第三一話 アブキールへ集合せよ②
__一七九八年五月一六日、マルタ沖
もはや陽は落ち、マルタ島の住民もそのほとんどが寝静まり、灯りとなるのは月と、艦が放つ微々たる灯りだけとなったその頃、輸送船含め、その数二〇は軽く越す大艦隊がマルタ島に忍び寄っていた。
夜が明けると、マルタは一晩のうちに現れた巨大な船の群れに騒然となった。そして、ガリア艦隊の行方を知るために密かにマルタを監視していたインディファティガブルは、その混乱に乗じて朝靄が晴れる前にそっとその場から立ち去ったのだった。
「一撃ぐらい入れてやりゃあ良いのに。」
ガリアの大艦隊ということで、興味津々に甲板に上がって来ていたメアリーは、ただ逃げるだけの行動に、不服そうにそう呟いた。
「メアリー、俺たちの仕事は血を流さず、艦隊にガリアのマルタ襲来を伝えるだけだよ。それに、下手にちょっかいかけてメアリーが怪我でもしたら大変だしな。せっかく綺麗な顔なんだから、もう少し大事にすべきだと思うんだがなぁ。」
俺は未練たっぷりにため息を吐くメアリーを横目にそう言った。
「全くもう、旦那様はお世辞が上手いね。でも、こんな居候みたいなアタシに気遣ってくれてありがとうね。」
メアリーはいつに無く珍しく、普通にお礼を言って笑った。
「お世辞?ははっ、冗談はよしてくれ、俺はそう言うのは苦手だよ。それに、俺はメアリーのことも、海賊だった彼らのことも、皆んな大切な家族ぐらいに思ってるよ。」
俺は笑い飛ばしてそう答えると、『よいしょ』と壁にもたれ掛かっている身体を起こした。
「さっすがアタシの旦那様♪正直な子にはご褒美をあげようかね?どうだい、久しぶりに今晩は二人っきりで………♡」
「俺たちがまるでナニをやってるみたいなことを言うな、勘違いされるだろ。」
結局、メアリーは腐ってもメアリーだと認識した俺は、冷静にメアリーの頭を軽くチョップして『魅力的な申し出には、感謝しておくよ。』と一言、艦長室へ向かった。
何故そんなこと言うかって?そうでもしなきゃ理性が保てないからだ。
「うーん、あと一押しだと思ったのに、勘違いだったかな…………」
メアリーが何やら呟く声が聞こえたが、よく聞きとれなかったのもあり、聞き返すのも何だか野暮だと思い、俺はそのまま歩みを進めた。
__五月二〇日、アブキール湾
「陸地では突拍子もない噂が流れているようですね。」
俺は報告がてら、旗艦のヴァンガードでネルソン提督とお茶を飲んでいた。俺は提督の後ろの窓から臨める家々を指さして言った。
「ああ、みたいだな。どちらにせよ、実害が出るまでは我々の気にするところではない。それより、ガリアの艦隊はいつ頃
ネルソンは町に目すら向けず流して尋ねた。
「どうも連中、道中から一切我々の姿形も見なかったので油断しているようです。向こうを経つのは暫くかかりそうかと。」
俺はティーカップを卓に置いてそう言った。ネルソン提督は嬉しそうにニヤリと笑うと『行ってよし。』と満足気に言った。
「えぇと、それじゃあ、失礼しました……」
俺は残った紅茶を一気に飲み干すと、部屋のドアに手をかけた。
「提督!
