聖橋に消えた恋

逸崎雅美

第1話       流転と初恋    


[目次]

プロローグ

第1章   商家の跡継ぎ

第2章   若い叔母

第3章   継母の憂鬱  

第4章   相乗り登校


はじめに

当『聖橋に消えた恋 昭和ブルース』は、作者の青春時代の体験を赤裸々に描いた私小説の部分を基本としています。

しかし、その一方で多くの部分は創作で飾り付けをしています。

従って、決して事実だけを綴ったドキュメンタリーではなく、あくまでも創作の域を出ないフィクションの小説といえます。

平たく言えば、事実の出来事と創作の部分との合体です。


翻って、当小説は太平洋戦争が終焉した直後の、所謂<昭和時代>の中期が舞台設定になります。

そのことから、平成時代や令和時代とは、文化、経済、通信などの社会構造が著しく異なっております。

例えば、スマホもまだ普及していなかった時代でもあり、当時の生活や文化に違和感を抱く方が多いかもしれません。

その意味では<昭和時代のブルース>を訴求した小説にもなります。


そうした現代とは異なる時代環境下における私的体験では、貧乏暮らしの中で家庭内暴力(折檻)、継子虐め(差別)などがあり、また義務教育でありながらも一度として親から登校や勉強を命じられることもなく、全く自由のない半封建的な家庭生活の中で家事や子守などを強いられてきました。

そのため止むを得ず、塀の中の児童相談所にも入所したこともありました。


しかし、そうした中でも思春期を迎えて異性との本格的な恋愛を通じて、死ぬほど愛するような恋愛も経験してきました。

やがて勤労学生として、現実の生々しい実社会に一歩足を踏み入れると、戦後の経済復興の激流に揉まれながらも夜の水商売にも染まり、競争社会の殺伐とした世に生きていきます。貧しくて大人しい気弱な少年が生きていくことは、常に艱難辛苦が伴い砂を噛むような辛酸の連続でもありました。それでも流されるままではありましたが、様々な異性と身も心も触れ合いました。


他方、『昭和時代』と言えば、多くの方々が先ず「バブル期」の昭和を想起します。

しかし、それは錯誤による誤解でもあります。

バブル現象の特徴期は、1991年(平成3年)~1993年(平成5年)になります。


あの所謂<バブル>で主役を演じたのは、証券業界や建設業界などのごく一部の大企業による一過性の景気高揚の狂奔劇でした。地上げと株価の暴騰です。

そのことによって、我が国の8割を占める中堅企業、零細企業、個人業に従事する多くの庶民の生活実態とは、乖離していた格差社会の象徴的な経済現象でありました。


このように「バブル≒昭和」と誤解されていますが、正しく昭和時代を大別すると、

①第二次世界大戦・以前の<軍国主義>に狂奔した昭和時代、

②敗戦直後からの経済復興期にかけた人口増加の昭和時代、

③高度成長期から生活水準がより高まった時期で、その終焉に前述の一過性の<バ  ブル現象>があった平成時代へと移る時代です。

いわゆる「ブラック・マンデー」の世界同時株安で、幕を閉じる昭和時代の最後になります。


なお当小説の舞台は、上記②の昭和時代に当たり、当小説の主人公は1948年(昭和23年)生まれのいわゆる「団塊世代」(昭和22年から同25年)に当たります。

戦後の経済復興のために<子供を産めよ、育てよ>という、我が国の太平洋戦争の敗戦による裸一貫のゼロ状態からの再出発の位置にあった昭和時代における青春物語となります。


当時の社会世相を探ると、大相撲は年2場所制で夏場所は東富士、秋場所は増位山が優勝しています。

一方、野球では既に高校野球が春と夏に行われていました。

プロ野球は8球団制で、横文字でジャイアンツ、タイガース、ホークス、ブレーブスなどが存在。夜景に野球を楽しむ<ナイター>が始まったのもこの頃のことでした。


他方、主人公と同じ1948年生まれの有名人では、前田美波里、前川清、鳩山邦夫、福永洋一(騎手)、森山良子、鈴木宗男、都はるみ、江夏豊、山田久志、春日局研究の第一人者である上野千鶴子先生(社会学者)などの方々がおられます。

NHKの朝ドラの素材になった笠置シズ子が歌う<東京ブギウギ>が大流行したのも1948年(昭和23年)のことです。

さらに、世間を震撼させた「帝銀事件(多重性の毒殺事件)」や「寿産院事件」が起きたのもこの年で、福井大地震(死者3,769人)の勃発と警視庁に「110番」制が導入されたのもこの年のことでした。


翻って、当時でも1)資産家などの上流階級、2)中流階級(ホワイトカラーやブルーカラー)、3)下層階級(肉体労働者)という収入差による人間差別の格差がありました。


さて、当小説の主人公裕二の父親は「学徒出陣」で内地ではありましたが、軍隊に召集されています。

太平洋戦争の末期では、ゼロ戦で敵艦隊に死を覚悟して爆死するという、いわゆる学徒出陣組による神風・特攻隊が編成されていました。

裕二の父親は、その学徒出陣により内地の軍隊に駆り出されて青春を戦争に奪われた一人。

その戦争に青春を奪われた事で、文学青年を志していた父の精神は反社会的な体質に変貌していったと思われます。

但し、江戸末期まで武士だった父の祖父(裕二の曽祖父)は髷(まげ)を捨てて、明治時代に入ると、上京して商人となって大成功をおさめた大店の当主となった人物でした。

そうした中流階級のボンボン育ちで、苦労知らずの我儘な人間が裕二の父親でした。

この奔放な父親はまともに働かないため、その家族は浮浪者一家に近い貧乏暮らしが続くのでした。


その殺伐とした逆境の全てを語り綴ることはできませんが、はっきりと言えることは「事実は小説よりも奇なり」だという事です。

例えば小学校の転校歴では、全て旧名ですが①江東区立・白河小学校(入学)→②国分寺町立・国分寺第二小学校→③市川市立・若宮小学校→④市川市立・鬼高小学校→⑤福生町立・福生第一小学校→⑥国分寺町立・国分寺第二小学校(卒業)です。

なんと6年間に6回も転校を余儀なくされています。

当時の教科書は全国統一ではなく、その度に教科書を買い替えるお金もなく、また転校の隙間の期間も多々あっため、算数の九九算が習得できたのは6年生の卒業間際の頃でした。


そうした流転を繰り返す貧乏一家にあって、前半生の青春時代の中で、挫きそうな心を癒して支えてくれたのが異性の心優しい人々でした。

それでいて思春期の初恋や青春時代の恋愛模様は、美しくも儚いものでもありました。

それらの数々の思い出は、老境の今となってもエスプリとして私の心を痛烈に支配しています。

現代の若人にとっては時代錯誤の恋愛模様かもしれませんが、実際に存在していた「愛すること、愛されることの美しさ」の一端を、現代の若人にも知っていただければ望外の喜びです。



<登場人物>


・松岡祐二  

松岡家の長男。小柄で細面の顔たち、二枚目ではないが女性の母性本能を擽る隠れた魅力もある。性格はおとなしく温厚そのものだが、好きな女性には積極的。

ただ、どんな女性にもやさしすぎる欠点も。

幼い頃に両親が離別し、実父と継母に育てられるが、極貧生活の中で父の暴力や継子苛めなどに加えて家事労働も強いられる。働きながら夜間高校に通いも、その傍ら六本木のサパークラブで働く。その間に様々な多くの女性と関係するも、心から愛する中学時代の小谷野亮子を慕い続ける。やがて亮子と婚約し小谷野家の養子縁組も決まるが、父の粗暴な行動で破綻する。

亮子と駆け落ちの約束の日、まさかの交通事故に遭遇。

記憶を失うとともに、肺結核を発症して大学病院から長野県の結核サナトリウムへと変転する。


・小谷野亮子(こやのりょうこ)

大農の女系家族の九女の末娘で、野菊のような純朴な心の持ち主。

ただ内面は、女そのものの情念に溢れている。

大柄ではないが肉感的な美貌の持ち主。

中学生の時に祐二と結ばれ、相思相愛の関係になるも高校受験失敗で会えなくなる。

だが、3年半後に再び二人の愛は蘇る。

深く愛し合った二人は婚約、婿養子と順調に愛を育むも、裕二の父親の粗暴な行為で破談になってしまう。二人は駆け落ちを計画するも、その日に愛しい祐二は消息不明となってしまう。裕二の子を宿していた亮子は、籠の鳥となっても彼が戻ることを固く信じて一人待つのであった。


・石田百合子

松岡裕二と小谷亮子の中学校のクラスメート。

バレーボール部のスポーツ・ウーマンで長身の美人で俊才でもあった。

密かに裕二を慕っていた。

大学進学が決まった頃になって、突然に裕二のアパートを訪ねてその愛を告白する。


・伊藤雪子

諏訪の農家の一人娘で、サナトリウム病院に働く純朴な少女。

祐二の恋人の亮子と顔も体付きも似ている。祐二と結婚するも結核病で急死してしまう。


・藤久美子

祐二の小6の同級生で初恋の女性。家が裕福で美人の人気抜群の女の子。

バレエ部の花形マドンナだが、母性愛なのか貧しくひ弱な祐二に魅入られる。

二人は自転車の相乗り通学をするが、その途中の茶畑で結ばれる。


・沢村レミ

元モデルのハーフ美女。背の高い見事なプロモーションの持ち主で、祐二が勤めるサパークラブの人気一番の若きホステス。祐二と正月を共にすごすことになる。


・木村貞子

上野(旧・竹町)のクラブ『蘭』の人気ホステス。

祐二の働くサパークラブに客として現れるが、美人でもない年上の子持ちの貞子に祐二は魅了される。


・小谷野夏江

祐二が下宿する市川のアパートの50歳代の管理人。

部屋での祐二と亮子の愛欲ぶりを盗み見し、その夜に祐二を誘惑する。

母性愛から裕二にオートバイをプレゼントする。

小谷野家の親戚だが、亮子はそのことを知らない。


・田島洋子

諏訪のサナトリウムの看護師。

祐二と雪子のキスの現場を目撃して、祐二を恫喝して肉体関係を迫る。


・松岡順子(旧姓・田辺)

裕二の継母。スタイルは八頭身のグラマーな肉体派。

それでいて顔立ちは、瓜実顔の美人。

裕二の父との間に一男・一女を産むも、長年正式に入籍(婚姻)できないことから、継子の裕二を虐待する中で弄ぶ。


・田辺小百合

継母・順子の妹。

裕二の義叔母に当たるが、年の差は9歳しかない若き叔母。

何かと裕二を心配してくれるやさしい姉のような存在。

だが裕二の父親とは、そりが合わずにやがて疎遠になってしまう。


・松岡庄作

裕二の実父。

短気で粗暴な大男。

明治維新までは武家であったことを誇りにして<武士は食わぬけども、高楊枝>を地で行く傲慢な怠け者。

人に対して頭を下げることができない、我儘で独善的男であった。

明治維新では、藩主でもなかった武士は例え家老職であっても、明治時代には皆すべて平民となったもの。その藩主や貴族ですら、その全てが華族(侯爵、公爵、伯爵、子爵、男爵)にはなれた訳ではない。

