我ら曹魏の男~曹操と部下たちが語る赤壁の戦いまでの三国志
亜咲加奈
第1話曹操徐州虐殺の真相
「陳宮が裏切りましたか」
声がしたので振り向くと、そこには間者の白が立っていた。
興平元年(194)の夏だった。
おれは今、ふたたび徐州にいた。
白を呼んだのは、文若と仲徳から、公台が裏切ったから早く戻ってくれと、早馬が来たからだ。
白は、おれが若い頃から使っている間者だ。今は許昌にいる。そこで、同じくおれの間者を務める妻の姫と住んでいる。
また、白の住まいには、おれの侍女だった李氏と、かの女が産んだおれの息子、李昇もいた。
李氏はおれの側室にはならないと言った。
「なぜだ」
尋ねたおれに李氏は、涙を見せて答えた。
「辛いのです」
「何が辛い」
口にして、すぐに、無粋だと気づいた。
「卞か」
李氏は、うなだれた。
側室の卞氏と同じ頃に、李氏はみごもった。
一族を存続させるために、おれたちは子をなさねばならない。
頭では李氏も理解している。
しかし、卞のふくれた腹を見るにつけ、かの女は辛くなるのだ。
おれにもそれは、痛いほどわかる。
おれは白に相談した。
すると、白は、おれに提案した。
「許昌に住まわせてはいかがでしょう。私の家内がおります。私どもには子供がいません。娘と孫ができたと思って、守ります」
常日頃おれに逆らったことのない李氏の、ただひとつの願い、それが、産んだ子と暮らし、おれが通ってくるのを待つことだったのだ。
「旦那さまと、いつまでもずっと二人で、一緒にいたいのです」
おれはその望みを聞き届けた。
今、どこで、何が起きているのかを広く探るのに、白の能力は必要だった。むろん新たに間者を育ててはいる。しかし、いざという時に使えるのは、やはり白だった。
「お父上、お悔やみ申し上げます」
白は言って、胸の前で拳を手のひらで包み、深く頭を下げた。
ここは、幕舎の中。
いるのは、おれと、白だけだ。
おれは冑をはずした。
「おれの話は、どう伝わっている」
それだけが心配だった。
李氏の耳にどんな風に伝わっているのだろうか。
陶謙の領地で、おれの父は殺された。
もう、誰が殺したのか、調べようもない。
陶謙の権力は強大だった。かつて略奪も働き、同盟した相手を殺害してその軍勢を取り込むようなこともした。
父が殺されていなかったとしても、戦うことになっていただろう。
事実、多くの軍勢が入り乱れる戦いとなった。
陶謙の軍勢は規模が大きい。
おれたちも損害を負ったが、相手にも同じくらいの損害を負わせた。
まだおれは、いち軍勢の将に過ぎない。
つまりおれがした戦は単に、地方勢力どうしの衝突でしかない。
確かにおれには、父のあだ討ちという大義名分がある。
しかしおれのしたことは、虐殺と言われてもしかたがない。
逆に言えば、あだ討ちよりももっと大きな大義名分があったなら、この戦も、単なる衝突ではなくなるということだ。
もっと大きな大義名分――。
それが何なのか。
今のおれには、考えが及ばない。
白は、おれの目を見て、深みのある声で答えた。
「少なくとも許昌の人民には、詳しいことは伝わっておりませぬ。若が陶謙と戦をした。大勢の人が亡くなった。伝わっているのはこのことだけです。むろん李氏や昇が聞いているのも、若が戦をしたということだけです。まあ、昇はまだ数えで三つですから、わかっておりませんでしょう」
ほっとした。
おれは両手の指を組み、そこに顔を隠した。
早く会いたい。
李氏に。昇に。
白の声がした。
「若。李氏からことづてがございます」
おれは顔を上げた。
「ことづて?」
白がほほえんでいる。
「ええ」
白が懐から布で包んだ細長いものを取り出し、両手に持っておれに差し出した。
受け取って、布を開く。
