願いの物語シリーズ【天使ましろ】

とーふ

第1話『ましろはましろって言うの!』

野中誠という男にとって、横倉という村はどこにでもあるごく普通の田舎であった。


だから今までの人生で何一つとして横倉村に関わった事は無いし、関わろうと思ったこともない。


当然ではあるが横倉村の歴史も名産も、窓から見える山の名すら誠は知らなかった。


しかし、それでもこの横倉村に引っ越し、この村に生涯住もうと決めたのは愛した女がこの村の出身であったからだ。


体が弱く、空気の汚れた都会では生きにくい彼女が、安心して生きていける場所であるからだ。


だからこそ、誠は多くの誘いを断り、横倉村の近隣にある中学校へ就職先を決めたのであった。


幸い、その学校には若い教師がおらず、面接の段階でほぼ採用確定となっていた事も決め手になったと言えるだろう。


それから誠は多くの反対を振り切って、六年近く恋人であった裕子にプロポーズをし、共に横倉村に引っ越したのであった。


慣れない田舎での生活は多くの苦難を誠に与えたが、彼は持ち前の朗らかで柔らかい性格でもって村に溶け込み、半年後にはまるで横倉村で生まれ育った人間の様に受け入れられていたのである。


そして、元よりお人好しであった誠はそこまで大きくはない中学校の施錠を請け負っており、その日も、まだ残っている生徒たちに帰るように言いながら各教室の鍵を確認していた。


