。なしてこんなに痛いんだ。おっかしいだろう」
痛いのは、その真っ黒プレートから出ている白い糸が顔の内側を抉っているからだよ。それがすべての元凶なんだって。
「お義父さん、しっかりして。しっかりしろ」
「痛え、痛え。ほら、俺を見ろ。自分の腕を見ろ。おまえもこうなるんだ。痛えぞ、痛えぞ、その前に殺してやるからな」
白い糸の動きがせわしなくなっている。お義父さんがどうなっているのかというと、おそらく顔の中の肉や血管や神経や、そして骨をコネコネして、なにか別なものに造り変えているんだと思う。だから痛いんだ。だって、麻酔なしの手術みたいなものだから、激痛いのに決まっているじゃないの。
「おまえを引き裂いてやるからな。皮を剥して、骨の肉をこそげ落としてやる。このクソ嫁がー、クーーティ、デュデューーー」
すんごく残虐なことを言われてゲボ吐きそう。最後はなにを言っているのかわからない。もう口のあたりまで糸まみれだ。肉がひっくり返ってこねくり回されたあげく、骨がググっと引っぱりだされている。硬いはずなのに、まるで飴細工でも作るように曲げられていた。だから、顔がすごくヘンな形になっているんだ。
「生きたままな」
絶望が計り知れない。
お義父さんは、もともと私のことが嫌いだったのだと悟った。タガが外れて、本性の残酷な部分が、なんの遠慮もなしに吐き出されたんだ。
なんとしても、この拘束から抜け出さなければならないと強く思った。脅しで言っているのではないことはわかっている。不器用な中年男に解剖的な何かをされるのは、絶対に、断じて避けなければならない。その場面を一秒でも想像したら卒倒しそうだ。
「いていていていて、痛え。だめだ、顔が痛くて痛くて、こそがなきゃダメだべや」
舅の小言がうるさい。薬局でも病院にでも、どこかに消えてくれればいいのに。
「ガアーーーー」と叫んで行ってしまった。とりあえず危機は去ったのかと安心していたら、一分くらいで帰ってきてガッカリだよ。しかも、この状況においてロクでもないものを持ってきた。
「お義父さん、それ、ウロコを取るやつ」
顔が挽き肉男の手にあるのは、魚のウロコこそぎ器だ。金属の突起が並んでいて、そんなに鋭利ではないのだけど、力を入れてガリガリと体をこすられたら皮膚が裂けてしまう。
「ヤダヤダヤダヤダ。ヤメテーーー」
拷問されるくらいなら、いっそ一思いに殺してもらったほうがマシ。私、痛いの大っ嫌いだし、血を見るのもイヤ。
「でも、」
妊娠しているんだった。いまは私一人の体じゃないんだ。赤ちゃんが宿っている。この子を無事に誕生させなければならないと、付け焼刃的な母性が主張するんだ。
「呪うよ。私に痛いことしたら呪われるから。信ちゃんと二度と口をきけなくなるから」
お義父さん、ウロコ取り器を持って、つっ立ったままなんだけど。あの真っ黒プレートを見つめている。相変わらず、恋焦がれるように恍惚なんだ。
「やめ、」て、と言ったが遅かった。
ウロコ取り器が顔に当たって、その金属的な冷たさを伝えていた。野太い男の人の力がかかって、たいして鋭くもない突起群のすべてがズブズブとめり込んでしまった。
そして。
「うおおおおおおお」
雄叫びをあげて擦り始めたんだ。猛烈に、まったく躊躇うことなく、容赦の欠片もなかった。親の仇のように皮膚をボロボロにしたんだ。
「それ以上はやめて。死んじゃうよ」
お義父さんの顔の肉が、あれよあれよという間に減っていた。ただでさえ真っ黒プレ―トとネズミ肉の巣にヘンなことをされて挽き肉みたいになっていたので、とれやすいんだ。生のハンバーグをウロコ取り器で擦ったみたいに儚いんだよ。だからやめてほしいと切実に願った。
「こんなに取れるぞ。どんどん取れて、なんだか知らねえモンが出てくるんだ。なんまら痛いんだけど、やめられねえなあ。なあ、頼むよ。痛えからやめてくれって。やめられねえべや」
自分で顔の肉を削り落としておいて、言っていることがわけわからない。痛いのだったら、やめてくれって言うんだったら、いますぐにでも鋼鉄のウロコ取り器を捨てればいいのに、どうして擦り続けているのだろうか。
