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「せがれって言ってたじゃん‼︎ せがれって言葉の意味知ってる⁉︎ ねぇ!」
興奮するジーニアスに掴まれた手をゆっくりと払い、マスラオは深いため息を放った。
「無論、息子です」
「女だよ! どう見ても! 目を覚ませ!」
「わかっております。吾輩はあの子を息子として育てておるのですよ」
「どうしてですか?」と、プエルが小首を傾ける。
彼女はどこからどう見ても女性そのものだ。細く小さな肩から腰のくびれ、程よく締まった脚にかけて優美で柔らかな曲線を描き、まるで自然に形作られた完璧な造形物、あるいは花が咲いたように美しかった。それを男として育てようなど、無理があるように感じられる。事実として、少なくとも彼女はそれに従うつもりがなさそうに見えた。
「うむ……先にも言った通り、あの子にはいずれ頭領になってもらう必要がある。そのために、女の部分を捨ててしまわなければならない。色恋はもちろん、子を成すこともです」
「子を諦めるのか⁉︎ そんなバカな!」と、ジーニアスが真っ青になった。さすがに子作りを最優先にする男としては口を挟まずにはいられなかったのだろう。
「ここイーガは男中心の社会。女では務まらぬのです」
「そんな! 女の人だからダメだなんてそんなの――」
「プエル」と、ジーニアスは手を挙げてその言葉を遮った。「人には人の価値観ってもんがある。おまえが地元や王都で価値観を身につけたように、この街にはこの街の価値観が存在してるんだ。おまえにとっての〝正しい価値観〟を押し付けちゃいけねえよ」
先ほどまで子を諦めさせることに嘆いていた男のセリフではなかったが、あくまでも嘆いただけで完結していたことに気づいてプエルは口を噤んだ。ジーニアスにはジーニアスなりの美学があり、踏み荒らしてはならない領域があることを理解しているのだ。
「ふむ。ひとまず、この里の話をしておきましょうか」
マスラオは自身の長い髭をひと触りすると、厳かに語り始めた。
あるところに病弱な青年がいた。三歩走れば息を切らし、米俵を持とうとすれば腕は震え、畑仕事に精を出せばその日の内に腰が壊れた。村でも厄介者と石を投げられる始末だった。彼は自責の念にかられ、自死を決意してふらっと一人山奥へと足を運んだ。山登りだけでも大変だったが、不思議と前に進むことができた。自分にはもうなにもないと思えばこその希望があったのだ。
やがて山頂に辿り着いた頃、妖魔に襲われた。貧弱な彼では太刀打ちすることもできなかった。死のうと決意していたのに、無惨に食い殺されることからは逃れようとしていた。結局、死にたいわけではなかったのだ。自分を責める世の中から――人間社会で生きることに向いていない自分を直視したくなくて、自分という存在から逃げたいだけだった。村の迫害とは違う、純粋な殺意を前にして恐怖心で逃げ出した自分を助けてくれたものがあったのは、その時だった。
それは凄腕の軽業師だった。蝶のように舞い、蜂のように刺して妖魔を倒した彼の姿を見て、青年は気がついた。彼の体幹はすごくいい――と。それ以来、体の弱かった青年は軽業師に教えを乞い、体を鍛え抜くと、〝圧倒的な筋肉は不可能を可能にするッ!〟を教義として掲げ、シノビマスルの里を作り上げた。その青年こそがシノビマスルの里の初代頭領、シノビマスルである。
そして現在、シノビマスルの里には二つの街がある。一つは河川都市とも云われる水の都イーガの街で、もう一つが山を越えた先の麓にあり、山岳都市とも呼ばれるコーガという街だ。同じくニンジャたちで構成されているが、男社会であるイーガと正反対にコーガは女社会となっている。
初代シノビマスル頭領が作り上げた当初、里はその教義に感銘を受けた者たちのみで構成されていたが、その古きよき伝統を重んじるイーガの祖先と、初代とは異なる新しいアイデアや技術へのオープンな姿勢を持っていたコーガの祖先とで対立が起こった。それから里は二つに分かれ、それぞれの思想を継承した結果が男社会と女社会の構図だった。
イーガの里の筋肉やパワーを重視する思想と、コーガの里の知恵や繊細さを求める思想とでは相性が悪く、その価値観の相違が摩擦を生んでいる。イーガにはマスラオの先代にハトリというものがおり、これがコーガのモチキという先代頭領と仲が悪かった。事あるごとにシノビマスルの里の運営について話し合いを行なってきたが、その全てで交渉は決裂しており、今ではバリケードで互いの領地を決めて隔絶している。いがみ合いは世代を交代した今でも続いている。