「さぁ。もう時間ですよ。暗くなる前に帰りましょう」


「あー。野中先生! 少し待ってー」


「何か問題でもありましたか?」


「あのね。宿題忘れちゃったから、残ってやる様に言われたんだ」


「数学。という事は藤間先生ですか。では私から言っておきましょう。もう遅いですから。続きは家で勉強して、また明日持ってきてくださいね」


「いいの?」


「はい。今度は忘れてはいけませんよ」


「分かった! じゃあ僕帰るねー! またねー先生ー!」


「はい。また明日。気を付けて帰るんですよ」


居残り勉強をしていた生徒も家に帰し、誠は一つ、一つと教室を確認しながら鍵を掛けていった。


もう窓から差す日は紅く染まっており、高い山の向こうに陽が落ちようとしている。


グズグズしていると、辺りは暗闇に支配されてしまうだろう。


「先生ー! さようならー!」


「野中先生ー! ばいばーい!」


「さようなら。また明日。気を付けて帰るんですよ」


しかし、それでもそこまで急いで作業をするつもりになれないのは、誠にとってこの時間が好きだからだ。


一日の終わりに、笑顔で家に帰っていく子供たちを見るのが好きだからだ。


そして全ての教室に鍵を掛け、最後に職員室の鍵を掛けてから、誠は家に帰るべく赤く染まった廊下を歩いていた。


既に教師も生徒も全て帰宅しており、残っているのは誠だけだ。


木造の廊下は歩くたびに音を鳴らすが、その足音も誠のものしか聞こえない。


静寂。


「……ぁ」


「ん?」


不意に静寂の中で何かが誠の耳に入り、誠は急いでその方向に向かった。


もしかしたら、誰か生徒が残っているのかもしれないと考えたからだ。


全て確認した筈だが、玄関口を閉める前に子供が残っていたら大変である。


いい加減日も落ちそうだし、最悪は車で送っていく事も視野に入れながら誠はその場所に向かって速足で歩いた。


そして、その場所を見つけて誠は目を細めた。


ある教室の窓が開いているのだ。


外から入り込んだ風が白いカーテンを揺らしており、そのカーテンの下になにやら人影の様な物も見える。


誠は急いで鍵を開けながら、中に入り、その人影に声を掛けた。


「大丈夫ですか? 貴女は……」


「だれ?」


「私は、この横倉中学校の教師です。野中誠と申します」


「きょうし。のなか、まこと」


誠が話掛けた少女は舌足らずな様子で、誠の言葉を繰り返しながら呟いていた。


その様子に、まるで幼い子供の様な印象を受けるが、見た目は中学生くらいの少女に見える。


しかしその少女の肌は病的なまでに白く、服も汚れ一つない白いワンピースを着ているせいか、どこかこの世のものではない様に見えてしまうのだった。


一番異常な事は、この教室の鍵がしっかりと掛かっていた事だ。


教室の鍵を掛ける際に、誠はしっかりと中を確認し、誰も残っていない事を確認してから閉めている。


ならば、この少女が入る事は不可能だし、そもそも窓が開いている事もおかしい。


仮に窓に鍵が掛かっていなかったとしても、ここは二階だ。


手を掛ける場所もないし、普通の人間ならば入ってくる事は不可能だろう。


「貴女は、どうやってここに入ったのですか?」


「わたし? わたしはねー。飛んできたの」


「飛んで、きた?」


「うん。こうやって」


少女はそう言いながら立ち上がり、その背に大きな翼を生やす。


そして、大空を飛ぶ鳥とは似て非なるその翼は白銀の輝きを放っており、少女はその翼をゆっくりと大きく羽ばたかせた。


その瞬間、教室の中に風が吹き荒れ、翼から離れた白銀の羽が空中に舞い踊る。


「わ、分かりました! 分かりましたから、一度降りてください」


「うん」


誠の言葉に少女は床にゆっくりと着地して、翼をそのまま背中にしまいこんだ。


そして、誠を見上げながらニコニコと笑う。


その何処か褒めて欲しそうな空気を察した誠は、少女に微笑みながら「凄いですね」と言うのであった。




それから、荒れてしまった教室を綺麗に戻した誠は少女をどうするか考えて、いくつか質問してみる事にした。


「貴女はどちらから来たのですか?」


「えっとねー。あっち!」


少女が指さした方はいくつかの家々と大きくそびえたった山があった。


しかし、それ以上は何も分からない。


「お家の場所は分かりますか?」


「いえ。家? 家の場所はよく分からない。ただ部屋にはクマさんとかシカさんとか、キリンさんとかいっぱい友達がいたよ」


「……そうですか」


話を聞いている限り、動物園の様な場所なのだろうと誠は考えていたが、そのような場所は少なくともこの村にはない。


ただ、彼女は空を飛行出来るのだから、何処か遠くから来たのかもしれないなと誠は結論を出した。


「では、そうですね。貴女のお名前を教えていただけますか?」


「なまえ。名前は……なんだっけ。わかんない」


「そうですか」


誠は少女の答えに、どうするかと悩んだ。


警察に届けようとも名前が分からないのであれば来た場所を探すのは困難だろう。


いや、そもそも彼女は普通の子供ではない。


その背には輝くような純白の翼があるのだ。


「ご家族とかはいらっしゃったのでしょうか」


「家族……? あ、お兄ちゃんが居たよ」


「お兄さん?」


「うん。すっごく優しくて、すっごく強いお兄ちゃん」


「そのお兄さんは、今どこにいらっしゃるのでしょうか」


「お兄ちゃんは、ましろが天使になったから、お別れしないといけなかったの。一緒にいたら寂しくなっちゃうから」


「ましろ。というのは」


「ましろ? ましろは、ましろのお名前だよ! ましろはましろって言うの!」


「そうですか。ましろさん。あの山向こうから来たましろさんですか」


情報は限りなく少ない。


現在得た情報など分からない事が分かったくらいだ。


しかし、それでも放置する選択肢など誠には存在しない。


そのため、誠はとりあえず少女の事を警察に知らせようと考えていた。


しかし少女はそんな誠の事情など知らないとばかりに、その場にうずくまってしまうのだった。


「ど、どうしたのですか? ましろさん!」


「……ぁ」


「申し訳ございません。よく聞こえないのですが、もう一度教えていただけますか?」


「おなか、すいたぁ」


気の抜けたような声と共に放たれたその言葉に、誠はやや勢いを削がれながらも、急いで窓の鍵を閉め、少女を背負い教室の鍵を閉める。


それから、職員室へと向かい、自宅へと電話した。


殆ど時間を掛けずに電話に出てくれた裕子に感謝しつつ、誠は学校であった事を説明した。


そして、自宅へ連れて行っても問題ないか問い、了承を貰ってから今度は自宅近くの駐在所へと連絡する。


こちらも学校であった事を説明し、なんとも不思議そうな声であったが、とりあえず信じて貰えたため、自宅で待ち合わせをする事になった。


この時点で、既にましろは空腹からか動くことが出来ず、椅子にもたれ掛かって呻いていたが、もう少しだけ我慢して欲しいと言い、ましろを背負ったまま二階と一階の施錠を全て確認し、玄関口を閉めてから車へと向かう。


そして助手席にましろを乗せると、既に闇に包まれた学校を後にして、自宅へと車を走らせるのだった。

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