第6話 さらば恋人よ

第20章 愛のフラッシュバック

松岡祐二は院内の事務手続きが終わると、全般的な身体検査や脳検査を含めた健康診断を受けた。

また、肺結核の治療のために、彼の首筋に発生していたリンパ線の腫れについても一部除去されて細菌検査が行われた。

さらに、胃液を採取して結核菌の有無が調べられた。

その際には大学病院らしく、看護師以外にインターンも加わって検査が行われた。


胃液の採取は、部分麻酔も打たれることなく、立ったままチューブを自分の手で口から入れて、喉を通して胃液を採取する。

苦しくてゲェゲェ言いながら、自分の手でチューブを食道から胃の中に押し込む。

彼が苦しみもがく周りには、数人の看護師とインターンが見守っている。


患者に掛け声をかけ「それいけ、頑張れ、もう一息だ」と励ますばかりで、誰も患者の苦しさを和らげるような、措置は講じてくれない。

鼻汁と涙が、流れ放しの状態。

前夜からの食事抜きで、吐き気に襲われても胃の中には胃液しか残っていない。

乱暴な胃液採取の結果、結核菌は認められなかった。


治療

それでも、結核の治療は毎日行われていく。

ストマイシン(スプレプトマイシン)という、抗生物質の筋肉注射を尻に打たれる。

けっこう大きな注射器で、まるで馬にする注射のよう。

ベッドの上でうつ伏せになって、パジャマのズボンとパンツを下げると、インターンの若い男女が見守る中、尻に長い注射針が突き刺される。


大半の患者が大の男でも「痛い!痛ててっ」と、大声を上げてしまうほど、痛烈な痛みがある。

大男の父親からの家庭内暴力や、部活などで先輩から受けたシゴキや暴力に耐えることに慣れていたので、そういった痛みや苦痛には慣れていた。

むしろ、病院側の若い女の子らを冷やかすように、祐二は必要以上に臀部を見せて笑いを誘った。


厄介だったのが、内服薬のパス(ニッパスカルシウム)だった。

これは、かなりの副作用があった。

人によってその副作用は様々で、肝機能障害、めまい、吐き気、発熱、発疹などを伴うことが多々ある。

それらの副作用が出ると、ただちに服用が差し止められる。

祐二も、腹に発疹が出て、時々めまいと吐き気に襲われた。

しかし、結核を早く治したい一心で、副作用のことは申告しなかった。


そうこうしている内に、あっという間に1カ月が過ぎ去ろうとしていた。

結核患者は末期の重症患者でない限り、特に症状もなく入院していても病棟内ならば、自由に体を動かせることができる。

要するに、毎日食っては寝ることの繰り返しが日課になる。


食事は、病院食以外にも栄養補給のため、自由に食事することが認められている。

おやつに、お菓子を食べるのも自由。

ただお金のない患者は、インスタントラーメンに、にんにくを磨り潰して、夜食やおやつに食べていた。

そんなこともあって、結核は<贅沢病>とも言われている。


祐二は散歩と称して車椅子に乗って、毎日のように屋上に出て眺望を楽しんだ。

屋上は、陽射しが強いが風が吹くと涼しく、爽やかな気持ちにしてくれる。

少なくとも、にんにくの臭いが漂い、冷房で寒すぎる部屋よりはずっと爽快だった。


そして御茶ノ水駅と、その向こうの神田川にかかる聖橋をじっくりと眺めるのが日課になっていた。

あの橋のたもとで何か用事をしていたことがあったのでは、と思い起こそうとするが、何も思い出せない。

それでもこの辺一帯は、自分の生活圏であったような気がしてならなかった。


夏江の手紙

転院してから、ひと月近くが過ぎた9月下旬。

裕二は相変わらず顔は童顔、痩せて小柄な体で大きな成長や回復はみられない。

その裸体は、中学生と間違えられるような華奢な肉体で20歳となった今も少年そのもの。


そんな中、免許証に記載されていた自分の住所にある『田中方』を宛名にして、手紙を送った。

しばらくして、その返書が小包で病棟に郵送されてきた。

送り主は『小谷野夏江』とあったが、記憶にはない名前。


送付した手紙には交通事故に遭って記憶を喪失し、今は結核も発症して御茶ノ水の大学病院に入院している。

長期入院になるので貴重品と思しきものを送付していただき、ふとんや家具類などは処分してもらいたい、旨を書き送っていた。


送られてきた小包には、700万円近くの預金通帳と印鑑、オーデコロンや高級そうな腕時計、革の財布、万年筆などと手紙が入っていた。


その通帳や品々を見て驚いた。

こんな大金を持っている。

高級そうな品々も、20歳になる若い男には、不釣り合いなものばかりだ。

一体、俺は何者なのだ。


さらに手紙の趣旨には、驚くことばかりが書かれていた。

自分のことを心配してくれる母親のような気づかいと、愛しい男に対する女の恋慕の気持ちが綴られていた。


『私がお正月にプレゼントしたオートバイで、交通事故に遭ってしまい、後悔をしています。私の手料理を食べ、栄養を付けて結核を直しましょう。

そして私を抱いてくれれば、必ず貴方の記憶は蘇るはず・・・』

末筆には『愛おしい私の息子、中山に戻って一緒に暮らして欲しい』

と、哀願が綴られていた。

おそらくこの送り主は、家主か管理人だと思われたが、筆つきからは年上の女性に思えた。


(この人と肉体関係にあったらしい、記憶にはないが・・・)

だが、小谷野亮子が彼の行方を追って部屋を訪ねてきたことは、一言も書かれていなかった。


療養の必要性

10月に入ると、3回目の胃液の採取が行われた。

その結果は前2回と同じく、結核菌が認められなかった。

早速、部長先生の問診が行われ、今後の治療方針が告げられた。


「今回の検査でも、結核菌が認められなかったので、外出の許可を出します。それから退院も可能な状態になりつつあります。おそらく貴方はアクシデントの前に、相当体を酷使してきたようです。記憶も喪失しており、具体的な内容は判りませんが、筋肉の付き方から判断すると、肉体労働者ではないようです。おそらく睡眠不足と精力の使い過ぎが推測されます。そこに、交通事故で圧倒的に体力が消耗したので、酷使と疲弊から結核菌が外に表れたものと判断できます」

と説明し、外出の許可が出た。


続けて、「従って今後は、安静にできる環境が確保できれば退院を認めます。但し、治療は引き続き必要なので、定期的に通院をしてもらいます。

もし健康的な生活を送れない環境の場合には、然るべき療養施設を紹介しますから、そこでの療養生活を薦めます。記憶喪失で貴方の実家の様子が判りませんが、一度、住民票の過去の附票を、市川の市役所から取り寄せてはどうですか?」