ク~ンク~ンって、鳴き声がするんだ。ポン太だとすぐにわかったが、彼のほとんどはズタ袋の中にいるはずだ。バラバラにしたと、お義父さんがシリアルキラーみたいなことを言っていた。ウソではないことは一部を確認したのでわかっている。そうなっていてくれた方がいいと思う私もいた。
土嚢袋の開がモゾモゾと動いていた。まるで袋の口がおしゃべりしている感じで、なんかのアニメみたいだなと思った。だけど愉快というわけではない。
「うわー、出てきたよ」
押し出されるようにポン太が現れた。ただし、バラバラにされているので体全部ではなくて顔だけだった。イケメンのハスキー顔が、あのカッコよかった鼻先が、なんだか申しわけなさそうに出てきた。その部分はまだ裏返っていなくて、ちゃんと犬のままなんだ。
土嚢袋から這い出てきたポン太の顔だけが、クンクンクンクン鳴きながら情けなくウロついている。
愛犬が顔だけになって足元にいて、目の前ではお義父さんが顔の肉を粉みじんに砕き落としている。生臭いと少し違う悪臭が充満していた。吐き気より先に目が痛くなった。お腹の下あたりが痛いのは生理痛ではないだろう。
「なんぼでも出てくるべや、なんまら出てくるって」
お義父さん、ウロコ取り器でずっと顔をゴシゴシやっているんだけど、内側からどんどん肉が迫り出してくるからキリがない。
「腹立つから、おまえを捌いてやる」
そう言ってナイフを手にしたんだよ。ぐちゃぐちゃだけど、本人は真顔なのがわかるし、絶対に本気だ。
ワンワンワンワンと吠えているのは、足元にいるポン太の顔だ。私ではなくて、お義父さんに向かって威嚇している。顔だけになっても私を助けようとしているんだ。オラオラ君と言っていたことを謝りたい。
「腹を裂いて中身を出すからな」お義父さんの投げかけが容赦なくて、何度も絶望してしまう。
中身を出すって、鹿を捌いていた時にブルーシートにでろんとした内臓の塊を落としていたけど、ああいう感じでやるのかな。お義父さんの顔がすごく恐ろしく、言葉で形容しづらいんだ。まさにバケモノなんだ。
「ポン太、ポン太っ」
私のイケメン犬の顔だけが、バケモノお義父さんの足に噛みついている。体がないくせに噛む力は万力だから、お義父さんの足首の骨が砕けているんだ。ガリゴリと不吉すぎる音を立てながらの攻撃は案外と効いて、一瞬崩れかけた。
「ガアーーーー」
だけど倒れずになんとか踏ん張っている。ド根性だけで立っているみたいだ。
頑張っている間にも、バケモノお義父さんの顔が変化していた。なんというか、モザイク模様なんだ。挽き肉状になった顔でモザイクが作られているというか、四角形がたくさんあって揺らいでいるというか、とにかく奇妙奇天烈すぎて気持ちまでバグってしまう。モザイクがかかって、それが解けると醜くて空恐ろしい顔が露わになった。バケモノ度がどんどんと増している。お腹が痛くてたまらない。猛烈にトイレへ行きたくなった。
足首に噛みついている犬の顔がウザッたらしいのか、空中で何度も振っていた。私を切るためのナイフで刺したりしているが、ポン太は死なない。逆に、お義父さんの体を遡上しながら腕に噛みついていた。
地獄に巣食う鬼の形相で凶器を振り回しているのだけど、顔だけのポン太は肩に背中にお腹にと、ちょこまかと動き回るので狙いを外していた。ときおり顔に噛みついたりして、バケモノお義父さんの激高が頂点に達している。野太い声で咆哮しながら一人で暴れていた。この家の周囲はほぼ原野だからいいけど、私の家ならご近所さんから苦情がくるレベルだ。
「うっ」
な、なんか来たー。
この体勢からはハッキリ見えないんだけど、誰かが地下室への階段を降りてきたんだ。
ものすごく気持ちの悪い気配が近づいている。バケモノお義父さんはポン太の顔の相手で忙しくて、まったく気づいていない。こちらに背を向けて喚き散らしていて、そして、それはやって来た。
うわ。
な、なんなのよ。
驚きで言葉が声にならない。{それ}の形状を正しく述べることが困難なんだ。
