この理想のような異世界で、無力な俺は主人公になれない
赤め卵
序章 絶望はいつも突然やってくる
プロローグ 絶望と……
少しずつ、体が壊れていく。
こうやって走っている間にも、左肩に負った深くえぐられた傷口からは、今までに出したことのない量の血が流れ出し、この体をだんだんと赤に染め上げていく。
足を動かすたびに、骨が軋んで肉が裂けていく。
目から入ってくる景色は、靄がかかっているかのようにはっきりしない。
焦点が定まらず、ひどく歪んでいる。
……痛い。
上がらなくなってきた足を前へと進めながら、かろうじて動く右手を使って傷口を押さえて少しでも出てくる血の量を減らそうとする。
だが、残酷にも血液は体外へと漏れ出していき……止まる気配が全くと言っていいほど感じられない。
まるでその行動に意味がないと訴えかけるようだ。
…………痛い。
皮膚の感覚が麻痺してきているのだろうか。
空気の冷たさや体の温かさ、そしてこの強烈な痛みすらもわからなくなってきた。
息を吸うたびに口内は苦い鉄の味が広がり、横腹へ鋭い刺激が襲ってくる。
しかし、そんな感覚すらももう薄れていた。
速くーー
もっと速く走らなければいけない。
そのはずなのに……俺の意思とは真逆で体は限界を迎えてきている。
残酷なぐらい風は冷たく、ただでさえ冷えてきた体をさらに鈍くさせていく。
ーーもう……、
ーーもう、疲れた。
ーー苦しい。
--痛い。
ーーつらい。
ーー止まりたい。
ーー楽に……なりたい。
できることなら、もう、この足を止めてしまいたい。
全てを投げ捨てて、このまま引き返して、全てを無かったことにしてしまいたい。
もう、十分頑張った。
他にやりようがあったかもしれないけど、俺なりに努力して、できることをしていった。
なのに……それなのにーー
また、失敗した。
叶わない望みなんてないと、失敗はーー努力は必ず報われると、そう信じてきたのに……。
そんなものはただの幻想でしかなかった……。
失って。
無くして。
傷ついて。
そしてまた失う。
散々じゃないか。
求めていたものはこの手からこぼれ落ちていくのに、目を背けたいほどの辛いことだけが増えていく。
すべての努力は報われるーーそんなの、嘘だ。
願いなんて叶わない。
失ったものは取り戻せない。
もう、何をしても無駄だーー無駄なんだ。
そう、思っているのに。
そう、気付かされたのに。
それなのに……
俺の中で渦巻いているものが、何かを訴えかけているかのように消えてくれない。
ーー死にたくなんてない。
今、このままなにも見てないフリをして逃げれば、少なくともちゃんと生きて帰れる。
治療を受けて、元の体に戻れるかもしれない。
きっと、全てを無かったことにできる。
忘れられる。
逆に、この機会を逃せば、生きて帰れるかどうかもわからない。
ーーそんなこと、知っている。ちゃんと分かってる。
それでも、たとえそうだったとしても、俺はただひたすら走ることしかできない。
走って、走って、走り続ける。
邪魔な位置に置かれた木々の隙間を抜け、一方向に向かって走る。
帰る方向とは真逆の方向にただひたすらにひたすら走り続ける。
ーーもう、失わないように。
ーーもう、死なせないために。
このまま走り続けていたら、すぐに足は動かなくなくなり、いずれ使い物にならなくなるかもしれない。
死にたくない。
ーーそれでも、ここで引き返したら待っているのは一生付き纏ってくる後悔だ。
まだ可能性は残っている。
まだ……間に合うかもしれない。
まだーー
だから、せめて、今までと同じように、何もかもが手遅れになる前に…………。
今なら、まだ間に合う。
俺が急げば、まだーー
この手が届くうちに。
だから……どれだけ疲れても、苦しくても、痛くても、つらくても、死にたくなくてもーーこの足を止めるわけにはいかない。止められない。
木々の隙間を通り抜け、地表へと出っ張った根を飛び越えて、ひたすら進む。
大きく体を動かすたびに腕に激しい痛みが戻ってくるが、もはやそんなものは関係ない。
この、いくら進んでも風景が変わらない森を抜けられる。
この、無限とも思えてしまうような苦しい時間からぬけだせる。
あと、少しで……、
次第に視界は開けていき、明るくなっていく。
思わず目を細めてしまうが、眩しさに慣れていくと共に瞼を開いていく。
するとそこには、深緑に染まった大地があった。
今まで森があったことが嘘に感じられるほど開けた草原が、そこには広がっていた。
森は抜けられた。
そして、この草原のどこかに彼女はいる。
この近くに…………
ーーどこだ?