一本の竹簡だった。
おれは、目を見ひらいた。
漢兵已略地
四方楚歌声
大王意気尽
賤妾何聊生
おれが教えた歌だ。
項羽に返した虞姫の歌。
「お父上が亡くなり、大きな戦をしていると、李氏には伝えました。事実、そうですから。若が苦しんでいるようだと私が言いましたら、それを書いたのです」
白の声には、温かな響きがあった。
おれは思い出す。
済南の相を務めていた、数えで三十二歳の頃を。
李氏だけを伴い、赴任した。
あの頃は毎日が文字通り頭が痛かった。
おれが着任した頃は、高官どもは賄賂ばかり送りあっていた。
それだけではない。
前漢の劉章をまつる祠を立て、そいつを祀るために金をかける商人さえいた。
祠を数えさせたところ、なんと六百余りあった。
おれはまず、金にまみれた高官どもを帝に告発してやった。
おかげで連中の八割は免職になった。
そして祠を全部壊した。劉章を祀ることは厳禁した。
壊すのにも手間がかかった。住民は反対し、役人も反対し、祠を壊すよう言いつけた人足たちさえいざ取り壊すとなると尻込みした。
だからしかたなく、おれは人足から鉄槌をもぎ取った。そして祠を打ち壊してみせた。
おれがこんなことができたのも、高官どもを免職に追い込んだあとだからだ。曹孟徳の言うことならば従ってみるかと思う役人たちが増えたから、歴代の相が手をつけなかった邪教の撤廃にこぎつけることができたのだ。
おれが振り下ろした鉄槌は、あっけなく祠を打ち砕いた。
住民たちは目と口を限界まで開けて、粉々になった祠を見ている。
空は、晴れていた。
おれは住民や人足たち、ついてきた役人どもを振り返った。
「どうだ。劉章が出てきたか? 雷が落ちたか? 地面が割れたか? 何も起こらぬであろう?」
おれがこう言ってやって初めて、人足たちは鉄槌を持った。
「次の祠へ参りましょう」
役人たちがおれをうながした。
一事が万事この調子だった。
心身共にくたびれ果ててやっと借り住まいに帰りついたおれを、数えで十三歳になったばかりの李氏が、嬉しそうに走り出て、出迎えてくれる。
癒された。
正妻の丁氏を伴って来なくてよかったと、心から思った。
黄巾賊からおれが助けた李氏は、貧しい農家に生まれた。
おれが普通に学んできたことも、何ひとつ知らなかった。
読み書きを教えたり、『史記』の話をしてやると、初めは戸惑っていたが、受け入れるようになった。
「読み書きができれば、旦那さまのお役に立てますか」
かわいらしい顔をきりっと引き締めて問う姿に、正直、おれは、心を奪われた。
中でも李氏が夢中になって聞き入ったのが、項羽と虞姫の物語だった。
話し終えた翌朝、李氏は眠そうな顔で現れた。
「どうした」
「申し訳ございません。よく眠れませんでした」
「何かあったのか」
「ゆうべ、旦那さまからお聞きした、項羽と虞姫のお話が、ずっと忘れられませんでした」
まあ、年頃の娘にとっては、自分が虞姫になったような気になってしまうのかもしれない。
「どこが、忘れられなかったのだ」
「歌です。項羽に返した歌です」
そして李氏は、そらんじた。
「漢兵、已に地を略し
四方、楚歌の声
大王、意気尽く
賤妾、何ぞ生を聊んぜん」
おれはしばらくその場を動けなかった。
李氏はおれをじっと見つめている。
もう、家を出る時だ。
おれがそう思った時、李氏はいつもそうするように、両手のひらを自分の胸に向けて重ね合わせ、一礼した。
「いってらっしゃいませ」
「若」
白の声でおれは我に返った。
「荀軍師と、程軍師のもとへ、帰りましょう」
白にうながされ、おれは冑をかぶった。
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