猛毒を喰らわば、あなたまで

うめもも さくら

猛毒を喰らわば、あなたまで

 ここは都の中でも一、二を争う名家のお屋敷。

 その豪奢ごうしゃな屋敷の奥の部屋に、この家の一人娘だった姫君が静かに座っている。

 一人娘だった、と過去形になっているのには、とても深刻で残酷であまりに形式的な訳がある。



 かつて、この家に正妻として迎えられた、とある姫君は、女一人しか産むことができなかった。

 現代でこそ、それはさして珍しいことではないけれど、昔であればそれは何より重要で、女の義務を放棄していると見なされ、周囲の人間からひどく責め立てられるものだった。

 例にもれず、正妻は役不足、役立たずとののしられ、強く糾弾きゅうだんされた。

 この屋敷の主は、出来うる限り、妻を守ろうとしたが、それにも限度があった。

 正妻は周囲の者たちからの酷い言葉の暴力に耐えきれず、病を患い療養の名のもとに家を出た。

 それを好機とばかりに家臣たちは口々に、主に進言をした。


――この際、正妻の座から降りていただきましょう

――奥方様より、あの姫君の方を正妻にしては?

――あの姫君と子供をおつくりくださいませ

――あの姫君との御子みこ嫡子ちゃくしにしてはどうか


 あの姫君とは、主の望まぬままに、形ばかりめとった側室だった。

 当時、主より上の立場にあった貴族が、無理矢理に押し付けてきた政略結婚の相手。

 その側室は若く、たいそう愛らしい見目の持ち主であり、また側室に甘んじているにはあまりにも惜しい家柄でもあった。

 周囲の多くは、彼女を正式に正室に迎えるべきと考えていた。

 けれど屋敷の主はそれを良しとせず、家柄など、まるでないような下級の姫を、正式に正妻の座に置き続けていた。

 それは、正妻が家を出た後も同じだった。

 しかし、屋敷の主にも役目や仕事があった。

 そして、正妻が本来やるべきことは、不在の姫君に代わって側室が務めていた。


 そのうち、心労がたたった正妻はおかくれになった。

 屋敷の主はおおいに嘆き、その正妻との御子である姫君を屋敷に連れ戻し、亡き妻に代わり、それはそれは可愛がった。

 その家では、正妻の亡き後、正式に側室が正妻として、その立場についた。

 そして、側室だった姫君も御子を産みおとした。

 側室だった姫君の子供は、男児であった。

 そのため、その御子がこの家の嫡子、跡取りとして育てられた。

 この時代、たとえ、屋敷の主が亡き妻との御子をどれほど愛していても、女である姫君が家の長に立つことはできなかった。

 それはもちろん、姫君と若君では幼い頃から与えられる知識に違いがあり、まつりごとでは姫君にできることが少なかったせいもあるが、単純に姫君には危ないためであった。

 どうしても腕力や脚力の弱いつくりである姫君には、帯刀たいとうしている貴族と政での渡り合いは危険なのである。

 屋敷の主は、亡き妻との御子である姫君を屋敷の奥の部屋に置き、隠すように守った。

 姫君が泣けば、おどける様にあやし、姫君が欲しいものを言えば、すぐに用意させ、主は時間がとれれば、いつだって姫君のそばで過ごした。

 姫君が亡き母を恋しがり、泣かぬようにと、屋敷の主は、貴族ながら良い父も懸命に務めた。

 姫君の年頃が十になるかという頃。

 おそらく、姫君が幸せに笑っていたのはその頃までだろう。

 姫君を守っていた屋敷の主が、お隠れになった。


 それは不運な事故であった。

 予期することもできぬ唐突な不幸に、屋敷の者たちは慌ただしく動いた。

 幸い、この家の跡取りは体が弱いこともなく、すこやかに、そして聡明そうめいに育っていた。

 そして当然に、若く愛らしい正妻よりも、この家の重鎮じゅうちんたちが、この屋敷のことを取り仕切ることが多くなっていた。

