コロモガエ

春光 皓

前編

 ――加奈子さん。そのお洋服……お気に入りだって言っていませんでした?


 ――言ったじゃない。大切なモノほど〝コロモガエ〟だって。



 これはこのマンションの、正確には四十五階より上、ごく限られた世界にだけ適用が許された「常識」である。その証拠に、この世界の住人の顔が戸惑いの表情を浮かべることなどない。


 あの時の思い出も、時間も、感情も、何もかもを処分するのだ。今を捨てる代わりに、未来を得るのだ。それができない人は、ここに住む資格はない。


 これが、この世界の常識なのだから。


 ――大切なモノほど、価値があるのよ。


 そうか、大切なモノ。捨てたモノにこそ、その価値がある。いや、その価値が評価される。


 ――ちょっと、聞いてます?


 ええ、聞こえていますよ。



 コロモガエ、今晩にでもしておきますから――。


 ◆


「はい、それはリビングで。……あ、それは寝室にお願いします。そっちの棚は……」

「加奈子、まだ荷物はたくさんあるんだ。そんなに張り切ってるとバテるぞ」


 夫の潤はベランダの柵に背を預け、煙草を片手に言った。真っ直ぐと伸びる煙が、潤の余裕と加奈子の不満をあぶり出す。


「たくさんあるから頑張るんじゃない。残された荷物はあなたが働いている間、私が一人で片付けなきゃいけないんだから」


 失礼しました、と潤は煙草に口をつける。ため息のように吐き出された白く濁った息に、ろくに働いてもいないんだから、それくらいしろよ。そう言われている気がした。


 この春、潤は大手広告代理店の若手有望株として、都内本社に栄転となった。聞き馴染みのない横文字の部署の部長らしい。それが何を扱う部署なのかは知らないし、家と会社では見せる顔が百八十度違うのかもしれない。


 それでも加奈子は潤を愛している。自分たちこそ美男美女、世間で言うところの「理想の夫婦像」であるとも思っている。


 潤は容姿も人当たりも申し分ない。加えて、一流企業の出世頭ときた。海外赴任後、すぐに本社勤務とならなかったことを本人は気にしていたようだが、結果として、こうして無事、「正しいルートに軌道修正」もできた。世間体を考えたらこの上ない「当たり株」で、人様から向けられる視線は痛いほどに気持ちがいい。


 もちろん、加奈子だって負けてはいない。同等、とまではいかなくとも、潤の隣で胸を張って歩くくらいはできる。


 加奈子は人気ブロガーだ。フォロワー数七十万人という数値は、一般人のブロガーとしては他の追随を許さない。一日一回の更新で、急上昇ランキングにも必ず載る。


 最も影響力のある一般人、と言っても過言ではない。


 とはいえ、この地位を手にするまでは並々ならぬ努力もした。潤の海外勤務を機に第一線からは退いたが、数年前までは潤に引けを取らない有名化粧品会社のバリバリのキャリアウーマンで、自らをモデルとした、数多くのヒット商品を世に送り出した。「今注目の働く広告塔」なる雑誌の特集を組まれたこともある。

 そんな加奈子の突然の寿退社には、当然難色を示された。が、敢えて自ら家庭に入り、愛する夫を支える妻になった、という事実を手にする必要があったのだ。

 今は物珍しさから商品が売れているに過ぎない。雑誌のモデルが次々に若い世代へと切り替わるように、新しい感性を持った人材は、これから幾らでも出てくるだろう。いずれ、その波に飲み込まれる。


 そんな現実は、間違いなく存在している。


 しかし、浅瀬に追いやられた波のような人生でも、平等に未来は存在する。この現実に目を向けた時、自分の手で掴み取った事実こそ、この先の自分の存在価値をより色濃くし、再び自分が荒波になれるのではないかと、加奈子は思った。


 ――あのまま働いていれば。モデルを続けていれば。今頃は、きっと、きっと。


 自分の手から離れていく現実も、人々の想像の中で着色され、美化されることで、輝いていけるのではないか。そう考えた時、加奈子は活躍の場を、人々の脳内へと移すことを思いついた。


 大切なモノを手放すこと。それは、これから訪れる未来への投資なのだ。


 世間が描く「理想の加奈子」は実在しなくても良い。事実と想像が交わって理想を生み、勝手に独り歩きしてくれるのだから。

 色褪せることも、世代交代の波に飲みこまれることもない。私はいつまでも輝いていられる。そんな思いすら抱いていた。


 そう、このマンションに――引っ越してくるまでは。



「皆さん、本日は緊急の集まりにご参加ありがとう。今日は他でもなく、昨日越してこられた、新たな住人のご紹介よ。四十五階の小柳加奈子さんです」

「小柳加奈子です。これからよろしくお願いします」


 五十階に位置する、とある一室。その部屋の住人である沙織から、加奈子は紹介を受けた。マンションの四十五階以上に住む住人は、月に一度の集まりに参加する必要があるらしい。その事を知ったのは、荷解きでごった返していた、引っ越し翌日の朝だった。



 ピンポーン――……


 孤独を感じるこの部屋に、インターフォンの余韻が漂う。


「誰かしら、こんな忙しい時に」


 加奈子はダンボールの中をまさぐる手を止め、音を追うように視線を上げる。山積みになった荷物にため息を漏らしながら室内モニターを覗くと、そこにはブランド物の服に見を包む、一人の女性が立っていた。


「はーい」

「お忙しいところすみません。私、上の階の者です」


 挨拶に来た、というように、女性は手荷物をモニターの高さまで持ち上げる。

「今行きます」加奈子はそう告げてから、慌てて荷物を部屋の隅へと寄せた。もちろん、中に上げるつもりはない。

 扉を開けると、モニター越しで見るよりも化粧を重ねた女性と相対する。ど派手な服に負けない化粧を突き詰めると、こうなるの? と胸の内で毒づく。


「突然すみません。私、五十階の沙織と言います」


 あ、苦手なタイプだ。と思った。


 沙織は名字を省略し、名前の前に階数を口にする。服だけでなく、おそらくプライドも相当に高いのだろう。瞬間的にモヤモヤとした感情に襲われたが、それを殺して、加奈子は笑顔を作った。


「はじめまして。昨日越してきた、小柳加奈子です」


 視線が合っているようで、合っていない。沙織がどことなく部屋の中を覗こうとしている気がして、加奈子は身体を小さく左右に揺らして対抗した。


「これ、つまらないモノなんだけど、お近づきのしるしに」


 そう手渡された紙袋は、有名洋菓子店の名が印刷されている。明らかな先制攻撃だということは、容易に想像できた。それでも、「良いんですか? こんな高価なものを」と、店のランクを知っている上で言っています、という眼差しを向けて加奈子は返す。


「大したモノじゃないから気にしないで。それに、こちらのオーナーさんには昔から良くしていただいているのよ」


 良くしてもらっているなら、大したモノじゃないなんて言うな。と言えたら少しは気が晴れるのだろうか、と思っていると、「それとね」と沙織は続けた。


「昨日は引っ越し当日で忙しかったと思うけど、この上の階の人だけでもその日の内に、挨拶には行かなくちゃ」


 やっぱり、この人は苦手だ。


「……申し訳ありません。今日、主人が帰ったら伺います」

「あら、あなただけで大丈夫よ。上の人たちも、この時間は奥さんしか居ないから。良ければ私が付き合うわ。……ちなみに、御主人の帰りはいつも遅いのかしら?」


 結局、沙織の申し出を断るわけにもいかず、加奈子は部屋の整理も後回しに、予め準備していた手土産を持って、挨拶周りに出掛けることになった。その途中、事あるごとに潤について根掘り葉掘り聞かれ、終盤、加奈子はウンザリした表情を隠すこともしなかったが、それに沙織が気付いていたのかは定かではない。


「……ってことがあったの。ねえ、ちゃんと聞いてる?」

「ん、ああ、聞いてるよ。でもほら、その人だってわざわざ向こうから挨拶に来てくれたんだろ? こういうリアルも、ブログのネタになると思えば良いじゃん。それにさ、別に俺は自分の仕事のこととか聞かれても、全然気にならないよ?」


 潤は、むしろ話してくれれば良いのに、とでも言いたげな表情をしている。そうじゃない、家庭事情に土足で上がられるのが嫌なの。と言葉が喉元まで出掛かったが、仕事に絶対の自信を持つ潤に言っても意味が無いと、感情もろとも飲み込んだ。


「で? 明日の昼に、その〝集まり〟がその人の家であるんだっけ? 人気ブロガーは優雅で良いねぇ」


 一時の感情は飲み込んでも、次から次へと新しい想いは湧き出てくる。潤とはそこから、ろくな会話もしなかった。したくなかった。

 が、今思えば、この日から平凡な日常とは逆方面に、歩き始めていたのかもしれない――。



 簡単な挨拶を終え、顔を上げる。加奈子の視線の先にある大理石のダイニングテーブルには、既に四人の女性が座っていた。いずれの服も今雑誌で推されている、最先端のトレンドだ。そんな四人は加奈子ではなく、沙織を見て拍手をしている。


 どこか怯えているように見えなくもない。


「加奈子さんの御主人は、あの大手広告代理店の部長さんになられたそうよ。皆さん、仲良くして差し上げてね」

「もうそんな情報まで……沙織さんは本当に、情報通なんだから」


 沙織の前に座る女性Aが、まるで沙織の機嫌を取るように笑う。その視線は会社員時代に嫌というほど見てきた、部下が上長に向けるそれにそっくりだった。


「じゃあ今日は加奈子さんの集まり初日ということで、まず私たちの紹介……の前に、事前情報なしに答えてほしいのだけど、加奈子さんは私たちを見て、どんな印象を持ったかしら」


 今時、合コンだってそんな質問はしないだろう。と思いながらも、四人の視線は沙織に集まっている。あまりよろしくない状況であると第六感がうずき出し、加奈子は必死になって沙織と四人の共通点を探した。


「そうですね……。んー、第一印象は『オシャレな方たち』。でしょうか」


 当たり障りのない回答だが、的外れではないはずだ。その証拠に、女性陣の眉間に刻まれた皺が消えている。


「まー、嬉しいお言葉だわ。良かった、人を見る目がある人で。加奈子さんのジャケットも、とてもステキよ」


 沙織は両手を顔の前で合わせて微笑んだ。どうやら地雷は踏んでいないらしい。


「あ、りがとうございます。一応、家にある一番のお気に入りを選びました」


 嘘ではない。この真っ白のジャケットは加奈子のプロデュースした商品が記録的ヒットとなり、初めて雑誌の表紙を飾った時に着ていた、思い入れのあるジャケットだ。あの日以来、勝負ごとの際はゲン担ぎとして、いつも着るようにしている。


「そう。実はね、私たちも全員、ファッションには拘りを持っているの。それが所以となってね、この上層階フロアにはある決まりを設けているのよ」


「……決まり、ですか?」


 再び四人の「観客」の顔が曇る。どうやら、ここからが本題のようだ。不意に重く感じる空気に、加奈子もごくりと唾を飲む。

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