退院の条件としては、静養ができる環境と引き続きの治療が必要だと告げられた。


「市役所に赴かなくても、住民票を取ることはできるのでしょうか?」

「できますよ、取りに行けない事情を書き、代金の代わりに切手を添えれば、郵送で送付してくれます。結核で入院中と理由を書けば、問題はないですから」

「ありがとうございます、そのように致します」


1週間後、市川市役所から住民票とその附票を取り寄せることができた。

驚いたことに、自分は横浜で生まれで、その後10回以上も転居を繰り返している。

現住所の市川市中山町には、船橋市から小岩を経て1人だけ転居している。

家族は転々として、周知の通り今は渋谷区広尾町に転居している。


松岡祐二の病状は、右肺の壁が結核菌に浸食されて穴が空けかけていた。

しかし、医師の判断では、ストマイシンの筋肉注射とパスの内服薬によって、ほぼ壁が固まってきたとの見立てであった。

但し、再発を防止する観点から、引き続きの治療と静養が不可欠であった。

なお、交通事故の後遺症は、若さもあって今はほぼなくなっていた。

ただ重症だった右足は、父の庄作による暴力によって、僅かに引きずるような歩行が見られていた。

熟慮の末、部長先生のアドバイスに従い『療養施設での療養生活』を決心した。

その結果、大学病院の配慮で、長野県諏訪市にある結核専門の医療施設である『サナトリウム』で、治療と養生を行うこととなった。


籠(かご)の鳥

一方、小谷野亮子は妊娠6カ月目が近づき、お腹の膨らみが顕著になってきた。

もうこれ以上隠し通すことは、困難な状況に陥っていた。

ついに姉夫婦に、妊娠とその父親である松岡祐二の失踪のことを告白した。


姉の恵美は、驚きのあまり卒倒しそうになった。

松岡祐二との結婚と、養子縁組を白紙にしたことを後悔した。

すぐに祐二の行方を突き止めるべく、いろいろと手を尽くすことにした。

姉は、祐二の勤務先、中学、高校時代の友人など、あちらこちらに足を運び行方を追った。しかし、手が掛かりは全くない。

末っ子の妹が哀れで、まるで自分のことのように、彼女も深い悲しみに泣き崩れた。

その後、夫と相談した結果、外聞を憚るため、亮子は大学へ行くことも含め一切の外出が禁じられた。

亮子は、哀れにも『籠の鳥』になってしまった。


諏訪のサナトリウム

10月の秋晴れの日。

祐二はボストンバッグを手に提げて、中央本線の富士見駅に降り立った。

そこは、東側に八ヶ岳、南に南アルプス、東南には富士山が望める景勝の地でもあった。排気ガスに紛れた都会から来ると、その空気は清く澄んで、新鮮でおいしい。

思わず深呼吸をしてしまう。

高地の秋の午後は、冷たい風が山から吹き下ろしていた。


目指すサナトリウムは、八ヶ岳山麓から続くカルデラ大地の中にある。

駅から徒歩で10分ほどだが、なだらかに傾斜した道を北側に登った丘の中腹にあった。その奥には、鬱蒼とした針葉樹と広葉樹の混交林の雑木林が広がっている。


サナトリウムは、想像していたよりも大きい。

昭和元年建築の古い建物ではあったが、立派な西洋建築の2階建てであった。

敷地の中央に建つ総合管理棟の大きな玄関の上には、バルコニーがあって、それを支える石柱も太く頑丈なものに見える。

まるで中世のヨーロッパ建築のようである。


建物の中に入り、すぐに療養所の入所手続きを行った。

それが終わると、西洋寺院のシスターの服装と似た独特の白衣を着た看護師に案内されて病室へと向かった。

歩きながら看護師は、療養生活の要領と注意点を細かく聞かす。


大きな相部屋の病室に入ると、各ベッドの横には小さな卓と椅子が用意されている。

その椅子に座ると、引き続き、注意事項などの話を長々と聞かされた。

特に入院患者は、ほとんどが10代から30代の若い男女で、患者同士や看護師との恋愛については、結核病の大敵でもあるからご法度だ、と何度も繰り返し注意を受けた。


説明がようやく終わると、看護師は彼の膝元に説明書を置いて立ち去った。

ただその際に、柔らかなその手が股間に微妙に触れたような気がした。

このサナトリウムには、管理棟と病棟が12ほどあり、病床は200床もあった。

各建物の天井の高さも、都会の病院のそれよりも高い。


管理棟には、事務室の他、医師、看護師、職員、患者の食事を担当する栄養科や、清掃、消毒、修繕などの雑務を担う棟もあった。

さらに、近隣住民の結核病に対する偏見などの住民感情に配慮して、一般の人々も診療が受けられるように、外科、眼科、婦人科、耳鼻科も設置されていた。


病棟は、相部屋が基本ではあるものの、そこには大きな木製のベッドが置かれていた。

その頭側には、戸棚が設置され一般的な病院の相部屋とは異なっていた。

患者個人の手荷物、備品、書物などが収納でき、その上には、本や生花、鉢が置ける棚も設けられている。

壁には、絵画が患者の趣味で飾られていた。

一見すると、ホテルと見間違うほど、豪華さと清潔感が漂っている。

さらに、この部屋の奥には狭いながらも、付き添いの人のための『側室』と呼ばれる小部屋が用意されていた。


結核病は伝染病ではあるものの、重症でなければ寝起きなどの日常生活は、健康な人たちと変わりがないため贅沢病と揶揄(やゆ)されていた。

その一方で、これまでは死亡率が高く、国民病や亡国病と後ろ指を指されてもいた。

そのことから、結核病患者は一般の人々からは蔑視され敬遠されていた。

従って、ここの地域住民との軋轢も絶えなかった。

しかし、近隣の貧しい農家からは生計を補うため、その老若男女が療養所の雑務や調理の手伝いなどで働きに来ていた。


二つの誓い

療養所での生活は単調なもので、起床、洗顔、朝食、散歩、昼食、日光浴、夕食、入浴、就寝と続き、その間の空いた時間は、自由時間と加療になる。

自由時間はほとんどが読書になる。

ただ中には、同人誌サークルを募って執筆や編集活動を行う男女の姿もあった。


入所の夜。寝床に入った祐二は、療養所での生活を送る上で、二つの課題を自分に課した。

その一つは、記憶を戻すこと。

オートバイで交通事故を起こしたが、それは土曜の夕方、場所は日本橋の昭和通りの江戸橋の交差点。それは瀕死の重傷を負った。

事故原因などは後の警察の調書で知ったが、自分の記憶にはなかったことである。

その事故以前の生活の全てが、記憶にないのである。

そして継母の順子と家族のことは、心の中に閉じ込めるのであった。

やはり住んでいたアパートの管理人から、生活情報を得るしかないのだろう、と結論づけた。

従って、管理人との肉体関係もあったようだが、退所又は外泊許可が下りたら元の住まいである市川市の中山町に行くことを考えていた。


もう一つは、肺結核を完全に治すこと。

咳も痰も出ず、大学病院での結核菌の検査以降、菌は検出されていなかった。

ただ健康体にはほど遠く、体力はかなり弱っていた。

そのため食事で栄養を十分とり、睡眠も安定的にとるとともに、精力と体力を減退させるセックスを慎むことを誓った。

療養所では、異性とは親しくならないように努めると強く決意した。


こうした決意の下、祐二は規則正しい生活を送り、自由時間は文学書を中心にして読書に勤しんだ。

その結果、1カ月も経過すると、体重が増えてきた。

気のせいか、背丈も僅かに伸びた気がする。


栄養科の少女

11月に入り、諏訪地方の外気は冷え込んできた。

それでも、サナトリウムの日課である日光浴は日々続けられていた。

いつものように、1階のベランダに置かれた木製のサマーベッドにもたれて本を読んでいる。


栄養科の女性職員らが、お菓子を患者に配っている。

このところ祐二へ菓子を配ってくれるのは、決まって伊藤雪子とネーム札を付けた少女だった。

小柄だが、ぽちゃり系の笑顔が可愛い子。

年の頃は、まだあどけなさが残る10代。16歳か17歳ぐらいなのか。

いつも笑顔を絶やさない、愛くるしい仕草をする。

紙に包まれた、ビスケットなどを手渡してくれる。

幼友達のように、何故か親近感を覚える少女だった。

恋人の亮子似であることは、この時点では分かっていない。


「松岡さん、いつも残さず食べてくれるのね。いっぱい食べて、早く良くなってください」と、やさしい言葉をかけてくれる。


「いつもありがとう。お蔭さまで少し体重も増えたみたいで、雪子さんの手作りのお菓子で、元気になっているよ」

と、その包みを膝の上に置いた。


包みを開くと、菓子の間に一枚のメモ紙が挟まっていた。

そのメモ紙を取り出してみた。

女性の字で、

「食べ終わったら、第5病棟の裏庭に来て、待っています・・・雪子」と、書かれていた。

少女の姿を追ったが、すでに彼女は去っていた。


これは、ラブレターだと直感した。

しかし、ここでは恋愛はご法度。

自分自身でもこの1カ月間、異性との接触は避けてきた。

少女からの告白を受けても断るつもりで、おやつを食べ終わるとすぐに第5病棟の裏庭へと向かった。


北に面した病棟の裏側は直接陽が当たらず、一層ひんやりとした空気が頬を刺す。

伊藤雪子は、白い制服に白い帽子を被った仕事着で、病棟の壁に寄りかかり立っていた。

ゆっくりと歩を進めて、少女に近づいた。

彼は、わざとらしくおどけて「みぃーつけた」と明るい声をかけ、少女の正面に立った。はにかんだ彼女の笑顔が、彼を迎える。


「松岡さん・・・私のこと好きなの?」

いきなりのそれも予想外の言葉だった。

祐二は、少女からの愛の告白だと予想していた。


返答に窮した。

療養所の中で、最も若くて、可愛らしい女の子と思ってはいた。

しかし、恋愛のご法度もあって、少女に対する恋愛感情を抱いてはいなかった。


(何と答えるべきか、方針通り、交際を避ける言葉を述べるしかない)


少女を傷つけない言葉を探した。

だが、悩んでしまい沈黙が続いた。

それでも二人の視線は、互いの瞳を見合っていた。


(確かに可愛い。都会の女性にはない素朴な清潔感がある。野菊の花の美しさだ。ただ、療養所に来る前に、どこかで彼女を見たような気がする・・・どこだろう?)


痺れを切らして少女が口を開いた。


「みんなが、松岡さんはいつも私のことばかり、見つめているって言うの・・・きっと、私のことを好きなのだろう、と言うの・・・」


(意識はしていなかったが、そのように見られていたのか。彼女を見たことがあると、記憶を手繰り寄せる中でそれが流し目にでも、映ったのだろうか・・・)

済まない事をした、と悔やんだ。


祐二の返答がないことで、不安が募り少女の顔がこわばってきた。

だんだん、半べその状態になって、泣き出す一歩手前であった。


咄嗟に、「好きだよ、いつも可愛い人だと思っていた」と、やさしい声で囁いた。


「本当に!?・・・私のこと好きですか、私もだんだん松岡さんのこと好きになってしまったの。今は、もう松岡さんのことで、胸がいっぱいです。苦しくて夜も眠れないの・・・」

甘えるような口調で、心の内を明かした。


その言葉を聴いて、ほろりとしてきた。

少女を愛しいと、思う気持ちになってしまった。

少女は体を反転させ、背中を男に向け泣き出した。

両手を目がしらに当て、肩を震わせていた。


(いじらしい・・・)

その肩を、後ろからそっと抱いた。


静けさの中に、嗚咽で女の吐く息が、微かに周囲の冷気を揺らす。

男は、にじり寄った。

その気配を察知したように、女は再び体を男の方に向けた。

目を閉じて抱擁を待っている。


だらりと下げた女の両手を握った。

温かい感触が、直に伝わってきた。

白い制服を着こんだ少女の体に、自分の体を覆い重ねた。

男の胸が少女の胸のふくらみを押さえると、唇を重ね合わせた。


少女にとって、生まれて初めてのキスだった。

微かに唇が震えていた。

男の手は女の手を離れ、病棟の壁に寄りかかる少女の背中に回った。

唇を合わせたまま、強く抱き寄せた。

呻き声がもれた。


いつの間にか、少女の舌が男の口の中を這っていた。

初な少女の積極性に一瞬たじろいだ。

だが、すぐに甘露の媚薬に酔っていった。

少女の舌は、蛇のように男の舌に絡みついた。

長いディープ・キスだった。

強く激しい口吸いに、二人は我を忘れた。

少女は、この感動の時間が永遠に続けばと願った。

ただ、この時、二人の激しい抱擁を、病棟の片隅から一人の看護師が覗いていたことに二人は気づいていない。


ナースの恫喝

療養所の夕食は、午後4時30分と早い。

夕食が終わると患者は自由時間になり、入浴、読書、テレビ鑑賞、将棋などをして就寝時刻を待つことになる。

医師や看護師は、夜間担当を除き寮や自宅へ帰宅する。

事務職、栄養科、雑務などの職員も残務を終えると、三々五々帰路につく。


その夜、就寝時刻の直前になって祐二は看護師に呼び止められ、診療室に来るように言われた。

診療室に入るとすぐに、診療ベッドに仰向けに寝るように指示された。

この看護師は、入所の日に療養生活の心得を説明してくれた人だった。

中肉中背の平凡な感じの看護師。

この1カ月間、何度も顔を合わせていた。

薬をもらい、注射もされてきたが、特に私的な会話をするようなことはなかった。


パジャマの上着と肌着を脱いで、腕を出すように言われた。

(注射でもされるのかな?)


看護師は、ベッドに横たわっている男を、上から見下ろしている。

「松岡さん、少し肉付きが良くなったわね」

「ええ、お蔭さまで体重が増えました。少し身長も伸びたような気がします」

「よかったわね、20歳の男の子なら、まだ背丈は伸びることもよくあることよ。元気になった証拠ね」

「そうですか・・・」


女は立ったまま背を向けると、白衣の前を開けて自分の手でブラジャーのホックを外して、そばにある籠に投げた。

振り向いた女の白衣の胸元に、ほどよい乳房が覗いている。

彼は、黙ってその姿を見つめた。


「ふふっん、驚いたかしら?」

「いいえ別に・・・何するのですか?」

女は上半身を屈んで、寝ている男の上半身にすり寄ってきた。


「何をするのか、分かっているでしょう」

男の胸に唇を這わせてきた。


「ああっ、いい匂い。若い男の匂いだわ」

舌を這わせ始めた。女の甘い髪の匂いが鼻をつく。


「田島さん、恋愛やセックスは禁物でしょう・・・」

看護師の名字を呼んで、性行為を拒んだ。


女の手が、男の髪と顔を撫でる。

「可愛いわね、すねた顔が素敵よ」


「ダメですよ、田島洋子さん」と名前も付けて呼び、再び行為を拒んだ。

だが女は、すでに上気した表情を作って目が潤んでいた。


「キスして頂戴、命令よ!」


「何を言っているのですか、洋子さん、結核患者とキスなんて、結核がうつりますよ」

「大丈夫よ、貴方にはもう菌はないから、体力も回復している・・・」

「でも、セックスはご法度ですから・・・」


「早くキスして、命令だと言っているでしょう。若い女にはキスできても、ナースの私にはできないと言うの!」

口調が、荒く変化した。

「ええっ、若い子・・・」


「見ていたわよ、伊藤雪子ちゃんとのキス、ずいぶんと激しくて、長い口付けだったわねえ。確かに、恋愛もセックスもご法度、それを破ったのは貴方なのよ、黙っていてあげるから、いい子になって頂戴」