何かに似ている気がするが、その言葉を一点に収束させればかえってぼやけてしまうような不確定さがあった。いや、私の知っている動物なり伝説なり怪異なりに当てはめようとする行為が、おこがましいと思えるほどの異様さだった。嘔吐しなかったのは、あまりにもグロテスクすぎたので現実感がふっ飛んじゃったからだ。
ひどく腐りきった肉の樹木を思い浮かべた。とりあえず、{それ}は歩いていた。足がどうなっているのか口にしたくもない。ウンチみたいに臭くて、火傷したように爛れていて、ウジ虫が湧いているようにブツブツだらけだ。一本なのか三本なのも不明なんだよ。上部は、腐った樹木に粘り気のあるミンチ肉をなすりつけたような感じなんだ。
不思議なのは、お義父さんみたいに肉がモザイク状になって動いていることだ。新婚のときにエッチなDVDを信ちゃんと一緒に視たことがあるのですけど、あの時の陰部にかかっていた自主規制をもっとみずみずしくしたみたい。
すごく湿っている。
真冬の道東は乾燥しすぎているのに、{それ}が降りてきた途端に地下室の中が夏の沼地みたいに湿っていた。ベタベタとした空気に排泄臭みたいなのが混じっていていた。いいかげん自由にしてほしいのだけど、この得体の知れない生き物に頼むのは気が引ける。
キャンキャンと痛々しく吠えながら、顔だけのポン太がバケモノお義父さんから離れた。死なないとはいえどもけっこうやられたみたいで、イケメン顔がひどいことになっていた。私のほうへ来るのかと思ったら違った。
犬の顔が、{それ}の足というか下のほうにまとわりついている。噛みついているわけではない。
「バケモンになって帰ってきたか、このっバカ息子がーっ」
バケモノになったお義父さんが、それに向かってバケモンと怒鳴ったんだ。
「息子って、なにさー」
おもわず叫んでしまった。だって、いきなりやって来た形容し難い{それ}に向かって、息子って言ったんだよ。夫は一人っ子なので、お義父さんのバカ息子といえば一人しか存在しないじゃないのさ。
「まさか、信ちゃんなの」
私がそう言っった途端、「ガアーッ」と唸って、バケモノお義父さん突進したんだ。{それ}に向かったんだけど、一歩前まで近づいたとこで顔だけポン太がとびかかった。脚がないのにすごい跳躍力で、モザイク肉の顔に噛みついた。
「ガアアアーー」と呻いて、バケモノお義父さんが倒れた。顔だけポン太が次々と肉を齧り取っているんだけど、モザイク状に次から次へと内側から肉が迫り出しくる。たいがいな再生能力で、内部に打ち出の小槌でも埋め込まれているのではと思ってしまった。
「うっ、臭い」
目の前にいる形状が説明しづらい{それ}が動いた。プ~ンとウンチのような、いやもっと強烈な悪臭を放っている。腐った死体を食べたバケモノの糞というか、さらにその糞を食べたバケモノの糞というか、私自身が何を言っているのかわからなくなるほど臭いんだ。これならポン太のウンチ・フレグランスのほうが何倍もマシよ。
ああ。
{それ}が棚にもたれかかって、そこにあった重そうな機械に触れていた。
まったく、なんだってこの家にはチェーンソーなんてあるのだろうか。ふつうの家にはないでしょう。林業をしているわけでもないのに。
ブンブンブンブーーーンとエンジンが唸って、白い煙で地下室が白くなった。排気ガスのニオイが充満して息がしづらい。ただし、人工的なだけマシな気がする。
「いや、ダメダメダメ。うわー」
唸りを目いっぱいまで上げたチェーンソーが、バケモノお義父さんを刻み始めたんだ。やっているのは臭すぎる樹木的な{それ}で、枯れ枝のような、触手のようなものを何本も出して器用に操作している。切るというより高速で回るチェーンで削り取っているみたいな感じだった。勢いがすごいから、バケモノお義父さんのミンチが飛び散った。臭いし、汚いし、縛られているしで、今日は災難すぎるよ。
「父さんは、こうなって当然なんだ。なにせ、僕の大事な奥さんを殺そうとしたのだから」
