リトル・スノウ異世界に行く!

ピジョン

第1話 リトル・スノウ異世界に立つ!

 ……きて。


 ……起きて下さい。


 再三の呼び掛けに、ぼくは身体を起こした。


「おはようございます。リトル・スノウ」


 今日も今日とて、朝っぱらからぼくを叩き起こしたのはコボルトのジュリエだ。彼女と暮らし出して、もう三年の月日が立とうとしている。


「それで、リトル・スノウ。今日はどんな悪さをします?」


 眠気にしょぼつく目を擦りながら、ぼくは小さく欠伸した。


「……そうだね。今日は何をしてやろうか……」


 いんちきポーションを売るのにも、シスターをからかうのにも少し飽きて来たところだ。


 ぼくはリトル・スノウ。


 本当の名前を忘れてしまった日本人。


 ぼくはリトル・スノウ。


 明日をも知れない探索者。


◇◇


 今を去ること三年前。

 当時のぼくは高校生というものをやっていた。

 その日のぼくは夢うつつ。有意義な授業で満腹になり、午後の昼寝を楽しんでいた。


「こぉら! 貴様、起きんか!」


 惰眠を貪るぼくを叩き起こしたのは数学の室田先生だ。


「……放って置いて。今のぼくは、明日をも知れない病人なんだ。そっとしておいて……」


「ええい、起きろ! 起きんか!」


「……」


 love & peace。

 世界は愛と平和で回っている。夢の中では、せめて平和を……


「キサマぁ……!」


 室田先生が怒りに震えているけど、ぼくは答えなかった。


「……お前なんて、こうだッ!」


 周囲の空気が変わる。ゾクッとして目が覚めたとき。

 ぼくは学生服のまま、知らない路地裏に放り出された。


「……good morning」


 ぼくの挨拶に応える人間はいない。

 次の瞬間、周囲の景色が変わった。

 風に乗って砂の匂いがする。目に映ったのは石畳の道。行き交う人たちは、皆、麻や綿の素っ気ない格好をしていて、ぼくにもの珍しそうな視線を送って来る。

 呆然として、ぼくは辺りを見回した。


「ちょいーん……」


 意味のないぼくの呟きが、風に流れて消えて行った。


 このときの事はよく思い出す。

 例えば、室田先生は何者か。

 ……普通の人間だと思う。ただ、タイミングが悪かっただけで、ぼくをこんな世界に送り出したのは彼じゃない。


 暫く立ち尽くし、とりあえず、このおかしな状況を楽しむ事にしたぼくは、行く宛もなく道なりに歩いた。


 木や石の建築物。すれ違う人たちの人種は様々。髪や肌の色はぼくのような日本人とは違う。耳に入って来る言葉は日本語だったけど、店頭に何やらごちゃごちゃ並んでいるお店の看板にある文字は読めなかった。