と、今度は母親のように諭す。


祐二は、観念し覚悟を決めた。

歯向かう言葉を慎んだ。

少女の立場を心配しての即断だった。


女の唇が男の口を開かせ、長い舌がすぐに口内を探りまわる。

すでに息が荒く、女の暖かい唾液が口一杯に広がった。

覚悟を決めた男の舌が、動き回る女の舌を掴み、しっかりと絡めると大きく吸い込んだ。

「ウグッ」

女が、喜びで口ごもった。

昼間のキス以上に、激しく長い口づけが続いた。

獣が餌をむしばむ様に、お互いの舌を飲み込んだ。


「いいわ、もうがまんの限界・・・すぐに気持ちよくさせてあげるからね」と、言った。

「田島さん、ここではまずいでしょう。声が聞こえて人が来ますよ」

と、冷静な判断でこの場所を変えることを促した。


「そうね、そのとおり。お利口さんね・・・」

女は立ち上がり、男のものを引っ張り歩き出した。


診療室の隣は処置室。そこにもベッドがある。

しかし、その部屋も通り過ぎて、さらに奥にある薬品室に入って行った。

ここにも簡易のベッドが、一つ置かれている。

診療室からの灯りが僅かに洩れている。

それでもほとんど暗闇だ。


その部屋に入ると、二人は立ったまま抱き合った。

女の背丈は男と同じぐらい。

体躯は痩せてもなく、小太りでもない。

バランスの良い肉体であった。


再び、激しい口吸いが始まった。

男の両腕は、女の体をしっかりと抱き寄せ、互いの胸をつぶし合っていた。

時々、男の手は、女の全身を撫でまわした。

口を放すと、女は荒い呼吸をして両肩を揺らしていた。

すぐに白衣を肩から外したが、剥ぎ取ることはしなかった。

肩と胸だけを晒した。

愛撫を続けた。


「いいわ、素敵。感じるわ。松岡クン上手ね」

息も絶え絶えに、何とか言葉にした。

やがて、「もうダメッ、何回もいったわ、お願い仕留めて。松岡クン」

男は黙って女を横抱きに抱き上げ、ベッドに連れて行った。

女はすぐに着ているものを全て脱いで、仰向けに寝た。

男も全裸になった。女の目が宙に飛んだ。


外出許可

ようやく祐二に、外出の許可が出た。

事前の届け出さえあれば、町への買い物、野山への散策、日帰りの小旅行などが可能になった。

ただ、遠出や外泊はできない。

そしてその許可後は、しばらく昼食の後に療養所の近くを散歩して気分転換を図っていた。


伊藤雪子とは、人目を忍んで所内で逢引きを続けていた。

まだ、肉体関係を結んではいなかった。

会話と人目を忍んで、愛撫を繰り返していた。

少しずつだが、愛を育むようになってもいた。

人目惚れではなかったものの、祐二は、次第に雪子のひた向きな純真さに魅かれてゆくのであった。


その傍らでは、看護師の田島洋子との肉体関係も続けていた。

それは雪子を守るためには必要だ、と割り切った。

田島洋子も、祐二と雪子の恋愛の進展ぶりを見て見ぬふりをしていた。

若い二人には嫉妬せず、男の肉欲だけを受け入れることで、満足しているようだった。


急速に寒気が深まりつつあった11月の日曜日。

祐二は、外出届けを出した。

町に出て、雪子と初めてのデートをすることにした。

本格的な冬に備え、冬用のジャケットも購入する予定だった。


町に出て洋食店に入り、二人で昼食をとり食後には紅茶とケーキを楽しんだ。

彼の脳裏に、『シャバ』と言う言葉が過ぎった。

比較的自由な、療養生活ではあった。

だが、街中へ一歩も外出ができないのは、それなりに制約があって拘束感がある。


好きな少女と一緒に過ごす、自由な一日が新鮮だった。

洋食店を出ると、洋服店に行って革のジャケットを買い込んだ。

予定にはなかったが、雪子は自分の家に寄って、夕ご飯を家族と一緒に食べようと誘った。帰りは父親の車で療養所まで送るので、門限までには帰れると言った。

祐二は快くそれを受けた。

未成年の少女と交際をしている以上、一度は両親に挨拶をしておくべきと考えた。


雪子の家は、療養所の西側にある<瀬沢新田>にあった。

近くには、紡績工場もあった。

冬の農閑期には、臨時の工員として近くの農家からも働きに出ていた。

伊藤家は田畑と山林を所有し、この辺りの村の中では中堅の農家だった。

ただ子供は、雪子一人で農家の後継ぎ問題を抱えていた。


「僕のことをご両親には話しているの?」

「話しているわよ、交際しているって。療養所の患者さんだと言うこともね」


「それで何も言われなかったの、結核患者だと嫌われるでしょう」

「そうね、この辺りの地元の人は、療養所のことを毛嫌いしている人が多いわ、けれどうちはそれほどでもないの。現に私も療養所に勤めているし、それに松岡さんは結核菌もなくて、本当に静養しているだけと、両親には言ってあるから」

「そう、ならいいけど・・・」


町から20分ほど歩くと、防風用の木立に囲まれた中にかやぶき屋根の農家があった。

療養所からは西側に当たり、丘陵地帯を下った低地に雪子の実家があった。


その農家に足を踏み入れるとすぐに土間があった。

そこには、『石舟』と呼ばれる昔ながらの流し台があった。

そして、そこかしこに、雑穀用の臼と杵、かんじき、わらじ、背板、深沓と呼ばれる藁草履、雪かきなどが無造作に置かれている。

祐二は、これらが昔から使われてきた農家の必要用具なのかと、その歴史を感じた。

土間の先には、囲炉裏のある居間が見えた。それを見ると、この農家には、以前、訪ねたことがあるような気がした。


土間を上がると、囲炉裏のある居間に案内され、ご座ふとんに座らされた。

「今、お茶を入れてくるからね」

「家の人は留守なの?」

「そう夕方には戻るわ、それまでは二人だけよ」

と言って、祐二の額に軽くキスをして居間を離れた。


しばらくすると、お盆に熱いお茶を乗せて戻ってきた。

すると、すぐに居間をもう一度去っていった。

今度は、木箱を抱えて戻ってきた。


「それ何?」

「知らないの、蒸し器だよ」

「へえっ、木製の蒸し器は初めて見るよ、何が入っているの」

「お芋よ、サツマイモを蒸かしてあるの」


雪子が蓋を開けると湯気が出て、同時においしそうな芋の薫りが漂った。

お茶も飲まないうちに、祐二は、その芋を手に取って頬張ってしまった。

ひどい熱さだった。


「あちちぃ!」と叫んだ。

雪子がケラケラと笑った。


「熱いに決まっているでしょう、フウフウして冷ましてから食べるのよ」

と、母親のような口調で諭した。

慌ててお茶を口にしたものの、お茶もまだ熱かった。

「あちちぃ、こっちも熱い」

雪子は笑い続けていた。


二人はしばらく、お茶とおやつを楽しんだ。

一段落してお腹も落ち着くと、雪子は、2階の自分の部屋に行こうと祐二を誘った。


純真と魔性

少女の部屋は1階の居間などとは異なり、若い子らしく明るい色の壁紙が張られている。

そこにはテレビもCDラジカセなども置かれている。

壁には、グループサウンズやビートルズの大きなポスターが張られていた。

木製のベッドには水玉模様の枕とピンク色の掛布団が掛けられて、女の子らしい清潔感が溢れている。


いきなり雪子が祐二に飛びつき、首にしがみ付いてきた。

二人は、長いキスを交わした。

二つの唇は、互いを激しく求め合った。

療養所内での抱擁は、どこかで人の目を気にしていた。

今は、監視の目がない。

その分、その甘美な感触は永遠に続くかのように感じられた。


男の胸が、女の胸のふくらみを押さえ、立ち姿で強く抱きしめていた。

一呼吸おいて、思い切り舌を吸い込んだ。

呻き声がもれた。いつの間にか、女の舌も男の口の中を這っていた。

二人は、甘露の媚薬に酔っていった。

女の舌は、蛇のようにとぐろを巻き男の舌を絞めた。


若い二人の体はもう限界だった。

祐二が心配して囁いた。

「家の人まだ帰ってこない、大丈夫?」

「大丈夫よ、安心して、まだ2時間以上絶対に戻らないから!」

確信に満ちた声で、男を安心させる。


祐二は、少女をベッドに押し倒した。

そして、厚手のワンピースを頭から脱がした。

さらに、ブラジャーのホックを外し剥ぎ取った。

上半身が露わになった。


すると雪子が「私、ハト胸出ちっりなの」

と、恥ずかしそうに言った。

(あれっ、どこかで聞いたことのある言葉だ。どこだっけ・・・)


記憶の糸を探ろうと考える。

すぐにも思い出しそうな気配がする。

しかし、性欲がそれを脳裏から消し去った。


それは、愛おしいあの亮子の口癖の言葉だった。

しかし、祐二はまだ記憶が戻せない。


雪子の乳房は、少女なりに隆起している。

だが、仰向けに寝てもその胸の隆起は高いまま。

乳房が大きいというよりも、胸全体が丘になって広い。

そのハト胸が、白く清らかに輝いている。


下半身の白い清楚なスキャンティを、一気に足元から抜いた。

「雪子」と叫んだ。


少女の虚ろな瞳が男を見た。

「もう仕留めて」そう訴えていた。

男は、処女の裸体を大きく抱きしめた。

そして、二人は初めて結ばれた。

しばらく二人は、下半身を剥き出しにして、放心状態で抱き合っていた。


フラッシュバック

雪子の長い黒髪が部屋に差した西日に光り、髪が生き物のように揺れ動いている。

それは艶かしく官能的で、普段は清楚な少女が大人の女性のように思える。


(この光景はどこかで見たことがある、どこだろう?)


祐二は『ハト胸出ちっり』という雪子の裸体をまじまじと眺めていた。

と同時に、少女の長い黒髪が西日に照らされて光り輝いている。


(間違いない。どこかで見たことがある!)

この光景が、強く記憶の脳に刺激を与えてきた。

すると、一瞬にして記憶が蘇った。


(ああっ、亮子だ!!)


思わず、声が出かかった。

中学校の体育祭の日、空になった教室で処女だった亮子を抱いた。

あの日ことが、今ここで蘇ったのだ。


亮子と雪子は似ているのだ。

体の体形も、そして今日のスチュエーションは初めて亮子と結ばれたあの日にそっくりなのだ。


(そうだ、オレは小谷野亮子と付き合っていた)


雪子の裸体をまじまじと見ていると、恋しい亮子のことを確実に思い出していった。

亮子は中学生にしては、肉厚の白蜜桃でいかにもジューシーな双丘だった。

ここにいる雪子も一回り小さい肉体ながら、亮子とそっくりの肉厚の白蜜桃だ。


記憶が次々に蘇ってきた。

すると、後ろ髪が引かれるような不安感が背中に流れていた。

宿題を忘れた少年のように、ソワソワした気持ちを抑えきれなかった。


第21章 さらば恋人よ

小谷野亮子は、妊娠6カ月を過ぎて、お腹の膨らみが明らかに目立ってきた。

小谷野家では、お腹の赤ちゃんの父親である松岡祐二の行方を追って、八方に手を尽くしてきた。


しかし、一向にその行方は判らないままであった。

このままでは、私生児を産むことになってしまう。

そしてこれ以上、世間に亮子の妊娠を隠し通すことは困難な状況にも陥っていた。


秘密裏の縁談

ついに姉夫婦は、一つの決断を下すことになった。

その結論は、妹が赤ちゃんを産むこと。

世間的には、その父親は婚約者であったが、交通事故で死亡したことにする。

その上で、養子縁組を改めて企てることにした。


つまり、亮子との「見合い」の形をとって結婚を進めて、その婿には小谷野家の養子として迎える算段だった。

但し、死亡した婚約者の子供が生まれることを承知の上での婿取りとなり、養子になってくれる婿候補が現れるかが難問だった。


この企てには世間体や外聞を憚る必要があり、近しい親戚だけを頼って、この縁談と婿養子の話を進めなければならなかった。

その結果、姉夫婦は嫁に行った5人の妹とその夫たちを一同に集め、親族会議の形を採ってこの問題を相談した。


やがて事情を説明された親族は、一様に姉夫婦の考え方に賛同を示してくれた。

小谷野家の存続と末の妹の赤子を心配して、秘密裏にこの縁談に協力することを約束してくれた。

かくて、小谷野家の親族は、秘密裏に婿探しに奔走することになった。


亮子は、相変わらず<籠の鳥>の状態が続き、産婦人科病院への通院以外は外出することができなかった。

その病院への受診も、姉が運転する車での送迎であった。

それでも、愛おしい祐二が早く無事に戻ってくれるようにと、何とか隙を見つけては町内にある「印内八坂神社」へ願かけに詣でた。

来年の3月に生まれる赤ちゃんのために、手編みの毛糸の靴下を編んで、悲しみを胸に秘めながら静かに日々を送っていた。


温かい家族

一方、裕二は雪子の両親が帰宅すると、4人で夕食の団欒が始まっていた。

食事は、居間の隣にある和室に『箱ご膳』を運んで行われた。


農家として、娘の大事な客人の松岡を、格式を持って歓待してくれた。

膳の上には、季節の野菜の漬物、焼き魚、肉の煮つけに、熱い味噌汁が添えられていた。お米は、新米を炊いて出してくれた。


祐二は、こういう家族的な扱いをされると弱い。

涙が出るほど、嬉しくなる。

雪子の両親とも小柄な人で、まだ二人とも30代後半の若い夫婦。

結核患者の祐二に対しても偏見も持たず、話し方もほとんど方言が出ない都会慣れした人達だった。


団欒の中で話しをよく聞くと、雪子の両親は若くして恋に落ちたが、その時には結婚を反対されて駆け落ちしたそうだ。

東京で共働きをして暮らしていたが、東京で雪子を生んで許されて故郷に戻った。

ようやく親に認められて、農家を継いだとのことだった。


食事が終わると、父親の運転する車に雪子も同乗して、裕二は療養所に送ってもらった。

この日の伊藤家の団欒は、まるで家族のような温かさを感じるのであった。

祐二は、療養所に戻った。


その夜、彼は中学校での小谷野亮子との性交の記憶を端緒にして、記憶のページを順番に呼び戻していった。


中学校での彼女との思春期の触れ合い、高校受験、家出、家庭のこと、夜間高校への転向と就職、六本木のサパークラブでのホスト稼業と、記憶が嘘のように蘇ってくる。

中山のアパートでの亮子との再会とセックスのこと、小谷野家の養子縁組と破談まで、克明に思い出してきた。


(そうだ、亮子と駆け落ちの約束の日の前日、オートバイで事故に遭った)

(そこで記憶を失った。亮子は、オレの子供を身ごもっているはずだ)


ようやく、そこに記憶が到達した。

(こうしてはいられない。早く亮子に連絡を取らなくてはいけない!)