{それ}が私に語りかけてきた。腐った樹皮の肉表面が、バケモノお義父さんとほぼ同じモザイク模様となって、それらを押しのけるように内側から何かが迫り出してきた。
「・・・」
よく知っているのだけど、形容もできない塊の内側から出てきたので、気軽に声をかける心境にはならなかった。
「それはダメさ。僕の奥さんは、もう触ってしまったんだよ。少しずつだけど変わってきている。僕と同じになるんだ」
すごく厭な気分になっているのだけど、{それ}の声と言葉の内容を聴いて、さらにどん底まで落とされてしまった。
「信ちゃんなの」
{それ}の内側から出てきた顔は夫だった。ヌメヌメして、蹴飛ばしてやりたいくらい臭かったけど、見慣れていて、私がもっとも触れている男性なんだ。
私がそう言うと、イヤらしくニヤついた。内臓アラカルト焼きの居酒屋で、よく私を見ていたおじさんみたいだった。
「最低っ」と言ってやった。夫の内面にこんな表情があったとは知らなかった。ただちに離婚して、三行半をつきつけてやるんだ。いや、あれは夫からもらうのだったかな。
憎たらしいほどのニタニタ顔が、肉肉しい樹皮の奥へ沈んでいった。表面はモザイク状に戻って、なんだかワサワサしている。お義父さんが削られ過ぎて薄くなっているのだけど、怖くて見てられない。
「ちょっと、なんなのよ。やめてよ」
{それ}が私にくっ付いてきた。幹というか体というか、全体を押しつけてくる。グリグリと手際のよい痴漢みたいにまさぐっているんだ。頭にきたけど、それ以上に気色悪くて鳥肌が立ってきた。いやサメ肌以上だろう。
「僕は変わるんだよ。君も変わるんだ。子供も変わるんだ。ただ、アレに触れただけでは足りない。もっと、もっと、僕たちは交わらないと」
信ちゃんが言っている。ただし、顔ができた場所が問題なんだよ。
なんと、今度は下からだ。ちょうど、私の股のところに出てきた。
「うわー」
ヘンタイにもほどがあるでしょう。もう、なんなの。おかしなことが起こり過ぎて笑っちゃう。ドッキリとかだったら、おもいっきりキレてやりたいけれど、その前に最悪な災厄が私に為されたんだ。
犯されているー。
形状が言葉に表せない、おそらくは信ちゃんが変容途中にあるバケモノじみた{それ}に、いやらしいことをされている。すでに素っ裸にされてやられたい放題なんだ。地下室は暖房がゆるくて寒いのだけど、目の前の信ちゃんみたいな{それ}に抱かれているので生温かった。
縛りはすでに外されている。はれて自由の身になったのだけど、夫的な得体の知れないものに犯されているのでほぼ身動きできない。臭いのには慣れた。鼻がバカになったんだと思う。ただ今度は重すぎて息苦しい。
ああ~、なんだろうこれ。
夫っぽいモノが私の中に入ってきているのだけど、すごく痛いんだ。他のはあんまり知らないけど、信ちゃんのは細めだったから、こんなに痛くはなかった。下手なのは相変わらずだけど。
なんていうか、私のすべてが別の場所にあって、そこにいる痛い私を体感しているような、すごく不思議な激痛だった。気絶しながら痛みを耐えているような感じで、この夢見心地な地獄がしんどい。体を脱ぎたいと切実に願った。
「痛い、やめて」と言った。やめてくれるはずはないと思っていたけど、意外にも離れたんだ。
そうしたら、「ガアアー」って叫びながら、{それ}に何かが絡まってドタバタしている。
なんと、バケモノお義父さんだった。チェーンソーで挽き肉みたいにされていたのに、いつの間にか復活していた。顔の肉がモザイクな重なりとなってワサワサしている。信ちゃん的な{それ}も同じようにモザイクが出ていた。
「油をかけろー、燃やせ」と言っているように聞こえた。お義父さんだったバケモノと夫だった{それ}が揉み合っているんだ。
「俺たちはダメだー。こんなのがいたら・・・。だ、だから、この世が地獄になるっぞ。ここで燃やせ。すべてを燃やせ」
まだ痛みがあるのだけれど、私は自由になったので逃げるならいましかない。だけど、バケモノお義父さんの言ったことを実行しなければならない気持ちがある。それは夫とその父親を殺すということになるが、やむを得ないんだ。
