多様性の翼 ―羽ばたき―

小林勤務

第1話 接種

「ううう。気持ち悪い……」


 案の定、熱がでた。

 寒気もひどいし、関節も痛いし、少し吐き気もする。


「もうだめだ。俺も長いことないかもしれない」

「何言ってるのよ。ただの副作用じゃない」


 男って、熱とか痛みに弱いって本当ね。


 そんな嫌味とも慰めともとれる言葉を投げかけられて、ダンゴムシのように布団に蹲る。


 確かに妻の言う通り、弱気になっているかもしれない。だが、それも仕方ないのではないか。だって、こんなに四回目は辛いとは思わなかったからだ。


 四回目とは――あのワクチンのことだ。


 突如として世界中を襲ったACFS(Acute Continuous Fever Seizure)ウィルスに端を発した、通称アクフス禍において、変異を繰り返すこの猛毒ウィルスに人類が対抗するには、自己免疫をあげるワクチン以外ないという結論に至った。


 特効薬はもちろんない。


 頭痛、吐き気、喉の痛み、ひどい時には出血も伴う症状が断続的に襲うため、対症療法も確立できず、各国はワクチン接種を推奨。


 だが、この邪悪なウィルスは人類を嘲笑うかの如く変異を繰り返す。そのため、変異を繰り返す度にブースター接種を実施するという、人類がいまだかつて経験したことがない未曽有の事態に陥った。


 先に四回目の接種を終えた同僚からは、


「最初は打った部位が腫れたけど、そんなに熱はなかったな」とか、

「翌日に少し熱が出た程度だし、怖がることはないよ」とか、事前情報を得ていた。


 俺より一週間前に接種完了した妻も、


「あなたの同僚の言う通りよ。そんなに大したことなかったわね」


 さらりと返されたのだが……


 いやいや――みんな、うそついてるだろ。


 昼過ぎに接種した初日の夜から、悪寒が走り、二日目は40度にまで体温は上昇。三日目も改善は見られず、39度と40度をいったりきたりしている。


 そして、四日目に至る。


 一向に熱が引く気配すらない。


 私はこのまま死ぬのではないか。


 この獲物は決して逃しはしまいと、死神が体中にへばりついている、そんな気さえする。


 どうせ、こんなのはワクチンとの因果関係が認められず、持病が悪化した結果死亡と結論付けられて、直葬されるオチになるだろう。


 夏だというのに、毛布を何重にも重ねて丸くなる。

 襖の隙間から、妻と三歳になる娘が見えた。


 相変わらず、娘は何かにつけてイヤイヤイヤイヤで妻を困らせていた。俗にいうイヤイヤ期というやつだ。成長の過程において、子供が自我を獲得する喜ばしい時期なのだが、親という立場になると、もう手が付けられず大変。小さな魔王のようなもので、常に機嫌を窺いつつ、時に叱り、四六時中目が離せない。今も、手に持ったレゴをぽいぽいそこら辺に投げつけて、妻に叱られていた。


 娘は、今話題の可愛いヒロインが悪者と戦う『プリンセスキューティー』にはまっている。妻を悪役に見立てて、テーブルの上までよじ登り、「キャ――っ」と必殺技の空中キックを真似ていた。


 そんな他愛もないやりとりを眺め、ふと思う。


 果たして、私がこのままぽっくりとあの世にいってしまったら、二人はどうなるんだろうか。


 貯金はそんなに多くない。終身保険によって葬式代ぐらいは捻出できるだろうが、遺族年金だけでは到底今の生活を維持することはできず、妻は働きに出るしかない。そうなると、娘は保育園だ。所謂、シングルマザーとして多忙を極める日々の中で、日に日にやつれて、父親の愛を受けない娘は、大人になるにつれて非行に走り――


 ううう。


 どうすれば。


 あれから1週間経過した。

 未だ発熱は収まる気配もない。

 ますます悪化しているような気さえする。

 熱は何度だ。

 もう測る気力もない。


 娘が健全に未来へと羽ばたいていくためには、私が健康でいなければ――


 鳴りやまない頭痛の中で、そのまま意識は遠のいていった。


 そして――

 気が付くと、私は暗い闇の中を裸足で歩いていた。


「おーい」と誰かが俺を手招きしている。


 闇に赤い目だけが無数に浮かんでいる。


 人――ではない。


 そして、獣――でもない。


 姿形は闇に溶け込んでおり、その全貌は全くわからないが、そう感じた。

 異形なものが俺を呼んでいる。


「おーい。こっちこっち~」


 まるでピクニックにでも行くかのように、異形の怪物どもに誘われる。


 なぜか、私自身も彼らの世界に近づくのが素晴らしいことかのように一歩、また一歩、歩を進めていた。


 草むらを食み、時に突き出た岩肌に足がめり込み、血が滲む。


 不思議と痛みは感じなかった。

 なぜなら、自分自身も闇と一体化しつつあるからだ。


 血に塗れた足を振り上げ、


 歩く。


 歩く。


 徐々にスピードを上げて。


 歩く。


 同時に、体内で何かが産声を上げた。


 それは、あまりにも強大で禍々しく、抗いきれない黒い衝動に満ちていた。


 一言で表すならば、それは――魔、と呼ばれるのが相応しい。


 鈍痛のような熱い痛みが下腹部を襲うと、次の瞬間、己の胃を突き破り、夥しい量の血液が噴き出した。


 死を撒き散らす瘴気を漂わせて、長い爪がぬるりと姿を現す。

 まるで老婆を思わせるしわがれた血濡れの腕。


 外へ外へと、闇から光を求めて。


 今、許されざる者達の祝福を受けて、大いなる存在が私の体内から産まれようとしている――


 ああ。


 やっと私も彼らと同じ眷属になれるんだ。


 そんな喜びが心を黒く塗りつぶしていく。


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