純真の隠し事

翌朝、療養所内の郵便ポストに亮子宛ての手紙を投函しようとする時、雪子に出会った。昨日のお礼を言うと、彼女は「誰に手紙を出すの?」と、聞いてきた。


少し記憶が戻って、友人に元気であることを伝えるのだ、と言った。

安心させたいので、急ぎ手紙を投函するのだ、と言った。

すると彼女は、ここでは1日1回しか郵便屋さんが回収に来ない、と言う。

そして急ぐなら、私が療養所を抜け出し町まで行って、町のポストに投函してあげると言ってくれた。


彼は、2通の手紙の投函を彼女に託した。

1通は亮子宛て、1通は小谷野家の姉夫婦宛て。


祐二は安堵した。

その日はベッドに戻ると、安心感と徹夜したこともあって一日中眠り続けた。


一方、手紙の投函を託された雪子は、療養所を無断で抜け出して、恋人となった男の手紙を胸に抱いて急ぎ町に向かった。

ふと宛て名を見ると、1通は女性の名前があった。

もう1通は、同じ住所で名字が同一であった。


(友人と言っていたけど、女の人じゃないの・・・)

若い女の直感が働き、嫉妬心も蠢動(しゅんどう)してくる。

(手紙の中を見てもいいかしら・・・)


いけないことと知りつつ、女心に灯った小さな疑念の火は理性を失わせる。

彼女は町に行くのを止めて、自宅へと向かった。


両親は、野良仕事で外出していた。

2階の自分の部屋に駆け込むように入ると、手紙をそっと開けてみた。

先ずは、女宛ての手紙を読んだ。

読むうちに、頭に血が昇るのが分かった。


もう一通も、一気に読んだ。

私以外に愛する女がいた。

それも、妊娠しているようだ。

そして、彼は結婚を切望している。

それは雪子にとって、とても受け入れることのできない事実だった。


初めて心から愛する男と、巡り合った。

それも昨日体の全てを許した愛おしい男が、自分を置き去りにしてこの地から去ろうとしている。

女として、それは絶対に許してはならない、と決意する。

であれば、この手紙は投函できない。

彼女はその2通の手紙を、小机の引き出しの奥にそっと閉まった。

そして、療養所へ急ぎ戻った。


迷走

12月に入ると、諏訪地方は本格的な冬を迎える。

マイナス気温になる日も、増えてくる。

ただ諏訪地方は、長野県下でも降雪量が少ない地域で、日照時間も多い。

そのことから、療養所の日光浴は、日課として毎日行われていた。


サマーベッドに背をもたらせ、伸ばした足に毛布をかけていた。

冷たい空気を頬に感じながら、青空とゆっくり流れる白い雲を眺めている。


記憶を取り戻した松岡祐二は、小谷野亮子と姉夫婦宛てに出した2通の手紙の返事が届くのを毎日待っていた。


そして、今後の自分の行く末について、あれこれと考えていた。

その返書が届かなければ、結論が出ない問題ではあった。

だが、予想される様々な事象と、その未知なる展開が横たわっていた。

そこには、幾つもの選択肢が存在していて、悩みは尽きない。


大きな問題は、小谷野家への自分の無事の連絡と、亮子との結婚と妊娠だった。

もう一つは、今深まりつつある伊藤雪子との恋愛の問題。


この二つの問題は、両方が良い決着になることはあり得ない。

いずれは、一つの道を選択せざるを得ないと考える。

だが心の底では、その選択を拒む『がしんたれ』の気の弱さが潜んでいた。

小谷野家への連絡方法には、電話が早かった。

だが、記憶を取り戻していたものの、電話番号などの細かな記憶までは到達していなかった。

但し、小谷野家の電話番号を照会する方法はあった。

だが電話をしても、亮子がすぐには電話に出ないことに不安があった。


一方で、姉夫婦には電話で無事であることを、伝えるだけでも良いとも思った。

だが彼らから破談を宣告されている身では、その場で途絶される可能性が高い。

従って、積極的に架電することを躊躇していた。

さらに、一度失敗した駆け落ちを再度実行するには、これまで以上に現実的な困難さが伴うとも考えてしまった。

それらのいくつかの不安要因が、彼を一層弱気にさせる。


それでも、彼女の妊娠のことが最も心配だった。

駆け落ちの段階では、産婦人科の診察を受けていない。

阿佐ヶ谷の新居に移り落ち着いたら、診察を受ける予定だった。

もしかしたら、当時の破談のストレスからくる亮子自身が、ホルモンバランスの狂いに無月経だった可能性もあるのではないか、と想像してしまう。

そういった疑念が、彼を一層弱気にさせた。


一方では、雪子との恋愛は進行中で、祐二の心の中では彼女の存在が占めている。

結婚の約束をしたわけではない。

だが、彼女の両親も二人の交際を暖かく見守り、口には出していないが婿養子になってくれることを望んでいる。

それも記憶を失い、結核という大病に冒されている孤独な男を受け入れてくれている。

伊藤家のやさしさを、裏切ることは忍びない。

むしろ、その温かさに包まれて、共に生きていきたいとも思い始めているところだった。


この大きな二つの選択肢に、思い悩んだ。

見上げる空に浮かぶ女の笑顔は、よく似た二人の女性だ。

記憶が戻った今、その二人を等しく心から愛してしまっている。


ただ行動としては、例え亮子や小谷野家からの返書がなくとも、いずれ遠出の外泊許可が出たら、船橋の亮子の家を訪ねて、その再会を果たそうとは決めていた。

そこで、最終的な決断をするつもりにはなっていた。


しかし、その外泊許可がなかなか出なかった。

親しくなったナースの田島洋子に、その打診をしてもらった。

しかし、芳しい返事はなかった。

過去の例では、入所後3カ月ごとにその許可判断が行われているとのこと。

とすれば、早くて12月の下旬か、来年早々ということになる。

それがダメだったら、その次は来年の3月の下旬か4月の上旬になる。


療養所を黙って抜け出す脱走の手もあったが、その勇気は彼にはなかった。

(これが『がしんたれ』男の弱さなのか、死ぬほど逢いたい女がいたなら、全てを投げ捨てても会いに行くべきだろう・・・と、自問自答する)


女の体を求めるときは勇猛果敢だが、世情に流される弱点があることを自覚している。

今の立場で言えば、世情とは雪子の存在だ。

その若さと純真さに、魅かれてしまった。

愛してしまい、その愛おしい女を男として独占したい気持ちにもなっている。


だが記憶が戻ったことで、その愛が分断されてしまった。

正直に言えば、分断ではなく二人の女を誰にも渡したくないほど好きなのだ。

男は二人の女を同時に、かつ真剣に愛することができる。


二人の女は、性格、顔立ち、見た目の姿態もよく似ている。

おそらく、自分の記憶が蘇ったのは、雪子の顔立ちが亮子と瓜二つだったことだろうとも思う。


『鳩胸でっちり』の豊満な体付きもそっくり。

雪子は亮子よりも、一回りほど背格好が小さい。

年下のこともあって、亮子の妹のようだ。

亮子の肉体は、女として成熟しつつあった。

今の雪子は、まだ幼い体を残していた。

そのことが、彼を夢中にさせてもいるといえた。


農家の9女と、独り人娘という境遇も似ている。

農家の厳しさを知らないで、甘えて育てられていたことも共通している。

それが、二人の女の一途で直向きな女の情念を生んでいた。


ただ亮子とは、七夕の日に駆け落ちの約束をしていた。

結婚することを誓い合い、その体には妊娠の可能性があった。

雪子とは、まだ結婚の約束を結んではいない。

男として、優先すべきことは明白だった。

しかし、この優男は、愛おしい雪子の心を傷つけることを最も恐れている。


外泊許可が出ない中、日増しに寒さが厳しくなるに連れ、彼の心理は動物のように冬ごもりに入ってゆく。


単調な療養生活が続く中、ナースの田島洋子との肉欲の交わりと、恋する雪子との愛の交歓だけが繰り返されていた。

過ぎ去っていく季節の中で、祐二は愛の行方に独り悩むのであった。

とうとう、12月の年の瀬を迎えても外泊許可は出なかった。


年が明けた正月には雪子の実家から、正月をともに過ごすようにと招待を受けていた。勿論、彼女が両親に松岡祐二を呼んで一緒に正月を過ごしたい、と頼んだ結果である。

療養所では、外泊許可が出ていた患者は、帰郷し我が家に帰省する人もあった。

三が日は、療養所では診療と事務系が休日で、栄養科などは交代制で患者などの食事や雑務を担った。

雪子は、正月3日間の休みを採った。


新しい絆

明けて1969年(昭和44年)元旦の午後、松岡祐二は伊藤家を訪問した。

その敷地に足を踏み入れた途端、雪子が家から飛び出して来た。

絣の着物の上に朱色の『ちゃんちゃんこ』を羽織っている。

すぐに彼の腕に絡みつくと、その腕を引っ張って土間口に入って行った。


母の光子が『石舟』の前に立って、正月料理の調理に精を出している。

敷居を跨ぎ、開け放された囲炉裏の部屋の隣にある広い和室に通された。

そこの中央には、地味な和風のローテーブルと、座卓が4個置かれている。

側には火鉢が置かれ、台付けの上に乗った鉄ビンが湯気をあげていた。


二人は、廊下側に並んで座った。

彼女が、一旦部屋から消えた。

しばらく待たされたが、彼女がお茶をお盆にのせて現われて、4つの茶碗をテーブルの上に置いた。


すると、部屋着である『半ちゃ』を着込んだ父親の幾三が笑顔を作って入ってきた。

堅苦しい挨拶もせず「田舎の正月料理だけれど、もうすぐ出来るで、食べてけれ」

と、言って二人の正面に座り込んだ。


「ありがとうございます」と、頭を下げた。

雪子は、テーブルの下で彼の手を握っている。


「正月なので、形だけでいいから、お屠蘇(おとそ)をなめてけれ」

「はい、いただきます」


療養所に入ってからは、一滴もアルコールを体には入れてなかった。

所内のクリスマス会でも、飲酒は避けていた。

すぐに、妻の光子が『箱ご膳』を運んできた。

そこには、とっくり、さかづき、紅白の蒲鉾が乗せられていた。


光子が幾三の横に座ると、おちょこに酒を注いだ。

それを見ていた雪子が、もう一本のとっくりを掴んで、祐二の前のおちょこに注いだ。

女性陣のおちょこに酒が注がれると、幾三が「今年もよろしくな」と、軽く杯を挙げて飲みほした。

皆も連れて、それぞれ舐めるように一口だけ舌を潤した。

一口だったが、僅かに温められたぬる燗は、穏やかな味わいがある。

そのほのかな香りに誘われて、祐二はおちょこに残った酒を飲んでみた。


(おいしい酒だ)