私は見てしまった。かつての支配者たちにより、人智を超えた技術で造り出されたバケモノが暴走した世界を。
信ちゃんだった{それ}に犯されている時、私のヴァギナによくわからないモノがぬるっと入ってきた際、意識の中にはっきりした映像が焼きついた。異次元のものかと思えるほどの威力を伴った激痛に苛まれながら、私はしっかりと見せられたんだ。
どんな言葉を使っても言い表せない、すごく残虐な光景だった。頭が星みたいな形をした支配者たちが、モザイクのバケモノたちに蹂躙されていた。ひどく長い時間をかけて、気が遠くなりそうなくらい緩慢に、少しずつ剥されていた。
あの渦中にいなかったのは神様仏さまに感謝するくらいの幸運なんだけど、その恐怖が現在に這い上がってきた。信ちゃんが湿った地からほじくり出してきた真っ黒プレートが起爆剤なんだ。だけど、それは設計図としては不完全で、本体はまだ湿った地面に埋もれている。よせばいいのに、我が夫は深く手を突っこんで触れてしまった。そして完全に起動させて、愚かしいことに自らを生贄にしたんだ。
「あなたはバケモノになったのっ。信ちゃんはどこにいったのっ」
「僕はここにいるよ。君もここに来るんだ。一緒になろう。家族は一緒だろう」
私たちが家族になるには、まだまだ逡巡することが多すぎるわ。
「早く俺たちを燃やしやがれ、バカ嫁がぁーっ」
バケモノお義父さんが怒っている。顔にモザイクがかかっているので表情が読めないのだけど、ぐずぐずしている私に苛立っているみたいだ。
ポータブル石油ストーブ用の燃料がある。青色のポリタンクにあるのは灯油だろう。前にお義父さんがシュポシュポしていた。二つあるので、ぶちまけて火を点ければ焼き尽くすには十分な量だと思う。
でも、ほんとうに夫を焼かなければならないのか。警察とかを呼んだ方がいいのではないか。病院に行ってちゃんと治療したら元通りになるのかもしれない。
いいえ、それはない。元通りにはならないと切実に思うんだ。そういう確信が、私の中で醸成されている。すでに手遅れだし、猶予の時間はない。
「さっさとやれ、ブス」
女の子にその言葉は禁句なんだよ。いくら義理の父といえども許さない。だけど気持ちはよくわかる。私を殺そうとしたのも、そういうことなんだ。危うい境界線上なんだけれど、少なくとも息子よりはまともだった。
ポリタンクの蓋を回して、それをぶん投げて、さらに中身の灯油をぶっかけてやった。信ちゃんだった{それ}が私に覆いかぶさろうとしけど、そうはさせまいと、バケモノお義父さんが押さえ込んでいた。両方のモザイクが激しく激突している。私はひたすらぶっかけてやる係りだ。キャップを全部取っているので液体の出方がいい。重かったけれど、主婦は案外と力持ちなんだ。二つとも空にしてやったよ、ザマミロ。
「火を点けろ――――」
バケモノお義父さんの叫びだよ。もちろん、そうするんだ。ここで躊躇ったら、墓碑銘すら刻まれない。あらゆるものの大惨事となる。
エッチな絵が貼ってあるオイルライターが棚にあった。近づいていては危ないので、階段まで逃げてから放り投げてやった。
ボワッと火が点いた。
キャンキャンキャンキャンと鳴きながら、顔だけのハスキー犬がこっちに来る。
「あんたも、逝け」
蹴っ飛ばしてやった。可愛いと思っていたことを忘れてしまった。今度はニャンコかチワワにする。
バケモノお義父さんと夫だった{それ}が燃えている。冬で乾燥しまくっているし、脂肉をまき散らしていたから、予想以上に火の勢いがあった。もう、大火事なんだ。顔だけポン太も業火の中にいて、飼い主に負けず劣らずよく燃えていた。
耐えられないほどの灼熱となった。ずっと見ていたかったが、ここに留まっていることはできない。バケモノも{それ}も犬の頭も、炎にあぶられた蝋人形みたいに崩れ落ちている。ここまで焼かれると、さすがに再生能力は発揮されないようだ。