 行き交う人たちの好奇の視線をかわし、ぼくはずんずんと行く。

 妙な違和感がある。

 こんな訳の分からない場所に放り出されたのに、ぼくは不思議なぐらい落ち着いている。

 更に暫く歩き、開けた場所にあった噴水のほとりの石段に腰掛け、ぼくはこれからの事を考えた。

 どうやら夢じゃない。

 ここはどこなんだろう。室田先生に、ごめんなさいって言えば帰してもらえるだろうか……。


 遠くからテンポよく石畳を叩く音が聞こえ、長い影法師が差して来た。

 顔を上げると、大きな馬に乗った鎧姿のお姉さんと目が合った。

 ……騎士? コスプレにしては出来すぎている。

 お姉さんは燃えるような赤毛を風に靡かせて、睨むように辺りを見回している。さっき聞こえた音は、彼女が乗ってきた馬の蹄が石畳を叩く音だったようだ。耳に心地いい。

 ぼくの目の前までやって来たお姉さんが手綱を絞るように引き上げると、馬が小さく嘶いて足を止めた。


「……」


 ぼくとお姉さんは、暫し見つめ合う。

 不思議な感覚。

 蒼氷アイスブルーの瞳は静かにぼくを見つめている。


「……きみは誰だ? ここらでは見慣れない格好をしている」


「あなたは?」


 質問に質問を返すことはいけない事だけど、人の名前を尋ねるときは、まず自分から。

 お姉さんは、むっと眉間に皺を寄せて、低い声で言った。


「パーシ。ノエル・パーシだ。きみは?」


 ……ノエル・パーシ。髪の色もそうだけど、彼女は日本人じゃない。

 ぼくは少し考え……


スノウユキ。ぼくはリトルちいさいスノウユキ


 勿論、嘘っぱちだ。ぼくは歴とした日本人で、きちんとした名前がある。

 まぁ……本名を名乗ってもよかったのだけど、何故かこの時は、こうする方がいい気がしたんだ。そのお陰で、ぼくは名前を思い出せなくなるんだけど、それはまた別のお話。

 パーシと名乗ったお姉さんは、難しい表情で頷いた。


「リトル・スノウか。いい名前だな。ところで、きみは何処からやって来た」


「わからない」


「ふむ。ここで何をしている」


「これからの事を考えていたんだ」


 そこでお姉さんは馬を降り、酷く気の毒そうに言った。


「……稀人か」


「……まれびと?」


「異世界からの迷い人の事だ。この世界の神は気紛れでな。時折、こういう事をする」


「神様」


 呟いて、思わず、ぼくは笑ってしまった。

 ここまでの人生で、神様とやらが、いったいぼくをどう扱ったか。知らない世界に放り出したとすれば、全くそれらしいやり方だった。

 つまり――

 神様は新しいゲームのやり方を見付けた。新しい喧嘩のやり方を見付けた。いつもの日常と何も変わらない。


「……見ての通り、私は騎士だ。稀人は保護対象になっている。着いてくるがいい」


「嫌だって言ったら?」


 パーシは困ったように目尻を下げた。


「捕縛する事になるが……その、それは止めてほしい。きみは小さくて力も弱そうだ。乱暴な真似はしたくない」


「……そう」


 今のぼくに、パーシの勧めに逆らうという選択肢はなかったのだけど。


 まぁ、こんな感じで――

 ぼくは女騎士ノエル・パーシに保護されることになった。


◇◇


 一週間後、ぼくは街の中央付近にある教会前の広場で炊き出しの列に並んでいた。

 パーシ曰く、稀人には不思議な力があるケースが多く、能力によっては国が手厚く保護してくれるらしいけど、検査の結果、ぼくにそんな都合のいい能力はなかった。

 ぼくが取得していたスキルは三つ。


1,男娼ビッチ


2,復讐者リベンジャー


3,fake meter 《偽計》


 うん、分かってた。ぼくには信仰心なんてないし、ろくなもんじゃないのは自分でも分かってる。この世界の人なら全員が持つとされる『ジョブ』……職業なるものも獲得できなかった。

 パーシ曰く、ぼくには神の加護がない。ジョブを得る事が出来ないのはそのせいらしい。


 スキルには、これまでの経験や性格、思想なんかが反映されるそうだ。


1,男娼ビッチ


 このスキルについては、色々といいたい事がある。読んで字の如く男娼だんしょうだ。ぼくには閨事の才能がある。女の子を悦ばせる才能があるらしい。

 まぁ、女顔だってよく言われるし、髭も生えない。身体も小さい。肌も赤ん坊みたいにきめ細かくて、指も細くて長い。アレな属性持ちの女の子からは引っ張りだこだったけど……これはない。

 ダイレクト過ぎる。このスキルを持っていると判明したときのパーシは顔を真っ赤にしていたし、ぼくを鑑定する為に教会からやって来たシスターには不潔だと罵られた。

 でもまあ……

 異世界に於いて、こうしてはっきりとスキルという形になったことで、ぼくは『そういう』勘のようなものが鋭くなったのは確かだ。

 一目見ただけで、その女の子の事は大抵分かる。例えば、脈がありそうな娘はすぐ分かる。あとは閨での行為に補正があるらしいけど、まだ試してない。試すつもりもない。


2,復讐者リベンジャー


 このスキルを所持する者は、決して隷属する事がないそうだ。魅了に強い耐性があり、奴隷紋を刻む事は出来ないらしい。他者や神、運命などを強く呪うことで発現するようだ。信仰心がなく、加護を持たないぼくのためにあるようなスキルだ。このスキルを所持していると『挑戦権』を得るらしいけど、何に挑戦できるのかは分からない。


 問題になったのは三つ目のスキルだ。


3,fake meter (偽計)


「なんだ、これ。ここだけ希少文字になってる……」


「これ、なんて書いてあるんです?」


「フェイクメーター」


 まあ、嘘吐きのぼくにはお似合いのスキルだと思う。

 このスキルは面白いスキルだ。◯◯のふりをすることが出来る。戦士、騎士、剣士、魔法使い、神官、錬金術師、結界師、etc。スキルなんかもある程度まではコピー出来るという代物だ。ただ、ぼくの場合、元々の小さい体格を誤魔化す事は出来ないので、戦闘職系のスキルの再現は難しい。

