第13話 ミホコの過去
住吉ミホコが体の異変に気づいたのは、陶邑タネコの葬式の翌朝だった。
その日、目を覚ましたミホコは何ともいえない気持ち悪さを感じていた。パジャマが寝汗でじっとりと湿っている。何となく悪い夢を見ていた気はするが、どんな夢かは思い出せなかった。
ミホコは時計を見ると、あわてて身支度を始めた。いつの間にか目覚ましのアラームを止めていて、寝過ごしてしまったようだ。
駆け込み乗車で、いつもの時間の電車に乗り込んだ。つり革をつかんで息を整えているときに、背中の違和感に気づいた。背中の右側全体に熱があって、腫れているような痛みがある。ミホコはこの数日間の行動を振り返って、違和感の原因を思い出そうとした。
思い当たるのは陶邑家の葬式に出席したことぐらいだ。山深い田舎の古民家で、街中にはいない虫に刺されたのかもしれない。もしくはアレルギー症状が出るようなものを口にしたのかもしれない。
大学に着いてからも、ずっと背中の違和感が気になっていたが、確認できないまま一日を過ごした。帰宅してから鏡に映した背中を見て、ミホコは目を疑った。見覚えのあるヲシテ文字が、背中の右側全体にきれいに並んでいた。
ヲシテ文字の並びは、久志彦の体に現れた円形に配置されたフトマニ図とは違っていた。縦に二行の五文字のヲシテ文字の下に、スペースをあけて七文字のヲシテ文字が二行並んでいる。合計二十四文字が整然と並んでいた。
ミホコは背中に現れたヲシテ文字を、指でそっと触れてみた。熱を持っていて、痛みもある。焼き印のように少し浮き出ている質感は、久志彦のものとよく似ていた。
伊藤先生の本で調べてみると、それは『アワウタ』の前半だった。ミホコは自分の背中にヲシテ文字が現れた理由を考えたが、納得できる答えは見つけられなかった。今は前半のみだが、おそらく後半も現れるのだろう。
翌朝、目が覚めたミホコはすぐに背中を鏡に映して確認した。予想通り、背中の左側にもヲシテ文字が現れていて、四十八文字の『アワウタ』が完成していた。
久志彦の体にフトマニ図が現れたのは、祖父が亡くなって、久志彦が陶邑家の当主になったからだといっていた。久志彦の祖母が亡くなって、ミホコの体にアワウタが現れたのは決して偶然ではないだろうとミホコは思った。
久志彦が持っている祖父の手帳に何か書いてあるか、もしくは祖母から何か聞いているかもしれない、そう思ってミホコは久志彦に電話して、夜遅くに久志彦の実家に向かった。
ミホコの体にヲシテ文字が現れたのは、久志彦にとっても予想外だったようだ。『アワウタ』は陶邑家当主の妻が代々受け継いできたと聞いて、ミホコはとまどった。
久志彦はすでに社会人だが夜間の大学生であり、神話や神社についてミホコが教えることも多い。そのため後輩の学生という存在で、これまで恋愛対象として意識していなかった。
しかし、改めて考えてみると、たしかに久志彦には運命的な何かを感じることがいくつもあった。久志彦が父の会社の社員であることや、似たような肩の痣(あざ)があること、二人とも左利きで、食べ物の好みが似ていることなど、共通点があまりにも多い。
運命だとすれば受け入れるべきなのかもしれない。久志彦は手のかかる弟のようで、少し頼りない感じもするけれど、一緒に居ると心が安らいで穏やかな気持ちになる。何よりも父の会社の社員であることが、まるで運命の赤い糸で結ばれているように感じてしまう。
父の後継者になる人と結婚する。それが住吉海運の社長である父との約束だった。もちろん強制されているわけではない。父が私の幸せを一番に考えてくれていることは間違いない。
それでも、父の後継者になる人と結婚するのは、育ての親への恩返しであり、両親が喜んでくれるのが私にとっても幸せだと、これまでは信じて疑わなかった。だから父が選んだ人と結婚しようと心に決めていた。
そのために、今まで恋愛はしてこなかった。門限が厳しくて夜遊びができなかったこともあるが、同世代の男性には魅力を感じなかった。身近にいる父がやさしくて頼りがいがあり、経営者として社員や取引先の人たちから慕われている姿を見て、理想の男性像だと思っていた。
大学に入学した頃は、自分はファザコンなのだろうかと悩んだこともあった。しかし、二十歳の誕生日を迎えたとき、実は養子なのだと告げられて、血のつながりがないことにショックを受けながら、父のような男性が好きという感情が異常ではないと安心もしていた。
だからこそ、父が自分の結婚相手として認めた人なら、絶対に幸せになれると信じていた。しかし、久志彦は現時点では、父に認めてもらえるような人物ではない。父の後継者としての器があるとは、とても思えない。
運命の赤い糸で結ばれていて、一緒にいると心が安らいで穏やかになる、という理由で父が納得するとは到底思えなかった。それでも、ミホコは父にすべてを話して、久志彦との結婚という運命を受け入れようと考えていた。
久しぶりに早く帰宅した父の豊彦に、ミホコは「大事な話があります」と切り出した。久志彦を太田教授から紹介されて、一緒にヲシテ文字の調査をしていることや、久志彦の祖母タネコの葬儀を手伝ったことなどを、順を追って説明していった。
豊彦は黙ったまま、ミホコの話を聞いていた。特に驚いている様子はなく、無表情ともいえる冷静な豊彦の様子に、ミホコは少しとまどっていた。しかし、ミホコが背中にヲシテ文字が現れたことを説明すると、豊彦の表情は一変した。
「そんな、まさか」豊彦がそうつぶやくのを、ミホコはしっかりと聞き取った。豊彦が再び黙り込んでしまったので、ミホコは説明をやめて、豊彦が話し始めるのを待った。
