禁忌譚

否定論理和

前編

 禁忌、というものがある。


 例えば、立ち入ってはならない場所。例えば、やってはいけない行為。ホラーやオカルトの定番でもある、法律やエチケットとも違う決まり事。その中でも更に限定的な、特定の地域や社会に伝わるだ。


 こういうとなんだか怪しげに聞こえるかもしれないが、現代における多くのルールがそうであるように、禁忌にも何らかの背景が存在していることが多い。


 例えば近づいてはいけない場所というのはがけ崩れや人を襲う獣が出た、など実際に過去危険な事件が起きた場所であることが多い。


 やってはいけないこと、或いはやらなければいけないことというのも科学的根拠があってそうするべきことが、科学知識の乏しい時代であったが故により曖昧なルールとして制定されたケースがある。


 だからね。禁忌やまじない、それに因習だのと言った古くて怪しいものを、古くて怪しいというだけで恐れるのは、それはそれで愚者のやり方なのだよ。


 本当に恐れるべき禁忌、それは—―


月刊粕取2020年6月号、三田九内寄稿のコラムより引用

 




三田みた先生~~~~!」


 昼下がりのオフィスに遠慮というものを忘却したような声が響く。三田、と呼ばれた男は自分以外に三田と言う名の人間がいない事実に苦々しく受け止めながら声の主に視線を向ける。


「……加須鳥かすとりくん、大きな声を出さなくても聞こえるんだから落ち着きなさい」


 声の主、加須鳥と呼ばれた女性は走ってきたのであろうズレた眼鏡を直すこともせず、息を切らしたまま話始める。


「すい、ませ、せん、ちょっと、私から呼んでおいて……」


「いいよ、別に今に始まったことじゃないだろう?君の遅刻癖なんて」


 三田は冷え切ったコーヒーをすすりながら思い返す。加須鳥との出会いは今から3年ほど前、中小出版社である角読社が発行する月刊粕取にて度々記事を書いていたライターの三田が、当時入社してきたばかりの新人編集者である加須鳥と仕事をすることになったのがきっかけだ。


「加須鳥って言います!雑誌の名前と読みがおんなじなんですよー。やる気はあるのでよろしくお願いします!」


 そんな自己紹介を聞かされて、また随分不吉な名前に生まれたものだと勝手に同情したことを覚えている。


 月刊粕取は主にオカルトや心霊ネタを中心にアングラな内容を扱っている雑誌であり、三田もまたそういったネタにしたコラムを書いていた。寄稿数、評判ともに同誌の中ではなかなかのものであり、今回新人編集者と組まされたのもそういった実績が考慮されているのだろうと勝手に納得していた。


 加須鳥は、本人の宣言通り熱意はあるのだがその熱意が先行して空回りをしたり、余計なことに気を取られて遅刻をすることが多かった。それは3年経った今でも特に改善はされていない。


「どうせ今日も街中で変なものを見かけたとか、下調べに熱を入れ過ぎたとか、そんなところだろう」


「そ、そんなにパターン化してました……?」


 無言でうなずく三田、加須鳥は暫く落ち込んでいたが、すぐに顔をあげて


「それよりですね!聞いてください三田さん!」


 これもいつものパターンだ。熱意のあまり文脈を無視して自分の言いたいことを話し始める悪癖は、普通に考えれば社会人としてどころか同じ仕事をする人間としても褒められたものではない悪癖だ。だが、曲がりなりにも3年、三田が加須鳥とそれなりに付き合っているのは――


「今回の読者からの投稿にですねぇ……見つけたんですよ!激ヤバ心霊写真!!!」


 加須鳥は興奮した様子で1枚の写真を見せる。放置された民家、少なく見ても築50年は経っていそうな木造住宅は、伸び放題の雑草に囲まれ、窓ガラスもあちこち割れている。人が住まなくなってもう長い時間が経っているのだろう。有り体に言って廃墟そのものだ。……廃墟、というだけなら少子高齢化の日本ではどこででも見つかる。一つ気になる点があるとすれば


「なんだこれ?は、な……」


、です。」


 平仮名で”はなさないで”とだけ書かれた紙が、玄関に貼り付けてあった。


 ——加須鳥は、熱意はあるものの遅刻はするしドジもする。人の話を聞いているのかいないのかわからない、おおよそ社会人としては落第な人間だ。だがそれでも、本物の心霊現象に対する直感という唯一無二の素質を持っていた。





「はなさないで、ねぇ……」


 三田は、加須鳥から写真を受け取るとそれをまじまじと観察する。加須鳥と仕事をするようになった3年間、頻度が多いわけではないが、加須鳥が興奮して持ち込んできた情報は高い確率で本物の心霊現象にまつわる物だった。

 ……即ち、三田もまたそれなりの回数だけ本物の心霊現象に巻き込まれてきたのではあるが、それに関しては面白い記事を書くための必要経費、或いは希少な体験ができたという報酬だと思い込んできた。


「この写真はどこで?」


 三田の質問に対して加須鳥は待ってましたと言わんばかりに鞄の中からメモ帳を取り出す。


「これはですねぇ……Y県在住の大学生からの投稿です。仲間と一緒に肝試しに行ったらしくて、そこで心霊現象に会った、と」


「肝試し?それは……それは妙な話だ。だってこの写真、昼間に撮られてるじゃないか。肝試しの定番と言ったら夜じゃないか?」


「下見に行った時の写真なんですって。いくつかの心霊スポットを事前にピックアップして、その中から選ぶ時の資料として昼のうちに現地の写真を撮ったらしいです」


 なるほど、と納得する。現代の若者というのは肝試しというリスキーな行為をするにあたってもしっかりと事前調査をやるものなのだろうか、或いはこの若者たちが変わっているのだろうか?


