敏蔵寺古記

高麗楼*鶏林書笈

第1話

 波間で足掻いている長春の前に板切れが近付いてきた。難破した船の破片のようである。

「早く掴みなさい。放さないで、しっかりと掴むのよ」

 何処かから懐かしい女声が聞こえてきた。長春は迷うことなく、その言葉に従い、板に手を伸ばし、しっかりと抱きついた。

 しばらくすると、嵐は去り、板にしがみ付いていた長春は浜辺に打ち上げられた。

 意識を取り戻した長春は起き上がり、周囲を見渡した。見覚えのない場所だった。人家が見えたので取り敢えず、そちらへ行くことにした。

 長春は、新羅の禺金里に母・宝開と暮らす貧しい青年だった。母親に楽な生活をさせようと、金を稼ぐために村を出て貿易商の手伝いをしていた。

 船に乗ってあちこちを回っているために、この間一度も家に帰ることはなかった。今回の仕事が終わったら帰郷するつもりだった。これまで稼いだ大金と土産物を母親に渡して喜ばせたかったのである。だが、この遭難でそれは果たせなくなってしまった。

 人家に着くと彼は、屋内に向かって声を掛けた。

 すぐに主人らしき男が出てきた。その姿は呉(中国南方地方)の人のように見えたので、長春は仕事で覚えた片言の呉の言葉でこれまでの経緯を話した。

 話を聞き終えた主人は、

「そうか、近いうちに都に行く隊商がここを通るから彼らと共に行けばいいだろう。それまでうちに滞在すればいい」

と言ってくれた。

 長春は、この言葉に従った。

 翌日、長春は、タダで身を寄せるのは申し訳ないといって畑仕事を手伝うと提案した。

 主人は彼の言葉を有り難く受け入れ、さっそく家の脇にある畑に案内した。

 新羅にいた頃、畑仕事をしていたので大して苦にならなかった。

 こうして一ヶ月ほど過ぎたが、隊商は現われなかった。加えて、畑仕事以外に炊事洗濯掃除などの雑用もさせられるようになった。

 そして、数ヶ月の歳月が流れたが隊商は現れなかった。

 長春は騙されたことに気付いた。彼は奴隷にされたのである。

 だが、見知らぬ地ゆえ、どうすることも出来なかった。

 さらに年月が流れたある日、長春がいつものように畑仕事をしていると、新羅風の服装をした僧が彼のもとにやって来た。

「この間、ずいぶん御苦労されましたね」

 新羅の言葉で長春を慰撫した。

 久しぶりに聞く故郷の言葉に疲れた彼の心は暖かくなった。

「さぁ、これから故郷に帰りましょう。母上も心配されていますよ」

 こう言いながら僧は長春の手首を掴むと走り出した。

その速さは空を飛んでいるような~というより、長春の足は地面についていなかった。

 間もなく、目の前に深い渠(みぞ)が現われた。

 僧は長春を抱えると軽々と飛び越えた。

 向こう側に着くと僧の姿が消え、周囲はぼんやりと霧が掛かっていた。どこからか、新羅の言葉の話し声が聞こえてきた。

 次第に霧が晴れ、あたりの様子がよく見えるようになった。見覚えのある風景だった。

「禺金里じゃないか!」

 そして前方から彼の名を呼ぶ声がした。

「母さん」

 彼は母親のもとに駆けて行った。

 息子をしっかりと抱きしめた宝開は、「全て観音さまのおかげだわ」と呟くのだった。

 実は、七日前から宝開は敏蔵寺の観音菩薩像の前に行き、息子が無事に帰郷することを祈願していた。その甲斐があり、今日こうして息子と再会できたのだった。

 宝開親子の話は、すぐに世間に広まり、王の耳にも達した。

 王は霊験あらたかなこの寺に田畑と財貨を喜捨したのだった。


「ここが観音菩薩像で有名な敏蔵寺です。このお寺には興味深い物語があるんですよ、御存知ですか」

「うん、話さないでも分かるよ」

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敏蔵寺古記 高麗楼*鶏林書笈 @keirin_syokyu

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