第13話

「……え?半年……ですか?」


驚き呆然と呟くノアに王妃エレオノーレは頷いた。

「ノアの講師にと頼んだ子爵夫人は、アンジェリカの講師の奥方です。子爵にはこのままアンジェリカの講師として、そして夫人には時期を見てノアの講師としてお願いしたかったのですが、二人には急遽半年後、外交を任せることになりました。ノアに『加護史学』を教えられる講師は夫人しかいないでしょう。ですから学園を楽しみにしているノアには申し訳ないのですが、半年間、学園には行かず王子妃教育の一環として、ここで夫人から学んでいただきます。これを逃すと、他が間に合わなくなってしまうのです」

嫌を言える状況ではないし、王子妃としての覚悟は婚約者になった時にしている。しかし

(加護史学……興味はあったけど、でも魔法科に入学できたのに……うう)

とついつい思ってしまう。それを見越したかのようにエレオノーレは付け足す。

「夫人は『まほうと』と『せいれいと』という絵本研究者の第一人者ですよ。お休みの時間に話を聞ける様、わたくしから頼んでおきましょう」

ノアの表情が一気に変わった。

と言われてしまいそうだが、ノアは魔法も精霊魔法も大好きでだからこそこの二冊の絵本に興味を持っている。

いつ誰が描いたかも分からないほど昔からある絵本で、今のそれと昔のそれは随分と違ったと言われている。

また、がある日切り替わった、その理由には人間の浅ましさと恐ろしさが関わっているとも言われているのだが、本が有益である事は昔から変わらないためその違いや変換期に興味を持つ人間はほとんどいない。

そのため、その変換を含めた研究している人間は本当にごくわずか。

絵本は当然ながらにも興味があったノアは、「研究をしているという人に会えたらいいな」と常々思っていたのだ。

「加護史学は研究されていない分野です。しかし王族に嫁ぐ人間としてどうしても学ばなければならない分野でもあります」

「はい、わかっています」

「本当はノアには学園に行きながら、時期を見て学んでもらう予定でしたが……半年、どうか許してくださいね」

「いいえ。なかなか学べない加護史学です。精一杯学ばせていただきます」


深く頭を下げたノアは見えなかったけれど、エレオノーレは覚悟をしている様な強い目を瞼の奥に隠した。




頭を下げ部屋から退出したノアを見送ったエレオノーレは、ソファから立ち上がると執務机のところにある椅子に深く腰掛け、目の前に置いた書類の束に目を落とす。

自分の子供がこれほどまでに愚かだったなんて、と書類を前に苦悩の表情を浮かべる。

アンジェリカとの関係がビジネスライクである時もあれこれと、王妃として、母として、一人の人間としてどれだけ話してきただろう。

それでも今よりはずっとマシだった。思えばそうであったし、“今の状態”になってからだって何度も話した。

アンジェリカにだってそうだ。

婚約をキースの有責で破棄するとどれだけ伝えただろう。けれど彼女はいつだって「まだ諦めたくありません」という。

そんな彼女の気持ちは受け止めた上で、ある日を境に国王にも言わず秘密裏に、ノアに王太子妃教育を施す様にと講師らに指示を出した。

そう、エレオノーレは誰よりも早く、ノアを王太子妃にすべく動いていたのだ。

王太子妃でなければ学べないことは最後に回し、それまでの事をノアに施す様に、と。

講師たちは王妃の意思を汲み自分たちが罰せられる覚悟でそれを行い、王妃は彼らの忠誠心とその思いを胸の中に秘め、淡々とノアに教育をしている。

講師たちは皆、王妃が信頼する、元は彼女が教育を施してくれた講師たちだ。

彼女がどれほど隠そうとも、彼らは王妃の思いを感じ取ってしまう。

それだけの信頼関係が彼らにあった。


そんなエレオノーレの元に、ゲルト国王陛下から報告が届いた。

エイナルアンジェリカの父がアーロンとノアのに回ると。

アンジェリカはそれを承知した上で、それでももう少しだけを諦めたくないと言って聞かず、少しでもキースがおかしなことをしない様に“最後まで”見捨てたくないと言って、またその思いをエイナルは受け止めたということも。

(アンジェリカ……)

自分以上に素晴らしい王妃になるだろうと思っていた少女。

いろいろなことを我慢し諦め、そして戦ってきた彼女を思うとエレオノーレは心が痛い。

王妃になるべくする努力は、一口に努力だなんて言えない様な辛さと困難であることをエレオノーレは身を持って理解している。

──────アンジェリカは、バグウェル伯爵ノアにはバグウェル伯爵だからこその王妃になれると。それが楽しみだと、そう言っております。娘は、バグウェル伯爵を友人として、そして家臣として生涯支えていこうと決意している所存です。

エレオノーレも、アンジェリカの意見に同意する。ノアだからこその王妃になれるだろうとは思う。

けれども突然一層責任ある立場に立たされるのと、最初からその立場になると覚悟するのでは精神的にかなり違うものがある。

だからこそ、王太子とその妃は幼い頃からを叩き込まれるのだ。


「大丈夫かしら……」


思わず口からついて出た言葉に、エレオノーレは首を振る。

ノアだって当然“王子妃になるからこその覚悟”は、幼い頃から成長していく過程で徐々に持ってきただろう。

しかしそれと王太子妃では違う。

アーロンはきっと、いや絶対に、そんなノアを支えるだろう。

ノアの、この先の覚悟を決めていくその強さについては良くも悪くも想像するしかない状況だけれども、アーロンがこの先のノアを必ず支えるという想像はどんなに悪く考えても容易にできる。

あれだけ悩んで悩んで、それでもノアがいいと言ったアーロンだ。

ノアでなければ嫌なのだと、あれほど強く訴えてきたアーロンだ。


「どうしてこんなに、あの子たちは違ってしまったのだろう」


気を抜くと泣いてしまいそうでいけない。

彼女だって王妃の前に一人の母だ。

どれだけ努力したってどうにもできないことに、届かない気持ちに、そしてもうダメかもしれないという現実に、母親のエレオノーレはしゃがみ込んで泣いてしまいたかった。

しかし彼女は王妃でもある。

いかなる相手でも容赦せずに対峙するという覚悟を求められて、その覚悟を持ってここまで生きてきた。

それは“幼い頃からそうなる様に努力してこそ”の覚悟だ。エレオノーレはそう思っている。

(わたしが、母として泣くのは、今日だけ。今日だけよ)

ほろりと落ちた涙をグイッと拭った。

少しも王妃らしくない、けれどもエレオノーレらしいその拭い方は、彼女が今、であるという証明だろう。

だから今のエレオノーレは願わずにはいられない。

キースが最後の最後で、アンジェリカの愛情に気がつく事を。

そして自分達の、をちゃんと理解する事を。


今頃きっとゲルトと対峙しているだろうキースに、願わずにはいられないのだ。

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