そして、昭和時代に入り太平戦争が終わるとGHQ(連合国最高司令官総司令部)の命令によって、明治時代から続いていた華族制度も解体された。

こうしたことでも、裕二の父親は時代錯誤も甚だしく、封建時代の気質を残していた男だった。



プロローグ

主人公の松岡裕二は1948年(昭和23年)生まれの、いわゆる「団塊世代」のど真ん中に当たる。今でも最も人口が多い年齢層になる。

その松岡裕二の記憶は、父の実家である浅草鳥越にある商家の敷地内にある社員寮の一室から始まっている。1952年(昭和27年)の頃のことであった。

この年の日本は、敗戦国の疲弊した経済から脱するため、金融政策の第一歩として「国際通貨基金」と「世界銀行」に加盟することとなった。

また、前々年からの「朝鮮戦争」の勃発による戦時特需もあって、我が国は敗戦の苦境を脱する体力はまだないものの、俄かに希望と活気が溢れだし始めていた頃にあった。


裕二の父の松岡庄作は、アクセサリー、装身具、雑貨などを扱う大店(問屋)の六男の末弟であったが、兄3人が病死や戦死する中で実質的には三男と言えたが末っ子であったため、我儘な苦労知らずの人間であった。

その大店の敷地内に庄作と妻、子供の裕二が横浜市から転がり込んで来て、家族3人で居候をしていた。


少年の生まれた地は、横浜市西区藤棚町であったが、その後には実母の実家である同市の神奈川区子安町に祖母と4人で暮らしていた。

両親のそもそもの結婚の経緯は、従軍看護婦をしていた実母と学徒出陣後に退役していた父とが、引き揚げの内航船の中で知り合って結ばれたものらしい。

従って、庄作はまだN大学の学生であり、就労の経験のない若者だった。

二人はいわゆる<できちゃった婚>で、裕二が生まれた後に正式の婚姻届けを行っていた。


翻って、松岡本家の社員寮の一室において離婚を強制的に迫る父は、それを頑として拒む妻をその大きな素手で殴りかかっていた。

妻はすぐさま畳に崩れて倒れこんでいた。

さらに大男の父が襲いかかろうとしたとき、幼稚園児であった息子の裕二は、室内用の箒(ほうき)の長い柄を振りかざして、懸命に父を背後から叩いた。

この幼子の意外な挙動に驚いたのか、父は妻への暴力を止めて部屋から出て行った。


まもなく裕二の両親は別居し、息子の祐二は父親に強引に連れられて、台東区根岸に住んでいた愛人宅の小さな借家に移り住んだ。

そこは、竹やぶに囲まれた別荘風の佇まいがあった。

下町の根岸には、文人や噺家が住んで江戸時代の名残がある文化的な香りがする下町の風情があった。

父の庄作はそこで愛人と婚約を結び、息子の祐二は、実質的に継母となった若い女性に育てられることになった。


但し、父と愛人との「婚約」や「結婚」は正式のものではなく、実態として夫婦生活を送っていたものの、裕二の実母と父は離婚が成立しておらず、法律的には夫婦ではなかった。


こうした事実を裕二が知るのは、交通事故で瀕死の重傷を負った後の20歳の頃になる。この背景には、裕二の実母が父との離婚を拒み続けて、離婚が成立していなかった事実があった。まさに実母と継母との女の戦いが数年以上も続いていたのである。


当時幼子の裕二には、そういった法律的な背景があったことは全く知らない。

従って、実質的に父と愛人の3人暮らしが始まって以来、裕二は実質的に継母となった旧姓・田辺順子を新しい母として「お母さん」と、呼んでいた。

産みの母親でないことは自覚していたが、ただ実母の顔やその声もうろ覚えの状態であった。

その母の顔は、当時の女優の<小暮実千代>に似た面影だけが、うっすらと頭の片隅にあっただけだった。


その後の父の庄作は、祖父から暖簾分けとして開業資金をもらい、深川清澄町に新居を兼ねた装身具店を開業するのだった。

そして1955年(昭和30年)4月、祐二は深川の白河小学校に入学する。


その直後に、この地で継母の順子は女の子を産んだ。

それを契機にして、祐二は両親からのけものにされ始める。

元々、彼は発達障害があったためか、日常生活の行動が緩慢でいつも鼻水を垂らしていた。性格は無口でおとなしい。体も大男の父に似ず、小柄で痩せこけていた。

食事や入浴などで粗相を起こすと、父と継母から罵声を浴びせられて折檻を受けた。


そして、早々と装身具店の「松岡工房」は倒産した。

放漫経営のうえに、店員に店の金を持ち逃げされていた。

それを皮切りにして、その後の祐二は小学校を6度も転校することになる。

当然、その度に引っ越しをしていたから、松岡一家は、まさに絵に描いたような「引っ越し貧乏」を地で行く、窮乏生活を繰り返すことになってゆく。


その中で稼ぎのない自分への怒りも手伝って、庄作の精神は病んでいった。

妻や子供に対する暴力だけでなく、親戚、知人、友人、勤務先など接する人々に危害を加え、警察沙汰になることも度々あった。

住んでいた近隣とのトラブルも、転居を繰り返す要因の一つであった。

さらに、いつしかアルコール中毒症にもなっていた。


転居先は東京近郊を転々とした。

東京では台東区の浅草鳥越を皮切りに、根岸、江東区清澄町、都下北多摩軍の国分寺町、西多摩郡の福生町、千葉県では市川市の北方(ぼっけ)、鬼高、船橋市本郷など、引っ越しと祐二の転校が続いた。

これらの転居が連続した理由は、父の仕事の関係だった。

一般的な転職や転勤ではなく、そのほとんどは仕事につかず明日食べる米が米櫃(こめびつ)の底をつくと、祖父や兄弟の縁故を頼って働きだすというパターンであった。その結果、祐二の家族はどん底の貧乏暮らしを強いられた。

継母の実家を含め、親戚などから借金することは日常茶飯事のこと。

父は双方の親戚から、怠け者の暴力男として嫌われていった。



第1章  商家の跡継ぎ

裕二の父の庄作は、学徒出陣で浜松の駐屯地に召集されていたが、日本国は1945年(昭和20年)に太平洋戦争で米国に敗れた。

沖縄に米兵が上陸し、東京などにはB29戦闘機による爆撃で街々は焼け野原の焦土と化した。さらに広島と長崎には原子爆弾が投下され、多数の日本人の命が奪われた。


戦争終結に庄作は、内航船に乗って東京・浅草の実家を目指した。

その船には、従軍・看護婦として祐一の実母も乗船していた。

二人は、その船中で知り合い親しくなっていた。

この内航船の最終寄港地は、神奈川県の横須賀港であった。


庄作は1925年(大正14)年生まれのN大学の学生である。

一方、祐一の母は1928年(昭和3年)生まれの看護婦(看護師)で、若い二人は意気投合してそのまま神奈川県横須賀町で同棲生活に入っている。


その後二人が正式に結婚するのは、横浜市神奈川区藤棚町のアパートに転居後の1948年(昭和23年)の9月のことになる。

それは、祐一が誕生したからであった。

祐一の誕生月は同年の9月であったから、二人はいわゆる<できちゃった婚>であった。


赤子が誕生したにも拘わらず、父の庄作は相変わらず働く意思がないまま、学生時代のポン友と麻雀に興ずる毎日を送っていた。

そのため稼ぎもない家計は、窮乏生活のどん底状態に喘いでいた。

戦勝国の米軍から支給される「ララ物資(米国の民間団体からの無料供与)」による脱脂粉乳やカンパンなどで食事を補っている有様だった。


ついに、その貧乏暮らしに耐えられなくなった母は、幼い祐一を連れて藤棚町のアパートを飛び出して、実家のある横浜市子安町へと移るのであった。

その後、こうした庄作一家の極貧状態を知った浅草・鳥越の松岡家の本家から、ただちに本家に戻るようにと強い要請があった。


こうして庄作一家の親子3人は、1952年(昭和27年)に松岡家の本家へと入ることになる。

父母が裕二を連れて横浜から浅草鳥越の父の実家である商家へと転居したのは、一家を支えるべき庄作が無職で働かないために生活が成り立たなかったことにあった。

だが、そこには庄作の悪企みの下心も見え隠れしていた。


お坊ちゃまの生活

祖父の商家は、装身具、カバンや雑貨などを取り扱う比較的規模の大きい問屋業を営んでいた。その実家の跡取りは庄作の長兄の幸吉だった。

だが幸吉には、娘二人が生まれていたものの男子には恵まれていなかった。

つまり、跡取りがいない状況にあった。

そのため会長で実質的な経営者である慶吉(裕二の祖父)は、三代目を継ぐ候補に苦心していた。

そこへ、その祖父の慶吉と顔がよく似ていた孫の裕二が、両親とともに居候を決め込んできたのである。


こうしたことから、会長の慶吉は俄かに孫の裕二を猫可愛がりして、三代目の跡取り候補として英才教育を施すのであった。


見るからにみすぼらしい幼子は、一転して上等な衣服を身にまとい沢山の玩具や絵本などを与えられることになった。

例えば、洋風の赤チエック柄のシャツに、絵柄の付いたハイカラなセーターを着せられた。

コール天のズボンには、ベルトに収まる皮製のホルダーが二つ装着されている。

本物と見間違うほどの2丁拳銃がそこに収まっている。

まるで西部劇映画のスターとそっくりのいで立ちである。


さらに、すぐさま幼稚園の入園手続きが採られて、鳥越神社の先にあるキリスト教系の「ポーロ幼稚園」にベレー帽をかぶって通園することになった。

送迎は店のお手伝いさんが担当していた。

加えて、絵画教室やヴァイオリン教室にも通うなど、まるでお金持ちの<お坊ちゃま>のような豪奢な生活ぶりに変貌するのであった。


しばらくすると祖父の命令により、裕二だけが両親が居る社員寮から引き裂かれて、祖父や二代目の叔父一家とともに本家の大邸宅に寝起きすることになった。

それは商人としての素養などを身に着けるための教育を受けるためであった。

毎日のように続く上げ膳据え膳の贅沢な食事に、痩せこけていた裕二は見る見るうちに肉付きが良くなっていった。

こうして裕二は、商人としての礼儀作法や風習や慣習を教え込まれていった。

商人としての返事の仕方やお辞儀に始まり、清潔な身だしなみまで細かな養育を受けたのである。この3歳から6歳までの期間は、裕二にとっては夢のような王子様扱いをされたお坊ちゃま生活を送っていた。