地下室から廊下へ出て、さらに階段を上がって二つある部屋の左側に入った。ここは客間となっているけど、もとは信ちゃんが使っていた。子供のころから高校卒業まで、この部屋から湿原のほうを見ていたと言っていた。原野ばかりでうんざりしていたみたいだ。
煙が入ってきた。もう地下の火が一階にまで到達しているだろう。隣の家までわりと距離があるのが良かった。消防車が来るにはまだ早すぎる。私にはやるべきことがあるのだから。
地下室から出るときに持ってきたものが二つある。
ガソリンが入った金属のタンクと、お義父さんが自慢していたショットガンだ。筒の部分を短くしているから持ちやすい。ガソリン缶はチェーンソーとかの燃料かな。けっこう重いから十リットル以上あるかも。
ああ、やるのかあ。
でも、そうするしかないよね。たいして食べてもいないのに、中年のおじさんみたいな太鼓腹になっている。私の子供、いますぐ生まれてもいいくらいに成長している。{それ}に犯された時から急激に膨らんだんだ。
そう。
私も変化している真っ最中だ。体の表面がワサワサと波打っている。皮膚が四角に区切られて、それらが個別に動き出していた。もうすぐモザイクのバケモノになるだろう。けして望みはしないけれども、夫やお義父さんみたいになると思う。
うわ、痛っ。
お腹が死ぬほど痛い。私の中心付近で、私の子供が激しく獰猛に叫んでいるようだ。この子が凄まじいバケモノなのは知っている。絶対に産んではいけないし、もしもこの世に誕生させたら取り返しがつかない。私には、私の家族より優先させなければならないことがある。我が子への本物の愛情が芽生える前にやるんだ。
うう~。
体にガソリンをぶっかけているのだけど、ニオイがきつくて目が痛い。ただでさえ最悪な体調なのに、今日はほんとに容赦がないよ。
「ギャッ」
私の中のヤツがすんごく暴れている。これって、あのSFホラー映画みたいに、お腹を突き破って出てくるパターンだ。もちろん、そうはさせないけどね。
銃に弾を入れた。カモ撃用の散弾じゃなくて、スラグ弾だ。ゾンビのお腹に大穴を開けたってお義父さんが自慢していた強力なやつ。
弾の入れ方はなんとなくわかっていたつもりだけど、初めてのことなので多少はまごついた。数は一発だけで、それ以上はいらない。というか、一発撃ったら終わりだから。もう、次はないんだ。
ベッドの上に立って、銃の筒の先っぽを股の間に入れた。さっき信ちゃん的な{それ}に犯されているから、ヴァギナがまだ湿っている。先端が切断されてギザギザしていたので、ちょうどよかった。
「う~ん、ハア」
ぬるりと入った。かなり冷たいはずなんだけど逆に熱く感じた。アソコが焼けている感触に怖気つきそうだが、その前に深く挿入した。
この体勢で引き金を引くと、強力な弾丸が私の内部を縦に蹂躙して脳天を貫くだろう。子宮の中で暴れているヤツもミンチにされて大人しくなると思う。ただし、バケモノお義父さんや信ちゃん的な{それ}みたいに死なずに再生しそうだ。人知を超えた技術があった支配者たちを滅ばしたんだ。並のバケモノじゃない。
でも大丈夫。同時に火をつけるから、お腹の中で復活する前に私と一緒に焼け落ちる。焦げ焦げのドロドロになって真っ黒な炭となるんだ。
オイルライターを左手に持った。エッチな絵じゃないのを頂戴してきたから、お義父さんは許してくれるだろう。そして右手で運命を決めたいのだけれど、引き金に手が届かない。短くなったとはいえ、自分の股にショットガンを突っこんでいるのだから当然なんだ。お腹の皮がボコボコ波打っていて、すぐにでも{それ}が突き破って出てきそう。早くしなければならない。
箒があった。逆さまにして、柄の部分を引き金に当てた。少し斜めに差し込むと、うまい具合に嵌った。
ちょこんと押し込めば、大きな鉛玉が発射されて内部をめちゃくちゃに破壊し尽くすだろう。同時に火が点いて、私たちは燃え盛るんだ。
クト、クチュ、クトゥーー、ルー。
湿った地 北見崇史 @dvdloto
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