 なお、『再現』する為の条件は結構厳しい。

 まず、そのスキルやジョブについて一定以上の適性や理解が必要だ。消費される魔力が倍。成果にはムラがある。制限は厳しいけど、使い勝手は良さそうだ。


 ぼくが使えると踏んだ偽計のスキルだけど、パーシは酷くがっかりしていた。


 以前、『七色変化セブンカラー』というスキルを持った稀人がいたらしいけど、再現されたスキルはどれもお粗末で、本職に比べればかなり劣ったようだ。器用貧乏の生きた見本、との事。

 試しに、幾つかのスキルを再現させられたけど、その見解は変わらなかった。

 まあ、そんな感じで――

 有益な能力を持たないと判断されたぼくは、稀人に対する規定に乗っ取り、一週間の教育の後、金貨10枚を与えられて街に放り出された。これが今朝のこと。


 そしてぼくは、パーシが用意してくれたこの世界の粗末な布の服を着込み、広場で孤児やホームレス相手に振る舞われる炊き出しの列に並んでいた。

 軍資金は金貨で10枚。

 この世界には、金貨、銀貨、銅貨の通貨の他、石銭と呼ばれる硬貨がある。単位はシープ。ぼくは『羊』って呼んでる。なおパーシ曰く、四人家族が一ヶ月暮らすのに金貨2枚ぐらいらしいから、これを日本円で約20万円と換算すると、ぼくに与えられたのは100万円ほどという事になる。

 それだけあれば充分だ。

 教会が行う炊き出しの列で雑炊のようなものが入ったお椀を受け取り、他の人がやっているようにその辺に腰掛けてこれからの事を考える。


 まず……生活の基盤を確保しなきゃいけない。パッと思い付くのは、適性の高い男娼として身体を売るか、それともリスクの高い探索者になるか。

 身体を売るのは最後の手段。

 顔を真っ赤にしたパーシは、男娼をやるなら相談に乗ると言っていたけど。

 ちなみに……ぼくのスキルは、パーシはチョロいって言ってるけど、男娼はいつだってやれる。だから今は、探索者としての道を模索する事に決めた。しかし……


「まずっ……うええ……」


 教会のシスターが勿体ぶって配っている雑炊は酷く酸っぱくて、吐瀉物を彷彿させる味がした。


◇◇


 くそ不味い朝食を済ませた後、道具屋でマジックアイテムのバックパックを購入した。見た目は小さいけど、六畳間ぐらいの保有スペースがある。これが金貨一枚。魔力付与すれば保温や保冷効果も得られるらしく、それもやってもらった。それが銀貨で五枚。五万シープ。日本円だと五万円ぐらい。これがぼくのインベントリ。