そもそも心根がやさしい裕二が邸宅に遊びに訪れていたのは、園児や近所の子供の女の子ばかりであった。

その広い和風庭園の中で、女の子に囲まれて<ままごと遊び>ばかりするのであった。


こうして松岡本家の手厚い待遇に気をよくした父の庄作は、再び昼間から家を飛び出して夜な夜な学生時代の仲間を集めては麻雀などに明け暮れる放蕩生活をするようになっていた。

それは毎日のように雀荘に通い続けるだけではなく、夜にはその雀荘の娘との密会も重ねていたのである。

その浮気の相手こそが、やがて祐一の継母となる田辺順子だった。


暗転

田辺順子の一家は、国鉄・飯田橋駅近くでもっぱら学生相手の雀荘を営んでいた。

順子は長女で有名な洋裁学校を出て、戦時中は軍事奉仕として縫製工場にも駆り出されていた経験があった。


その顔は瓜実顔で、目が大きくて整った顔立ちの美人であった。

さらに当時としては、背が高く身長が170cm近くもあって、アマゾネス的な女体をしている日本人離れしたグラマスな肉体派の女性であった。

女学校当時は、八頭身の健康優良児として表彰されるほどだった。

その容姿はまさに外国人モデルのようで、雀荘に通う学生らの憧れの的であった。

その容姿端麗で肉体派の若い娘を、強引に誘惑したのが裕二の父の庄作だった。

妻帯者の身でありながらも、庄作は強引に肉体関係を迫ると彼女を妊娠させてしまった。


庄作は裕二の母と離婚して、田辺順子と再婚することを決意する。

彼はすぐに本家の父と兄にそのことを告げる。

その報告を聞いた本家の父と兄は激怒した。

そして三代目の継承者としての裕二の立場を考慮して、その実母との離婚を断じて許さない結論を下した。

それでも我儘な放蕩息子の庄作は、愛人の妊娠を盾にして父兄の言い分を拒み続ける。

本家の父と兄が決断した結論は庄作を「勘当」することだった。

問題は、跡継ぎ候補の裕二の処遇問題であった。

本家は、裕二をすぐにでも養子に迎えるつもりだった。

しかし、親権は父の庄作にもあった。

その庄作は、ついに本家との手切れ金を要求して、勘当という絶縁の道を選んだ。

本家では止む無く、放蕩息子の要求を承諾するとともに、手切れ金を拠出して孫の裕二を養子に迎える段取りを整える。


ところがあくどい庄作は、既に金を貰って台東区根岸にある愛人宅に身を移していた。そして、その隙をついて裕二を誘拐同様に本家から連れ出したのである。


本家では、すぐに警察に通報して相談する。

だが、裕二の実母とともに庄作にも親権があることから、養子縁組が成立していない段階では実家の言い分が通らなかったのである。

こうして裕二は、実母と別れて父とその愛人の3人で台東区根岸に同居することになった。

庄作が裕二を連れ出した理由は、父親の愛情ではなく裕二を自分が困窮した際の切り札として手元に置く魂胆であった。


その後、庄作は本家から受け取っていた手切れ金を元手にして、江東区深川清澄町に<松岡工房店>を開業することになる。

その深川清澄の地は、継母となる順子の生まれ故郷でもあった。


第2章  若い叔母

継母の順子には、小百合という年の離れた妹がいた。

無理やり実母から離された裕二に同情し、何かと親切にしてくれたやさしい義叔母の女性。ただ順子とは年が離れていて、裕二とは9歳差しかない女学生の若き叔母であった。

ちなみに継母の順子は、1929年(昭和4年)生まれだったので、裕二とは19歳違いの若い継母でもあった。


浅草・鳥越の松岡家の本家から飛び出した庄作に、強引に連れ出された息子の祐一は根岸にある愛人宅の平屋の借家に緊急避難的に仮住いするのであった。

そこでは父と愛人の順子とともに、その妹の小百合と祐一の4人が暮らすようになった。

ただ、妊娠していた順子が次第にお腹の中の赤子が成長するのに伴い、女学生であった妹の百合子が幼子の祐一の面倒をみるようになっていった。


小さな貸家であったので、義叔母になる小百合と祐一は同じふとんで寝起きを共にする。

祐一は、時々寝小便を漏らした。

だが小百合はいつも笑って、そのアンモニアの沁みついたふとんを、外にある物干し竿に干して乾かしてくれた。

そうしたことを知って、寝小便をした祐一は、彼女に「小百合姉ちゃんごめんなさい」

と、泣いて謝るのだった。

その敷布団が生渇きで湿っぽい状態にあると、その夜には風邪をひかないようにと小百合は祐一を横抱きにして温めてくれた。

実母から離された祐一は、母に甘えるように小百合の胸に顔を埋めるのだった。


継子と私生児

父の庄作は、本家から受け取っていた手切れ金を元手にして、既に江東区深川清澄町に<松岡工房店>を開業する準備をしていた。

その深川清澄町は、継母となる順子が生まれ地でもあった。


やがて、その自宅兼店舗が完成すると、庄作一家は根岸から移転する。

ただ、叔母の小百合はそのまま根岸に一人残り、学業と飯田橋において父母が経営する雀荘の手伝いを再開するのだった。

それでも時々は、清澄町の新築の家に来て裕二の遊び相手になってくれた。

それは彼女の母性愛からくるやさしさでもあったが、内々には実家の両親からの示唆でもあった。

順子と小百合の両親(裕二の義祖父母に当たる)は、実母から無理やり離された裕二のことを心配して妊娠中の順子では何かと目が届かないことがあるので、幼い裕二の面倒をみるように小百合に指示していた。

この義祖父母の二人は温厚な人たちで、この後も血の繋がらない義孫の祐一をやさしく見守ってくれた。


義妹の誕生

やがて順子は、1955年(昭和30年)5月に清澄町で女の子を産んだ。

裕二に義妹ができた。

早速、出生届出書が江東区役所に提出されたが、父親である庄作の戸籍簿に妻子として掲載されることはできなかった。

何故ならば、庄作と裕二の実母との正式な離婚が成立しておらず、実態として庄作の妻となっていても順子と生まれたその娘は、戸籍法によって庄作の戸籍に入籍することができなかった。

そのことから、庄作の戸籍簿には「田辺順子の同戸籍である女子の認知届受付」と、生まれた娘の名前と生年月日が記されている。

つまり、生まれた女の子は私生児扱いとなり、母である順子の独立した戸籍に入ったものである。


裕二の実母と庄作の離婚が成立していなかった理由は、裕二の実母が庄作との離婚に応じていなかったからである。つまり協議離婚が法的に成立していなかったもの。

裕二の義妹にあたる女の子は、私生児扱いで誕生していたのだ。

小学1年生の裕二には、そのような込み入った事情は知る由もない。

それでも、妹ができたという自覚はあった。


こうした複雑な因果もあって、赤子の母である順子の心中は、次第に怒りと義憤に駆られてゆく。

この鬱憤と憎悪は、継子である裕二に向けられてしまう。

これを契機にその後の裕二は、順子の継子苛めの対象となって、日々苦しめられることになる。

父の庄作が創り出した二人の女のバトルは、幼い裕二とその異母妹になる赤子の女子にも長くて暗い影を落としてゆく。


折檻

浅草・鳥越の祖父の商家で三代目の跡取り候補として、幼少期にお坊ちゃま生活を送っていた裕二は、行儀見習いなどの作法などは受けていたものの、同年期の男の子としての腕白さや活発さには全く欠けていた。

