ポスト
もるげんれえて
ポスト
その男はA4サイズより少し大きな封筒をポストに投函した。手つきは慣れていて澱みない。けど、封筒が赤い口に吸い込まれていくころには手は少し震え、やがて暗闇へ飲み込まれると大きなため息を吐いてその手が不精な髭をぞりぞりとなぞった。髪も無造作で、この数日は風呂などに入っていない様子だ。目の下に湛えた濃い隅が、晴天の青に不釣り合いだった。
「また投稿するの」
よく聞き知った、うら若い声はポスト越しに掛けられた。またため息が漏れて、男は顔を上げる。そばかすを隠さない程度の薄化粧だけをした女が男を見下ろしていた。男は猫背だけれど、女のほうが背が高い。まだ薄ら寒い春の始まりに、ジャージ一枚だけを着た格好だった。
「どうなのよ」
答え忘れた男を女がせっつく。
「え、ええ。はい」
また漏れ出そうになったため息を飲み込む。よくもそんな寒そうな出で立ちで平気でいるなあ、と男はほつれが目立ち始めたコートの前を、身を抱えるように絞めた。
へえ、と女は目を細める。目じりの皺が隠れた。
「まあだ諦めていないのね」
「ええ、まあ」
「うだつが上がらないままのようねえ。あ、うだつの意味はわかっているの」
こんな高圧的な女の話など、大家でなければ聞いていなかった。男は真一文字に口を閉じて、視線はさっさと地面へ降ろした。アスファルトの割れ目からギザギザの葉が八方に広がり、新しい芽が伸び始めている。春の発見に目を奪われる男に、女は鼻翼を広げ、腕を組んだ。
「ねえ、ポストの語源を知っている」
はあ、と思わぬ話題に男は伺うように目線を上げた。満足そうに薄紅の唇を歪め、目を細める。目じりの皺が隠れた。およそ三〇代に見えるこの大家は、自分より幾つ年下なのだろうか。時折、作家志望の自分へ当てつけのような問題を出してくる。以前、彼女も文筆を目指し、そしてこっ酷く振られたらしいということを、隣部屋に住む噂好きのおばさんから聞いた。
その理由が、果たして文芸によるものかは知らないし、知る気もない。ただ、彼女が突っかかってくる理由には十分だろう。
男が答えないでいると、それを回答と受け取った女は人差し指を立てながら言う。
「過去よ」
「はあ」
思わぬ答えに男はまじまじと大家を見た。美貌の陰りはありながら、不動産だけで生きていける、勝ち組のような人だ。職も安定せず、こうやって原稿を送り出す自分を彼女は、どのような立場で見ているのだろうか。
ぽかんとした男に、女が悠然と講釈を始めた。
「手紙はいつだって過去からくるでしょう。その手紙を入れる場所。いつもそこには過去がある。だから、パスト、過去がもじってポストになったのよ」
「……ほお」
思わず出てしまった声は、我ながらにバカっぽい、間延びした「ほお」だった。こればかりは演じたものではなかった。
だが結局のところ、女にとって男の反応は、詰まらないものに変わりないようで、突き立てた人差し指が自分の腕を叩き始めた。
「まあいいわ。その投稿がどうなろうが、私は家賃さえ頂ければそれでいいのよ」
「あ、スミマセン。もう振り込んで……」
「それは先月分よ。今月分をさっさと振り込みなさい」
そんなだから、いつまでも売れないのよ、と言いたげに女は吐き捨てた。念押しに「遅滞はゆるさない」とだけ言うと、カツカツと歩き去っていった。恐らくコンビニにでも行ったのだろう。生活が安定しているせいか、どうでもいい外出の時は男が心配するくらいの化粧気のなさで出歩いていくのだ。この辺りには自分を振り向かせるようなものはない、そんな領主のようだ。
この余裕ある最後通牒を突き付けるのは毎度のことで、男は一度も支払いを伸ばしたことはない。自分でも意外なほどに。女の執念深さにも似た催促は、結局のところ彼女の立場の不安からくるものだろう。勝ち組のはずなのに、男の家賃がなければ生きていけない。まるで中世の地方領主のようだ。支えるはずの農民は奴隷のようだが、いなくなれば領主は素寒貧。彼女の気にしない有象無象が彼女を支えている、矛盾のような立場に立っている。
男にはこれを滑稽とは思っていなかった。現代社会の形の一つでしかない。だが、今日は違った。
「……違うんだけどなあ」
ポストの語源。それはたまたま知っていたものだ。
元々は支える、置くという意味のponereというラテン語だった。それが変形してpostになった。意味は「戸に立つもの」。転じて「立場」などの意味を有することになった。
「ま、連載三本目の原稿を送ったんだけれどね」
男は過去の経験から、世間を渡るときはバカのポストに収まることにしていた。
そろそろ金もたまってきた。次の場所探しをするとしようかな。
その前に風呂と睡眠を彼の体は欲していた。ポストを横切って、男はすぐそばのアパートへ帰っていった。
ポスト もるげんれえて @morghenrate
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