第二話 人間と薬膳と獣人兄弟(二)

 叡秀がまず向かったのは水浴び場だ。

 二人は泥だらけで、野生から飛び出したままのような状態だ。これでは人間主権国家では生活をさせてもらえない。

 まずは身だしなみから――と、料理以外で雲嵐が最初に教えてくれた。

 自分用には人間仕様の風呂場がある。水浴び場は湯を嫌う獣人用だ。

 父は狼の姿で川の水浴びを好んでいたが、母は人間の姿で風呂釜に湯を張る入浴を好んだ。同じ獣種でも個人で差はあるようで、叡秀はどちらも用意した。


「侑浬君はお湯と水のどっちが好き?」

「分からない。湯はあんまり使えなくて、いつも川だった」

「そっか。じゃあ少しずつ慣れよう。嫌だったら『お湯で洗ってます』って見える誤魔化し方を教えてあげるよ。ようは人間が嫌な印象を持たなきゃいいだけだから」


 叡秀は湯を沸かすために作った竈に火をつけた。風呂釜いっぱいの湯を沸かす時間がかかるため、とりあえずは二人の身体を流す分だ。

 湯が沸く間に体を洗おうと、小さな木桶で井戸から水を汲む。大きな木桶にたっぷり水が溜まったら、傍に木製の椅子を置く。


「座って。体を洗おう。人間は汚いまま歩くと怒るんだ。石鹸は使ったことある?」

「たまに。でも侑珠はあんまり好きじゃない」

「人間が作った石鹸はそうだろうね。香料とか、薬品使ってるから臭いんだ。でもうちのは無香料無添加だから大丈夫だよ」


 香りは人間でも好みがあるだろうが、獣人はひどい悪臭に感じて体調を崩す時さえある。叡秀は体調不良にはならないが、隊商でも森でも使わなかったので苦手だ。

 そんな時に出会ったのが、獣人が製造販売する『無添加』という商品だった。

 これは獣人最高の収入源だ。それというのも、元は獣人の生きる知恵である無添加が人間にも好まれたからだ。

 人間の中には天然素材のみの生活を美徳とする富裕層がいる。割高だが、叡秀も気に入っているので獣人製の無添加商品を使っている。

 無香料の無添加石鹸を差し出すと、侑浬は鼻を寄せてくんくんと匂いを嗅いだ。


「変な匂いしない。大丈夫そうな気がする」

「よかった。じゃあ使おう。侑珠君は――あ、起きたかな」


 侑珠は目を覚ましたようで、ぴょんっと侑浬に飛びつき肩に乗った。

 侑浬が目を覚ましたのが嬉しいのか、すんすんと鼻を寄せている。侑浬は応えるように頬ずりをした。


「おはよう侑珠。侑珠もお兄さんにおはようと有難うするんだよ」


 侑浬がつんっと侑珠の頬を突くと、侑珠は肩に乗ったままぺこりと小さな頭を下げてくれた。


「よく眠れたならよかったよ。それじゃあ洗っちゃおう。侑珠君は侑浬君が洗ってあげて。ごしごしって。ゆっくり優しくね。慌てなくていいから」

「うん。侑珠、こっちおいで」


 肩に乗っていた侑珠を抱きあげ、侑浬は椅子にぺたんと座った。

 石鹸で泡を立て優しく侑珠の身体を擦ると、一瞬驚いたようだったけれど嬉しそうに飛び跳ねた。


「気持ちいい? ごしごし、ごしごし、ごしごし」

「侑浬君も洗ってね。侑珠君はお湯平気? 使ったことある?」

「一度だけ。でももっと小さい時だから覚えてないかもしれない」

「野生の兎は風呂に入らないけど、獣人は風呂好きなこともあるんだよね。試しに使ってみて、嫌だったら止めよう」


 沸かしていた湯を竈から降ろし、熱すぎないか温度を確かめる。肌にかけても良い温度になったら、体を洗い終わった侑浬の肩にそっとかけてやった。

 体に湯が流れると侑浬はぴゃっと背筋を伸ばした。


「あったかい! こんな温かいの初めて! 気持ちいい!」

「それはよかった。侑珠君は湿らせた布で包むくらいからにしようか」


 手ぬぐいを湯に浸して絞り、そっと侑珠にかけてみる。

 侑珠はきょろきょろと不安そうにしていたけれど、少しすると興奮気味に鼻をひくつかせた。目はきらきら輝き、とても嬉しそうだ。


「侑珠もお湯好きだって! よかったね、侑珠! きもちいね!」