只々、温和でやさしいだけが取り柄の子供になっていた。

そのため深川清澄町に居住するようになっても、その性格は変わらなかった。


深川の下町では、住宅街が立ち並ぶ一角にある十字路を挟んで、幼児や低学年の男子達が<戦争ごっこ>をして遊んでいた。

手には木剣を持って、さらにポケットには小石を詰めて、大きな声を張り上げて隣町組の敵方となった男子らを攻め込むのである。

裕二は、そんな戦争ごっこは怖くて参加するこができなかった。

また自邸の近くには小名木川が流れていて、高学年の児童が汚染されて汚い川面を平気で泳いでいたが、裕二は水が恐ろしくて川岸に立つことさえもできなかった。


従って、小学校に入学するまでは、近所の幼女らとままごと遊びをするのが祐一の何よりの楽しみであった。

だが、そうした裕二の弱弱しさを見かけるたびに庄作は、怒りをあらわにして近所にも聞こえるような大声を張り上げて、裕二の手を無理やり引いて自宅前に戻すのであった。

そして玄関前で止まると、裕二の片腕を持ち上げて大吊りにする。

裕二はいつものようにその折檻に泣き叫ぶが、泣けば泣くほど庄作の怒鳴る声が大きくなって裕二を罵倒するのであった。


父兄同伴

やがて満6歳を過ぎた祐二は、江東区立の深川の白河小学校に入学する。

そこには、勉強も運動も苦手の少年の姿があった。

継母の順子は赤子を産んで間もないこともあり、また父親の庄作は教育には無関心であったため、授業参観、運動会、遠足などに両親が参加することはなかった。

それを察して、義叔母の小百合は学校行事があるたびに、親代わりとなって代役を務めてくれた。

遠足の際などには先生や父兄から、二人は「若いお母さんね」と冷やかされた。

ただ裕二は、嬉しさで胸を熱くしていた。

母親に対するような思慕の気持ちなのか、異性に憧れる恋心なのかは、自覚できていなかった。


流転の始まり

傲慢な性格から客商売が下手な裕二の父は松岡工房店が倒産すると、深川・清澄町の自宅兼店舗を売却した。

そして松岡一家の4人は、都下・北多摩郡国分寺町に小さな平屋家を新築して移転した。こうして祐二少年は、小学校2年生の時に初めて転校を経験する。


国分寺の自宅の前には、武蔵野の雑木林が鬱蒼(うっそう)と茂り、その先には大きな酪農を営む農家があって牛が牧場で飼われていた。

当時の国分寺町戸倉新田は、東京のベッドタウンとして宅地開発が始まったばかりだった。

従って、この辺りはまだまだ武蔵野の自然の面影を色濃く残していた。

移転した直後の分譲地には、松岡家以外にはまだ一軒も新築の家がなく、松岡家は販売業者の「太陽住宅」の第1号の分譲地購入者であった。


国分寺第二小学校に転校した裕二は、早速クラスの女の子と親しくなった。

学校近くの農家の孫娘で、目がクリクリとした少女タレントの<松島トモ子>に似た可愛い女の子だった。

夏の頃に、その「よんこちゃん」の家に遊びに行くと、おみやげに大きなスイカを貰った。

裕二が小さな体で、大きなスイカを両腕に抱えて畑道を歩いていると、他の農家の人達がスイカ泥棒ではないか、と疑惑の眼差しを向けられた。

裕二は、愛想笑いを浮かべて家路を急いだ。

こうして裕二はまたしても、女の子の友達を作って転校したギャップを和らげていた。


ガチャポン

祐二は、小学3年生の頃から、風呂焚き係などの家事を父母から強いられていた。

その井戸は、南側にある半坪ばかりの小さなスペースに設置されており、風呂場は裏の北側にあった。


井戸は『ガチャポン』と言われる手動による汲み上げ式。

ホースロッドと呼ばれている鉄製の『汲み上げ棒』を上下に動かして、水を地下から汲み上げる。

大きなバケツにその井戸水を入れるためには、この重くて長い汲み上げ棒をガチャコン、ガチャコンと音を立てながら何回も動かす。

しかし、小柄な少年には腕力が足りないので、飛び上がっては棒を上に動かし、次にはその反動を利用して体重を乗せて下に振り下す。

これらの運動は、ジャンプ、懸垂、ウサギ飛びの連続運動を繰り返すことと似ている。

次には、井戸水で満杯になったバケツを手で持ち上げ、裏庭まで自力で運ぶ。

そして、風呂桶にその水を流し込む。

風呂に、十分な水が溜まるまでこれを繰り返す。


これらの肉体労働を、ほぼ毎日のようにやらされた。

ただ、これは腕力と背筋力を鍛えてくれた。

絶え絶えに息も上がるこれらの運動を耐え忍ぶことによって、内々の精神力の強さと粘り強い根性も次第に備わってきた。

そのため痩せすぎの小柄な体だったが、次第に強靭な足腰が徐々に備わっていった。


そのことから彼には飛びぬけた運動神経はなかったが、健脚だけは内心自信を秘めるようになる。

しかし、誰にもそのことを話したことはなかった。

彼は元々生まれつきの病弱で、ひ弱な体質の影響もあっておとなしい性格。

内向的で思ったことは、今もってはっきりと口に出せない引っ込み思案だ。

学校では、問われたこと以外にはほとんど口を開いたことがなかった。


みどりちゃん

佐々木みどりちゃんは、同じ戸倉新田に住んでいた近所の同学年の男子である。

そのお母さんは日本人だが、お父さんはアメリカ人で立川基地に勤務する軍人だった。


みどりちゃんは、野性的で活発な子だった。

ずいぶんと変わった性格で、学校では友人がいなかった。

家事手伝いに追われて遊ぶ暇もない裕二だったが、みどりちゃんが気まぐれに裕二を誘い出しに来ると、両親は何故か、それを快く許してくれた。


だが裕二は、みどりちゃんと遊ぶことが苦手だった。

それは、彼がいつも武蔵野の森、林、野山などへ探検に行くからであった。

裕二は、昆虫や爬虫類の生き物が怖くて大の苦手であった。

だが野生児のみどりちゃんは、裕二の気持ちも知らずに冒険の旅に連れ出す。

そして必ず蛇やカエルを捕獲するとともに、野イチゴやどんぐりなどを採っては食べている。


ある日、みどりちゃんは毒蛇のマムシを手掴みで捕獲して、森から意気揚々と引き揚げていく。裕二は恐ろしくて、その後ろから距離を置いて帰宅の途につく。

裕二の家の庭に入ると、みどりちゃんは捕獲したマムシをブンブンと振り回したうえに、地面に何度も叩きつけて殺した。その野蛮さに裕二は驚くばかりだった。

その後みどりちゃんは、庭の物干し竿にマムシを吊るして、意気揚々と自宅へと引き上げていった。

裕二は怖くなって、継母の順子にそのことを報告する。

すると順子は「すぐに、前の林の中に捨てて来なさい!」と命じた。

恐る恐る裕二は、庭へと戻り物干し竿に吊るされたマムシの死骸へと向かった。

だが、そこには吊るされたはずのマムシの姿はなかった。

裕二は、マムシはまだ生きていて身をくねらせて、家の前にある林の中へと逃げ去っていったと思った。

その後はしばらく、裕二は家の前の雑木林の中へ足を踏み入れることができなかった。


翻って、みどりちゃんの佐々木家と松岡家が珍しく親しくしていたのは、継母の順子がみどりちゃんの母親に夫の無職について愚痴をこぼした事がきっかけだった。

それを聞いたみどりちゃんの両親が、米軍の立川基地に勤めることを勧めてくれたのである。どう言う訳か、庄作は片言ながらも英会話ができて、かつ装身具造りや宝石の原石研磨の経験があって、巨体に似合わず手先が器用であったのだ。

そのため、日本の陶器の先生(講師)として、米軍で働くことができたのである。

こうした事があって、下校後には家事労働に明け暮れていた裕二は、みどりちゃんが遊びに来ると、共に遊んで同道することを許されていたのである。


しかし、やがて半年もするとみどりちゃん一家は、米国に帰国することになった。

すると置き土産に、みどりちゃんが乗っていた古い少年用の自転車と、飼い犬と飼い猫を動物嫌いの松岡家に置き土産に預けて帰国するのだった。

犬は<リタ>、猫は<スモーク>と言う名前があった。

リタはおとなしい性格で、あまり番犬の役目は果たさなかった。

かたやスモークは逆にやんちゃな猫で、飛んでいる尾長鳥をジャンプして捕獲するほどだった。

だがいつのまにか、リタとスモークは裕二が知らない間に家から消えていた。

みどりちゃん一家が帰国して1カ月も過ぎると、父の庄作は立川基地の仕事を失職した。そのため、再びどん底の貧乏生活が復活してしまう。


裕二は、順子の実家に借金をするために、度々お使いに出された。

頭を下げない庄作とこれ以上の無心することに気が引ける順子は、福生町の実家には行こうとしなかった。

それでも裕二は叔母の小百合に会える期待で、喜んで順子の実家に借金のお使いに行った。それは義・祖父母から、こずかいをもらえることの期待もあった。


たまらん坂

やがて暑い夏が来ると順子は、裕二に国立町まで行って氷を一貫目買ってくるように命じた。

裕二はみどりちゃんに貰った少年用の中古自転車にまたがって、国立町の氷屋さんに向かった。


国分寺の戸倉新田から国立駅の商店街までは、行きは下り坂だが重い氷を載せた帰り道は上り坂になる。

内藤新田の急な坂を、懸命にペダルを漕いで上り続ける。

風呂水を汲むための、ガチャポンで鍛えた足腰が発揮される。

しかし、国鉄の踏切の凸凹の線路内に入ると、ガタガタと自転車が左右上下に揺れる。

すると突然、掴んでいたハンドルが、車体から外れて折れてしまった。

裕二はその拍子に、前面につんのめって横転した。

通過列車がやって来ると<万事窮す>の大事故になる。

裕二は、壊れた自転車を抱えながら必死で踏切を渡った。

そして、渡り切ったその場所に自転車を捨て置いた。

すぐに反転して、線路内に投げ出されていた<一貫目>の氷を腹と胸に抱きかかえて徒歩で帰宅するのであった。

家に着くと胸と腕は、解けた氷の水と汗でビショビショになっていた。

裕二が古い少年用の自転車に氷を積んで、自宅に戻る帰路に登った急坂は、後には「たまらん坂」と呼ばれるようになった。

この急坂を登った東京商科大学の学生達が、この坂は「たまらん」と言ったことから名づけられたそうだ。

なおその後には、この近所に住んでいた歌手の亡き「忌野清史郎」氏が、このたまらん坂にちなんで<多摩蘭坂>という楽曲を残している。


自殺未遂

毎日のように続く井戸水の汲み上げとそのバケツの運搬。

続いて紙くず、木枝、石炭を使った風呂焚き、遠い国立町までの買い出し。

さらには、庭掃除や部屋の掃除。

時には、生コメを濯いでのご飯炊き。

続く食後の食器洗いなどと、裕二は小間使いの女中のように家事労働を強いられていた。

さらに、何か失敗や粗相をすると、怒鳴られ叩かれて折檻されるのだった。

そうしたことから、裕二の体には絶えず痛めつけられた生傷があった。

一番辛かったことは、家から放り出されて「外で立っていろ!」と、闇夜に放り出される事だった。

武蔵野の夜は深いが、星空が多く空気は澄んでいた。

その高い夜空に向かって、思い出せない実母の顔を必死に探した。

叩かれる暴力と、その罵声は日常茶飯事なので慣れてもいた。

だが、夜に外へと放り出されることは辛くて寂しい。

その悲しみは、より孤独の辛さが身に染みる。


そんな時には、実母が無性に恋しくなった。

だが母の顔は、はっきりと記憶にはない。

母さん!どこにいるの?

裕二は一人泣いた。

耐えられぬ孤独の辛さに、初めて死にたいと思った。

その時に義叔母の小百合の笑顔が浮かんだ。

でもそれはすぐに消えてしまった。

「小百合姉ちゃんサヨナラ!」

もう死ぬしかないと思った。


しかし、自殺する術を知らなかった。ナイフや首吊り用の紐も持っていない。

すると裕二は、呆然として裏庭から歩き出した。

暗闇の武蔵野の奥深い森へ向かって、歩き出すのであった。

今は感情が高まっていて、死ねる勇気と覚悟があった。

だから夜の森も怖くはなかった。


数時間、森の中をさ迷った少年は、折檻で夕食を与えられていなかったため、空腹と喉が渇いてフラフラと深夜の草むらに倒れ込んだ。

そして倒れたまま、朝まで草むらの中に痩せこけた体を硬直させていた。

翌朝になって、裕二が家に戻っていないことに気が付いた両親は、行方知れずとなった裕二の探索を警察署に通報した。

そして、近所の戸倉新田の町内会の人達も捜索に協力してくれた。

昼を過ぎた頃、森の中に倒れ込んでいた少年を農家の探索隊の人達が発見してくれた。

両親は警察から叱責を受けて指導されたものの、当時は家庭内の揉め事として警察は民事介入しない姿勢だったので、単なる口頭注意で事はおさめられた。


今日では家庭内暴力、折檻、強制的な不登校などの児童虐待は、重大な教育問題や犯罪としてマスコミにも取り挙げられて、刑法上の科に処されることが多くなってきた。

だが当時は、こうした非人道的な子供に対する扱いは摘発されることはなかったのである。


ドライブ

継母の順子の実家である田辺一家は、飯田橋の雀荘を閉店して、西多摩郡福生町に転居していた。

そこで引き続き雀荘を開店して生計を立てていた。

その末娘の小百合は高校を卒業して、東京の東銀座にある時計メーカーに就職し福生町から都心へと通勤していた。


翻って、当時の軽自動車の運転免許書は16歳から取得することができた。

小百合は裕二が自殺未遂を図ったことを知って、裕二をできるだけ家事労働から解放して、外出する機会を作るべきだと考えていた。


そこで自動車の免許を取得して、裕二をドライブに誘える機会を作ろうと考えていた。

18歳になっていた百合子は、給料と賞与でためた僅かな貯金で、軽自動車を購入するのであった。その車種は、富士重工の<スバル360>だった。

それは玉子型をしたコンパクトな軽自動車だった(4人乗り)。

当時は軽自動車ブームがあって、各社が軽自動車の生産に傾注していた時期であった。

その種車では、鈴木自動車の<スズライト>、ダイハツの<ミゼット>、そして富士重工のスバル360で、今ではダサイと敬遠されるも黄色のナンバープレートにも人気が集まっていた。