しかしその瞬間ヴァンガードの艦長のエドワード・ベリー海佐が大急ぎで扉を開いたため、開いた扉を、俺は顔面にモロに喰らってしまった。
「ああっ、すまない!」
ベリー海佐は鈍い音がしたので直ぐに俺の顔面に扉をぶつけたことを理解し、すぐに謝った。提督は一瞬驚いたたが、直ぐ表情を真顔に戻した。
「ベリー君、あー、とりあえず詳しく頼む。クリントン君、君は──好きにしてくれ。」
提督はティーカップを卓の端にやり、紙やら何やらを片付けながら聞いた。
「あ、はい。男は艦隊が停泊している理由をはっきりさせたいとのことです。身なりからして、本人でなくともそれなりに高位の者かと。」
ベリー海佐は身だしなみを整えて話し始めた。
「そうだな、こちらに協力的な人間がいるのはいいことだ。面会を許可しよう。一〇分後にここに呼んでくれ。」
提督は一瞬悩んだが、直ぐに取り決めた。外では聞いたことのない言葉が聞こえてきており、もう直ぐそばまで彼らが来ていることがわかった。
__一〇分後、提督室
「初めまして、ミスター・ムハンマド。会えて光栄です。私はホレーショ・ネルソン、この艦隊の最高司令官です。して、何も初対面で兵を惹きつけてくる必要がなかったのでは?我々の心象を悪くするとは思わなかったのですか?」
提督は、若干不機嫌そうに顔を顰めながらムハンマドに尋ねた。ムハンマドの顔は緊張と焦りまり見苦しいほどに引き攣っており、身体中べっとり汗をかいていた。
「こ、こちらこそお会いできて光栄です。提督。わ、私は少し前から使者を遣わせていたのですが、毎回門前払いされるので今回このような手段に出させていただいたわけで、ご、ございます。」
ムハンマドは言い終えた後で、胸に手を当て、呼吸を整えた。流石の提督も、ずっと使者が来ていたと知らなかったようで、ベリー海佐へ一瞬目線をやった。
海佐は『停泊したばかりで、誰とも分からない中、現地の民を艦に入れるのはまずいと思いまして……』と言い訳したが、提督は無視した。
「……私の部下が申し訳ありませんでした。確か、本艦隊が停泊している理由についてですね。」
提督は少し呆れたように額に手を当てて言うと、ベイは苦笑いで返した。
「その通りです。お伺いしても?」
「幾つか軍事機密的な部分は端折りますが、まあガリアとの戦争がらみですな。あとは、近く、ガリアの襲来に注意しなければならないかも……とだけ。」
提督は笑いながら濁して言う。その言葉は、上面だけ温かい、奥底に
「提督、良かったのですか?」
俺は、ムハンマドが帰った後提督がお茶を淹れ直している間に、恐る恐る尋ねた。
「うん?ああ、まあ、どうせ彼が来ても来なくてもやることは変わらないんだ。だったら言いたいことだけ言って追い返せばいいだろう?ベリー君も、中々の演技だったよ。」
提督はそう言うと、淹れ直したお茶を一口飲んで、『うん、美味い。』と一言言ったきりで、俺は『もう帰れ』と受け取り、部屋を後にした。
__インディファティガブル上
「あっ、お帰りなさい艦長。何だか現地のお偉いさんが旗艦に行くのを見たって噂になってるんですけど……」
俺が艦に戻ると、丁度ハンナとバッタリ出会した。
「ああ、提督が上手いこと追い返したがね。さあ、暫くは湾内周辺の海図を作り直すだけだ。出帆用意!測深の用意もしておくように!」
すっかり平和なムードでのんびりしていた乗員たちは、俺の喝でピョンと飛び上がり、急いで各自の持ち場に行った。
__六月四日、アレクサンドリア
「艦長、旗艦より信号です。『我が方の斥候より敵艦隊接近の知らせあり、これより作戦を決行すべく、全艦へ北上を命ずる。我を先頭にし、戦列を構築せよ。』以上です。」
帆を張っていた小型のスループやフリゲートは、湾外へ動き出した旗艦のヴァンガードを追従して行った。すると他の艦も次第に動き出し、瞬く間に湾内はガリア艦隊が襲来するのを見張るフリゲート二隻を残して、全て湾外へ出た。