 そのうち立場をわきまえなくなった家臣たちは、亡き正妻の娘であった姫のことなど、まるで用済み、邪魔者だとでもいうようにあしらい、嫡子である若君だけを丁重に守った。

 姫君は、かつて守るために置かれたはずの屋敷の奥の部屋に一人、閉じ込められた。

 いつか、この家の道具として、どこかに嫁がせるためだけに生かされた。

 最初こそ嘆き、泣いていた姫も、そのうち心を殺したように、何も言わなくなった。

 まるで氷のように冷たく、色のない瞳で、ただそこに存在しているだけ。

 そんな日々が何年も続き、ある日、役目を与えられた。

 それは、


「それではこれらを召し上がってください」


 そう、家臣に言われた姫君の前には豪華なぜんが置かれている。

 温かくよい香りをたてる料理を前にしても姫君は眉一つ動かさず、まるで面でもつけているかのように変わらぬ表情でさじを手に取る。

 彼女だけを見れば、その目の前にあるものが出来立ての美味しい料理だとは到底思えない。

 けれど今、姫君の置かれている立場を知れば、彼女のその表情もたいして可怪おかしさは感じられない。

 姫君の前に並べられたこの食事はすべて彼女のために用意されたものではない。

 この屋敷の主、正しくはまだ若君だが、この屋敷にて最高権力を持つ男。

 料理は全て、この男のために用意されたものだ。

 けれど若君は少し離れた場所から姫君をみつめているばかりで、一向に並べられた膳に向かおうとはしない。

 姫君の動向をただ眺めているばかりだ。

 それも至極当然しごくとうぜんのことだった。

 姫君が一つ、感情の見えない声で小さく言葉を紡いだ。


「それではお毒味をさせていただきます」


 かつてこの屋敷の一人娘であった姫君は、今や異母兄弟である若君専用の毒見という役目を与えられていた。


 朝の毒見を終えた姫君は、一人、屋敷の奥の部屋に戻っていた。

 料理には、毒のたぐいは一切入っていなかった。

 それは誰が聞いても喜ばしいことだろう。

 しかし、彼女は静かにため息をついた。

 そして落胆の色を滲ませて呟いた。


「今日も死ねなかった」


 最愛の両親を失った姫君に残された望みは、死して、浄土じょうどで彼女の両親と再会することだけだった。


「また、そんなことを言ってる。そろそろ私も怒るよ?」


 ふすまが姫君の許可なく開けられ、開けた男が眉をしかめて姫君を見やり言った。


「また来たのですか?貴方こそ怒られますよ?」

「どうして?私を怒ることのできる人間なんてこの屋敷にいると思う?」


 姫君の言葉を一蹴する言葉をおどけたように紡ぐ男は、彼女のそばに座って言った。


「姉さま以外にね?」


 姫君のそばに座った若君は、彼女以外の人間を嘲笑あざわらうように鼻を鳴らし、そう言った。



 若君は姉である姫君に優しかった。

 若君だけが、この家の姫君として接していた。

 時間がある時は、必ず姫君に会いに来て、とりとめもない話をする。

 昔はそのことでよく家臣に怒られていたものだ、と姫君は何気なく思い返していた。

 しかし、そんな優しく接する若君にも、姫君の感情は動かないようだった。

 氷のように凍てついてしまった心を溶かすには到底、及ばない。

 感情の色のない表情のまま姫君は、若君がこの部屋から出ていくことをただ待っていた。

 心が死んでしまった姫君には、どんな言葉も想いも滑り落ちて、何もかもが、ただ目の前を通り過ぎているようだった。

 家臣に、毒見役を言いつけられた時も、自身が死んでもいい人間だと言われていることを悟りながら姫君の心に憤りの一つも感じなかった。

 若君に、大切だと、家族なのだから、と優しい言葉をかけられても、姫君の心にぬくもりのある感情は一切浮かばなかった。