分割で新車を購入した小百合は、姉の順子に電話を入れて裕二をドライブに誘う了承を得た。淡い気持ちで慕う小百合とのドライブと聞いて、裕二の胸の中は久しぶりに喜びが充満していた。裕二は小学4年生の夏休みを迎えていた。

国分寺町の裕二の家まで迎えに来た小百合は、半袖の白いブラウスに七分の青いパンツを身にまとっていた。

その姿を見た裕二には、眩しいほどの健康さで清純な乙女に成長していた若い義叔母に胸を躍らせた。

二人は、恋人のように運転席と助手席に座った。

車の中には、若き乙女の香しい匂いが漂っている。

二人を乗せた新車は、目的地の秋川渓谷へと疾走する。


秋川渓谷の河原近くの駐車場に車を置いて、二人は清らかな秋川の河原に足を踏み入れた。

小百合は、すぐに裕二の手を引いて秋川の岸辺へと進む。

その乙女の柔らかな手の感触に、裕二の胸はキューンと締め付けられる。

岸辺に立って、穏やかに流れる秋川の美しさに目を奪われていた。

その静寂の中、裕二はつないでいた手が放されたとたんに、小百合に思い切り抱きしめられた。小柄な少年の体は、女の柔らかな胸と腕の中におさまった。

その甘美な感触が心地よい。


そして一目がない事を確認した小百合は、その美しい顔を裕二に寄せて、新鮮な男の子の唇を奪った。裕二の全身に、電流が流れて震えるように痺れが生じた。

台東区根岸の寝床では、子守代わりにされたお休みのキスとは比べ物にならない衝撃が裕二の全身に走っていた。

裕二はされるままに口を開かされて、小百合の唇と徐々に動き出した舌を受け入れている。

その乙女の舌は、僅かに少年の舌を弄っていた。

段々と少年の息が苦悶の表情を見せた時、小百合の舌と唇は少年の口中から解き放された。


口づけときつく抱きしめた抱擁が終わった後は、小百合は黙って一言も喋らなかった。

こうしてその日は、ドライブ・インで軽食を食べるなどして、二人はつかぬ間の休日を楽しんだ。そして、夕方前には国分寺の自宅に着いた。

小百合は家には上がらないと言って、庭先に車を停車させて裕二に別れの言葉をかけた。


「裕二、いいかい二度と死ぬようなことをしてはダメよ。お姉ちゃんは、いつもお前のことを心配しているから、困ったことがあったらすぐに会いにおいで。お前の胸の中には、いつもお姉ちゃんが入っていることを忘れてはダメよ。いいね、裕二!」


「うん、お姉ちゃんありがとう」

「それと、もうお姉ちゃんじゃないのよ、今日からは小百合と呼んでもいいのよ」

「ええっ・・・呼び捨てでいいの?」

裕二は、すぐに疑問を返した。

しばらく戸惑っていたが、小百合の瞳は裕二をきつく見つめている。


「二人だけの時には、小百合と呼んでいいのよ」

「本当に小百合さん」と小声で言った。

「違うでしょ!」

「ははい、・・・・・小百合」


「よし!それでいいわ」と言うと、瞬時に裕二の唇を奪った。

そのキスは、本格的なキスで裕二の口中に舌を入れて、少年の舌を思い切り吸い込んでいた。

こうして裕二少年は、義叔母の小百合に本格的な男女のキスを体験させられた。


大菩薩峠

裕二は4年生となって、この秋には10歳になっていた。

彼の事を常にあんじていた小百合は、ハイキングに誘い出してくれた。

それは、彼女の時計会社の同僚7人~8人との日帰りの小旅行であった。

前日の夜は、福生町の小百合の実家に泊まることになった。

裕二は飛び上がるほど喜んだ。

それは幼児の頃のように、ひとつのふとんに二人で一緒に寝られるという思いがあった。

だが小百合が年頃になっていたので祖母は、二人を別々のふとんに寝かすのであった。

それでも消灯されると、小百合は隣の寝入ったばかりの裕二頬と唇に、おやすみのフレンチキスをしてくれた。

小百合は、裕二の両親にはハイキングと言って誘い出していたが、それはハイキングというよりも山登りと言った方がいいほど、小学生には過酷な山岳登山である大菩薩峠(大菩薩嶺)への登頂であった。

大菩薩峠は標高1897メートル。

山頂の大菩薩嶺は標高2057メートルもあって、日帰りでは大人も慎重にならざるを得ない険しい山登りになる。

小百合には、裕二を男らしい少年に鍛えるという意図も隠されていた。


その登山の一行は、国鉄の甲斐大和駅から下車して、バスに乗り換えて上白川峠から大菩薩峠を目指した。

小百合の同僚らは、小学生の裕二の登山を心配していたが、裕二の山登りは大人よりも快活であった。

それは日頃から庭の井戸水を汲み上げて、風呂焚きをするためにガチャポンを漕ぎ、水の入った大きなバケツを裏の風呂場に運ぶというきつい運動を重ねて足腰が強くなっていたからであった。

若い男女のハイカー達は、その裕二の強靭な足腰に驚嘆するのであった。


ところが<大菩薩峠登頂>を気軽なハイキング・コースと誤解していた若者たちは、帰路で迷ってしまった。

予定では来た道を戻る予定であったが、その疲労から近道を通ることになって、かえって迷路に嵌ってしまった。

その結果、予定の走行距離を大幅に上回るとともに、予定していなかった勝沼駅に辿りつくことになってしまった。

若い男女と言え、皆がその疲労に困憊するのであった。

しかし、その中で裕二だけは、疲れを全く見せずに笑顔で帰還することができた。

当初裕二のひ弱さを心配していた小百合は、安心するとともに少年の意外な逞しさを知って満足するのであった。


激突から別れへ

その後松岡裕二の一家は、国分寺町から千葉県の市川市へと移転する。

米軍基地の仕事を失った庄作は、いつものように無職を決め込んで、麻雀に興じるとともに酒にも溺れていた。そのために、妻の実家からの借り入れも儘ならなかった。

そのため、止む無く松岡家の本家に助けを求めた。

本家では手切れ金を渡して勘当していたが、かつて三代目の後継者候補としていた裕二のひもじさを考慮して、金は与えないが本家の仕事を手伝わせる判断をしてくれた。


その頃の松岡本家は、装飾品、雑貨の他に事務用品関係にも触手を伸ばしていた。

そうしたことから、市川市鬼高の地に椅子の製造工場を建てて順調に商圏を拡大していた。

庄作は、その工場長として就業することになった。

その工場は、日本毛織の工場近くにあった(現在の<ニッケ・コルトンプラザ>)。


しかし、その転居や転校の様はずさんなものだった。

予定では工場に隣接する社宅に入る予定だったが、すぐに給料の現金が欲しい庄作は、同じ市川市内ではあったが、遠い北方町(ぼっけ)の一軒家を借りて引っ越ししたのである(裕二一家が住んでいた借家は今日でも残っている)。

そこは、放浪の画家の<山下画伯>が通園していた八幡学園のすぐ近くにある借家であった。

裕二は国分寺第二小学校を去って、その八幡学園のすぐ近くにある市川市立の若宮小学校に、4年生の冬季の三学期から転校した。

遠距離もあって、父の庄作はバスで工場へと通勤する。

あっという間にその後5年生になった裕二は、すぐに同市の鬼高小学校に転校する。

工場の社宅に入れることになったからである。

であるならば、国分寺からの転居や転校は、社宅の入居が確定後にすべきだった。

そういった社会的な常識や、がまんする忍耐が父の庄作にはないのである。

せっかちと言うよりも、深慮が欠けて常識が通用しない自我独尊の男だったのだ。

そういう我儘な男だから、工場長の仕事も横暴で独善的な行動をとっていた。

前任の工場長との引継ぎから始まった自我独尊の我儘な言動で、工場の幹部や工員とのトラブルを重ね続けていったのである。

工場内のトラブルは、当然のこと松岡本家の耳にも伝わる。

それでも本家では、我慢強く庄作の立ち直りを辛抱強く待った。

だが、ついにその秋に庄作は首になった。

首というよりも自ら「辞めてやる!」と、啖呵を切って離職するのだった。

既に、国分寺の自宅は他人に貸し出していて、そこに戻ることができなかった。

そのため一家は夜逃げをするように、市川市の鬼高から順子の福生町の実家へと移り去るのだった。


裕二は、またまた転校を余儀なくされた。今度は福生町立の第一小学校へ転校する。

順子の実家に居候することになった松岡一家は、庄作を除いて心苦しくて畏まった生活を余儀なくされた。ただ庄作だけは平然として、いつもの自我独尊の大きい態度で麻雀に興ずるなど、遠慮のない態度で過ごすのであった。


