真夜中の彼女
@d-van69
真夜中の彼女
「え?温泉?」
僕の提案にマキは大袈裟と思えるほどに目を瞬いて見せた。
「そう。今度の連休にのんびり旅行でもどう?」
彼女とは付き合い始めてもう半年になる。でも、あと一歩が踏み出せないでいた。キスまではいけるのだが、問題はその先だ。お互い真面目な性格だからと言うこともあるかもしれないが、それよりも大きな原因は彼女の可憐さにあるだろう。初々しくて天真爛漫、純真無垢を絵にかいたような彼女を穢してはならない。そんな思いが心のどこかにあって、僕の衝動にブレーキを掛けるのだ。
でもずっとこのままと言うわけにもいかない。僕だって一応は男だ。決めるところはきっちり決めたい。そこで一念発起、思い切って彼女を温泉旅行に誘うことにしたのだ。環境が変われば、もしかするとその先に進めるのではないかと期待してのことだ。
「旅行ねぇ……」
彼女の眉間に小さな皺ができた。乗り気ではないのは明らかだ。
「もしかして、旅行が嫌いとか?」
「ううん。好きよ」
「それなら、お泊りがダメとか?」
「そういうわけじゃないの」
だんだん不安になってきた。
「もしかして、僕と行くのが、嫌だとか?」
「それは絶対違うから」
慌てて否定してくれたことに内心ホッとした。
「じゃあなんで?」
「それは……」
言い淀む彼女だったが、僕がじっと見つめるうちに観念したようだ。
「きっと、嫌われると思うから」
「嫌われる?って、どうしてさ」
「だって、前にもあったんだもん」
「前って?」
「お泊りしたことがあるの。元カレと。そしたらそのあと、それっきり連絡が来なくなっっちゃって」
元カレ?まさかマキに?僕が初めてじゃないのか?いやいや、それは勝手な妄想だ。その清廉さ故に、今まで男性と付き合ったことがないのだろうとこっちが思い込んでいただけだ。彼女だってもう大人の女性なんだしこんなに美人なのだ。今まで彼氏の一人くらいはいただろう。なんとか動揺を抑えつつ、
「それって君の責任じゃなくて、男が身勝手なだけだろ?」
「三人が三人ともよ」
「三人?」
さすがに心の乱れが表情に出てしまったようだ。彼女は不安げな顔で、
「あ。もしかしてひいてる?」
「違う違う。今まで元カレの話なんか聞いたことなかったからさ、少し驚いただけだよ」
「なんだ。そうだったの」
笑顔を浮かべたマキに胸を撫で下ろしつつ、
「しかし、三人とも連絡が来なくなったって、ホント?」
「うん」と真顔に戻った彼女は、
「最初の彼とはホテルに泊まったの。でも次の朝起きたら先に帰っちゃってて、そのまま連絡も来なくなっちゃった。二人目は彼氏の家だったんだけど、また次の朝も起きたらいなくて。朝ごはんでも買いに行ったのかと思って待っていても全然帰って来ないし。で、結局それっきり。三人目は私の部屋に来たの。でもその彼も私が寝ている間にいなくなっちゃって、そのまま連絡が取れなくなっちゃった」
これはまた不思議な話だ。いったい彼女の何が男達を退かせるのか。
「マキちゃんに心当たりはないの?」
「それがないのよね」
「じゃあその三人に共通することとかってない?」
うーんとしばらく考えてから、
「みんな、その日が初めてのお泊りだったことくらいかな」
不意に良からぬ妄想が頭をもたげた。初めての夜を過ごすと男が逃げ出してしまう。夜にすることと言えばアレくらいだ。もしかしたら彼女、純真そうに見えてとんでもない性癖の持ち主ではないだろうか。それを知った男たちは付き合いきれぬと尻尾を巻いて彼女の前から姿を消したのかもしれない。それなら是が非でもそれをこの目で確かめてみたい。
「まあ何にせよ、僕は絶対に嫌いになったりしないし、勝手に連絡を絶ったりもしないから」
「ほんとに?」
「うん。だから行こうよ。温泉」
うつむき加減に思案していた彼女は、やがて上目遣いに僕を見ると、こくりと小さく頷いた。
真夜中に目が覚めた。隣に視線を振り向けると、マキの姿がない。トイレにでも行ったのだろうか。そんなことを考えながら、つい数時間前のことを思い起こす。
温泉につかり、美味しい料理を食べ、そして愛し合った。素晴らしいひと時だった。頭の片隅では常軌を逸した激しい情交を期待してもいたのだが、彼女はいたってノーマルだった。
一体過去の男どもは何を考えていたのか。マキの美しい肢体、昼間の彼女からは想像できない悩まし気な仕草や艶っぽい表情を目にすれば、深みに嵌りこそすれ、逃げ出すようなことはこれっぽっちもないだろうに。
トイレの方に視線を向けた。電燈が点いていない。あれ?と思ううち、どこからかゴソゴソと何かをまさぐるような音が聞こえてきた。そちらを見る。薄暗がりの中。目を凝らすとマキの後ろ姿が見えた。部屋の片隅に置いた荷物をあさっているようだ。
こんな夜中に探し物かと思ったが、そうではなかった。
お土産用に買った饅頭やクッキー。それらを貪るように食べていた。僕が見ていることにも気づかず、一心不乱と言った具合だ。
余程お腹がすいていたのだろうか。でも、確か夜ご飯は僕と同じメニューだったはず。それなのになんなのだ、あのすごい食べっぷりは。
やがてお菓子を食べつくしたマキは這うように移動し、備え付けの冷蔵庫を開けた。中にあったペットボトルのジュースやミネラルウォーターの蓋を片っ端から開け、あっという間に飲み干していく。
そうか。これだったのか。無意識のうちにひいてしまっている自分に気付き、納得した。マキの元カレたちもこのような光景を目にしたのだ。深夜、自分が寝静まったころに起き出して食べ物を貪る女。
でもその反面、こうも思う。今のマキの姿は確かに不気味で、ひいてしまうのもうなずけるが、果たして連絡を一切絶つほどのことだろうか。見たくなければ彼女とお泊りをしなければいいだけの話。事実、半年付き合っている間、彼女のこんな姿を目にしたことはなかった。これさえなければ最高の彼女なのだ。
もしかしたら病気ではないだろうか。過食症のような、なにか精神的な病を患っている可能性もある。それなら僕が……
と、マキがゆっくりこちらを振り向いた。その顔を見てギョッとなった。完全に正気を失っている。目はどこを見ているのか分からない。半開きの口からは食べ物のカスや飲みこぼしがだらだらと垂れている。
「おい、マキ……」
かろうじて発した言葉。しかし彼女はそれに応えることなく、ただ、ニヤリと笑った。そして、ぺろりと舌なめずりをする。
その瞬間、僕は悟った。マキの元カレたちは、先に帰ったのでも、朝ごはんを買いに出たのでも、ましてや寝ている間にいなくなったのでもない。
彼女はじりじりと僕との距離を詰めてきた。
まるでヘビに睨まれたカエルのように、僕は身動きできなくなっていた。
マキがまた、ぺろりと舌なめずりをした。口元から、ぽたりとよだれが滴り落ちた。
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