13縁「ぐっ……。仕方ないわね」

「こういうのはどうだ?」


 不登校のえるを心配して来た二郎だったが、気づけば彼女の漫画を読むために必死だった。


「部室に持ってきてもらうんだよ。先輩たちが卒業したから、いま俺一人なんだ。人いないから安心だよ」


 人嫌いなえるに配慮した提案だった。文芸部室には二郎のみ。クラスメイトひしめく教室まで行く必要はなかったが、引きこもりの少女は彼を睨んだ。


「……やっぱり、学校行けって言うじゃんか」


 二郎は作品を読みたいだけだったが、えるは警戒心を示した。彼が姉のクラスメイトであることを思い出す。


「姉ちゃんか先生に言われて来たんだろ」

「さっき違うって言っただろ? だいたい……」


 暗い部屋に浮かぶパソコンの光に、二郎は目をやった。ディスプレイには描きかけの漫画が表示されている。


「漫画家になれるんなら、いいんじゃないか? 別に学校行かなくても」


 えるはプロになれると、二郎は信じて疑わなかった。のんきなことを言う彼に、少女は神経を逆なでされる思いがした。


「……簡単に言うなよ。そんな甘い世界じゃねえよ」

「そうなのか?」

「当たり前だろ? プロになれんのなんてほんの一握り。あとはただの博打ばくち打ちって、バクマン。で習わなかったのかよ」


 この頃、文芸部の二郎が読むのはもっぱら小説だった。漫画の世界も小説同様に厳しいと言われて、別な選択肢を示す。


「じゃあ学校行くか」

「はあ? どっちだよ」

「どっちでもないよ。学校だけが正解かなんて知らないし」


 引っ張り出す気も閉じ込める気もなかった。二郎はただ、選択肢を並べているに過ぎない。


「える本人が行きたかったら、文芸部室が使えるなーって思っただけ。保健室登校じゃないけど、教室いたくない時は部室って感じでさ」

「……」


 二郎はただの押し付けではない――。えるはそう感じた。今も、どちらかというと漫画を読むために夢中で作戦を練っている感じだった。


「あ、ケイに持ってきてもらうって手もあるな、漫画。えるからケイに渡してもらって、それを俺が学校で読むってのは?」


 その名を出されて、妹の表情は曇った。姉に対しては強いコンプレックスがあった。


「それは、無理」

「え? なんで?」

「……あいつと話したくない」


 暗い感情を吐き出した。ずっと一人で溜め込んできた負の感情だった。


「正義感が強くて、美人でクールで……。まるであたしと正反対。いちいちあいつと比較されるせいで、いつの間にか、人の目が怖くなった……」


 けいと一緒にいると、自分は出来損ないだと痛感させられた。自信を失ったえるは、将来を悲観するまでに追い込まれていたのだった。


「……もう、人生諦めてる。漫画だって、プロになれるかなんて、分かんないんだもん……」


 その声は震えていた。パソコンの明かりが照らす頬には、ひと筋の涙が光っていた。


「……」


 その横顔に、二郎は胸が締めつけられる。少女の心中を思うと、二郎の心にも、とげのようなものが突き刺さる思いがした。


 不用意に吐露してしまった自分を、えるは呪った。


「……何言ってんだろあたし。どうかしてる」


 今まで誰にも打ち明けなかったことが、なぜか二郎にはさらけ出せた。隠れるようにして涙をぬぐう。


「最悪だよもう……。やっぱ人と話したって、いいことなんか……」


 そこまで言って、二郎の様子がおかしいのに気づく。さっきからひと言も発していなかった。


「?」


 気になって振り向くと、どういうわけか彼は泣いていた。予想外のリアクションに、えるは大いに困惑した。


「な、なに泣いてんの?」


 女の子に涙を見られて、二郎は慌てて鼻をすすった。制服の袖でごしごしと目を擦る。


「……泣いてない」

「いや無理でしょ。なんであんたが泣くの」


 あくまで泣いたと認めない二郎だったが、鼻声で応じた。


「……辛かったよな、って思って」