 それでも、どれほど冷たくあしらっても、若君は部屋にやってきて、優しく微笑むのだ。

 姫君にはそれが理解できなかったし、ひどく煩わしかった。

 もし、若君が姫君に一つ感情を教えたのなら、それは鬱陶うっとうしくわずらわしいという苛立いらだちの感情だろう。

 それでも若君は、茶をれたり、流行はやりの着物や美しい装飾の飾りを贈ったり、心が華やぐようにこういたりと甲斐甲斐かいがいしく姫君に接した。

 そのどれもが、姫君の心をざわめかせる。

 それらの物は、若君がどれだけこの屋敷の人間に大切に扱われているのかがわかる代物しろもの

 屋敷の奥の部屋に隠すように閉じ込められた自身との差を、その現実を、姫君に突きつけてしまっているだけだった。

 けれど、姫君には悔しいとか悲しいとか、憤りという感情は芽生えない。

 ただ、早く満足して帰ってほしい、一人にしてほしい。

 ただ、早くこの立場から抜け出したい、早く三途さんずの川のほとりに連れて行ってほしい、早く浄土で再会した両親に頭を撫でてほしい。

 姫君の心にあるのはそれだけだった。


 姫君は、若君にもたりさわりなく接していた。

 怒りのままに感情をぶつけることも、嫡子という立場をねたみ危害を加えることも、我儘放題わがままほうだいで困らせることもない。

 ただ、彼をこの屋敷の若君として、自身は毒見役として姫君は扱った。

 変わらない日常。

 平行線の日々。

 普遍的ふへんてきな関係。

 その終わりは唐突にやってきた。

 かつて、この屋敷の主を襲った事故のように。



 いつものように、姫君が料理を口に含んだ。

 その時、今まで感じたことのない刺激が彼女の舌を襲う。

 毒だ、と姫君にはすぐに分かった。

 姫君は口に含んだ毒入りのかゆを吐き出すこともできた。

 けれど彼女は飲み込んだ。

 恍惚こうこつに微笑む姫君を見て、周囲の者は眉をひそめた。

 恍惚に微笑む姫君を見て、若君は彼女に飛び込むように駆け寄った。


「姉さま!」


 ゆらりと全身の力が抜けて倒れようとする姫君の体を支え、若君が叫ぶように彼女に呼びかける。


「誰か!水を……それから薬師くすしを!薬師を呼べ!」


 若君の声に従い、女房や家臣が慌てて動き出す。

 自身を助けようと必死になる若君のことを姫君は開くことすら覚束おぼつかなくなる瞳でみつめて、微笑った。

 若君の頬に手を添えて、彼女は微笑って言った。


「あなたも死ねばいいのに」


 毒を喰らい、自身の死の近さを悟った姫君はそう言った。

 残された時間の少なさのなか、最期の言葉を。

 死の間際、飾り立てたものを取っ払い、氷が溶け切った心の奥底から溢れ出た姫君の素直な言葉。


毒見風情どくみふぜいがっ……若君様になんてことをっ!」


 家臣や女房、屋敷にいた者は皆は姫君に憤った。

 しかし、若君はその時、胸を突き抜けて心の臓ごと鷲掴わしづかみにされた心地だった。

 弟は姉の最期の言葉のなかに愛を見たのだ。

 そして、その深くいびつな愛に震えた。

 ぐちゃぐちゃでどろどろな自身の劣情れつじょうを知り、悦楽えつらくひたる。

 最愛の姉が死の瞬間まで、自分をみつめ、自分のことを想っていること。

 そして、ともに死に、ともにこの世を捨てて、ともに冥土めいどの道をゆこう、と言っていることに。


「私も愛しているよ、姉さま……」


 この屋敷の嫡子は、空恐そらおそろしいほど恍惚に、毒にまみれた姫君の唇を舐めるように、口吻くちづけた。


 ほどなくして、薬師はやってきた。

 そこには、姫君を抱きしめたまま、若君が背中を丸くして、座っていた。

 姫君と若君、二人、毒に塗れ、離れることなく寄り添っていた。





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