第四十二話 交差交錯






 その数日後、わたしは長幸を飲みに誘った。


 まぁこのタイミングしかないだろう。


 あの美術部の先輩との絵を介して、お互い話したいこと、言い添えたいことが暗黙の内に無数に湧き上がっていたのだが、学校という環境と美術の先生と教頭に阻まれてそれが叶わなかった。

 わたしの表情を盗み見ながら、非常に居た堪れない様子だった長幸の顔は、色々言いたいけど言えない気持ちが見て取れるようだった。


 取り繕いや言い訳も無く、純真に長幸と話をしたい気持ちだけで連絡を取り、長幸も特に淀み無く誘いを受けてくれた。何かが通じ合ったようで、正直ウキウキしてしまう。


 今回の待ち合わせ場所も長幸が目を付けていた店舗、前回よりも都心寄りの駅の近くのムーディーな暗さのレストランバー。前回よりも、燐高や長幸の自宅近辺から遠い場所だ。

 例によってわたしは電車で最寄り駅に向かい、長幸と合流し、目的のお店へ向かった。


 一応名目は奈智子の現状報告。

 奈智子が旦那さんと直接電話した件と、今後どうするか考えつつまた連絡すると奈智子が言っていた件を伝えた。長幸は、納得したように頷いた。


「ちなみにですけど……」


 バーのテーブル席、小さなテーブルを挟んで向かい合う長幸に表情から感情を読まれないように細心に注意を払いながら打ち明けた。


「あの絵の共同制作者について、ひなから少し話を聞きました」


 その言葉に、寂し気な笑みを浮かべながら、長幸は小さく頷いた。

 その話題は出るよねと、覚悟していたような笑み。

 まぁ、その話を酒の肴にするために今日わたし達は集まったみたいな所はある。


「どんなことを、訊いたんですか?」

「瀬河さんが当時美術部の先輩と仲良くなって、それが切っ掛けでひなと別れたって……」


 これは、長幸の個展に行ったときに奈智子に聞かされた話だ。

 奈智子が長幸と別れてしまった直接的原因、長幸と美術部の先輩が美術室で作品造り(密会)をしている所を押さえてしまったから。


「……ひなには、悪いことをしたなって、いまでも後悔していますよ」

 そうしみじみと回顧しながらシャンパンカクテルに口を付ける長幸。


 その一言で、


 その一言だけで、それがもう長幸にとっては『過去』の出来事なんだろうなと感じ取れてしまった。


 当たり前である。


 高校生の頃の恋愛事情など40過ぎの人間にとっては『過ぎ去りし青春の思い出』以外の何物でも無いだろう。


 奈智子も、長幸に恨みや憎しみを感じている訳では無いと言っていた。

 でも、奈智子が魔女になり若返った切っ掛けは高校生の頃の長幸との恋愛にあるのは恐らく間違い無く、奈智子にとっては人生そのものに突き立てられた楔のような出来事なのだ。


 その感覚を長幸が共有していない事実は、わたしに言い知れない底寒さを感じさせた。


「それはもちろん、浮気してしまったことへの後悔、ですよね?」

「え、はい、そうですよ?」

「あ、あのいや一応、ひなと別れたことを後悔してるのかなぁって、確認したくて」

「……別れ方に関しての後悔ですね。二股を掛けるべきじゃなかった。奈智子との関係を先にきちんと清算するべきでしたね」

「若気の至りだ」

「そうですね、若気の至りです。

 ……二股でひなを傷付けてしまったのはオレの中では自戒なんですよ。不誠実さと怠惰でひなを余計に傷付けたんじゃないかって後悔がずっとあって。自分が大切にしたいと思えるようになった人を、傷付けるようなことはするべきじゃないなって、より意識的に考えるようになりましたね」


 それは、いまこの状況でのわたしへの牽制なんじゃないだろうかと、変な邪推をしてしまう。

 ……考え過ぎだろうということにしておこう。


「……高校生の頃のそのふたつの恋愛がいまの瀬河さんを形作っている、という訳ですね」

「そんな大袈裟かな……、いやもちろん、絶対に無くは無いとは思うんですけど」

「でもやっぱり、いまイラストレーターをやっているのもその先輩と絵を描いたのが切っ掛けじゃないんですか?」

「まぁ、それは、そうなんだよね……」

 困ったように笑う長幸。


 高校の美術室へ絵を見に来たときもそうだったが、長幸が色々な複雑な表情を見せてくれる。取り繕っていない、違う一面を見せてくれているようで、ちょっと嬉しい。


「会社努めをしていた頃、二十代くらいにイラストの仕事にちょっとだけ関わる仕事をしていたのも影響が大きいんだけど、やっぱりその、その仕事に関わって『自分も絵を描いてみよう』と思い立ったのはその先輩と絵を描いていたときの影響が大きい。初めて絵を褒められたことが記憶の深い所に意外と刺さっていて、大きな後押しになっていたんだと思う」


 ……長幸さんが美術部の先輩に触発されたように、奈智子もあなたに触発されて魔女になったんだよ、と伝えてあげたい気持ちになったけれど、無論わたしは黙っていた。

 多分どうやったって、わたしが伝えたい風には伝わらないだろうなと確信が持てるからだ。

 巡り合わせの数奇さと、いまの奈智子の歪さと可愛らしさは、多分わたしの説明では正確に説明出来ないし、ありのままに受け入れてもらえるとは思えない。


「……その鮎川先輩って、どういう方だったんですか?」


 わたしはテーブル越しに身を乗り出し、少し意地悪で、そして好奇心を多分に含んだ笑みで長幸に問い掛けた。


「え……?」

 少し身じろぎする長幸。


「瀬河さんが美術部の先輩と出会った切っ掛けに興味があります。大丈夫ですよ、ひなには絶対話しませんから」

「あはは……、別に話してくれても構わないけどね」

「ひなは聞きたがらないかも」

「もちろんひなが聞きたがったらだよ。ひなが聞きたがっていたら話してあげて」


 そして長幸は、美術部の先輩との出会いと自戒の日々、そして公には秘匿されていた幻の初作品の制作秘話を聞かせてくれた。


 それは緋山奈智子と瀬河長幸の人生が一瞬だけ交差し、そのままそれぞれの進路へと永遠に離れていく様を見送るよう。

 交差した瞬間は一瞬だけど、その瞬間両者の進路は微かに変わり、進めば進むほど両者の距離は果てしなく遠くなっていく。

 そして奈智子と長幸の人生が決定的に枝分かれした、奈智子が知り得ない物語である。


 奈智子には話すつもりは無いと宣言したのは本心だ。


 奈智子が知らない長幸のことを、わたしの胸の内に留めておきたいと強く感じていたから。






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