豊彦はミホコの目を見つめながら、意を決したように「そのヲシテ文字というのを見せてくれないか?」と問いかけてきた。
ミホコは静かにうなずくと、豊彦に背中を向けて、着ていたシャツを脱いだ。豊彦の姿は見えていないが、身を乗り出してミホコの背中を凝視しているのがわかった。父親に素肌を見せている気恥ずかしさで、とても長い時間に感じたが、豊彦が何か言葉を発するまで待つしかなかった。
しばらくして、豊彦が深いため息を吐き出すのがわかった。
じっとしているのに限界を感じていたミホコは「もう、いいですか?」と尋ねた。
「あぁ、すまない、もう十分だ」
豊彦の声は狼狽していて、ショックを隠し切れないようだった。
「私、この運命を受け入れて、陶邑君と結婚しようと思います」
ミホコは思い切って、今の気持ちを豊彦に伝えた。
「それは、できない」豊彦は、いつにも増して険しい顔をしている。
「どうして、陶邑君は私の結婚相手としては認められないってこと?」
ミホコは、頭ごなしに否定する豊彦にいら立っていた。
「ちゃんと説明するから、少し待ってくれないか。頭を整理する時間が欲しい」
いつもの豊彦は、どんなことにも迷いなく瞬時に判断する。経営者として、常に先のことを考えているから、目の前のことに迷うことはないらしい。そんな豊彦が狼狽して、すぐに判断できないのは、まったく予想していなかったからだろう。
豊彦はゆっくりと居住まいを正して、ミホコを真っ直ぐ見つめながら話し始めた。
「実は、ミホコと陶邑君は双子の姉弟(きょうだい)なんだよ。二人には黙っておく、というのがタネコさんとの約束だった。陶邑君を社員として迎え入れたときに、いつかは気づくかもしれないと心づもりはしていたが、まさかミホコの身にそんなことが起こるとはまったく予想していなかった」
ミホコにとっては予想外だったが、同時に納得できる話でもあった。血を分けた双子の姉弟だからこそ、共通点が多く、一緒に居て心が安らいだのだろう。久志彦との出会いは、運命的な再会だったのだ。
それでも、すぐには気持ちの整理ができなかった。三年前に実の親子ではなく、養子であると告げられて、自分には血縁者はいないと思い込んでいた。天涯孤独の子どもを引き取って、我が子のように育ててくれたと感謝していたのだ。
その後、実の父親が大学の教授をしていると知らされたこともショックだったけれど、今は血を分けた双子の弟だけでなく、血のつながった祖父母がいたことを知らされて、裏切られたような気持ちになっている。
養子であることや、実の父親の存在は、ミホコのことを思って、あえて黙っていたのだろうと納得はできる。しかし、タネコさんとの約束とはいえ、生きているうちに祖父母に会えなかったことや、身近に弟がいることを隠されていたのは、どうにも納得できない。
ミホコはふつふつと沸き上がる怒りを抑えながら、とりあえず豊彦が知っていることを聞き出そうとした。
「なぜ、私だけを養子にしたの?」
「陶邑君から聞いたと思うが、火事で家が全焼したときに、君たちのお母さんは亡くなってしまった。タネコさん夫婦は住む家と娘を失った状況で、幼い君たちを育てていけるのか、かなり不安を感じていたんだよ。そこで、子どものいなかった私たち夫婦が、君たちを引き取りたいと申し出たんだ。タネコさん夫婦は将来に不安を感じながらも、かわいい孫を手放したくないという思いが強かった。何度も話し合った結果、女の子はしっかりした両親がいないと良縁に恵まれないからと、私たちが引き取って育てることになったんだよ」
「それなら、三年前のあのときに、どうして教えてくれなかったの?」
「もちろん、私もすべてを伝えるべきだと思って、タネコさんに相談したんだよ。しかし、タネコさんからは約束を守って欲しいと厳しくいわれた。今になって思えば、ミホコが陶邑家と関われば、今のような状況になると危惧していたのかもしれないね」
ミホコは他にも聞きたいことがたくさんあったが、まずは久志彦にどう伝えるべきかを豊彦に相談した。
豊彦は少し考えてから、
「実は、タネコさんから陶邑君のことを頼むと、改めて連絡があったんだよ。そのときは社長としてできる限りのことをすると約束したんだが、タネコさんは死期が近いことを知っていたのかもしれないね。これからは私が親代わりとなって、君たち二人をサポートするよ。まずは直接会って話をしよう」
ミホコは、久志彦に電話をかけて、豊彦から話があるとだけ伝えた。二人が双子の姉弟であることは、電話で伝えることではないと思った。
それともう一つ、太田教授は久志彦にとっても実の父親ということになる。これも、どうやって伝えるか、とても悩ましい。
ミホコはベッドに横になってからも、これまでの人生の空白部分について考えていた。右肩にある痣(あざ)は、おそらく久志彦と同じタイミングで、できたものだろう。
久志彦には左肩に火傷の痕(あと)が、痣(あざ)のようになって残っていて、ミホコの右肩にも同じような痣がある。これは実の母親が私たち二人を抱きかかえて、命に代えて私たちを守ってくれたときのものだろう。母は久志彦を左腕で抱いて、ミホコを右腕で抱いていたのだ。
過去のことが明らかになったのは嬉しいが、一つ不安なことがある。久志彦は何者かに命を狙われていた。背中にヲシテ文字が現れたミホコも、命を狙われるのかもしれない。
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