それを見ていた雪子が、すぐに空いたおちょこに酒を注いだ。

笑っている。

その様子を見ている両親も、微笑んでいた。


「雪子、あんまり勧めちゃダメよ。松岡さんはまだ回復途上なのよ」

と、光子が心配そうに娘を諭した。


「そうだ、そうだ無理しちゃいけない。母さん早く料理を出してくれや」

幾三にそう言われた光子は、立ち上がると隣の部屋の囲炉裏端に向かった。

囲炉裏では、鶏肉を磨り潰した甘辛味の串焼きが焼かれていた。

すでに、皿がそこに置かれていて、焼き加減を見ながら光子が盛り付けをした。


家族団欒の、ささやかな正月の宴席だった。

父親の幾三は、土地柄、農家の生活ぶり、自分たち夫婦の馴れ初めなどを淡々と話す。母の光子と娘の雪子は、笑顔を絶やさずその話に耳を傾けている。

祐二も、真剣にその話を聞き込んだ。


一方的な話しが続く中、彼は自分も何か話をしなければいけないと考える。

痺れをきたして幾三が、

「松岡さんは、ご出身はどこかな?」と、さり気なく尋ねてきた。


彼はかい摘んで、生まれた所と数多い転居と転校などを吐露した。

幾三は驚きを隠して「それはそれは、さぞかしご苦労されたことで・・・」

と、同調するように言った。


「それで今、ご家族はどこにお住まいかな」

「東京に父と継母と異母妹弟が暮らしています」

さらに、続けて「僕は長男なのですが、戸籍的には異母弟も長男になっています」

と、暗に実質的には後継者の長男ではないことをほのめかした。


「そうか、そうですか。それはまた複雑な家庭環境だすな」

と、言いながら妻の顔と娘の顔に目線を走らせた。


祐二は、血の繋がりのない家族ではあったが、温かな家庭の団欒の時をすごした。

田舎の素朴な家庭料理に舌鼓を打って、ふるまれたお酒のおいしさに、とっくり1本を飲み干してしまった。


少し酔いが回る頭の中で、一年前の小谷野家での団欒の会食を思い出していた。

あの時も幸福感に包まれていた。

懐かしい思い出と、今の幸福感に胸が熱くなる。

すると、亮子の笑顔が浮かんだ。

それを打ち消すように、隣にいる雪子を見つめた。


「大丈夫?松岡さん・・・飲みすぎたのかしら」

と、彼女が心配する。


幾三が「2階にふとんが敷いてあるから、水を飲んだら少し休むといい、風呂には、すぐに入ったらいかん。酔いが覚めてからにしなさい」と、言った。


すぐに、光子が水を運んで来て雪子に手渡した。

雪子は、コップを彼の口元に寄せて飲ませる。

そのコップと彼女の手を掴んで、彼は一気に冷たい水を飲んだ。


その後、雪子に支えられて階段を登り、2階の彼女の部屋の廊下を隔てた和室に入った。そこにはすでにふとんが敷かれ、何故か枕が二つ仲良く並べられていた。

枕元には、六角行灯と小さなお盆が置かれている。


「気持ち悪くはないの?」

「大丈夫だよ、気持がいいだけ」


「そうならいいけど、しばらく横になっていて」

彼の上着と、セーターを脱がして寝かせる。

掛布団を被せると、彼の額にキスをして階下へと戻って行った。


「大丈夫だった?少し飲みすぎたのかねえ~」

光子が、心配の言葉をかける。


雪子は明るい声で、「気分がいいから平気だって、少し休めば大丈夫よ」

と言って、箸を持って食事を再開する。


「ゆっくり休ませてあげなさい。今日は療養所へ戻らなくともいいのだろう?」

幾三が雪子に尋ねた。

「外泊許可は下りていないけれど、特にチエックする人もいないから、3日の日に戻っていれば、問題はないと思うわ」


「そうか、それじゃゆっくり寝かしてあげなさい。目が覚めたら風呂でも入ってもらって、それから夕飯をしてもらえば・・・」


「そうね」

光子が、相槌を打った。

階下の3人は食事を続けた。

幾三は食事をしながら、残った酒を独りで飲み始めた。

3人が食事を終えると、雪子は母の食卓の片づけを手伝う。

それを済ませると、黙って2階へ向かった。


説得

一方、船橋の小谷野家では正月だというのに、家族3人が集まっている和室はひっそりと静まり返っていた。


亮子のお腹は大きく膨れて、出産予定日があと2カ月と迫っていた。

3人は終始うつむいたままで、話し合いは暗礁に乗り上げていた。

姉夫婦は、秘密裏に進めていた亮子の夫となる婿養子問題が現実的に進展してきて、その説明をしていた。


婿の候補が、具体的に浮上してきていたのだ。

家長の正二郎は、何度も父無し子のまま出産することを諫めている。

父無し子のままでは、その子の将来が可哀そうだと説き伏せ、農家の後継ぎの問題も絡めて理解を求めている。


その一方で、亮子は例え父無し子を産んででも、自分で育てると言い張る。

いずれ松岡祐二は、無事に戻ってくると信じている、と泣きはらして訴えていた。


朝から始まった話し合いは、もう昼を過ぎている。

正二郎はこの機会を逃がしたら、二度と婿候補は現れないと必死だった。

確かに父無し子を産んだ後では、婿の来てはその可能性が低くなってしまう。

お腹の子の父だった婚約者が事故死という理由であればこそ、何とか婿養子の候補が出てきたのである。

正二郎は、畳に頭を擦り付けて涙を流しつつ亮子に哀願した。

姉の恵美も、嗚咽を繰り返している。

亮子は「いや、いや。絶対嫌よ。赤ちゃん産んで、あの人を待つの・・・」

と言って、大粒の涙を流して拒絶するのだった。


第22章 愛と死をみつめて

正月の伊藤家での家族団欒を過ごし、雪子と祐二の二人の愛はさらに深まるとともに、彼はその家族の一員のようになっていた。

雪子の両親は、彼を実質的な娘の婚約者のように遇する。

祐二自身、今のこの現状と事の推移に満足してこの幸福感に浸っていた。


ただ、その一方で矛盾する気持ちも抱いていた。

亮子のことは一時も忘れてはいなかった。

愛おしい女としてこの胸に抱き寄せたいという気持ちよりも、今は早く会ってその愛と妊娠の状態を確認したかった。


そして再会を果たし妊娠と愛を確認できれば、亮子と結婚して諏訪には戻らないとも心底には秘めていた。

その場合には雪子とは別れることになるが、それができるかについては自信がない。

がしんたれの優しすぎる心に揺れてはいるのだった。


正月の三が日は、療養所の監視体制が緩いことを事前に知っていれば、無断で抜け出して船橋に出かけることは可能だった。

それに気が付かないのは、明らかに彼の神経が今の雪子に集中している証でもあった。


引き延ばし

こうしている内に、時は瞬く間に流れていった。

3月下旬、諏訪地方に遅い春が漂い始めた頃、松岡祐二に長期の外泊許可が下りた。

4月に入り伊藤家を訪問した。

彼は、両親と雪子を前にして、船橋、市川さらに東京の実家にも行くことを告げた。

理由は、外泊許可が下りたことで、記憶喪失で音信が途絶えている家族、友人、勤務先に無事なことと、これまでの事情を説明に行きたいからだと言った。身辺整理の意味があることもにおわせていた。


そして戻ってきたら、雪子と正式に婚約を結びたいと告げた。

できれば結婚は、療養所を退所後の然るべき時期に行いたいと希望を伝えた。

冷静に考えれば諏訪に戻れない可能性も十分にあったが、そのことは伏せた。

まさに恋人の二人を両天秤にかけたダメ男の行為だ。


確かに、まだ雪子本人には結婚のプロポーズはしていない。

両親の承諾も得てもいなかった。

ただ既に、求婚とその承諾は、事実上行われているに等しいほど親密な関係になっていた。両親はその祐二の内実を知らずに、只々喜んで彼の船橋行きなどを快諾してくれた。

これで一人娘の結婚が成就するとともに、後継ぎの養子縁組も現実のものになると、希望に胸を膨らませた。

両親は心から喜び、笑顔を絶やさなかった。


しかし、雪子は何故か一人涙した。

(祐二は女に会いに行く。彼の子供を孕んでいるかもしれない女の元に・・・いや、既に赤ちゃんは生まれている可能性だってある。その事実を知れば、私を捨ててその女と結婚し、諏訪には戻らないかもしれない・・・許したくない、行かせたくない)


そう思ったが、言葉には出せなかった。

娘が流す涙は、うれし泣きと両親は思っていた。

その後、雪子は、彼の船橋行きを何かと理由をつけては、先延ばしをさせていた。

自分の体の具合が悪い、無事の帰還のためには大安吉日が良いとか、涙苦しいまでの努力で足止めを図った。

彼に抱かれる情事の中でも「行かないで!」と泣いて縋った。

彼は漠然と、女の単純な嫉妬心がそうさせているだけと思った。

とうとう1カ月ほど、出発の日が遅れてしまった。


5月に入り、二人の姿は中央本線の富士見駅にあった。

雪子は見送りのホームに立って泣いていた。

祐二、伊藤家からもらったおみやげの品々が入った、紙袋とボストンバックを持っている。亮子がプレゼントをしてくれた手編みのネクタイを締め、カジュアルジャケットを着こんでいた。


雪子の父親は「ご両親によろしく伝えてくれ、私共はいつでもご挨拶に行くつもりでいるから・・・」

と、彼に餞別を用意してくれた。


男はハンカチをポケットから出して、女の涙を拭いてあげる。

「2日か3日の辛抱だよ。必ず戻るから心配するな」

いつになく強い口調で結んだ。


彼女はそれには答えず、さらに大粒の涙を流している。

女の心は、永遠の別れを覚悟する悲しみの涙だった。

片手で女を抱き寄せキスをした。

涙が2人の唇に流れてくる。

女の舌は力なく動かない。

それでも男は、その舌を巻いて吸い込んだ。

長い口付けだった。

ホームは人気も多かったが、気にせず口吸いを続けた。

列車がホームに入ってくると2人は体を離した。


「私たち、お似合いの恋人と呼ばれているのよ・・・」

と、ポツリと雪子が言った。


「じゃ行ってくる」

女は男の顔を凝視している。

鋭い視線が男の瞳を射す。

男は背中を見せると、足早に列車に乗り込む。


女が突然叫んだ。

「きっと戻って来て、お願い。どんなことがあっても戻ってよ!」

と、大声を張り上げた。


結婚と出産

その日の午後、祐二は総武線の西船橋駅に着いた。

北口の階段を下り、手荷物が多いのでタクシーに乗った。

ワンメーターを越えた辺りで、タクシーは停まった。

小谷野家の前の新オケラ街道で下車した。


訪問の連絡は一切していない。

突然の押しかけ訪問になる。

それでもいいと、強い意志で大農の大きな門を潜ろうとした。

その時、男女の声が聴こえた。怯んで足を後退させ立ち止まった。


和服姿の男女が肩を並べて出てきた。

女は亮子。白い帽子を被り、白いベビー服を着せられた赤ん坊を抱いている。

その赤子の顔を見て微笑んでいる。


祐二の影には気が付かない。

男の方は、彼を一瞬見たが、すぐに彼女に寄り添い、何やら話かけ中山競馬場の方向に歩き出した。

(どこに行くのか?あの赤子はオレの子供ではないのか?)


胸に心臓の鼓動が響く。

しかし、親し気に歩く二人に、声をかける勇気はなかった。

距離をおいてその後をしばらく追った。

やがて小さな十字路に出ると、二人は右折した。

その辺りの低地は田んぼが続くが、印内八坂神社は坂道を登った所にある。


(印内八坂神社に詣でるつもりだ・・・どうしょう。どう見ても、二人は夫婦にしか見えない。そこに割り込んで、亮子と結婚を約束した男だと言って、その赤ちゃんは俺の子供だと主張するのか。まさに爆弾を抱えた異常な男にしか映らない。できない・・・)


昨年の7月から会えなくなって、1年半ほどなのに事態は大きく変容している。

その恋しい女に振られた訳でもないが、自分が哀れなピエロに思えた。

特に亮子が二人の心の糸を繋ぎ合わせるためにと、心を込めて編んでくれたレースのネクタイまで締めて、変わらぬ愛を伝えようとした自分がとてつもなく惨めだった。


これで青春が終わったと思った。

そう思うと泣けてきた。

坂道を登ってゆく二人を、しばらく見送った。


(サヨナラ亮子、さらば青春、さらば恋人よ・・・)


彼は左折して原木松戸道路に向けて、印内八坂神社とは反対の坂道を登った。

荷物がやけに重く感じる。

その道路を越えると畑道に出る。

夜間高校に転校し、東京へ働きに出ることを決心した悲しみの道だ。

1昨年の夏には亮子と感動の再会を果たし、彼女を部屋で抱いてから自宅まで送り届けた幸福に満ちた道でもあった。


法華経寺の五重塔と森が見えてきた。

住んでいたアパートに向かっていた。

管理人の小谷野夏江に会うつもりでいる。

御茶ノ水の病院に自分の必要な荷物を送ってもらい、要らない物の処分を彼女に依頼した。高額の預金の通帳や印鑑もきちんと送り届けてくれた。

そのお礼と記憶が戻った報告もしておくべきだと考えていた。


結婚の事情

夏江は、庭で洗濯物を物干し竿から取り外していた。

頭には手ぬぐいで姉さん被りをして、いつもの割烹着を着込んでいる。


「おばさん、只今」と声をかけた。

彼女は振り向くと、大げさに飛び跳ねるように驚いて見せる。

「あれまあ!松岡・・・」

小太りの体が駆け寄ってきた。

思い切り抱きしめられた。

二人は、すぐに管理人室に入った。


「お蔭さまで記憶が戻りました。今は長野県の諏訪にあるサナトリウムで結核の治療と養生をしています」と、これまでの推移を掻い摘んで説明した。


「よかったね、記憶のことも結核のことも心配だったのよ。もう会えることもないと、諦めていた。よく来てくれたね」


「本当にお世話になりました。病院の費用なども滞ることなく、支払いをすることができました。助かりました。お礼の挨拶が遅くなって・・・もう1年近くになる。ごめんなさい」