順子の両親は、温厚でやさしい老夫婦だった。

そんな我儘な態度を続ける庄作一家にも、慈愛の心で接してくれる。

娘の順子や孫娘は勿論のこと、血の繋がらない裕二にも温かな眼差しを向けてくれる。

但し、若くて活発な娘の小百合は、庄作の我儘な態度に一人憤慨していた。


その頃、小百合には恋人ができていた。

その日は午後から、その恋人の男性が小百合の家に遊びに来ていた。

男前のおとなしそうな青年は、小百合の両親や姉の順子にも丁寧な挨拶を交わしていた。

だが、庄作は、その挨拶を無視するように皆の憩い場である居間から立ち去って、奥にある麻雀室にさっさと行ってしまったのである。


この庄作の態度に、怒ったのは小百合だった。

彼女は、庄作を追いかけて猛抗議をする。

悪いのは庄作の態度であることは明白だったが、彼は謝ることができない傲慢な男である。

従って、その後の二人は大声を上げて、激しい言葉の応酬を繰り返した。

ついには、我慢できない庄作の暴力が出てしまった。

さすがの小百合も泣いて、その場を去るとともに、本棟の裏にある別棟の自分の居室に逃げ帰った。

そこには恋人が待機している。

その喧嘩の様子を見ていた裕二は、呆然と立ち尽くしていた。

その心は、父への怒りと小百合を心配する気持ちが交錯していた。

裕二のその眼には涙が光っている。

田辺家の本棟に居る人々は、重く苦しい空気に包まれている。

姉の順子は、幼子の娘を抱きかかえて泣いていた。


しばらくして裕二は気を取り直して、小百合が逃げ帰った別棟の部屋へと一人向かった。

いつもやさしく接してくれる、叔母を慰めたかった。

別棟の小百合の部屋のドアをノックもせずに、外からそっと開けて部屋の中を覗き見た。

そこには、ベッドの上に上半身裸の男女がいた。

セックスをしていたかは、裕二には分からなかった。

だが、映画の抱擁シーンの男女の裸の姿は見たことがあった。

裕二にその裸の姿を見られても、二人は慌てる様子もなく微笑みを浮かべて裕二を見ている。

小百合は、その裸体にある両の乳房を隠そうともせずに、笑顔で裕二に話しかける。

「こちらは私の恋人の〇〇さんよ」と、裕二に恋人を紹介する。

その青年も裕二に向かって「〇〇です。よろしく」と、言った。

〇〇は、その名前が聞き取れないないほどに、裕二が衝撃を受けていたからである。

それは思慕する小百合に、恋人がいたショックからであった。

小百合は、その白い肌や形の整ったこぶりの乳房を隠そうともせずに、笑顔で裕二を見つめていた。

裕二は耐えらなかった。

いずれにしても、その場に止まることはできなかった。

あの白い柔肌と乳房は、あの男性のものになる。

裕二は、父と小百合の喧騒を忘れるように、今見たばかりの男性に寄り添う憧れの女性の裸体の衝撃に全身の力が抜けていた。


晴天の青空を見上げた。

すると止めなく涙が溢れ出てきた。

どれほどそこに立っていたのか分からなくなるほど、小百合を失ったショックに動揺していた。

一人で佇んでいると、小百合が心配して外へ出てきた。

そして呆然と立ちつくしている少年を、後ろから両腕で静かに抱きしめた。

次に少年の肩を押さえつつ、彼の後頭部に愛しいように頬ずりをする。


「ゴメンネ祐二、お姉ちゃんはもう大人になったのよ。結婚を許してね」

と、小さな声で囁いた。

頭の上からそのやさしい声を聴くと、少年は抱きしめられている小百合の腕を解き、彼女の正面に向き直った。


悲しみと怒りが混ざり合っていた。涙顔でもあった。

女の瞳を恨めしそうに、少年のまなこが鋭く射している。

女もその眼差しを受けて、胸に込み上げてくるものがあった。

咄嗟に少年を強く抱きしめた。

そして少年の顎を片手で上げさせると、すばやく唇を重ねた。

さらに舌をすぐに入れると、彼の舌を巻き込んで思い切り吸い込んだ。

一瞬の素早いキスだった。

その直後に、小百合は裕二との短い抱擁を解いて、自分の部屋に戻った。

祐二は、しばらく呆然と立ちつくしていた。


こうして居候の松岡一家の4人は、間もなく国分寺の自宅へと戻る。

裕二は福生の第一小学校から、国分寺の第二小学校に再び転校するのであった(同じ小学校に二度目の転校)。

それは、1959年(昭和34年)の12月のことだった。

転校の挨拶はすっかり慣れてきていたが、ここでは、以前の在学時の学費が未納だと聞かされた。

当然の如く、それを請求された。祐二は驚きとともに恥ずかしさも味わった。


その後、裕二と小百合は再会することはなかった。

庄作は自分が悪いことを棚に上げて、百合子とは絶縁すると家族に宣言するのだった。

ただ、その5年後に、裕二が高校へ入学すると、結婚していた小百合から祝いの万年筆が小包で送達されてきた。

裕二は、お礼の電話をかけることも禁じられていた。

後日、手紙にお礼の言葉を綴るとともに、遅くなったが小百合の結婚へのお祝いの言葉も添えた。



第3章 継母の憂鬱

1960年(昭和35年)の4月、祐二少年は小学6年生になった。

相変わらず体は栄養が不十分であっため、小柄で当時の身長は130cm、体重は23kgと通信簿には記されていた。誕生月は9月だったので、この春はまだ11歳だった。


父の庄作はこの日の午後になると、いつものように国立町の雀荘へと出かけて行った。

帰宅は早くても夕方、遅ければ夜通しの徹夜の麻雀となって、朝帰りすることも日常茶飯事だった。

順子は働きもしないで遊興に耽る夫と別れたいとも考えてもいた。

だが、そもそも二人はまだ正式の婚姻をしておらず、いわゆる同棲の関係にしかなかった。

と言って幼い女子を抱えて実家に戻るにしても、これまで実家には多額の借金があって簡単には出戻りすることはできなかった。

これ以上、自分の実家に迷惑をかけることは憚られていた。


このようなことから、庄作との正式婚姻を阻んでいた裕二の実母に対する増悪は、その年数が経過するのに伴い増幅していったのである。

そしてその苛立ちの矛先は、何年経っても離婚を拒んでいるその女の実子である裕二に向けられる。順子は、裕二とその実母の二人を年々憎むようになっていった。


特に、来年には自分が生んだ娘が小学校に入学する。

今の戸籍上の<私生児>のままでは、学校にそのことが知られてしまうリスクが高い。

そうなれば、娘が学校でどんな辛い目に遭うかと、胸が張り裂けそうになるのであった。


そうした苦悩を日々抱えていた順子は、機会があるたびに裕二に対して虐待を繰り返してきた。

今日もそうした彼女の苦悩も知らずに、夫の庄作はノー天気で遊興に外出してしまう。そして、その帰宅は遅い。


娘がお昼寝で二段ベッドの上に寝入ると、順子は夫婦の寝室のベッドに横たわっていた。

ふて寝でもあったが、瞑想していると先日の風呂場の一件を思い出してきた。

それは裕二と6歳年下の妹が二人で入浴していると、はしゃぐ声がうるさいと癇癪を起した順子が風呂場にやってきて、いきなり祐二の頬を平手打ちにした一件だった。

少年は、その洗い場で呆然と立ち尽くした。

平手打ちをされる理由が、すぐに分からなかった。

その時、順子の目は裸の少年の股間に釘づけにされてしまった。

平手打ちをした順子と、それを受けた裕二の二人が共に呆然と立ち尽くしていた。

痩せこけた小柄な少年には、まるで不釣り合いな長々としたものが、だらりと垂れ下がっていた。まるで三本足で立っているような錯覚を与えている。

(気持ちの悪い子供だ。あそこだけは、異常に大人並みの長さに発達している)

その翌日から、妹との入浴が禁じられた。


順子はしばらくそのシーンを回想していたが、彼女はもやもやする気持ちが収まらず、気晴らしをしようと裕二を寝室に呼びつけた。


順子は、寝室のベッドに寝込んだまま仮病を演じる。

彼女は、この年に30歳を迎えたばかりの女ざかり。

鼻筋の通った面長の美人で、その肌は明るい小麦色。

外出以外には薄化粧もしないが、それがかえって健康的で野性的な美しさをみせている。

今も、はつらつとした肉体美を誇っている。


その身長は1メートル70センチ近くもあって、手足も長くバラスのとれた肉体美を誇っている。まるでモデルかスポーツ選手のようである。

古い表現をすれば。いわゆる<アマゾネス>タイプの野性的な健康美を誇っている熟女。

ただ着痩せするタイプなのか、裕二は、継母が平均的な背丈で普通の体形だと思っていた。おそらく家計が苦しいために、いつも地味な服装だったことがバランスの良い肉体美を隠していたのだろう。

よく順子は「私は健康優良児だったから、学校で表彰されたのよ」と、周囲に自慢していた。


迫力の裸体

ベッドの横に裕二を立たせると、いきなり「肩を揉んで!」と強い口調の声で命じた。

肩は本当に凝っていて、イライラする度にその全身の肉が固まっていた。

順子は半袖のパジャマ姿でベッドに仰向けに寝ていたが、おもむろに起きて座り直した。すぐにパジャマの上着を脱いだ。ブラジャーも下着も着ていない上半身がさらけ出された。

裕二の横に座っている順子の肉質の上半身と弾力のある大きな乳房が輝いている。

乳房は標準よりもやや大きいが、ゆさゆさと揺れるような柔らかさはない。乳房と乳首もゴムのような弾力性がありそう。


裕二は、継母の迫力の上半身に目を奪われてしまった。

もう一度「肩を揉んで!」と督促された。

裕二はベッドの淵に立って、指に強い力を込めて継母の両肩を揉み解す。

彼はその姿勢で、15分ほど懸命に女の両肩を揉み続けた。

はだけた順子の背中は、肉付きが良いが太ってはいない。骨太の体形なのだ。

しばらくすると、順子は「次は腰を揉んで」とさりげなく言う。

すると、ベッドの中央に腹這いに寝ころび、自分の両腕の中に顔を伏せた。

そして自分の両足を器用に使って、下ズボンのパジャマも脱ぐのであった。


肉付きの良い全身の裸体が晒された。

裕二は呆気にとられて、初めて見る女のド迫力の見事なプロポーションに生唾を飲み込んでしまった。

裕二は、どこに座って腰を揉むのか分からなかった。

それを察したのか、静かに順子の長い両脚が開かれた。

「両足の間に座って膝をつくのよ、それから腕と指に力を込めてお尻の肉を揉んで頂戴!」と、言われた。


「ははっい!分かりました」

裕二は命じられたままに従う。

その両脚の間に小さな体をおさめると、迫力のある腰と臀部が面前に山の如くそびえている。

だが、それを支えるウェストはくびれている。

臀部からつながる両脚の太腿の裏側もみごとな肉質で圧倒される。

逆に、膝裏からの支肢の両足は細くて長い。

ふくらはぎから踵までも長くて美しい。まるで外国人のような裸体。

裕二は、そのモデルのようなプロポーションの迫力に息をのむ。

継母の肉体が、これほどまでに均整がとれていることを初めて目の当たりにした。


そして、その大きな桃尻の下方は見えにくい。

何やら神秘的な秘密の場所のようで、少年の裕二には具体的なその姿・形が見た目にも、頭の中でも認識することができなかった。

ともあれ、初めて見る女体の裏側にある下半身のド迫力に、少年は思わず生唾をゴクリと飲み込んでしまう。

そして、一呼吸してから両手で女の腰を揉み始めた。

しかし、腰の筋肉は固くて揉み上げるのが無難しかった。


「凝っているでしょう? 腰は親指を立てて強く押し込んで、腰骨と肉に圧力をかけるのよ」


「はいっ、わかりました」と返答すると、すぐに実行する。


「ああ~いいわ、よく効くわよ。裕二は揉むのが上手だよ。女は一日中立ち仕事だから、肩よりも腰が一番つらいのよ」

「そうですか、僕が揉み解してあげるよ」と、興奮しながらも張り切って腰への指圧を懸命に続けた。


しばらくすると、次の指令が飛んだ。

「その次はお尻のあたりもやってね。腰よりも下の所よ。そこはやさしく撫でるように揉んでね」

大平原のような迫力のある腰への指圧が終わると、最もボリューム感のある臀部に手のひらを広げて、肉を掴んでは揉み上げた。

それを両手で、同時に何度も繰り返した。  

圧力をかけては、肉のすべてに指を使い柔らかく揉み上げた。

それにしても、継母の腰と臀部は肉厚で大きい。

そこに繋がる両脚も、長く細く伸びている。

裕二は、その度迫力に頭がクラクラしてきた。

しばらくすると「ああ~、気持ちがいい。すごく効く。裕二は魔法の指使いだよ」と、艶めかしい女の声が聞こえた。

裕二はその声さえも、頭の片隅にしか届いていない。

それほど裕二の意識は、朦朧としてきていた。


順子は少年の肩や腰のマッサージには期待もしていなかったが、あまりの指使いの良さに身も心もとろけそうだった。

少年に自分の肉体美をさらして誘惑する下心があったのだが、先に自分の体が火照ってしまい、その性欲をがまんできない寸前にあった。

予想以上に、裕二の手と指の動きがしなやかで力強いのだ。

それはまるで官能のツボを心得ているように、上手に強弱を使いながら女の肉がとろけるような揉み方をしている。

 