「実際に、魔力付与するところを見せてもらっていい?」


「かまわんよ」


 新しく得たそのインベントリに、学生服や携帯電話、手持ちの現金を入れておく。


 この世界について、ぼくは分からない事が多い。多すぎるぐらいだ。そして、それらの事は実際経験するより話に聞いた方が早い。

 ぼくはバックパックを背負い直し、奴隷商の元へ向かった。

 この一週間で身の振り方は充分考えた。

 奴隷を持つ。

 この考えにはパーシも賛成してくれた。盾になり、武器になり、決して裏切らない同伴者を持つことはプラスに働きこそすれ、マイナスになる事はない。


 様々な店が立ち並ぶ路地を抜け、下町と城下町を分ける境目に近付き、奴隷商の店が見えてきた。


「……あれか」


 店の前にはガタイのいい屈強そうな男が二人、しかめっ面で突っ立っている。ぼくは男たちに、それぞれ『ミギー』と『ヒダリー 』という便宜上の名を付けた。

 ミギーがムスッとした顔で言った。


「ぼうず、金はあるか?」


「……」


 ニヤリと笑ってぼくがサムズアップすると、ヒダリーが笑って道を開けてくれたので店の中に入った。


◇◇


 店の中は薄暗く、少し匂った。排泄物や吐瀉物、血液、生き物から発せられる凡そ不浄な匂いという匂いが漂うそこは、ごくごくプレーンな地獄だった。


 パーシのオススメはコボルト。安価でそれなりに賢くて従順、寒い夜には抱き枕にも使える。ただし臆病で不器用なのが欠点。


 ぼくの後ろに着いてくるミギーが、やっぱりムスッとした顔で言った。


「……指定はあるか?」


「コボルト。人間の言葉が理解できて、文字が書ければなおいい」


「雄か、雌か」


「……女の子で」


 この辺りは夜になると無茶苦茶寒い。暖を取れない状況で野宿なんてすれば、ぼくはおそらく一晩で凍死する。男と抱き合って眠るのは嫌だった。


「…………売れ残りでいいなら、金貨で五枚でいい」


 パーシから聞いていた相場と随分違う。ぼくは文句を言い掛けて、ぐっと言葉を飲み込む。口に出してはこう言った。


「ボるのもいいけど、ぼくには騎士の知り合いがいるよ」


 このザールランド帝国に於いて、騎士は憲兵おまわりさんの立場も兼ねる。一瞬立ち止まったミギーは軽く舌打ちして、それから着いてこいと言わんばかりに顎をしゃくった。


 ミギーに付いて階段で地下に降りると、更に匂いが強くなった。獣臭い。酷い匂いに、ぼくは吐きそうになった。

 薄暗い通路を進む。

 左右に鉄格子の檻が並び、左に鼠の顔立ちをしたウェアラット。右には猫耳の男。猫人ワーキャット

 亜人だ。尻尾や長耳など、動物としての特徴を持ち、人間とも交配可能な種族。ぼくのような『人間』との相性は『まずまず』。

 パーシ曰く、純粋な『人間』であるぼくと相性がいいのは犬人ワードッグ。その他は『よい』。ワードッグだけは『抜群によい』。


「亜人がいるね。一応聞くけど、ワードッグの女の子はいる?」


「……金貨30枚からだ」


 ミギーは鱗状の皮膚をした首筋をがりがりと掻いた。おそらく、彼はリザードマンの血を引いた亜人だ。


「……ワードッグの女は、人間と相性が良くない。やめた方がいい」


「?」


 ミギーは、パーシが教えてくれたのとは真逆の事を言った。よく分からない。どちらかが嘘を吐いている。


 突き当たりまで歩き、俯きかげんで歩いていたミギーが顔を上げた。


「……あいつだ」


 ここで、ぼくはコボルトのジュリエと出会ったんだ。


◇◇


 さて、この世界では『コボルト』はゴブリンの近隣種族とされているけど、両者の見た目は全然違う。醜悪で知能の低いゴブリンに対し、コボルトの見た目は随分と人間に近く、知性もずっと高い。ちゃんと服も着る。

 ミギーが仏頂面で言った。


「コボルトの兵士長だ。それなりに腕は立つ。ガキが護衛として連れる分にはいいだろう」


「リーダー?」


 魔核を持つコボルトは、『魔物』に分類される。種族間でクラス分けがあり、コボルト、コボルトリーダー、ハイコボルトの順に進化して行く。それ以上の進化先もあるらしいけど、この時聞いたのはそれだけだ。


「多少レベルが高いだけの、ただのコボルトだ」


「……エルダー・コボルトか」


 パーシの言う事を全て鵜呑みにするのは良くない。『兵士長』だからといって、必ずしも上位種とは限らないようだ。そんな事もある。そう考え、ぼくは檻の中に視線を向けた。


「……少しトウが立っている。13歳だ。あと二年ぐらいは使える。これでどうだ?」


 一般的に、コボルトの寿命は30歳とされる。5~25歳ぐらいまでが繁殖期にあたり、基本的に多産多死。『エルダー』……年長とされるのは10歳を越えてから。仮にこのコボルトの寿命を人間に換算するとすれば40歳前後だろうか。


「……名前は?」


 初めて会ったジュリエの様子は凄惨の一言に尽きた。よほど強い躾を施されたようで、歪んだ愛想笑いを浮かべる口元に覗く前歯は何本が欠けていたし、着衣は腰に巻いた布切れ一枚。それには経血と思わしき血痕が浮かんでいた。