「そんなことはいいのよ、無事で生きて戻ってきたのだから。それに謝るのは私の方だよ。ほれオートバイをあんたにプレゼントとしたのはこの私。そのオートバイで交通事故に遭ってしまったのよ、ごめんなさい」


「何言っているの、おばさんは何も悪くない、オートバイを貰って僕はうれしかった。これまでの人生で一番高額なプレゼント、それも欲しかったメグロのオートバイだもの、感謝こそするけれど、謝られることはない」

「そう言ってくれると、胸の痛みが和らぐよ」


二人は、久しぶりの再会にあれこれと話しを続けた。

夏江の入れてくれたお茶がおいして懐かしかった。


「ところで今日は、彼女の所に行ったのかい?」

「いいえ」

そのことには触れたくなかった。

しかし、夏江は続けた。


「行かない方がいいよ。もう彼女のことは諦めな」

「何故ですか?」


「先月の4月に結婚したのよ。実はオレも小谷野の本家の自宅で行われた挙式に呼ばれた。何故か、双方の親戚だけの地味な結婚式だったのよ。亮子と言うのだろう彼女・・・」


「誰と結婚したのですか?」

「お見合い結婚だとさ。相手は、嫁に行った姉さんの旦那の親戚だとか、婿養子になったよ。本家には後継ぎがいないからね」

「そうですか・・・」

喉が渇きぬるくなったお茶を啜ると、夏江はすぐに急須を傾け新たに注いでくれた。


「そうそう、この3月には男の子を出産しているよ、婚約者が交通事故で亡くなり、その子供が生まれることを承知の上で、婿入りしたそうだよ。婚約者ってあんたのことだね。この話を聞いてピーンときたよ・・・だから生まれた男の子は、あんたの子供に間違いない。あの娘は、あんた以外には付き合っていた男はなさそうだからね」

「そうだったのですか・・・」


「だから、もうあの娘のことは諦めなさい。今あんたが出て行ったら、大変な騒ぎになる。運がなかったと思って、新しい彼女を見つけなさい。どうせ女にもてるのだから、いくらだって結婚の機会はあるさ・・・おばさんと結婚するかい・・・冗談だよ」と、笑った。


「今日は泊まっていくのだろう。疲れ切った顔しているよ。ゆっくりと休みな。あんたの部屋は、今でもそのまま空いているからね、・・・おばさんを抱いてなんて、言わないから安心しな。だって結核病は伝染病だろう。この年で結核になったら、あの世行きは間違いない。くわばら、くわばら。キスしても感染するのだろう?」


「抵抗力が弱いとうつることがあります。僕は今、感染の危険性がないので、ようやく外泊の許可が出ました。お言葉に甘えて、泊まらせてもらいます。今日は疲れました・・・」


「ふとんも、いつ戻ってもいいように綺麗になっているよ。あんたの男の匂いが、だんだん消えてゆくのは寂しかったけれどね」


「それから、去年あんたが事故で戻らなくなってから、彼女がここに、あんたの消息を訪ねて来たよ。私だって行方が判らず、力にはなれなかったけど・・・秋になって、病院からあんたの手紙が届いたけど、記憶喪失だと言うので彼女が訪ねて来たことを言っても、判らないと思って何も伝えなかった・・・」


「そうだったのですか、いろいろご心配をかけました」

夏江を訪ねて来て、よかったと思った。

いろいろな状況が判明した。

亮子との駆け落ち同棲や結婚ができなかったのは、自分に運がないと受け止めた。


慈愛の言葉

「いいかい、祐二。母さんの言葉だと思って聞きなさい」

「・・・」


「女はね、子供ができると男よりも腹を痛めた子供を優先する。好きな男よりも子供を大事にして、その子を育てることに生き甲斐を求める。だからいずれ、あんたのことを忘れることができる」

「・・・」


「あんたは、女のことを忘れられないだろうけどね、それに自分の子供にも会いたくなるけど、そっと見守るだけにしなさい」

「・・・」


「いいかい、ひと目息子に会いたくなったら、毎年7月に印内八坂神社に来て、息子の成長を見てあげな。印内町の祭礼祭りには、この辺の子供は必ず行くから、そこで母親に連れられた自分に似ている男の子を見つけなさい。だけど、決して声をかけちゃダメだよ」


「夏江さん、ありがとう。大好きだ、母さん・・・」


久しぶりに、夏江の手料理で夕ごはんを食べた。

彼女の作る家庭料理は、うまい。

胃袋だけでなく、母親のような味わいに心も満たしてくれる。


祐二には実母の面影もなく、本当の母親のやさしさや子に対する母の愛情を知らない。

ただ、今は継母の順子や叔母の小百合、年上の恋人だった貞子にはない夏江の母親のような慈愛に満ちた言葉と手料理の温もりに胸が熱くなってくる。

これが、本当の母親の姿なのだろうか。

祐二は目がしらが熱くなり、涙が零れるのを押さえながら夏江の手料理に箸をつける。


祐二は、明日すぐに諏訪に戻ると決心をした。

東京の実家に寄ることも、勤務先に顔を出すことも止めた。

小谷野家と実家へのみやげの全てを夏江に渡した。

諏訪に戻り、愛子と結婚することが随一の選択肢であり結論となった。

これでよかったのだと、20歳の自分に言い聞かせた。


かつての自分の部屋に入ると、昔のままにちゃぶ台や小さな扇風機が置かれ、押し入れの中には自分が寝ていたふとんが置かれていた。

黴臭くない。

おそらく夏江が、日干しをするなど定期的な手入れをしてくれていたのだろう。


この部屋でちぎれた愛を取り戻したあの夏の日、管理人の夏江さんに見られていても、瑞々しく成長していた亮子を二度と離すまいと、楔を打つように激しく抱いた。

・・・いろいろと回想が巡ってくると、その夜は眠ることができなかった。

体も心も困憊していたが、精神的な興奮が続いていた。

そして脳裏には、亮子と雪子の二人の笑顔が交互に浮かんでは消えていく。

その内、映画やテレビドラマのように二人の女の回想は具体的な音声までも耳に響いて来る。


亮子との回想では、中学校の同級生だった2年間の物語。

陸上部のロードランニングで拾った馬蹄を届けた日のこと。

体育祭の日の2人だけの教室で初めて結ばれたこと。

次は亮子の高校受験失敗と、自分の夜間高校への転校と都会の自立生活で会えなくなってしまった3年間。

そして突然の不幸な再会。

しかし、亮子の愛の深さを知った手編みのネクタイの誕生日プレゼント。

復活した二人の純愛。

その後は、確かな恋人同士としての育みと幸福に満ちた1年間ばかりの婚約時代。

さらに、突然の悪夢に襲われた婚約と養子縁組の解消。

それに続く駆け落ち。

しかし、それさえもオートバイ事故で霧散した。

記憶を失った上、東京の病院から長野県のサナトリウムへと続く結核療養。

それによって、愛しい亮子との再会は実現しない。


続いて、そのサナトリウムで働く幼い雪子の笑顔と出会う。

愛らしい女との恋が芽生え、恋人亮子との狭間に揺れる『がしんたれ』男の心模様。

・・・今の祐二には、『不運』と『後悔』の文字が、テロップのように何回も流れてゆく。

男泣きの涙に枕が濡れる。

(ああ、亮子)・・・(雪子!)


翌日の午後、祐二は中央本線の下り列車の中にいた。

管理人の夏江は別れ際に、

「もう二度とここには来ないのだろう、分かっている。いいよ、私も覚悟を決めた。名残り惜しいけれど。いいかい全てを忘れて、再出発するのだよ」

と、惜別の言葉を残してくれた。

(私は、お前に抱かれたことを死ぬまで忘れないよ、私の可愛い息子よ・・・)


そして、思春期から慕い愛し続け、愛されてもきた小谷野亮子との決別の現実を受け止めていた。

忘れることができないことは、分かっている。

それでも、忘却を誓う心の悲しさに泣いた。

そこには、まだ二人の女を愛している自分がいた。


それでも現実には、諏訪に戻ったら愛子に求婚する決意を固めていた。

愛おしい女にふられた反動で、求婚する訳ではない。

心の底から愛している女を手放したくないという、純粋な愛で結婚するのだ。

そう自分に言い聞かせた。


療養所に戻ると、雪子を見つけて第5病棟の裏庭に呼び出した。

二人が、初めてキスした場所。

彼女は、祐二の早い帰還に驚きと喜びの声をあげた。


病棟の壁に寄りかかって、彼女を待った。

女が小走りで、駆け寄ってきた。

泣きながら、走ってくる。

男の前に立つと「ワァ、ワァ」と、大きな声をあげて泣く。

そして、拳を作った両手で男の胸を叩く。

受け止めた。

すぐに胸に抱き寄せると、女は男の胸で泣き続けた。


「雪子、結婚してくれ。オレと結婚してくれ!」

涙顔で、女は男の顔を見上げた。

そのまま口付けを交わした。

病棟の片隅から看護師の田島洋子が覗き見をしている。

以前の覗き見の際には、キツネ目で睨んでいたが、今は涙に抱き合ってキスする2人の姿を、微笑みを浮かべてやさしい眼差しを送っていた。


その年の夏、松岡祐二はサナトリウムを退所した。

その10カ月間に及ぶ療養生活で、彼の病魔に侵された肺気腫は固められていた。

そして、結核菌は一度も認められることがなかった。

痩せていた体重は平均体重まで増えるとともに、僅かに伸長も伸びた。

もう、少年のような体には見えない。

完全に、大人の健康体になっていた。


新生活

祐二は退所と同時に、伊藤家に同居することになった。

勿論、伊藤家の一人娘の雪子と、祐二との婚姻がその前提となっていた。

伊藤家では、雪子が18歳になる秋に、祐二との結婚を考えていた。

それと同時に、彼が伊藤家の婿養子になることも確認していた。

今回の養子縁組では、祐二は自分の親の了承を取らなかった。

祐二は正直に過去に破談となった事情を説明して、伊藤家にその理解を求めた。


こうして晴れて、彼は『伊藤祐二』となった。

祐二は名字が松岡から伊藤に変わったことで、完全に松岡家と絶縁となったと、一種の安堵感を覚えた。


伊藤家の2階にある雪子の部屋が、二人の愛の巣となった。

二人がラジオを聴いていると、歌手の相良直美が歌う『いいじゃないの幸せならば』が聞こえてきた。

二人は、笑って顔を見合わせた。


諏訪地方に、山からの澄み渡る秋風が青空に流れていた。

伊藤家では、自宅で身内だけの、内々のささやかな結婚の儀式が行われた。

新郎祐二は21歳、新婦の愛子は18歳の若い夫婦が誕生。


媒酌人は、地元の農業地区長の老夫婦。

親戚は、母光子の姉夫婦の二人だけが列席した。

伊藤家の囲炉裏端の隣にある和室に8人が集まった。


新婦の雪子のいでたちは、白無垢の和装であった。

ただ『はこせこ』や懐剣を持たない質素なもの。

従って、髪形は綿帽子や角隠しの文金高島田をやめて洋髪にしていた。

小さな花簪(はなかんざし)を一つだけ付けていた。

祐二は、黒門付きの羽織袴を衣装店からレンタルした。


晴れて夫婦になった2人は、農業の本格的な修業に励むことになる。

ただし、雪子は家計の安定のために引き続きサナトリウムの栄養科で働いた。


小さな幸せ

こうして何の問題もなく、伊藤家の人々は、ささやかではあるが平穏で幸福な日々を送る。

祐二は農作業にも次第に慣れ、義父の幾三とともに汗をかいた。

色白だった顔色も、日に焼けて黒くなってくる。

体のあちこちに筋肉がついて、逞しい農夫の青年になっていった。


伊藤家の農業は、諏訪地方が標高800メートルの高冷地ということもあって、稲作が主体ではなかった。

朝晩の気温の変化が大きい気候風土を生かして、花き、野菜、果物などを生産していた。


花き類では、菊、カーネーション、アルストロメリアなどを栽培。

野菜類では、セルリー、パセリ、キャベツ、ダイコン、果物ではかりん(まるめろ)とイチゴを栽培していた。

一年中栽培が可能なアルストロメリアを除けば、6月から11月までの期間が繁忙期となる。そのため、冬季は暇になるので、近くの工場に臨時工員として幾三も祐二も働いた。


ある晴天の秋、伊藤家一家は全員で、菊とりんどうの刈り取りに出かけた。

午前中から始まった刈り取りは、昼食を挟み午後も続く。

その後2時間ほどがすぎると、突然、義父の幾三が額の汗を手で拭きながら、祐二に声をかけた。


「そろそろ、たばこにするべえか?」


腰を曲げて作業をしていた祐二は、その声掛けに腰を立たせて作業の手を休めた。

「あ~っ、はい。たばこですか?」


「うんだ、たばこにするべえ」

「僕はたばこを吸わないですよ、お父さん。結核が治ったばかりの身ですから」


その会話を聞いていた雪子と母の光子が、顔を合わせて大声をあげて笑い出した。

唖然とした祐二は、母子の笑う姿を見つめた。


「何か、可笑しいのですか?」と、疑問をぶつけてみた。


すると、雪子が祐二の傍に駆け寄って、耳打ちをした。

「祐二、たばこって、吸うたばこのことじゃないのよ。おやつのこと。3時のおやつよ」


「ええ~っ、なんだそうなのか。知らなかった」

祐二も笑って、幾三の顔を見た。

笑っている。

(なるほど、煙草も吸って一服する。一休みか。おやつも一息入れて一休みする。似ているな・・・)


4人は作業小屋の横に座って、3時のおやつを食べる。

先程のたばこのことがあって、4人はクスクスと笑いながら、にこやかにおやつのひと時を楽しんだ。


農家のおやつは、お菓子やパンではない。

味噌をまぶした小さなおにぎりと、おしんこ類。

たまに、果物も食べることもある。

小さな幸福の時が流れた。


だが、逞しくなった祐二に比べ、雪子は若いというのに何故か近頃は食が細り痩せた様に見える。

両親はその姿を見て、娘が女らしくなったと思っていた。

ただ、祐二は、夜の臥所(ふしど)で抱く雪子の体が弱々しく感じて、激しい性交を自重するようにしていた。


そして、あっという間に幸せの時が過ぎ、二人の結婚生活は2度目の冬を迎えていた。

両親の幾三と光子は、早く初孫の顔を見たいと願っていた。

若い夫婦には、まだ子供が生まれていなかった。


ああ雪子

酷寒の2月、雪子は朝から急に高熱を出し、勤め先の療養所を急遽欠勤した。

午後にもなっても、高熱は下がらず激しい咳を繰り返していた。


祐二は雪子を車に乗せて、サナトリウムに向かった。

最初は婦人科を受診したが、すぐに本科に移された。


激しい咳も治まらない。

その咳からは血痰が出た。

高熱も全く下がらないため、緊急入院の措置が講じられた。

結核の専門病院でもあり、その症状から念のため結核菌の検査も行われた。


担当医は、検査の結果が出ていないにも拘わらず、深刻な顔を隠さず「結核の可能性が高い」と、言った。

それも、かなりの重症だと断言した。


サナトリウムでは、患者だけでなく勤務する関係者にも、定期的な結核予防のための検査を行っていた。

これまでの検査でも、雪子には異常はなかった。


(まさか完治したオレが雪子に結核菌を感染させてしまったのであろうか。結核菌は空気感染もあり得る。体力が弱ると感染し易いと聞いている。勤務中のサナトリウムで感染した可能性もある。それにしても、全くその予兆がなかった)


雪子は、すぐに個室に入った。

祐二から知らせを聞いた母の光子が入院中の着替えなどを用意して、サナトリウムに駆けつけた。


祐二は、ベッドに横たわり高熱でうなされている雪子の手を握っていた。

深夜になっても、雪子の容態は回復の兆しが見られない。

二人が徹夜で見守る中、そのまま雪子は帰らぬ人となった。


信じられないほどの、あっけない死だった。

祐二と光子は抱き合って、慟哭を繰り返した。

駆けつけた幾三は、静かに眠る娘の顔を見ても、その死を信じられなかった。

昨夜も4人で楽しい団欒をすごしたばかりで、明るく笑うその雪子の顔が瞼に浮かぶ。


通夜も葬式も、伊藤家の自宅で行われた。

少ない親戚に加え、勤務先のサナトリウムの関係者も参列した。

看護師の田島洋子も参列した。


当然、喪主は祐二。

サナトリウムの関係者は、雪子の死因が結核病であったことから、皆一様により深刻な表情でお悔やみに来ていた。

参列者の誰もが、そのことを一番気にしていた。

雪子がサナトリウムに勤務していたから、結核をうつされたと。

雪子を死に追いやったのは、サナトリウムだ。

特に悪いのは、結核患者だ。

口には出さないものの、雪子の両親はサナトリウムの関係者に冷たく鋭い視線を送った。


それは、祐二にも向けられていた気がする。

愛娘を奪ったのは結核だ。

サナトリウムには、結核患者が多く収容され、夫となった祐二もそのサナトリウムの出身者である。


幾三と光子の夫婦は、49日が過ぎて墓地への納骨が終わると、その心底に燻る結核患者への憎悪の気持ちが、一段と高まるのを押さえ切れなかった。

特に、日々の生活の中で共に暮らす祐二には、その二人の憎悪の目線が鋭く刺していた。それを察知して、祐二は次第に居た堪れない気持ちになっていくのだった。


祐二は、ついに出奔を決意する。

深夜、静かに身支度を整えた。

雪子に贈った結婚指輪を自分の小指に嵌めた。

そして雪子の愛用していた小机から、雪子の大事にしていたお守り袋などをボストンバッグに収めた。

さらに引き出しの奥に手を伸ばすと、2通の封書が出てきた。


それは、祐二が小谷野亮子と小谷野家に送ったはずの封書であった。

切手には、消印が押されていない。

祐二は驚いた。

あの小谷野家への手紙は、投函されていなかった。

(だから、返書がなかったのか・・・)


だが、祐二は雪子を怒る気持ちは全く涌かなかった。

確実に小谷野家と連絡を早く取るのであれば、小谷野家の電話番号は記憶喪失でうろ覚えだったが、電話帳で調べればすぐに判ることでもあった。

それを敢えて実行しなかったのは、自分自身だったのだ。


むしろ、雪子の自分に対する愛の強さを感じた。

唇を噛みしめると、涙が流れた。

彼女の愛らしい笑顔と、その言葉が脳裏によみがえってくる。


『私たち、お似合いの恋人と呼ばれているのよ・・・』

と、よく言っていた。

その時に笑う雪子は、いじらしいほど可愛い。

過ぎ去っていった雪子との愛の季節が、嗚咽を呼ぶ。


(サヨナラ雪子、可愛いオレの雪子・・・)


1971年(昭和46年)の4月、祐二はコートに身を包み、ボストンバッグを持って花冷えのする富士見駅に立った。

諏訪での生活は、サナトリウムの入所と雪子との結婚生活を合わせて、3年半ほどの暮らしであった。


23歳となった青年は、東京へ向かい「御茶ノ水駅」で下車した。

久しぶりに、都会の匂いを嗅いだ。

大気汚染防止法や騒音規制法が施行されていたが、まだ都心では排気ガスの匂いが鼻を突く。

空気が澄んでいる諏訪から来ると、その違いがよく分かる。

それでも祐二は、その排気ガスが懐かしい。


印刷屋の仕事で、オートバイを乗り回していた頃を思い出していた。

その後彼は、「聖橋」のたもとに独り佇んだ。


3年ほど前の七夕の日、この橋で最愛の恋人・逸崎亮子と駆け落ちの待ち合わせをした。

俺は何故、ここに来なかったのだ。

その前日に亮子の友人と映画を見ることになってしまい、その帰り道に交通事故に遭遇した。

その不運と後悔の言葉が、背中に突き刺す。


心の中で、泣いて詫びた。

(悪いのはすべて俺だ。亮子ごめん・・・雪子ごめん)

男は寂しげな背中を見せながら、都会の雑踏の中へと消えて行った。


(終わり)



エピローグ1

1975年(昭和50年)の3月。

伊藤裕二は、千葉市にある<国立癌研究所>の病棟を訪ねていた。

継母の順子が乳癌で余命幾ばくもないと、義妹からの急報を受けて、見舞い方々数年ぶりに会いにやって来た。


その病室は個室でもなく、また一般的な数人の相部屋でもなかった。

大きな体育館のように広い場所に、重体の癌患者の百名ほどが簡易ベッドに寝かされていた。

まるで、戦時中の負傷者収容施設のような雑然とした病室であった。

そのため、順子が寝かされているベッドを探すのが一苦労であった。


広い場所を徘徊して、ようやくベッドの横に付いていた松岡順子の名札を見つけた。

すぐに裕二の顔には、大きな涙が零れていた。


「母さん」と、静かに呼びかけた。

寝ている順子の、大きくて窪んだ目が見開いた。

順子は、驚くも声が出ない。

その大きな瞳からは、大粒の涙が流れていた。

顔は窶れて、体もげっそりと痩せていた。

グラマラスなその肉体は衰えて、まだ46歳だと言うのに見るからに老婆のようだった。


裕二は、その日から1週間以上も夜通しで看護する。

そのほとんどの患者には、身内の者による24時間の看護が行われていた。

患者のベッドに傍に、寝袋のようなものに寝起きしていた。

看護師は常駐していたものの、病院では末期癌の患者の多さに、家族や親族の泊りの看病を奨励していたのだ。

24時間介護する親族らは、患者の着替えから食事の世話に加えて、排便の始末などの介助をする。


夜中には「裕二・・・」と、順子の掠れた声がする。

下段の小さな寝袋に寝ていた裕二は、すぐに飛び起きる。

裕二は、尿瓶を持って順子の股を広げる。

そして、その中心にある女の性器に尿瓶をあてる。

小さな声で順子が「裕二、悪いね・・・」と囁く。


放尿が済むと、裕二はティッシュ・ペーパーで性器をやさしく拭う。

裕二は悲しくなって、順子の傍らに身を寄せてその頬に口づけをする。

すると「キスして裕二・・・」と、掠れた声が小さく聞こえた。

裕二は順子の髪をかきあげて、やさしくその唇に触れた。

順子の唇が、僅かに開いた。

裕二の舌が、緩やかにその口中に忍び寄った。

力を失っていた女の舌を静かに吸い上げた。

その夜から順子の放尿の度に、裕二は彼女の股間に吸い付いて、唇と舌で洗浄するのであった。

(僕ができる最後の親孝行だよ、母さん、いや順子さん・・・)

そして、1週間が過ぎた頃に義妹がやってきた。

裕二はその直後に、義妹と交代して順子と涙ながらに惜別した。


3月13日、ついに順子は46歳の短い生涯を終えた。

裕二が聞いた順子の遺言は、

①裕二愛している。

②二人の息子である圭司を見守っておくれ、だった。


こうして、夫の庄作に翻弄され続けた順子の短い一生は幕を閉じた。

妻が重い病気だったというのに、夫の庄作は一切看病もせず、病院費用さえも出さなかった。

裕二は、義妹を通じて病院の費用を支払って、埋葬も行い小さな墓も建立した。


翻って、裕二の実父の庄作は78歳で衰弱死したが、裕二の判断でその順子の墓には入れなかった。

庄作は死ぬまで、周りの人たちに迷惑をかけ続けた。

彼は犯罪者ではなかったが、資産家の我儘な子息では済まされないほど、多くの人間に嫌われ続けた人間であった。


翻って、裕二が亮子と無事に結婚して、小谷野家の養子になっていれば、二人の駆け落ちも、裕二がオートバイ事故に遭うこともなかった。

息子の養子話に金銭を要求したことを端緒にして、二人の相思相愛の愛が無残にも霧散した。

兎に角も、家族や親族にとって、庄作は諸悪の根源だった。

その意味では、継母の順子と裕二は、庄作を敵とする戦友でもあった。


人間の性格

世界的に嫌われる性格は、がさつ(NOISY)、短気(SHORT TEMPERED)、寄せ付けない(STRICT)、白黒つけたがる(EXTREME)、喧嘩好き(AGGRESSIVE)などがある。

但し、裕二の実父である庄作の性格の悪さは、以下の要素が融合したものであった。

①自分の意地を通す(STUBBOM)

②激情する(EMOTIONAL)

③威張りくさった(BOASTFUL)