__七月一日一四時五五分アブキール半島北端から北東へ
アルビオン艦隊は、その日フリゲートからの『アブキール湾にてガリア艦隊発見』の報を受け取った。艦隊はネルソンの命で直ちに行動を開始した。
__一六時、アブキール湾から北に数海里
艦隊がアブキール湾に到着した頃には、既に空は朱色に染まっていた。
「旗艦より連絡!『先行する艦船は速度を抑え、組織的に行動すべし』です!」
「うーん、と言うことは提督は戦闘を翌朝行うつもりか。」
俺はそう呟くと、直ぐに幾つかの帆を畳ませた。
ガリア艦隊は一時は出航を目論んでいたが、夜間にすり抜けようと判断したのか、それを取り消した。
「艦長、旗艦より追加の命令です、『スプリングをアンカーケーブルに装備せよ。戦闘開始にあたり、ミズンマストに水平灯を四つ用意し、ホワイト・エンサインを掲げよ。各艦予定通り戦闘に備えよ。』以上です。」
スプリング──停泊中の船の錨のロープに装備するチェーンやロープで、停泊中でも攻撃に効果的な位置・向きを調節し、船の操作性を引き出すことができる優れもののことだ。ヴァンガードの信号を受けた各艦は続々とスプリングを投下した。
__インディファティガブル艦長室
俺たちは、開戦まで少し時間があるので、普段より豪華な食事で、最後の晩餐をしていた。
「あー、皆んな。俺たちはフリゲートだから、戦列には直接加わらないが、湾を脱出しようとした艦を仕留めるぐらいはするだろう。無論、俺たちがその立場になる可能性もある。普段とは違う湾内での海戦だ、覚悟しておいてくれ。」
俺は真剣な表情で士官の皆々と向き合って演説した。
「全くもう、艦長ったらいざ戦闘となれば勇猛果敢なのに、こういう時は暗くなりますよね。もっと元気出してくださいよ。はい、ロースト・ビーフですよー、あーん。」
ハンナは俺の演説に対して特に心を動かされた様子もなく、この日のために特別に積載した巨大なロースト・ビーフをクスクスと笑いながらナイフで切り分け、フォークで刺して、そのまま俺の口へ運んだ。
「んぐっ、
俺は文句を言いながら肉を噛みしめる。長い航海の間でじっくり熟成された肉は、噛めば噛むほど旨みが増して、今まで食べたどの肉よりも美味く感じられた。──若しくはアルビオンの飯が単純に不味いだけだったのかも知れないが。
「がっつきすぎですよ艦長。そんなに私のが美味しかったんですか?」
ハンナはふふっと微笑みながらイタズラっぽく尋ねた。
「ん?ああ、今まで食べたどんな肉よりもだ。」
俺は自分でひたすらに肉を食べ続ける。これ麻薬とか入っていないだろうか。
「艦長、私のも食べてください。あーん。」
ソフィーも、何と戦っているのかはわからないが、ハンナに対抗するように自分のロースト・ビーフを差し出した。
「ん、ありがとう。うん、病みつきになるな。」
俺はソフィーから貰った肉を口いっぱいに頬張って言う。ソフィーは嬉しい反面恥ずかしさで奇妙に顔を紅潮させた。
「む、二人ともやるんならボクも!はーい、あーん!」
すると、ルナもそう言って肉を差し出し、俺に食べさせた。勢いが強すぎてちょっと痛かったのは黙っておこう。
「じゃ、じゃあ私も……お願いします!」
メイも皆んながやるならと、差し出すが、恥ずかしかったのか思いっきり俺の口を外し、手の甲に突き刺しかけた。
その様子を、ロッテはツボにハマったのか、笑いが止まらず涙目で少し苦しそうにしていた。
_____________________________________
訂正、応援コメント、何でもください!
『いいな』と思ったらレビュー、☆、フォローなど何卒よろしくお願いします!
次回 アブキールへ集合せよ③ お楽しみに!
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます