第16話

アンジェリカはが始まった時からつけている日記を閉じる。

今日の日記はもう書いた。

星も見えない曇りの夜は、今のアンジェリカの心の底の底まで落ち込ませていく。

日記は二冊。一冊はこの先、もしかしたら自分の子供や孫が見るかも知れない、日記。もう一冊がを使わないと読めない、物語が始まってからつけたものだ。

二冊の日記のうち、物語が始まってからつけている方がどこかくたびれている。

時に力が入り、時に泣きながら、溢れた感情を受け止めてきた日記は彼女の心を表していた。

「キース……はもっと立派な人なのに」

きっと自分が思うよりももっと──────、いや、ずっとひどいエンディングを迎えるのだろうと思うとアンジェリカはため息を禁じ得ない。

同時に、あれだけ輝き魅了した物語を台無しにしてくれたヒロインを強く恨んだ。




翌日は雨。

アンジェリカは花栄月はなさかのつき、つまり今月、もうすぐ行われる卒業式典に開催される夜会に着用するドレスを眺めた。

自分の色である赤がメインで、青が強いエメラルドグリーンが差し色に使われている。

本来ならばキースの色である金や碧を用いるべきなのだと思うけれど、もうのだ。

だから彼女は好きな色を選んで作った。これでも布選びをギリギリまで待ってもらったから、方々に迷惑をかけてしまったけれどドレスの出来はさすがの逸品である。

ヒロインはきっと、キースの色を身に纏った自分を指差し断罪したいのだろうけれど、アンジェリカはそんな安っぽくて呆れしかないシナリオに沿ってやるつもりはない。

──────式典で何かするはずです。

そう進言したアンジェリカに「すまないが、ならば決定的にしてやろう」と言ったのは国王ゲルトだった。

多少に戻れれば、それがいかに愚かな事であるかをキースは気がつけるだろう。最後の最後まで、誰よりもキースに寄り添おうとしたアンジェリカのその思いを考えての、ゲルトの決定だった。

アンジェリカとしては、だから式典前になんとかした方が……と思ったのだけれど、これはもしかしてなのではないか、とそれ以上言う事をやめた。

万が一強制力であるのなら、流れに任せてしまおうと思ったのだ。

なにせアンジェリカの知らないところでいつの間にか、アンジェリカのエスコート役にとノアを用意されてしまった。

ノアだけは決して近づけないと決めていたのに、まさかの誤算である。

(最後の最後で二人の世界を壊そうとするのならば、わたくしが息の根だって止めて差し上げてよ)

赤いドレスの前でアンジェリカはこわばった顔で思う。

その顔を見たシシリーが、思わず自分の顔に浮かんだ辛そうな表情をアンジェリカから隠す様に俯いた。

シシリーはまさか大好きな主人が『いざとなったらヒロインを手討ち』と考えてると思わず、卒業式典と言う一大行事にドレスのひとつも送らない婚約者に対して思うことが顔に出たのだと思っている。

──────あんな顔をさせる男なんて滅してしまえ。

心の中で思うならば、どんな言葉だって不敬にはなるまい。

不穏な空気を感じ取ったアンジェリカは鏡越しにシシリーに言った。


「この部屋で火を噴かないでちょうだいね?噴くならせめて、だれかの役に立つ場所になさい。例えば厨房とか」

「お嬢様、わたしは釜ではございませんよ」

「そうね……釜のほうがちょうどいい火加減にできるものね」


この間、キースのに怒って思わず庭の草木を焦がすほど火を噴いたシシリーは、罰の悪そうな顔を鏡の中のアンジェリカに向けた。

自分を愛してくれている家族同様、自分を思い自分を第一に考え支えてくれる侍女は、アンジェリカの心をいつも包んでくれる。

家族よりも多くの時間を共に過ごしているシシリーはいつだって、アンジェリカより先にアンジェリカが言いたい事を溜め込まない様に、言える様にくれた。

多分仕向けたというような考えてやった行動よりも、シシリーが素直に行動した結果アンジェリカが言いたい事を──それでも貴族令嬢らしく──言える状態になったのだろうけれど、それでもアンジェリカはシシリーのそうしたところに幼い時からずっと助けられている。

(いつか、わたくしはシシリーに話すのかしら……)

アーロンやノアには一生言わないだろう、物語のこと。けれどもどうしてか、シシリーにはいつか話す様な気がしている。


「シシリー」

鏡越しに声をかけられシシリーは手を止める。

「わたくしがどこへいっても、ついてきてくれる?」

一枚の鏡を介してだからか、いつもよりも表情が顔に出ているアンジェリカにシシリーは何度も頷いた。

「もちろんです。お嬢様。お嬢様が行く先へ、必ず、お供いたします。シシリーはお嬢様に生涯を捧げておりますから!」

まだ小さかった頃からずっと変わらないシシリーの忠誠に、アンジェリカの顔がホッと安堵の色を浮かべる。

彼女のずっとずっと張り詰めていた、本人も見つけていなかっただろう心の端で張り続けていた糸がシシリーの思いでどこか緩められたのだろう。

「シシリーがどこにでも一緒に来てくれたら、わたくし、どこでだってわたくしで生きてゆけるわ。ありがとう」

「いいえ、いいえ。お嬢様がいてくださるからこそ、シシリーは生きて行けるのです。お嬢様がお嬢様でいられるのであれば、シシリーはどこへだって参ります」

振り向いてシシリーと向かい合ったアンジェリカは初めて、シシリーを抱きしめた。

驚いて固まっているシシリーには悪いけれど、アンジェリカは今、彼女から得られる安らぎを一身に浴びたい。

どこへ行くことになろうとも、自分にはこれだけ自分を考え守ろうとしてくれる人がいる。

それがまたアンジェリカを奮い立たせてくれた。


何かすると進言しても式典はそのままにと言われた時、やはり強制力があるのかもしれないとアンジェリカは恐怖したのだ。

その上ノアがエスコート役。

キースのことは本当に残念で悔しいけれど、ここに来て突然想像していなかった事態にアンジェリカは神経がすり減っていた。

父エイナルは何があっても守ると言ってくれていたけれど、もし万が一、強制力が働いていたら両親は式典の時にかなり遅れて会場入りをする。

国王と王妃もそうだ。

アーロンが物語の様にアンジェリカを断罪したとしたら、止められるのはアーロン一人。ノアは婚約者であって王族ではない、キースを止めることはできないだろう。

そうなればヒロインの望む様になってしまうかもしれないのだ。

黙ってやすやすと断罪されようなんて思っていないし、必ず勝ってみせるとも思っている。

しかしけれども、いかに完璧と言われようと自分が死ぬ物語を知れば、その日が近づいてくれば、人は恐怖を感じ不安になり、日々精神が荒んでもおかしくはない。

それを見ない様にしていたアンジェリカにとって、見ない様にしてもやはり自分のその感情を嫌でも感じてしまっていたアンジェリカにとって、シシリーは心強い味方なのだ。


「式典で何があっても、火は噴かないでちょうだいね」

「まあ!お嬢様、私はこれでも完璧な淑女と言われるお嬢様の専属次女を誰にも譲らず、完璧な侍女であろうとしているのです。時と場合に応じた対応くらい、いくらでもできますとも」

そう言って胸を張るシシリーがまるで念を押すように「時と場合によりますが」と小声で付け足したのを、アンジェリカは聞かなかったことにした。

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