「!」


 さっきのえるの告白は、他人事だとは到底思えなかった。二人の心が通じ合う。


「俺も、同じなんだ……。何でもできちゃうやつがいて、自分が情けなくて……」


 パッとしない双子の弟には、彼女の気持ちが痛いほど分かった。二人は似た者同士だった。


「追いついたと思ったら、もう先に行ってるんだよな」


 物心ついた時からずっとそうだった。劣等感という足枷あしかせが、いつでも二郎の歩みを止めた。


「……踏み出すのは、怖いよな。誰にも言えなくて……。一人でおびえてたんだよな」


 えるの瞳はまた濡れた。それを悟られまいとして、強がるように言う。


「ば、バッカじゃねえの。心配で見にきたとか言って、自分が泣いてちゃ世話ないじゃん」

「……ごめん。泣いてないけど」


 再び目を擦る二郎。


「……なあえる。お前やっぱ、文芸部入れよ」

「はあ? さっきは、行きたくなきゃいいみたいなこと……」

「そうだけど、でも……」


 顔を上げる。不格好なれぼったい目で見つめた。


「一緒に、探したいから」

「? 何を」

「どうすればいいかを。本当は、先輩として教えてあげなきゃいけないんだけど……」


 彼の震えた声は、少女の胸を強く打った。


「――俺は、一緒に悩みたい。だから、一緒に行こうよ、部室」


 不器用でまっすぐなその想いに、熱いものがこみ上げてくる。涙を隠すのは、もう不可能だった。


 えるのそれを落胆と受け取ったのか、二郎はシュンとなった。


「……やっぱりダメだよな、俺なんかじゃ。……悔しいな、えると学校行きたかった」

「……」


 えるは小さく口を開いた。二郎の気持ちに応えたいと願った。


「……部活」

「え?」

「文芸部って言った?」

「? うん……」


 えるも、一緒に探したいと思った。二郎と一緒なら、何かが変わる――。なぜかそんな予感がした。


 ただ、そんな思いをはっきり悟られるのは気恥ずかしかった。そのまま応じるのは照れくさかったため、作品の力を借りて話を進めることにした。


「……今日からは、文芸部改め『SOS団』」

「…………え、何て?」


 戸惑う二郎につけ込んで、あえて強気な態度を見せつける。大きな声を出せば、唇の震えに気づかれることもない。


「はあ? 文芸部のくせにハルヒ知らねえの?」


 第1巻の『憂鬱』を、本棚から抜き取る。無理矢理手渡された二郎は困惑した。


「……ライトノベルってやつか? 表紙はかっこいいけど、俺あんまり」


 このあと熱中することになるとも知らずに食わず嫌いをしていた。


「いやマジで世界変わるから。あと、あたしのことは『団長』と呼びなさい」

「ええ? 俺一応先輩なんだぞ? 今更だけど敬語くらい使えよ。もしかして使えないのか?」

「使えるッスよ、自分アホじゃないんスから。はいこれでいいでしょ」


 人と話す機会など、この頃のえるにはろくになかった。


 二郎は苦笑した。先のことが思いやられる。


「……教えることがいっぱいありそうだな」

「? なに教えるって」

「勉強。一人じゃ大変だったろ? 俺成績悪くないし、部室で見てやるよ」


 名目上は文芸部だったが、実際にはえるの漫画を読んだり、勉強を教えたりすることになりそうだった。先輩からの上から目線な物言いに、えるは不敵に笑ってみせる。


「……上等だよ。そのうちこっちが教える側になってやる」

「それはない。一生ない」


 傲岸不遜ごうがんふそんに腕を組んで、新入部員として自己紹介した。その目にはもう、涙は浮かんでいない。はっきりとした光が宿っていた。


「東中出身、忍野おしのえる。ただの部活には興味ありません!」


 照明の切れた部屋に明かりが灯った。憂鬱だったえるの人生は、今日この瞬間から生まれ変わった――。

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