 剥き出しの乳房を露に、ジュリエは鼻を鳴らしてぼくに媚を売った。


「…………名前は?」


「ジュリエだ」


 答えたのはミギーだ。ジュリエは半笑いで足を開き、経血で汚れたそこを指で開いて見せ付けていた。


「……ぼくはこのコボルトに聞いたんだ。名前は?」


「うぉっ、おっ、おっ……!」


 ジュリエは両手で胸をアピールして見せ、それから踞って鉄格子越しに頭を突き出し、ぼくのスニーカーを舐めた。


「……喉が潰れているね」


 コボルトとゴブリンは喋れる。この時のジュリエは好んで喋らないようには見えなかったから、喋れないという事になる。


「……暴れたから、少し痛めつけた」


 ミギーはそう言って、小さく溜め息を吐き出した。


「金貨三枚でいい」


「おっさん、ボケと惚けは違うんだぜ。一枚だね。それ以上じゃいらない。別の奴隷商の所に行く」


「……」


 口元に手をやったミギーは少し考え、それから言った。


「現状引き渡しだ」


「……ふん」


 目の前のサディストに鼻を鳴らしておいてから、ぼくは小さく頷いた。


 この時のジュリエは、喋る事ができなかった。


◇◇


 ジュリエの右胸にある奴隷紋にぼくの血液を付け、手続きは完了。着の身着のまま、粗末な布きれ一枚の格好で、ジュリエはぼくに引き渡された。


「付いておいで」


 ぼくはバックパックから学生服を取り出し、ジュリエの肩に掛けると早々に奴隷商の店を後にした。


 明るい場所で見るジュリエは満身創痍だった。手の爪は全て剥がされ、若干右足を引き摺っている。


「大丈夫? 今日はもう宿に行って、早く休んでしまおうか」


 ジュリエは身長147cmのぼくよりも小さい。120cmぐらいだろうか。でも成人していると言うだけあって、手足はぼくより太い。怪我を直せば腕力もぼくよりあるだろう。


「歩けるかい?」


 尻尾を振って強く頷くジュリエは、全力でぼくに媚を売っていた。奴隷商によほど痛め付けられたんだろう。このときの彼女には、プライドのようなものが一切なかった。

 ぼくは少し考えた。

 本当はこのまま探索者ギルドに行って登録を済ませ、ジュリエもテイムモンスターとして登録するつもりだったんだけど、彼女をこのままにしておけない。怪我をしているというのもあるけど、汚れていて臭い。とにかく臭い。


 ぼくは辺りを見回し、なるべくぼろっちくて安そうな宿を探した。


 コボルトのジュリエは低級奴隷に分類される。清潔にしているならともかく、現状で一般の宿に連れ込むのは無理がある。


「あっちだ。行こう」


 奴隷商の店が町外れにあることが幸いして、それらしい宿はすぐ見つかった。ぼくは間近な一件を選び、ジュリエを伴って、そのぼろっちい宿に急いだ。


 受付の親父さんに嫌そうな顔をされたものの、特に断られる事もなく部屋を取ることが出来た。

 一泊で銅貨一枚。日本円にすれば約千円。一千羊。

 小銅貨を二枚付ければ一食付く。ジュリエの分も食事を注文して、代金を先に払うと親父さんの機嫌は良くなった。

 おそらく、木賃宿の類い。ここら一帯が夜は冷え込むため、隙間風が入り込む事はないけど、部屋の中は埃っぽくて少しカビ臭かった。


 岩の壁がある浴室に向かい、木の樽でできた浴槽に水石を投げ込むと樽の中で派手に跳ね回り、大きな音がした。

 パーシに保護され、騎士団の詰所にいるときに幾つかガメた水石(小)。一つで小さい浴槽ぐらいなら満杯になる。続いて赤石(小)を投げ込んでおいてから、ぼくはパンツ一枚になった。


「ジュリエ、おいで」


 腰の布切れを剥ぎ取り、緩い笑みを浮かべたジュリエは、ぼくの傷だらけの身体を見て一瞬固まった。


「小さい頃、虐待されててね」


 あっさり言ってしまえたのは、それだって今のジュリエに比べたら随分マシな状況だと思えたからだ。応えながら湯船を見ると、熱を持った赤石が水の中で揺らぎを作っている。手を突っ込むと温い。完全に暖まるまではもう少し時間がかかりそうだった。