「疲れたでしょう。そろそろ一休みするかい?」

そう言ったものの休むのではなく、裕二をすぐにでも征服したい欲望に駆られていた。

裕二は、全く疲れてはいなかった。

そこで正直に「お母さん、全然疲れていないよ」と答えた。

だが、初めて触れた熟女の肉体美が放つ色気の刺激に、裕二自身も知らず知らずのうちに、体内に宿る経験のない欲望の炎がちらちらと燃え始めていた。


やがて継母が企図した真昼の巧みな誘惑の罠にはまって、裕二は何の疑問の余地もないままに甘美な世界に吸い込まれていった。

ついに、二人は自然の成り行きの様に肉体関係を結んだ。

小柄な少年の体を何度も弄んだ順子は、新鮮なそのセックスに何度も喜びの声をあげた。

一方、裕二は命令されるままに、何の抵抗もなく女体の持つ魅力に引き込まれて、熟女の性技を駆使され続けて童貞を失った。


こうして祐二少年は、小学6年生の春に継母の手管リによって、初めての性体験を終えた。その後も二人は庄作の留守に、狂ったように肉の交わりを繰り返した。

祐二は、継母に命じられるままに従った。

その細身の少年の体の中にも、快楽の呼び鈴が鳴り続けるのであった。

この結果に気をよくした順子は、裕二の実母への復讐にと、夫の目を逃れては機会がある度に血の繋がらない息子を命じるままに抱き続けた。いや抱かれていたのかもしれない。祐二もこの事は、父には言えない秘め事だと思い、恐怖心もあって変わらぬ態度で日々をすごした。それ以来、継母の継子虐めはいくらか影を薄めていった。

だが二人のこの一時的な性の交歓は、9年後には予想外の展開となって、裕二は驚愕の事実を知ることになる。


第4章 相乗り登校

武蔵野に深い秋がやってきた。

松岡祐二は初恋をする。

幼い頃の年上の女性に対する憧れの思慕ではなく、はっきりとした恋心を抱いた。

互いに、その想いを触れ合いさせた少年と少女の初めての恋愛だった。


同じクラスに、藤久美子という色白で小顔の綺麗な子がいた。

目は一重のキツネ目。

ただいつも微笑みを浮かべているので、穏やかで柔和な表情となって、愛らしさを引き立てている美少女。

祐二の初恋の相手。


乞食王子とマドンナ

久美子は、小学生なのに髪にパーマをかけ、着ている服も華やかでおしゃれな少女。家庭が裕福で、育ちの良さを感じさせる品の良い喋り方をする。

少女であっても、年頃のお嬢様のような振る舞いを自然にこなす。クラスで一番の美少女で人気も高い。同学年の男子全員が憧れているほどの、高嶺の花的な存在。だが、それがかえって異性との壁を作り、女王の久美子に近づく少年は誰もいなかった。


久美子は、部活の中で最も華やかなバレエクラブに所属していた。

同部を指導していたのが担任の先生でもあり、クラスの女子の多くはバレエクラブに入部していた。

授業が終わった教室は、バレエ部の練習場になる。

時々男子は、その練習風景を廊下側の窓から覗き見た。

目当ては、マドンナの久美子。


あるとき廊下側で覗き見る男子数人は、先生に見つかり「見たいなら男らしく中に入って見学しろ!」と大きな声で怒鳴られた。それでも先生は笑顔を作っていた。

女子部員はクスクスと笑った。

もぞもぞと少年たちはバレエ教室の隅に入り、直立不動の姿勢で突っ立って見学した。


白いタイツとバレエシューズを履き、バレエの練習着に身を包んだ少女たちは可憐に写る。中でも、頭にリボンをつけて躍動する久美子の姿は、ひと際華麗で目立っている。

先生の掛け声に合わせて、一同に少女たちが身を動かす。

すると男子の視線はリズミカルに動く手足、それに伴って揺れる胸や腰の動きに釘付けになる。

普段は見られない異性の躍動するしなやかな体幹に、一種の妖艶さを感じて興奮する心を押さえていた。


その中で久美子は、最も落ち着き払って堂々と振舞っている。

まさにマドンナとしての華やかさを一人醸し出していた。

常に笑みを浮かべて、余裕のポーズで踊り跳ねている。

その華奢な少女の手足は、ゼンマイ仕掛けの人形のように律動的な動きをする。

祐二は美少女の輝く美しさに魅入られるとともに、バレエの持つ芸術美にも感動していた。


一方、マドンナの久美子は、痩せこけた小柄な祐二に可愛いアイドルの面影を覚えていた。決してイケメンではないが、少女の胸を惹きつける不思議な色気を感じていた。

貧しい家庭らしく、いつも同じ服を着ている。

性格も鈍感なのか、従順なのか、冷やかされても虐められても反抗はしない。

黙って耐えている少年のニヒルな表情が気になっていた。


少年は、小顔で切れ上がった一重の目、高いけれど小さな鼻筋、アヒル口で可愛い笑顔を時折見せる。汚れた服を着ていても、どこか高貴で清潔感を伝える都会的な童顔。

久美子は、その顔も気に入っていた。

そう乞食と王子の物語、その乞食になった王子様のようにも思える。

覚えたてのオナニーをするときには、祐二少年の顔と痩せた体を思い浮かべていた。

少年は美少女のオナペットになっていた。


声援

ある日、体育の授業に長距離走の練習が行われた。

女子は校庭を一周する。男子は二周する。

運動会や普段の遊びの中で、およその順位が予想されている。

男子では、1位になるのは、スポーツ万能で級長を務める古藤純一か、あるいは、ガキ大将の坊主頭の今井健三だと皆が騒いでいた。特に、古藤は背が高く、髪の長さをミドルに伸ばしたおしゃれなイケメンの少年。圧倒的に女子の人気の的だった。


スポーツが不得意の祐二は、スタートで大きく遅れてしまった。

それもすぐに大差がついてしまい、早くも棄権する気配に見えた。

そもそも学業のテストの結果も、運動会の徒競走の順位にも、彼には全くこだわりがなかった。


この日も、黄色い声で男子に声援を送る女子の前を悠然と走っていた。

その時「松岡クン頑張って!」と、声が飛んできた。

ビックリして声の方向に顔を向けると、マドンナの久美子が手を振って声援を送っている。彼は走るのを止めるぐらいにスピードを落とし、その声援の送り主を再確認している。


(馬鹿!走るのよ!!)

(藤久美子さんが僕を応援してくれている・・・)

初めてやる気に火が付いた。

長距離走はメンタルな部分の影響も大きい。

軽い体重の体も功を奏して、2周目に入る手前で後方の集団に追いついた。


すると何人かの女子が、その松岡のスパートに気が付いて声援を送った。

それは上位入線を期待するものではなく、最後まで放されずに走れという、判官贔屓の激励の声援だった。

それでも、その声援に気をよくした祐二は、2周目に入るとスイスイと抜き去り、中団まで追いついた。この彼の激走にさらに皆が注目した。


ゴール前に集合している女子は、体を反転させてゴールと反対側を走ってくる男子に目をやった。残りはあと半周。

トップを走るのは予想通り、古藤と今井。その後はかなり離れている。

二人はデッドヒートを繰り返している。

その状態に女子の応援の声は一層高まり、人気の古藤一色に染まっていた。


ところが、そこに猛然と迫ってくる祐二がいた。ものすごいラストスパートだ。

みるみる内に、二人に追いつきかけてくる。

既に先頭の二人は、最後のカーブを曲がろうとしている。

この祐二の急追に、女の子たちは騒然となった。

声援が一切に飛んだ。だが、それは声援ではなかった。

古藤が抜かれそうになる、悲鳴であった。


大歓声の中、3人が相次いでゴールインした。

結果は、一位古藤、二位今井、三位が祐二だった。

祐二は、大して息が上がってはいなかった。

上位の二人は、息も絶え絶えでその場にへたり込んだ。

この出来事で、長距離走に自信を持った祐二は、やがて中学生になると、クラブ活動で陸上部を選択することになる。

ただ、祐二が長距離走に強かった本当の理由は、その足腰の強さにあった。

そのことに、彼はまだ気が付いていない。


祐二は、久美子の姿を探した。

すぐに笑っている久美子を見つけた。

彼は飛び上がって、手を振って合図した。

ただ、久美子が嬉し泣きで流す涙には気が付いていない。


このときから、二人はその相手の存在をはっきりと胸に刻んだ。

特に、久美子は母性本能から貧しくどこか気弱そうな童顔の祐二に、暖かな思いを募らせていった。

少年も美少女も、互いにその心を奪われてゆく。


自転車登校

この頃から、祐二は両親に一層家事を強いられていた。

それは、順子が第二子の男子を産んだことが影響していた。

継母は、6歳となった長女の面倒と赤子の育児に追われた。

そのため祐二は、食器洗い、おつかい、風呂焚き、そうじなどに追われ、自由な時間がほとんど与えられていなかった。

相変わらず貧乏生活は続き、服は着の身、着のままで、冬には破けたままのセーター、ズボンは一年中同じ物で、ボロボロの汚れたもので過ごした。


子供の貧困とは、先ず未開発国の飢餓に瀕した人々を連想させる。

一方、途上国や先進国では、3食の食事がまともに摂ることができない、生活用品や文房具、着るものなどがなかなか買えない、給食費やPTA会費などが遅延していることが貧困の一例になる。まさに、祐二の松岡一家は貧困層に間違いがなかった。