早く彼女を見つけないといけないのに、この近くにはいるはずなのに、肝心な姿が見当たらない。
ーー。
迷ってる暇はない。
本来、ここのように魔物がいる地帯で大声を出すのはタブーだ。
音に反応してくる魔物がいるのは子供だって知っている。
それでもかまわない。
そんなこと気にしている場合じゃない。
一刻でも早く彼女を見つけ出すことができるなら、少しの危険ぐらい……。
そうして、決意を固めると同時に口を大きく開き、喉から声を振り絞った。
「ーーーーーーーー」
しかし、そんな俺の声ーー叫ぶほど全力で言った彼女の名前は、鼓膜を震わせた爆音によってかき消された。
ーー!?
反射的に音のした方向を向いてみると、近くにある丘の奥の方、そこから……煙が上がっていた。
……あの爆音、あの爆発を、あの煙を俺は知っている。
隣で見たことがある。何なら、食らいかけたことだってある。
あれは……あの、魔法はーー
人を、殺すために…………。
そこから先は、考える前に体が動いていた。
体の痛みなんて忘れて、恐怖なんて忘れて、ただでたらめに走っていた。
まだ、間に合う。ーーそう言い聞かせて、ひたすらに走った。
そして……
上がっている灰色の煙の元に……、彼女はいた。
体中に深い傷をつけ、うつぶせに転がっている彼女が、そこには……あった。
そんな彼女の背中から腹部にかけて槍が貫通し、地面にまで刺さっている。
そんな中、彼女の周りだけ不自然に地面が赤い。
俺のようにどす黒く汚くない、きれいなほど鮮やかな赤だ。
そんな赤い色が、今この瞬間にも広がり続けている。
…………?
……は?
ーーなん……で、
ーーなんで……?
ーーどうして……彼女……が?
訳が分からないまま、受け入れられないまま、ただ茫然と何をするでもなく、赤く染まっていく彼女を見ていた。
そこには、間に合わなかったという事実があるだけだ。
しかし、その現実を受け止められるかは別の話。
ーーいつか終わりが来る。
そんなこと、当たり前だ。
俺はそれを知っていたはずだ。わかっていたはずだ。ーーなのに。
失ったものはもう戻ってこないーーその変えようのない事実が想像以上に重く、心に深く刺さったまま抜けなくなってしまった。
だからなのだろう。
だから……あの毎日を失うのが怖かったから、ただ恐れて、いつの間にか思い出すことすら嫌になって、だから忘れたふりをーー現実逃避をずっと続けてきた。
あの日常を失うのが怖かったから。
もう……何度も失ってきたのにも関わらず。
そうやって他人を騙して、俺さえもだまして、その結果ーーそれが、このザマなのか。
そうだよ。
いつだってそうだったじゃないか。
いつだって絶望はーー突然やってくる。
もし引き返していたときに感じていたであろう悔しさが後悔だと言うのなら、この瞬間に心から溢れ出しているこの思いはなんと表現すればいいのか。
ふと、意識が現実に戻った。
目の前には、やはり信じられない量の血を流して倒れている彼女がいる。
傷だらけで、生きているかすらわからない状態の彼女がすぐそこにいる。
それなのに、結局、俺の力だけでは何もできない。
治癒魔法なんて使えない。彼女を担いで帰れるほどの体力も残ってない。
俺は無力だ。
結局、何もできないまますべてが終わる。
もう、俺の中でかすかに渦巻いていた何かは消えている。
足から力が抜け、体が崩れ落ちる。
気づけば、目からは透明な液体ーー色のない血が、頬を伝っていた。
今になって、もうどうしようもなく、手が行き届くはずもないのに、選ばなかった選択支に可能性の数々が頭をよぎっていく。
俺なりに、無力な俺なりに頑張ったつもりだったのに。
いつか失うという現実から目を背けていたとしても、あの何気ない日常が続いて行くように、自分なりに考えて……これが最善だと思って動いてきた。
今更、どんなに後悔したって、もう彼女が助かることはない。
俺が何もできないから。俺がうまく立ち回れなかったから。俺が無力なままだったから。
ーー俺は。
俺は……
「俺は……どうすればよかったんだよっ!!」
その、答えの出ることのない疑問だけが、この世界に響いて煙の中へと消えていった。
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