「――ゆえに、女が頭領ではコーガの者に付け入る隙を与えてしまうと考えた次第です」
マスラオは眉間に皺を寄せながら長い髭を指に絡ませる。
「なにも娘さんじゃなくても……他にお子さんはいないんですか?」
「もちろん、吾輩に息子がいればそうしたでしょう。しかし……吾輩は息子どころか子を成せぬ体なのです」
「え……? じゃあ、シノカさんって……」
「お察しの通り、実の子ではありませぬ。そのことはシノカ自身も初めから知っておりますゆえ、お気遣いは不要ですぞ。里の長に相応しい思想と筋肉パワーとを併せ持つ者ならば、誰が頭領となってもよいのです。かくいう吾輩も先代と血の繋がりはありませぬゆえ」
「だったら、別にその辺のやつでもいいんじゃねえか?」
ジーニアスの言う通り、街を歩いていた者たちは皆が皆筋肉隆々で、十分に強そうな者ばかりだ。血の継承を必要としないのならば、誰に任せてもよいはずだとプエルも頷いた。
「ええ、頭領候補は他にも複数おります。ですが、吾輩はシノカを頭領にしたい。シノカは吾輩では到達できなかった初代の高みへ至れる……それだけの力があると確信しておるのです」
「僕にはギャルにしか見えなかったんですけど」と、言った直後に失礼なことを口走ってしまったと慌てて自分の口を塞いだが、マスラオは「グハハッ」と豪快に笑い飛ばした。
「なに、見た目があの通りですからな。お若いプエル殿にはそう見えても仕方ありますまい。ですが、ジーニアス殿にはわかるのではありませぬか?」
「ああ、わかる。あの子はすげえよ」とほくそ笑んで目を光らせるが、プエルの目には二つの膨らみを思い出しているだけのいやらしい目にしか見えなかった。
「そうそう。この時期に来られたということは、里の祭りがお目当てでもあるのでしょう?」
「えっ知らない。みなさまご存知のアレ、みたいに言われても」
「パンフに書いてありましたよ」と、プエルは懐からパンフレットを取り出して目の前に広げる。「来るのに一週間かかると思ってたから関係ないと思って読み飛ばしてましたけど……」
そこには『ミズヲノメ様新嘗祭』とあった。
里では年に一度、このミズヲノメ様を祀る大祭が開かれる。里の人々は一丸となって数ヶ月かけてその準備に励み、華やかなパレードや伝統的な舞踏が行われる。祭りは、水害から村を守り、豊かな水を人々にもたらすミズヲノメ様に感謝を伝えるという神聖な儀式に身を委ねるものだ。
他にも、祭りらしく様々な職人たちが腕を振るって出店する。観光客の間では、もっぱらこちらが本番であり、東方独特の料理や飲み物を楽しめることで有名だ。水神ミズヲノメ様を祀るこの例祭は、里の者同士はもちろん外部の人間との交流を深める重要なイベントとなっている。
「明日には頭領を決める催しがありますが、その前日となる今日に限っては祭りを楽しむ日と決まっております。シノカはあの様子ですから、説得は難しいかもしれませぬが……もとより諦めていたところにお二方が来てくださっただけでも十分です。此度はぜひ親交を深めるだけのつもりで祭りを楽しんでいってくだされ。吾輩としてもそうしてもらえると筋肉が喜びますゆえ」
「俺、色々あってあんま金ないんだけど……」と、ジーニアスは両ポケットの裏地を出してアピールする。ちらりと見られたが、プエルはそっぽを向いて知らないふりをした。
「すべて無料で結構です。それに寝泊まりできるところも使いの者に手配させましょう。こちらからお願いしておるのですから、これくらいは当然のことです」
「まじかよ……じゃ、じゃあエロい姉ちゃんのエロいダンスとか無料で……⁉︎」
「それは有料です」
「ケチ!」
「吾輩の肉体ならいくらでも見てくださってよろしいですぞ!」
マスラオはジーニアスの背中をバンバンと叩いて「グハハハハハッ!」と笑った。プエルにはなにが面白いのかはわからなかったが、気持ちのいい人だということだけはわかった。たん、たん、たん――と、まだ日は高いながらも、外では太鼓の音が鳴りはじめていた。
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