「じゃあお湯に入ってみようか。念のため抱いてて。嫌そうならすぐ出してあげて」

「うん! 侑珠! おいで!」


 侑浬が腕を広げると、侑珠はぴょんと跳ねて腕の中に納まった。

 叡秀は桶を少しずつ傾けて侑珠の身体に湯をかけていく。侑珠はよほど嬉しいのか、ぐりぐりと侑浬に顔を摺り寄せている。


「あはは! くすぐったいよ侑珠!」

「気に入ってくれてよかった。夜は風呂釜で用意するから、二人で入るといいよ」


 侑浬は自分が湯を使うのも忘れ、侑珠に湯を使ってやっていた。

 侑珠が嬉しそうにすると侑浬も嬉しそうで、愛情溢れる二人は見ているだけで目じりが下がる。

 それだけに不思議だった。侑浬は健康そうで、育て親探しなど不要に思える。


「……まずは話ができる状態にするところからだ。知識を得れば考えも変わる」


 二人は湯遊びが終わったようで、名残惜しそうに温かい体を抱きしめあっている。肌と肌を触れ合わせる様子から目が離せなくなった。


「二人とも綺麗になったね。それじゃあ着替えて食事にしよう」


 叡秀は二人を連れて家に入ると、侑浬に自分の服を着せた。

 成人の服は大きすぎるため、肩がずり落ちないように、襟ぐりを後ろに引っ張り紐で結んだ。裾もちょうどいい丈になるよう結んでやる。


「子供用がないからとりあえずね。部屋の匂い気にならない?」

「大丈夫。葉っぱいっぱいあるから、侑珠も怖くないみたい。よかったね、侑珠」


 室内には観葉植物をたくさん置いている。

 胡家を出て一人暮らしを始めると、途端に森暮らしが恋しくなった。

 それでも雲嵐への恩はあり、涼成という友もいる。もう少し頑張ろうと思い、せめてこれくらいは――と部屋を森に近づけた。

 獣人のためではなく感傷だったが、侑浬と侑珠は嬉しそうにしている。初めて自己満足の部屋に意味ができたような気がした。


「食事作るから少し待っててね。部屋に置いてある葉っぱは食べても大丈夫だけど、今は食べないで。この後の料理を食べて欲しいから。侑珠君は眠くなったらこれね」


 叡秀は分厚い座布団を持ってきた。侑珠が座って休むにはぴったりの大きさだ。

 侑珠は興味が向いたのか、侑浬の腕から机に飛び降り敷いてくれと催促している。

 求められるまま机に置いてやると、侑珠はぴょんと飛び乗り一瞬で眠りに落ちた。


「兎はちょっとずつ何回も寝るっていうけど、侑珠君も寝たり起きたりする?」

「する! でも昼は起きてないといけないんだよね」

「それは人間の生活習慣だね。気にしなくていいよ。侑浬君は平気? 肉食獣人は睡眠時間が長いよね」

「分からない。昔は昼も眠い時多かったけど、もう慣れた」

「慣れなくていいんだよ。人間は八時間程度でもいいけど、獅子とか虎は十五、六時間寝るはずだ。眠かったら寝ていいよ。仕事するわけでもないんだし」


 狼獣人の両親は八時間前後の睡眠で足りているようだったけれど、獅子獣人の涼成はかなりの時間を寝て過ごしていた。

 職員から起きるように強いられていたが辛そうで、雲嵐に相談したら「生態だから寝かせるように」と職員に指導してくれた。

 獣人の生態を積極的に学ぶ人間は少ない。

 きっと侑浬と侑珠の周囲も、人間の規則に当てはめようとしていたのだろう。

 必要なだけ眠っていい――そんな当然の生活すら許されなかったのか、侑浬は涙目になり唇を震わせた。


「寝てもいいの……?」

「当り前じゃないか。駄目って言う方がおかしい。でも侑浬君は栄養不足だから、今だけは食事優先。できたら起こすから長椅子で寝てていいよ」


 部屋の隅にはくつろぐための長椅子と、大きい枕が置いてある。

 侑浬を長椅子に座らせると、侑珠を抱いたまま恐る恐る横になる。薄手の布団をかけ、とんとんと優しく叩くと侑浬はすうっと眠りについた。

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