第39話語り手は陳宮へ。じゃあな、孟徳

 まだまだおれ、陳宮が語る。

「総攻撃をかけてきた」と言っても、曹操側とおれたちとの間で、矢が飛び交ったり兵たちが城壁にとりついてよじ登ったりしたわけじゃない。

 曹操たちはひたすら地面に穴を掘っている。

 それも、ただの穴じゃない。

 長くて深い、濠だ。

 下邳の城を取り囲むように、来る日も来る日も、何万人という人足を使って、ひたすら掘っている。

「まずいぞ」

 おれは呂布と高順に言った。

「あいつら、あの濠に、川の水を流し込むつもりだぞ」

 呂布と高順は、ここ下邳の出身ではない。だから心配顔を向けているおれを、けげんそうに眺めるだけだ。

 おれはため息をついてから説明を始める。

「あのな。ここ下邳は、二つの川が合流するところなんだ。曹操たちはそこから水を引いてきて、今掘っている濠に流し込むつもりなんだ。そうしたらおれたちは城に閉じ込められる。騎馬隊を出すことすらできなくなるぞ」

「しかしな、陳宮」

 高順が言った。

「おれたちが出ていって、人足どもに聞いたのだ。すると、口を揃えて、かんがいのためです、と答えたのだが」

「かんがいだと?」

 呂布もうなずく。

「確かに城壁の外側には田畑がある。人足の中には、この城内で暮らす農家も多かった。川が二つも合流する土地なのに、本格的なかんがい工事は初めてらしい。これでやっと田畑に水を引けると、喜んでいた」

 おれは頭を抱えた。

「曹操のやつ、うまくだましたな」

 どうせ人足どもや農家の連中に金でもつかませたのだろう。

 おれたちが話していると、人質にとられている劉備の母親がやって来た。

 しかも、呂布の妻や娘も一緒に来たじゃないか。

 劉備の母親は、着ている衣服はところどころ直したあとが見えるが、ぴんと背筋を伸ばした姿は気品がある。

「奉先どの。人質の身ではありまするが、本日はあなたさまの奥方やお嬢さまにもおいでいただき、申し上げたきことがあり、参りました」

「何事ですか、ご母堂」

「曹公に降伏いたさぬと、おっしゃったそうでございますね」

 おれは呂布が口を開く前に、劉備の母親の前に、走り出た。

「やつは帝をないがしろにし、勝手におのれの欲で各地の将軍たちを従えようとしているのですぞ。奉先どのが戦っているのは、正に天下のためなのです」

 劉備の母親は、おれに、キッと顔を向けた。

「それならば何ゆえあなた方は帝に拝謁しないままなのですか。真に帝への忠義を表そうとするのなら、打ち揃って帝がおわす許昌へ出向いているはずです。まして袁術のように、おのれが帝だなどと申す者と同盟しようなどとは企てぬはず。そうではありませぬか、公台どの」

 おれは、おれとしたことが、このばあさんに一言も返すことができない。

 ばあさんはさらに言った。

「それにもし、曹公に帝に取って代わろうとする野心があるのならば、すでにそうしているはずです」

 おれはばあさんにすっかり言い負かされた。

 誰かに入れ知恵されてるのか?

