一章:南部へ⑤
曰く、近隣の村で起きた事故で大怪我を負った人間がいる。村に住む薬師が手当をしているが、一刻を争う事態だ。そのため、村人は軍医のいる駐屯地に助けを求めに来たらしい。
「容態を聞くかぎり、重症のようです。俺が行ったほうがいいでしょう」
フェルディナントは細かい症状の説明をしてくれたが、アナベルにはちっとも分からない。それでも、切羽詰まった状況は伝わった。ジークハルトの返事は即答だった。
「許可する。行ってきてくれ」
「ありがとうございます。助手としてリーゼも連れていきますが、構いませんね?」
「もちろんだ」
場所を変える時間さえ惜しいと、報告は馬小屋の前で行われた。上官の承諾が得られること前提だったのだろう。既に身支度をすませていた二人はそのまま馬に乗り、すぐさま駐屯地を出発していった。フェルディナントたちが馬小屋にやってきてから十分も経たない間の出来事だった。
二人が戻るまで数日かかる、と連絡があったのは翌朝のことだった。懸命な治療もあって怪我人は一命を取り留めたらしい。しかし、まだ予断を許さないため、すぐに返ってこれないということだった。
軍医と衛生下士官が戻らない以上、駐屯地を出発できない。ジークハルトはしばらく駐屯地での滞在を決めた。副官がその旨を先々へと連絡を始める。
周囲が対応に追われる中、暇なのはアナベルくらいだろう。一時的に割り当てられた執務室で元帥が書類に署名をしている間、窓から外を眺めていた。
(あの鳥はなんて種類なんでしょうか)
動物の種類には詳しくない。しかし、自由に羽ばたく様子はとても羨ましかった。
(たまには空を飛びたいですねえ)
魔術機関時代は魔術でよく空を飛んでいたが、エーレハイデではそれも叶わない。魔力のない大気を飛ぶのは制御も大変な上、ただの気分転換のために魔力を消費をしようものなら心配性の王子に怒られるのが目に見えている。
(魔術が全然使えないのも窮屈なものです)
そんなことを思いながら、ふと視線を下に向けた。ちょうど執務室の窓からは駐屯地の正門が見える。そこにはいつも警備が立ち、時折巡回の兵士が門を行き来しているぐらい。――のはずが、そのときは様子が違った。
――あれは。
窓際の椅子に座っていたアナベルは立ち上がる。窓を開け、そのまま身を乗り出す。
門のところに兵士以外に、小さな人影があった。
「危ないぞ」
すぐ後ろで声が響いた。振り返ると、先ほどまで執務机で書類と睨めっこをしていたジークハルトがすぐ後ろに立っていた。体を掴まれ、強制的に窓から離れさせられる。そこで彼も正門の様子に気づく。
「あれは?」
「さあ。なんだか、揉めてるみたいですけど」
こう遠くては正門でのやり取りは聞こえない。それでも、女性が兵士たちに何かを訴えかけているのが見えた。兵士はそれをなだめているようだった。
「何なんでしょうね」
アナベルは首を傾げる。ジークハルトは考える仕草をしてから、窓を閉める。近くに置いてあった剣を掴んだ。
「行くぞ」
「――はい?」
ろくに反応できない間に、彼はさっさと部屋を出て行ってしまった。部屋の隅に控えていたヴィクトリアは「はい」と従順に後をついていく。
――前にディートリヒに言われたことを、もう少し深く考えるべきだったかもしれない。
暫く呆然としていたアナベルだったが、後を追わないといけないことに気づき、慌てて駆けだした。
◆
「――だから! 嘘なんてついてないんだって!」
執務室からは聞こえなかった声も、正門に近づけばはっきりと聞こえてくる。下に降りると甲高い声が耳に届いた。アナベルは声の主を見る。
声を張り上げていたのは少女だった。歳は十代半ばくらいだろうか。お下げにした薄茶色の髪に、くりくりとした瞳をしている。それが特徴といえば特徴だが、それ以上に目を引くものがあった。
彼女の肩には小さな茶色の生物――おそらく猿だろう――が乗っていた。そのうえ、足元には毛むくじゃらの白い小型犬を連れている。犬ならともかく、猿を連れ歩いている人を見るのははじめてだ。アナベルはまじまじと少女を見つめる。
彼女は叫ぶ。
「あれはエッダじゃないの! 別人なんだって! 行方不明者を捜すのも、あなたたちの仕事でしょ!? なんで、あたしの言うこと信じてくれないの!」
「そうは言われてもなあ」
まだ幼さが残る少女はハッキリと怒りを露わにしている。兵士たちは完全に困った様子だ。兵士の一人がこちらに気づくのと同時に、ジークハルトが声をかける。
「どうした」
「――はっ」
その場の全員の視線がこちらに向く。元帥の登場に兵士たちは素早く敬礼をした。
「実は――」
「あなた、ここの偉い人?」
兵士が状況を説明するより先に、お下げの少女が口を開いた。自身を取り囲んでいる男たちの反応で、姿を現した銀髪の青年が上官であることを察したのだろうか。
だが、同時に、二十代前半の男が地位が高いことに違和感を感じているのだろう。どこか戸惑った視線をジークハルトに向ける。
「ああ、そうだ。ジークハルトと言う。部下が何か失礼なことをしただろうか? そうであれば、代わりに謝罪しよう」
(
内心突っ込みをいれながら、アナベルは少し離れた場所から二人の様子を見守る。
「何があったのか教えてくれないか?」
「……友達が、いなくなったの。レルヒェ村のエッダって女の子」
わざわざ駐屯地に来るぐらいだ。迷子などではなく、本当に行方不明なのだろう。幼い少女が話すには大分物騒な話だ。
「さっき、君が口にしていた名だな」
彼女はこくりと頷く。兵士たちの様子を窺ってから、意を決したように言う。
「今、レルヒェ村にエッダって名乗る子がいるけど、その子はエッダじゃないの。違う子なの。――お願いです。本物のエッダを探してください」
悲痛な訴えが昼の駐屯地に響いた。
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