「まあ、ネタにする方にとってはありがたいな。夜の写真より昼の写真の方が見やすい。にしてもはなさないで、はなさないで、かぁ……」


「何かまずいんですか?」


「まずいというかだな、これじゃあわからんだろう。”話さないで”なのか”離さないで”なのか……或いはもっと違う、一般に知られていない単語なのか」


「ああ確かに。”ここではきものをぬいでください”みたいなヤツですね」


 適切かは分からない例を出された気がしたが、三田はそういうものだろうと言いかけた言葉を飲み込んだ。


「……心霊スポットに何らかの禁忌があることは珍しくはない。霊や神々と言った存在を怒らせないために作られたルール、現実的な観点から言えば過去に危険な事件が起きたことに起因する警告。ただ、それにしては曖昧過ぎる」


「離さないでと話さないで、その両方をやってほしくないんだとしたら?」


「そんなことあるかい?まあ、少なくともこの文章からすれば自然なのは”話さないで”の方かな。”離さないで”なら何を離してはいけないのかわからないが、”話さないで”なら一応は一言も喋るなって意味で通じる」


 そこまで言ってからようやく、三田は肝心なことを聞き忘れていたことに気付いた。


「そういえば……これを送ってきた大学生というのは、一体どんな心霊現象に会ったんだ?」


 奇妙な貼り紙に気を取られて、肝心な話の詳細を聞き忘れていた。加須鳥もまた本題に辿り着いていなかったことに気付いたようで、再びメモに目を向けた。


「ええっと……友人グループ5人で肝試しに向かい、みんなで廃墟を探索する流れだったみたいです。玄関前に辿り着いたところで、メンバーの内1人がこの張り紙を見ただけで体調不良を訴え外で待ってることにしたんだとか」


「張り紙、なのか?家の雰囲気とかそういう全体的なモノじゃなくて」


「張り紙らしいですよ?張り紙を見てたら気味悪くなってきたってちゃんとメールに書いてます」


 加須鳥は鞄からメールを印刷した紙を取り出して三田に手渡すと、再び説明を続けた。


「残った4人が住宅内に入ると……あ、鍵は元から開いてたらしいです。家の中をぐるーーーっと見て回って、“はなさないで”の貼り紙も気になったはなったみたいなんですが、途中からなしくずし的にみんな普通に話し始めたみたいでして。不気味だねーなんて言いながらそろそろ帰ろっかーって感じになって……」


 加須鳥フィルターを通すと話の内容が随分軽く聞こえるが、一応言っている内容というか空気は伝わってくる。不気味な場所に自ら飛び込んで何が怖いの怖くないのと騒ぐ、典型的な肝試しだ。


「で、そこで家の外からぎゃーっ!て声が聞こえたらしくて」


「外?ってことは家の外で待ってたヤツの声か?」


「はい。で、中に入ってたみんなでこれはなんかおかしいぞって外に出たらしいんですが……」


「ですが……?」


 突然言い淀んだ加須鳥の様子を不審に思いながら、三田は先を促す。


「はい。そしたら、外で待ってた人が気を失って倒れてて、それで慌ててみんなで帰って来たそうです」


「……それだけか?」


 たしかに本人達は怖い思いをしたのだろうが、心霊記事のネタとして採用するには弱いと言わざるを得ない。そもそもの話、大学生グループが廃墟に肝試しをしたら怖い思いをしました、だなんてフォーマットとしてはあまりにもありふれている。


「こう、なんかないのか?その気絶したというヤツの証言とか、後になってから呪われたみたいな話がさ」


「三田さん、それは流石に不謹慎ですよ」


 あまりの正論にぐうの音もでない。そもそもこんな怪しげな雑誌の編集部でそんな正論が罷り通るのかは疑問が残るものの、たしかに不幸なエピソードなんてわざわざ望むべきではない。


「すまん、たしかにその通りだ……だがな、加須鳥くん、記事を書くんならもう少しネタとしての強みが欲しいんだが」


「だ、大丈夫です!ちょっと送られてきたエピソードの弱さはたしかに否めません!否めませんけども!ほらこれ見てくださいよこれ!!!」


 若干空元気の気配を感じなくもないが、ともあれ三田は加須鳥が指さす写真の一部を注視する。


「ほらココ!割れたガラス窓の向こう側、人の手みたいなものが見えませんか?」


 写真の左上部分、2階の窓の辺り。言われてみれば手のような物が見えなくもない。


「ふむ、例の外で待っていたという大学生はこの手を見たのか?いや、そもそもはなさないでの貼り紙に恐怖していたということだしこれはまた別なのか?」


「ふっふっふ……気になってきました?気になってきましたよね?」


 ……怪しげな笑み。こういう時は大抵、次に出る言葉が決まっている。


「じゃあ「じゃあ現地を実際に見に行きましょう、と言いたいんだろう?いいよ、行ってやろうじゃないか」


 加須鳥はほんの少しの間困惑の表情を浮かべたが、その後すぐに満面の笑みに切り替わり、元気そうに肯定の返事を叫んだ。

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