二人の船出

 翌日の朝。セレネは寝室でうなされていた。


(滅ぼせ)


 彼女の脳内にささやく声。はっきりしない意識の中、拒絶するセレネ。


(滅ぼせ。私を追いやり、私の死を喜んだ者共を!)


「うるさい!」


 ベットから体を起こすセレネ。寝巻は汗でぐっしょりと濡れ、シーツも同様だった。彼女は手で目をおおい、


「またか……」


と嘆く。以前に父から聞かされた呪いの作用。おかげで最悪の寝起きとなった。


「あれをめてから、よりひどくなった気がする」


 あれ、とは商船から奪取したルビーの指輪のこと。以前から幻聴に悩まされることはあったが、指輪がそれを悪化させたように思われた。


 指輪が自分の体を焼き付くすような感覚に襲われながらも、体はなぜかそれを求めている。


 相反する二つの反応。それがセレネをさらに苦しめた。


「セレネ、大丈夫?」


 隣のベッドで寝ていたクロエが起き、妹を心配する。


「いつものだよ。姉貴」


「そう……」

 

 クロエは不安な顔をした。妹が絶叫し、その寝巻は汗だく。そして、


(今日はひどそうね)


 セレネの表皮をかさかさと動くムカデ。普段よりも速く妹の体内でうごめくのが目に入り、クロエの胸の鼓動が早くなる。心配は増すばかりだ。


「なあ、姉貴」


「何? セレネ」


「これからレス島に行くんだろ? 早く準備しないとさ」


 クロエは「いけない!」と言って、大急ぎで寝巻を脱ぎ身支度を始めた。陽は東からすっかり顔を見せ、あと数時間もすれば正午だ。


「どうしてお父様は起こしてくれなかったのかしら?」


「寝てるんじゃないの? だって昨日――」


 途中まで言いかけて、セレネは口をつぐんだ。


「セレネ、あなたは悪くないわ。聖域でのことは、私もお父様も気にしてない」


「でもさ……ごめんな。弱い妹で」


 着替え途中のクロエが妹セレネの頭を包み込んだ。


(姉貴、良い香りがする)


 クロエから感じられるかぐわしい香油の香り。それはとつぎ先で失礼のないように、との配慮から塗油されたもの。


 もうすぐクロエは妻になるのだ。


「ほら、お姉ちゃんとしばらく会えないわよ。何か伝えておきたい事はある?」


 クロエは努めて明るく振る舞った。本当は愛する妹と離れねばならないのが悲しいのを見せないために。


(羨ましいわ)


 呪いと引き換えに、海という「自由」な空間にいられる妹。対して、王宮という「檻」に入れられ、政治の道具としての役割を演じる自分。


 自身の婚姻が父の都合によるものと分かっていても、自分はそれに逆らえない。


 一体、どちらが幸せなのだろう?


(セレネ。私、最低なことを考えてるわ)


 セレネの立場になれば、命の危機があっても拘束されない生活ができる。


 妹は想像を絶する苦しみを感じているのに、都合の良い部分だけを欲しがる自分を認識して、クロエは自己嫌悪に陥った。


 だが、それを打ち破ったのはセレネだ。


「あたしの分も幸せになれよ。じゃないと、許さないぞ!」


 政略結婚と知らないのか、セレネは満面の笑みで姉の幸福を願っていた。海賊王の娘とは思えぬ態度だ。幾度も船上を駆け、戦い、血に染まる経験をしてきたはずなのに。


「そうね。お姉ちゃん、幸せになるわ」


「お姉ちゃん、パパがー」


 二人の耳に入ったのは、弟イアソンの声だった。


「今行くわ、イアソン。お父様に『もうすぐ出ます』って伝えてくれる?」


「いいよー」


 姉妹の会話は打ち切られ、残りは身支度の時間に費やされた。



 身支度が終わり、クロエは港まで来ると家族に分かれの挨拶をした。


「では、お父様。行ってまいります」


「達者でな。手紙も送るのだぞ。でなきゃ、私が直接そちらへ行くからな」


 クロエはクスクス笑い、次にセレネとイアソンに目を移す。


「げんきでね」


 イアソンは相変わらず無邪気な返事だ。一方、セレネは無言だった。


「あら、午前中の元気はどうしたの?」


「やっぱり、行くなよ……」


 家族が一人、近くからいなくなることをセレネは悲しんだ。もうこんな思いはしたくなかった。


 実はアケロンの子供は全部で十人いた。しかし、双子が生まれた後にその年上の兄弟姉妹七人が、ほぼ同時期にこの世を去ったのだ。これを単なる偶然で片づけてもよかったのだが……。


(あたしのせいだ)


 セレネは自分のせいだと解釈した。私の呪いが悪さをしたのだ、と。


 生き残ったのは姉と弟だけ。父は老いているし、母は少し前に世を去った。これ以上、親族が遠くへ行くのが耐えられない。それが姉の出港前にセレネを襲った感情だ。


「これじゃ私ともう会えないみたいじゃない」


「だって、遠くに行っちまうだろ?」


「手紙は書くから。ほら泣かないの」


 最後にクロエはセレネを抱き寄せ――昨日、聖域でした時よりもより強く、愛情を込めて抱くと、こう言った。


「ほら見て。これが私の命の輝き。何かあったら、これを思いだして」


 クロエは妹から離れると、右手から青白い炎を出して見せた。それは極一部の人間しか発揮できない特殊な力。いわば「魔法」だ。イラクリスではクロエとアケロンしか使えない。


「僕も練習するねー」


 イアソンは姉の魔法に大喜び。王家の人間なら魔法を行使できると書物に書かれていたから、いずれは彼も出来るようになるだろう。


 しかし、セレネにその力はなかった。いや、使うのを体が拒んだ。あの声が「止めろ!」と訴えてくるため、怖くて使えないのだ。


「セレネお姉ちゃん。クロエお姉ちゃんにバイバイしよー」


「そうだね……じゃあな、姉貴」


「ええ、セレネも元気で。お父様もイアソンも」


 クロエは小さく手を振るとデメトリオの先導する船に乗り、北東のレス島へと向かった。それを見つつ、父アケロンはイラクリスの東にある岬の灯台へと馬車で進む。


「これを頼む」


 見張り番に持たせたのは、自身の青白い炎が点火された松明たいまつ。それを振るよう命じる。北の多島海に配置されている見張りに伝えるためだ。


 「イラクリスの船がそちらを通る。邪魔しないように」という指示を。だから、間違いようがなかった。


◇ 


「バイバイ!」


 水平線の向こうに消えるまで、イアソンは姉の船に手を振り続けた。一方のセレネは残された仕事の準備に取り掛かる。あの指輪の配送だ。


「こっちは出航前から不吉だな」


 セレネが目にしたのは、南からの砂嵐。ナクサス島の南には広大な砂漠が広がっており、そこからの南風が砂嵐を伴って同島やその北側に位置する国々に吹き付けたのだ。この日は特に強く、海上の視界を著しく低下させるものと彼女は予測した。尚更なおさら出航を急がねばならなくなった。


「急げ。船をドックから出すんだ!」


 こうして、双子は異なる目的で故郷を後にすることとなった。


 だが、二人はまだ知らなかった。


 これから起こる大きな戦乱に、否応なく巻き込まれることを。

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