友達は下校後に、外で自由に野原や公園に遊んだ。

だが、彼は家事労働に追われた。

遊ぶ時間もなく、宿題もまともにやる時間もなかった。

次第に、生まれた赤子のおしめの交換やミルクを飲ませることも強いられた。


子守では、赤子を乳母車に乗せながら街までお使いに出された。

戸倉新田から国立駅までの長時間の往復では、よく友達とすれ違った。

みすぼらしい恰好で、乳母車を押す姿を見られると失笑された。

それが女の子だった場合、一層恥ずかしい思いで、顔面は熱くなり手足が硬直した。


直近では、祐二の家事手伝いは登校前の朝でも行われ、そのため学校に遅刻することが頻発していた。通学時間は徒歩で30分ほどかかっていた。


いつもの通学路には、内藤新田と戸倉新田が交わる小さな十字路があった。

右折すると、学校に通ずる茶畑の生垣が続く。

左手の内藤新田からは、藤久美子が自転車で颯爽とやってくる。

彼女が遅く家を出てくる理由を祐二は知らなかった。

久美子もいつも遅刻寸前だった。

ただ自転車の分、遅刻は免れていた。


ある日の朝、いつものようにその十字路で久美子に出会った。

彼女は十字路に立ち止まって、ハンドルに手を添えながら少年が近づくのを待っていた。


「松岡クンお乗りなさい!」

「えっ、いいよ。歩くから」と、半分照れて断った。


「遠慮しないで、毎日遅刻ばかりなのだから」と言うと、赤いランドセルを背中から胸元に担ぎ直した。


「早く乗って!」

「ありがとう。でも大丈夫なの、二人乗りしたことあるの?」

「あるわよ、弟を乗せているから」


少年は、もぞもぞと自転車の荷台席に跨った。

サドルの下に両手をもぐらせて、それを掴んだ。


「乗ったよ!」

「じゃ行くわよ」と、少女は元気にペダルをこぎ出した。


祐二は、予期せぬ久美子の行動に驚くとともに、彼女のやさしさが飛び上がるほど嬉しかった。それも密かに、恋心を抱いているマドンナの久美子の親切心だ。

宙に舞い上がるほど幸福な気分に包まれて、二人を乗せた自転車は学校に向かって走り出した。

茶の木の垣根が長く続く道は、やがて小川の流れる広い道にぶつかる。

そこを左折すると、もう学校が突き当りに見えてくる。

あっと言う間に、相乗りした自転車は校門を駆け抜けた。

遅刻は免れた。


校庭と教室では、多くの学童が相乗りで登校してきた二人の姿に視線を注いでいた。

驚きのためか、一瞬の静寂に時が止まった。


その直後に、俄かに冷やかしの歓声が放された。

男女二人だけで、歩いて登校することはほとんど見かけない。

ましてやクラスメートの男女が、自転車の二人乗りで登校してきたのだ。

前代未聞の出来事といえた。

祐二は恥ずかしくて久美子の背に隠れるように、彼女の後ろに続いて校舎へと向かった。


教室に入ると、冷やかしの歓声は一段と高まった。

彼は泣きたいぐらいの気持ちで身を縮めていた。

だが、久美子は平然としていた。

それも笑顔を作って、にこやかに歩を進めている。


「カップルだ!」

と、男子の一人が大声で言い放った。

すると、男子はワァワァと気勢をあげ、女子はキャッキャと奇声をあげる。

それでも構わず、久美子は後ろにいる彼の手を握り、引っ張るように教室の前へと進んだ。そして、少年の席まで行き椅子に座らせた。

そこで、彼の頭を二、三度ゆっくりと撫でた。

少年は恥ずかしさの中で、何をされているのかよく分からなかった。


しかし、久美子のその奇矯的(ききょうてき)な謎の行為で、喧噪に包まれていた教室内は静まり返った。

どんな意味や効果があったのか。不思議に思えた。

彼女の少年に対する憐憫(れんびん)の情を示した行為なのか、それとも彼氏なのよと、級友たちに誇るための行為だったのか。

その夢のような出来事があって以来、久美子は毎日のように十字路に自転車を停めて、祐二を待っているようになった。


それが慣習となって続くうちに、クラスでは、二人の自転車の相乗り登校を認めたように、大騒ぎすることはなくなった。

ただ、朝礼前や昼休みには、相合傘のマークと二人の名前が黒板に書かれていた。

冷やかしと、やっかみのイタズラ書き。

それを見届けても、久美子は平然としている。

たまに、彼女はピンク色のチョークで、そのマークを丸で囲んで、わざと引き立てる行動をとった。

そうした久美子の勇気ある行動と、やさしい態度を目の当たりにする度に、少年の心の中では、彼女に対する思慕の気持ちがますます高まっていった。


初めて異性に対する強い思いが渦巻いていた。

幼い頃の異性に感じる憧れではない。

恋する思いに、独占したいと胸を焦がしていた。

毎日続くつらくて過酷な家庭生活の中で、久美子への初恋は生きる希望になっていった。

毎夜ふとんに潜り込むと、いつかあの美少女を抱きしめ、熱い口づけ交わしたいとそのシーンを夢想した。

その夢想は、たまらない疼きを生じさせて下半身を熱くさせる。


美少女の初体験

早朝から、小雨がしとしと降り続いていた日だった。

フードの付いたレインコートを羽織った久美子は、いつものように十字路で待っていた。少年と美少女は仲良しから一歩進んで、互いの恋心を強く確信して、愛を育む季節に入りつつあった。


「今日はボクが運転するよ」

小雨の日であることに気遣って言った。

二つ返事で「いいわ、運転して」

祐二がハンドルを握り、久美子は後ろに跨った。

いつもの茶の木が続く道を走った。

これまでは彼が後ろの席で、サドルの下を掴んで体の安定を図り、少女の体には触れないようにしていた。


その日、初めて後部席に座った久美子は、遠慮なく少年の腰に両手を回して、自らのバランスを取った。二人にとって、初めての強い触れ合いだった。

裕二は痺れた。

その感触はいつもの幸福な気分とは違い、祐二の体に熱い電流を走らせた。

すぐに少女を強く抱きしめたい、という衝動に駆られた。

心臓が大きく鼓動し、頭が白くなった。

思考力を失ったままペダルを漕いでいた。


その時、ハンドルを強く握っていた左手が雨に滑った。

ハンドルから手が外れ、片手運転になった。

すると、勢いで上半身が左側に揺れて傾いた。

故意に、手が滑ったのかもしれなかった。

ふとんの中で夢見た、具体的な抱擁のシーンが脳裏をかすめていたのだ。


二人の体は、バランスを崩した。

自転車は、左に大きく傾いて茶の木に倒れ込んだ。

茶の木は、高さも横幅も1メートルぐらいある。

丸く刈られた茶葉は、程よいクッションになっていて、怪我をする危険がないことを知っていた。

二人は、茶の木に少し潜る程度で横向きに乗りかかっている。


「ゴメン、手が滑った」

二人はその衝撃よりも、この突然のアクシデントを予期していたように笑顔だった。

祐二が、茶の木から滑るように先に降りた。


そして、よけいに埋もれていた久美子に手を差し伸べた。

彼女は甘えるように、両手を差し出してきた。

茶の木に足を踏み入れて、少年は彼女が掲げた両手の下にある細い上半身を屈んで抱きかかえた。

そして、ゆっくりと引っ張り上げた。

思った以上に、美少女は痩せていて軽い。

彼は、自分が強い男になった気分になった。

二人は抱き合って、畑地側の茶の木の脇に立った。


小雨が冷たく、二人の頬を濡らしていた。

声を出さずに見つめ合った。

久美子の濡れる唇を見た。

裕二は口付けをしたかった。だが、一瞬ためらった。

彼女の瞳が、静かに閉じられた気がした。

次の瞬間、強く少女を抱きしめていた。

渾身の力をこめ、華奢な美少女の体を両腕で、野獣のように腕を絞って強く抱いた。


「苦しい」と、耳元で囁かれた。

「ゴメン」

「いいのよ、松岡クンのこと好きだから」

「ボクも藤さんのこと好きです」と言って、もう一度久美子を抱き寄せた。


その時に二人の顔が近づき、かすかに互いの濡れた唇が触れたようだった。

体が熱くなっていた。だが、映画で見たような大人のキスはできなかった。


抱き合って、何度も頬ずりをしていた。

きつく抱き寄せるたびに、少女の胸を強く圧迫していた。

胸の膨らみは僅かだったが、男のそれとは明らかに異なる柔らかな蕾を感じた。

服の上からとはいえ、敏感な蕾を刺激されて、微かに吐息を漏らしていた。

それを耳元で感じると、少年は自分の体を美少女の体に押し付けた。

顔が触れ合い、体もこすれ合っている。


二人は「はぁ、はぁ」と、荒い息を吐いていた。

畑地に、久美子を押し倒した。


その上に覆いかぶさると、唇を重ねた。

唇を開かせて、舌を彼女の口内に押し入れた。

夢に見た初恋の美少女との、本格的なキスだった。

甘美な電流が二人の全身を貫き、共に震えた。

美少女の舌も少年の舌を巻き、口内に引っ張り込んだ。強く吸い込んでいる。

息がつまりそうだったが、快感がそれを上回った。


レインコートを脱がして、少女の体の下に敷いた。

少女は顔が雨に濡れるのを嫌って、両手で顔を覆った。

目を瞑って、祐二のすることを待った。

白いショーツが剥ぎ取られ、小雨降る茶畑の傍らで、恋する少年と少女は初めて体を結んだ。


重ねた体を離すと、放心している美少女を抱き起こした。

そして茶畑の陰に隠れて後ろ向きにさせ、畑の土に汚れた体をハンカチで拭いてあげた。小ぶりの尻をスカートの下に隠すと、前を向かせておもむろに口づけを交わした。


その日は、二人とも遅刻になった。

教室に入った久美子の顔には、いつもの笑顔が消えていた。

それでも心は、愛されて結ばれたことに充実していた。

そして、今も火照っている体は女の喜びに震えていた。


その後、久美子は自転車通学を止めた。

そのため、二人で登校することもなくなった。

二人は意識して、仲良くする振る舞いを校内では止めた。


卒業するまでの間、彼女は部活を休んでは、隠れるように祐二と逢引きを重ねた。

デートの場所は、図書館、公民館、国立駅の飲食街や公園だった。

費用はいつも久美子が出した。彼女は彼の家が貧乏であることを十分承知していた。

時々、見かねて文房具や靴下なども買ってくれた。

こうして、裕福な美少女と貧しい少年の初恋は続いた。


祐二は親から、家事があるので下校後は、真っすぐ帰宅するように命じられていた。

しかし、初恋の美少女に逢いたさと見たさにその禁を破った。

初めての反抗でもあった。


彼は家庭でも、少女との付き合いを一切口にしなかった。

遅くなって帰宅した時も、何をしていたのかと詰問されたが、黙り込んで何も答えなかった。

その度に、父や継母からは怒鳴られた。暴力も受けることもあった。

深夜まで両親の寝床の傍で正座をさせられ、姿勢が崩れると父親の鉄拳で殴られた。

祐二は、やさしい久美子の笑顔を思い浮かべて、親の折檻に耐えるのだった。


やがて小学校を卒業すると、藤久美子は私立の女学校に入学し、祐二は町立の国分寺第一中学校に入学した。

そのため、二人は逢う機会がなくなってきた。

さらに夏休みに入って、祐二はいつもの家庭の事情で引っ越しをすることになった。

別れの言葉を交わすこともないまま、二人は別れ離れになった。


船橋市の中学校に転向した祐二は、すぐに久美子に手紙を送った。

だが、何故か返事がなかった。

後で知ったことだが彼女も父親の転勤で、神奈川県の小田原市に転居していたのだった。こうして、半年ほど続いた二人の初恋物語は終わった。


(第2話へ続く)




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