 呂布なんかばあさんを目を丸くして見ている。

 おれはやっと口を開いた。おれの背中は嫌な冷たい汗でびっしょりだ。

「ご母堂……それは、ご自身のお考えなのですか」

 ばあさんは胸を張った。

「わたくしの考えです。わたくしの夫の家系は、中山靖王劉勝の末裔ですぞ。わたくしも常にこの中原の、漢室の行く末を思うて生きて参りました。ですから奉先どの」

 ばあさんはまるで自分のせがれに説教でもするかのように呂布を目線でがしっととらえ、びしりと言った。

「曹公に降伏なさい。あなたの武勇を帝のために役立てることこそ、真のご奉公というものです」

 呂布はぽかんとしている。

 そこは、呂布の妻が、おずおずと言葉を発した。

「ご母堂のおっしゃいますこと、わたくしも、同感でございます」

 呂布の娘が、呂布に歩み寄った。

 呂布ゆずりの大きな目に涙をいっぱいにためて、呂布の太い腕にすがりつく。

「お父様、もう、見も知らないお方のところへお嫁にゆけとおっしゃいますな。それがお父様が戦に勝つためというのならば、わたくしはもうお嫁になどゆきたくはありませぬ」

 そこでようやく呂布が我に返った。

 娘の髪を優しく撫で、肩に大きな手のひらを置く。

「わかった。すまぬな。もう、おまえたちに苦労はさせぬ」

「おまえたちに、と、おっしゃいましたね?」

「ああ。おまえも、お母様もだ」

「お約束くださいますね?」

 娘も、誰かに入れ知恵されてはいまいか。

 そう考えたおれは、はっとした。

 もし、これが、曹操側の、謀略だとしたら。

 このばあさん、呂布の嫁に娘……。

 ――こいつらの他にも、曹操側の息がかかった連中がいたら。

 ――しかもそれが、武将どもだとしたら。

 呂布は立ち上がった。

「曹操に降伏する」

「おい、待てっ」

 今度はおれが呂布にすがりつく番だった。

「これは罠だ。女どもだけじゃなく、武将たちまで曹操の手の者だとしたらおまえ、おれたちは生きては帰れないぞっ」

「おれの妻子が裏切り者だと言いたいのか」

 呂布が冷ややかに睨みつける。

「だまされているかもしれないじゃないか」

 ばあさんがおれにものすごい勢いで鋭い目線を突き刺した。

「わたくしをお疑いかっ」

「ああ、疑わしいね!」

 そこへがちゃがちゃと具足を鳴らす音が割り込んだ。

 見ると、高順と、武将たちがいる。

 おれと呂布は、目をむいた。

 高順が、縄でぐるぐる巻きにされているじゃないか。

 高順をつれていた武将たちが素早くおれたちに取りつき、縄で縛り上げた。

 呂布は目を見開き、声ひとつ出せないでいる。

「おいっ、どういうつもりだっ」

 おれはばあさんと、呂布の嫁と娘に目を向ける。

 なんとそこにいたのは。

「てっ、程昱っ。それに、劉備っ!」

 劉備がにやりと笑う。やつの背を盾とするように、ばあさんと呂布の嫁と娘が姿を隠す。

 程昱がふふんと笑っておれを見下ろす。

「おっ……おまえら……いつの間に……」

 程昱がよく響く低い声でおれに言った。

「濠におまえたちが気をとられている間に、野良仕事から帰る百姓にまぎれて入り込んだのだ」

「おれたちを……どうするつもりだ」

「司空の前に引き出す」

 おれは天を仰いだ。

 これで一巻の終わりだ。

 高順は観念したのか、目を閉じて何も言わない。

 呂布は、がくりと膝をついた。



 おれたちは、城から引き出された。

 曹操の陣におれたちは連行された。

「曹」の旗が何十本とはためく。

 ちらちらと、雪が舞っている。

 曹操は甲冑姿で、立ったまま、おれたちを迎えた。

 おれ、高順、呂布は、無理やりやつの前にひざまずかされた。

 ほんとうならここで、これまで語ってきた郭嘉に、語り手を代わるべきなのだろう。

 しかし、やつは今、曹操の背後に、甘ったるい顔立ちで冷ややかにおれたちを見下ろしている。

 おれは、ため息をついた。

 どうせ、生きてつく、最後のため息だ。

 呂布が、顔を上げた。

 曹操が、呂布を見る。

 やつの表情は、固く、冷たい。

 やつと呂布は、長いこと――ほんとうに長いこと、無言で見つめあっていた。

 すると、呂布が、静かに立ち上がった。

 そして、空を見上げた。

 そんな呂布を、曹操も、やつの幕僚や武将たちも、黙って見守っている。

 呂布は顔を曹操に戻すと、言った。

「赤兎を、頼む」

 曹操は、深くうなずいた。

 呂布は曹操に尋ねた。

「刑場はどこだ」

「すぐそこだ」

 曹操が顔を向ける。そこには敷物が一枚敷かれ、兵が三人立っていた。

 呂布は、刑場の方へ体を向ける。

 刑場の敷物を見据えたまま、口を開いた。

「おまえは、この先、何人もの呂布と戦い、いくつもの下邳を落とすのだな」

 曹操は、その整った顔に、いっとき、苦痛を浮かべた。

 呂布はゆっくりと、刑場に向かって歩き出した。

 高順も立ち上がった。呂布を追う。

 最後に残されたのは、おれだけだった。

 おれは、曹操を見た。

 曹操も、おれを見た。

 洛陽で過ごした。

 共に洛陽から逃げた。

 中牟県の関所でおれがはったりをかました。

 曹操は義兵を挙げる決心をした……。

 そこまで思い出しておれは、自然と、ほほえんでいた。

 するとどうだ。

 曹操も、ほほえんだじゃないか。

 おれは嬉しさのあまり、飛び上がりたくなった。叫び出したくなった。

 このおれだ!

 曹操に、董卓討伐の義兵を挙げさせたのは、このおれだ!

 やつが乱世に飛び出すことになるきっかけを作ったのは、このおれ、陳宮なのだ!

 それでいい。それだけでいい。

 おれも立ち上がった。笑顔で。

 じゃあな、孟徳。

 やつの目から、ひとすじ、涙が流れる。そして、やつも、おれに、笑った。

 じゃあな、公台。

 おれは堂々と、刑場に向かった。

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