ひらたく言えば、「傲慢、強情、過激」な性格で、治り様がないほどの嫌われる性格そのものであった。

まさに主人公の裕二の性格である①温和②優しい③非暴力とは、真逆で苛烈なものであった。


エピローグ2

2006年(平成18年)12月24日。

中山競馬場では、ディープインパクトのラストランとなる有馬記念が行われた。

朝からどんよりとした曇り空が続いたこの日、夕暮れは早く、日没とともに俄に冷たい北風が観客の頬を刺した。

最終レースが終わっても、ほとんどの観客は家路を急がずスタンドに止まった。

まだくだんの馬の快走と興奮が冷めやらぬ中、引退のセレモニーが行われていた。

去りゆく名馬とファンの一体化した感動が、ナイター照明のカクテル光線と相まって、競馬場とは思えない幻想的な雰囲気を醸し出していた。


そのスタンドの片隅で、うす汚れた薄手のコートに身を包んだ初老の男は、馬券が外れたショックが続いているのか、競馬新聞を片手に呆然と立ちすくんでいた。

失望感か、既に酔いが回っているのか目は虚ろである。

混雑で身動きすらできないスタンドの後列の片隅で、コートの襟を立てたその男は、小瓶のウィスキーをあおっていた。

しかし、その男を気にする人は周囲にはいない。

男は、騒然とするスタンドの先、ライトに照らされたダートコースを見入っている。

一世を風靡した名馬の引退と、自らの老いが重なったのか、次第に感傷的な気分に包まれていった。

正常な意識が少しずつ薄れる中、あの遠い日、前方に見えるダートコースを駆け回った少年時代の自分の姿が走馬灯のように蘇ってきた。


そして今、幼少から始まった流転生活にピリオドを打つため、再びこの地に戻ってきた己の心の弱さに、後悔の念に襲われるのであった。

男は、競馬場近くの中学校の出身者だった。


「亮子・・・」

吐くような、かすれ声が男から出た。

しかし、その声はスタンドの歓声に消えて、気づく者はいなかった。


引退セレモニーの終焉が近づくと、スタンドの一部で観客が動きだした。

男も、その動きにつられるように歩みを始めた。

酔いのせいか、足元がおぼつかない。

混雑で、帰路に向かう人達の足並みも、ランダムな動きで鈍い。


やがて競馬場では、引退セレモニーなどのすべてのイベントが終了した。

その影響で、長蛇の列が大波になって襲ってくる。

やがて、川の流れのような人の列は、競馬場の西門を潜ると葉の落ちた桜並木の坂道をゆっくり下り、坂下にある信号を右に渡って西船橋駅に向かう“新オケラ街道”に入る。


群衆が歩むその道は、車がすれ違うことができるほどの広さになり、足を僅かに速めて歩くことができた。

しかし、反対方向から歩む人や地元の車の走行もあって、帰路を急ぐ多くの老若男女が人の波間に体を擦り合っていた。


男は自分の前を、一人歩く幼女が目に入った。

その子は、後から波のように寄せてくる人々にどんどん飲まれていく。

人と少し触れるたびに、足元がふらついていた。

ほろ酔いながらも、男はその子の危険を察してすばやく駆け寄った。

すると、すぐさまその子と手を繋いだ。


「大丈夫か?」

幼女に声をかけた。

その子はキョトンとして、男を見上げた。

冷静に周りの人がその男の行動を見ていれば、誘拐と見間違い、誤解されてしまうような行動だった。

だが、この群衆の大波の中では、そんな他人の行動を直視する余裕もない。

皆が、我が帰路を急いでいる。


「お父さんや、お母さんはどうしたの?」

と、早口で尋ねた。

群衆の波が、後から後から二人を飲み込んでいく。

幼女の足では、この大波に再び飲まれてしまいそうだ。

少女は、男の問いに答えるのを躊躇している。

男は自分も立ち止まっていることの危険もあって、返答を聞く前に、すばやく両腕の中に幼女を抱きかかえた。


幼女は抗うこともなく、むしろ激流から助け出されて、抱きかかえられたことに安心した様子だった。

しばらく幼女を抱きかかえながら歩くと、道の両脇に農家が数軒立ち並ぶ通りに差しかかった。


右手にある小さな『妙見神社』を通り過ぎると、幼女がいきなり声を発した。

「あっ、あそこ。あそこにパパがいる!」

と叫ぶと、数メートル先の大きな門前に立っている男を指さした。


その男は、小走りでその怪しい男に抱き抱えられている幼女に駆け寄ってくる。

幼女の父親らしい男は、娘を抱きかかえてやってくる初老の男に、怪訝そうな眼つきで睨んでいる。


「この人混みに転びそうになっていたので、お連れしました」

と、初老の男は柔らかな物腰で言う。

そしてゆっくりと、幼女を自分の腕から下した。


「パパ~」と、幼女が叫んで父親に飛びついていった。

今度は、その若い男の腕に抱きかかえられた。

娘の無事に安堵したのか、父親は緊張と警戒感が解けていた。


「そうでしたか。それはご親切にありがとうございました。黙って一人で出かけてしまって、心配していたのですが。本当にありがとうございました」

と、何度も頭を下げた。


「いいえ、どういたしまして」

初老の男も軽くお辞儀を返して、家路を急ごうとした。

ところが、男はその門前の門柱に掲げられていた表札を見て驚き、立ち止まってしまった。


酔いが、一瞬に冷めた。

その古そうな木の表札には、『小谷野』と書かれていた。

彼は学生の頃、この辺りに地の利があった。

しかし、今はその昔の面影はすっかりなくなり、空地が全くないほど過密した住宅地に変貌している。


突然、「あの~、ここは小谷野さんのお宅ですか?」

と尋ねる。

「ええ、そうですよ。この辺には小谷野の名の農家は数軒ありますが・・・」


「つかぬ事をお聞きしますが、小谷野亮子さんはご健在でしょうか?」

衝動的に、いきなり実名をあげてしまった。

「亮子は私の母です。元気ですが、今は療養のため老人ホームに長期滞在中です。母のお知り合いですか?」


「中学校の同級生です。最近、船橋に戻ってきまして・・・」

「そうですか。母も自分の孫娘が昔の同級生の方に助けられたと知れば、喜ぶかもしれません。お名前をお聞きしてもいいですか?」


「いいえ、名を名乗るほどの者ではありませんから・・・」

と、慌てて首を横に振る。


「そうですか。実は・・・母は痴ほう症を患って、そこの古作町の『桜ホーム』にいるのです。もし、昔のお友達にお会いできれば、少しは記憶が戻るのではと、とっさにお名前をお聞ききしてしまいました。失礼しました」


「いいえ、こちらこそ失礼しました」

と、男は頭を下げると、その場を早々に立ち去った。


この初老の男は、この年58歳になる伊藤祐二。

中学生の頃は、松岡祐二と名乗っていた。

男は船橋市内の東中山町にマンションを購入し、単身この年の春に引っ越ししてきたのだ。


男は自宅に戻ると、いつものように独り酒を煽った。

(今日見たあの若い男は、もしかしたら自分の息子ではなかったのか。だとしたら、あの幼子はオレの血を引く孫娘かも知れない・・・)


若い時に妻と死別したこの男は、山梨県から出奔して東京で暮らしていた。

それ以降、彼は独身を通していた。


東京では職も住まいも転々としていたが、28歳の頃、出版社に就職して営業畑から始まり、今ではベテラン編集者となっていた。

来年の秋には、定年退職を迎える。

これまで周囲に対し、若き頃の過去については頑なまでに心に閉じて来た。

その胸の奥底には、長い間二人の女性が棲みついていた。


一人は、この世にはいない。

もう一人の女性は、この地で生きていることが分かった。

どうやら認知症で、記憶をなくしているらしい。


その翌日から男は何を思い立ったのか、自宅で自作の『紙芝居』作りに取り組み始めた。絵具と厚めの画用紙を買い込み、帰宅すると夢中でその制作に取り組んだ。


1カ月ほどすると、所要時間30分ほどの『紙芝居』が完成した。


その内容は、中学生の生活などを描いたありふれた物語だった。

何の変哲もない、思春期の男女の触れ合いのストリーだった。

ただ紙芝居のセリフには、その昔に亮子と祐二がよく使っていた言葉を思い出しながら、それらの台詞を、ふんだんに採り入れた。

場所の設定には、過去の二人が共にすごした思い出の場所を挿入した。


やがて、自作の紙芝居が完成した。

すると祐二は、民間の介護付き有料老人ホームである『桜ホーム』を訪問した。

受付で事情を説明すると、すぐに担当者との面談が行われた。

「ボランティア活動として、紙芝居を入所者の小谷野亮子さん1人だけに聞かせたい」と、説明した。


さらに「彼女の痴呆症の治療に役立つのではないか」とも懇願してみた。

すると担当者は、「入所者一人だけに紙芝居を見せることは、社会的なボランティア活動の趣旨にそぐわないと思います。それに小谷野さんは「痴呆症」というよりも『相貌症』で、人の顔が認識できない病気なのです」と、否定されてしまった。

伊藤祐二は、首をうな垂れて帰宅した。


しかし、その1週間後、突然『桜ホーム』の担当者から裕二に連絡が入った。

用件の趣旨は、

「個人的に紙芝居を入所者に見せることについては、面会の時間内で、かつご家族のご了解が得られれば可能です」とのことだった。

さらに「既に息子さんなどご家族のご了解を得ていますので、貴方のご都合で面会時間を厳守していらして下さい」と、言われた。


翌年の1月の午後、祐二と亮子は『桜ホーム』の面会室で38年ぶりに再会した。

亮子は、その昔に祐二が会った彼女の姉のように、品の良い面長の顔つきになっていた。ただ毛糸のカーディガンに包まれた両肩と腕の肉付きの膨らみは、往時の肉感的な色気を僅かに残していた。


彼は開口一番「松岡祐二です」と、旧姓を名乗った。

彼女は目をキョトンとさせて、

「はい、はい、よろしくお願いしますね。今日は紙芝居を見せてもらえるのですね」

と、はにかむように笑顔で口を開いた。

やはり、同級生でかつて恋人だった男とは分からないようだ。


その部屋には二人しかいない。

祐二は淡々と紙芝居を準備し、テーブルを挟んで向き合った。


「それでは小谷野さん、始めますよ」

と、声をかけておもむろに最初の絵を立てて彼女に見せた。


それからは1枚1枚丁寧に、ゆっくりと語りを始めた。

亮子は、真剣に祐二の紙芝居を見聞き入っていった。


最初は、亮子の自宅の裏手にある『ねがら道』の話から始まった。

このねがら道は、古くから語り継がれている葛飾民話。『やせどうかん』というキツネが洞穴に住んでいて、その昔、そこを通りかかる旅人に悪さを働いていた、という話で地元の子供なら誰でも知っている。

当然、古くからの農家出身の亮子ならば、幼い頃に聞かされている逸話。


その次からは、祐二と亮子が登場する。

中学校での席を同じくしての亮子と祐二の思春期の楽しい会話。

運動会の日に、二人きりになった教室で初めて結ばれたことへ続く。

そして、二人のち切れた愛を取り戻した亮子から祐二への誕生日プレゼント。

祐二は、この日もその誕生日プレゼントの黒のレース糸で編まれたネクタイをしてきた。


その話の際には、指でネクタイの結び目を触って、亮子の注意を喚起してみた。

彼女は果たして、そのネクタイのことを想い出したのだろうか。

彼のその仕草に目線が誘われ、亮子が微かに微笑んだ気がした。

さらに、千鳥ヶ淵でのボート乗りの初デートから、婚約後のオートバイでのツーリングまでの青春の思い出の日々を語った。

そして、最後は御茶ノ水の<聖橋>での駆け落ちのための待ち合わせなどを静かに語った。


・・・こうして祐二が語る「君だけの紙芝居」は、静かに終わった。

祐二には、長い時間紙芝居を語っていたような気がした。


最後に彼は笑顔を作って「はい、おしまい。終わりです」と、言ってお辞儀をした。

それから、ゆっくりと頭を上げながら、亮子の顔を覗いた。

彼女は昔と同じように、再びはにかんだ笑顔をみせながら、音をたてずに両手を叩いた。

そして、今も美しいその二つの瞳は、下から祐二の顔を凝視している。

やがて、そこからは一雫の涙がこぼれ落ちていた。


(完)


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聖橋に消えた恋 逸崎雅美 @also8420

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