「先に身体を洗おう。ここに座りな」


 二つある手桶の一つを裏返し、簡素な椅子代わりにして着席を促すと、ジュリエは素直に従った。


 犬のような茶色い毛並みは所々煤け、酷いストレスの為か毛が抜け落ちた箇所が目立つ。胸や腹に向かうに連れ、体毛は薄くなる。陰部や乳房は殆ど無毛だった。


 ぬるま湯で汚れたジュリエの身体を流して行く。爪の剥げた手を流した時は少し、いやかなり痛そうだった。それでも、ぼくと目が合うと機嫌を窺って愛想笑いを浮かべる。


「第三級回復神法」


 ぼくが『神官』のフリをして、低級の回復魔法を掛けると、瞬く間にジュリエの爪は再生した。


 軽い目眩に襲われ、ぼくは浴槽樽に凭れ掛かった。

 軽度の魔法酔いマジックドランカー。今のぼくじゃ一日二回が限界。三回目は多分失神する。前歯は無理だったけど、この時の魔法は上手く行った方だ。


「…………」


 治った手とぼくを見比べ、目を丸くするジュリエは無視して、更に二度目の回復魔法を使った。


「……!」


 驚いて口元に手をやったジュリエには、ちゃんと前歯が揃っていた。


「どう、喋れそう……?」


 頭痛が酷くなって、その場に座り込んだぼくの前で、ジュリエは喉に手を当て、暫くして残念そうに首を振った。


◇◇


 ジュリエは酷く汚れていた。浴室にあった亜人用のブラシで身体を洗うと、泥のような垢と一緒に体毛が流れ落ちて排水の溝に吸い込まれて行った。


「足開いて」


 おそらく奴隷商に暴行されているだろう。そう思って調べたジュリエの身体は、経血を流してしまうと綺麗なものだった。調べてみたけど、裂けたり異物を挿れられたりもしていない。ミギーがあと二年は使えるとか、思わせ振りに言っていたので余計な心配をしてしまった。

 他に怪我がないか調べている間、ジュリエは大人しくしていた。


「……痛い所はない?」


「……」


 ジュリエは黙って頷き、それから、ぼくの胸で少し泣いた。


◇◇


 入浴を済ませた後は、バックパックからぼくの替えの下着を出してそれを着させた。

 身体こそ小さいものの、ジュリエは成人したコボルトだ。細目の風貌は落ち着いて見え、何処かしら大人の雰囲気がある。『兵士長』という立場から鑑みるに、コボルトの中でという条件付きだけど、彼女はそれなりの実力者だと思うべきだ。喋れないのが残念だった。


 体毛の水気をしっかり拭き取った後はベッドに寝かし付け、夕食まで休むように命じた。幸い、軍資金にはまだまだ余裕がある。ジュリエの為にここで二、三日休んでも問題ない。


 ジュリエが眠っている間に、ぼくは新たにバックパックから取り出したズボンの丈を詰めてジュリエが履けるようにした。布切れ一枚で連れ回すのは可哀想だった。


 夕食は、朝食べたゲロのようなあれに似た雑炊が出された。ぼくは到底食べる気になれず、ジュリエに勧めると喜んで食べた。


 夜になり、凄まじい勢いで辺りが冷え込む。この世界は昼と夜とで寒暖の差が激しい。温度計がないから詳しい事は分からないけど、体感じゃ昼と夜で50度近い温度差になると思う。


 暖炉に薪を投げ込み、ぼくは『魔法使い』のフリをして火を点けた。


「第三級火炎魔法」


 fake meter (偽計)のスキルは成果にムラがある。この時は火加減が強すぎて少しびっくりした。

 暖炉に火が入り、室内が暖かくなる。備え付けの薪じゃ朝までは全然足りない。追加すれば別にお金を取られる事は知っていたので、夜はジュリエに抱き着いてさっさと眠る。

 ここまで全部予定通り。

 ガチガチに身体を緊張させ、ジュリエは酷く怯えていたけど無視した。よく洗ったお陰か、ジュリエの身体は獣臭さに混じって少し石鹸の匂いがする。


「ジュリエ、寒いから抱きしめて」


 そう命じると、おずおずとぼくの腰に手を回して来る。体毛がフカフカで暖かい。ぼくにとって、この世界でのジュリエは必需品の一つだ。


「……乱暴しないから、安心しな」


「……」


「きみの奴隷紋に誓おう」


 約定を違えた場合、奴隷紋は損なわれ、ジュリエは解放される。

 これからを考えるなら、互いの信用は必須。言葉と行動でそれを勝ち取らなければならない。

 胸の奴隷紋が薄く輝き、新たな契約が結ばれた。

 fake meter (偽計)でコピーした奴隷商の持つ『契約』の能力だ。


「戦士として待遇する」


 そう言うと、くしゃくしゃになった泣き顔でジュリエは頷き、ぼくの胸に顔を埋めた。


 ぼくはリトル・スノウ。


 異世界にやって来た日本人。


 ぼくはリトル・スノウ。


 明日をも知れない探索者……になる予定。

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