Non_Grata_Saga -幕間の物語- side.小村・衣須

小村・衣須

【望まれぬ者と望まれた者】第3話「黎明の徒花」読了後推奨

短編「晴れを奏で、夜風を紡ぐ」

 パチリ、と目を覚ます。

 まず初めに視界いっぱいに飛び込んでくるのは、無機質な白い天井。

 次いで、窓から差し込んでくる陽の光に瞳孔を撫でられて、“彼女”は気だるげに目を細めた。


「ん……んぅ…………」


 可愛らしく喉を鳴らし、“彼女”の口から零れる小さな声。

 そんな“彼女”の鼻をくすぐるのは、ふわりと青臭い植物と花々の香り。

 その香りを前に“彼女”はヒクヒクと鼻を震わせて、日光の眩しさに細めた瞳をモニョモニョと歪めていく。


 その時だ。

 ピピピピピ、と甲高い電子音を奏でながら、ベッドの傍のテーブルに置かれたデジタル時計が“彼女”に朝の到来を報告し始める。

 無機質な液晶画面に表示されているのは「AM5:30」という数字群。目覚ましアラームは、今日も時間ピッタリに“彼女”の目覚めを促した。


「──んっ」


 ピッ、という仄かな余韻の音色を残し、目覚ましアラームが静止。

 デジタル時計のスイッチには、ベッドから伸ばされた“彼女”の右手が叩き付けられている。

 今度こそ、“彼女”の瞳はパチクリと開かれた。


「ふわぁ、あ…………」


 欠伸をしながらムクリと体を起こせば、窓から見える太陽が“彼女”の上半身を燦々と照らし始める。

 “彼女”は目をグシグシと擦り、視界をよりクリアにしようと試みる。


「……朝、か」


 女性らしく軽やかで、それでいてどこか重みも見える、落ち着いた声色。

 “彼女”の腕がテーブルへと伸ばされ、やがてその上に置かれていた赤いフチの眼鏡がその手に取られた。

 手に取った眼鏡を、“彼女”は何の躊躇いも無しに装着する。


「そろそろ慣れてきたな……この部屋で寝起きするのも。“俺”がこの支部で寝泊まりする時って、大抵は共同任務の時ばかりだったし……」


 そうして“彼女”──雨崎アマザキ 晴菜ハルナは目を覚ます。

 UGN波紋市支部で迎える何度目かの朝は、今日も気持ちが良いものだと感じながら。





 UGNチルドレンである晴菜に与えられた部屋は、なんて事の無い普通の部屋だ。

 ベッドやクローゼットがあり、小さなテーブルと棚がある。その程度の、ごく一般的な自室マイルーム

 元々エージェントやチルドレン向けに用意されていたその部屋は、晴菜に割り当てられて以降──大量の“緑”で埋め尽くされていた。


 窓には花の植えられた植木鉢。部屋の隅には背丈のっぽの観葉植物。所狭しと花々の並ぶプランターさえ散見される。

 晴菜の趣味もあるのだろうが、それにしてもこの数は驚愕するものだ。


「《成長促進》のエフェクトはあるけど、こうやって自分の手で世話するのもいいよな~♪」


 晴菜はその1つ1つに丹念に目をやりながら、手に持った小ぶりの如雨露で水を与えていく。

 雫に濡れる葉を優しく撫でてやり、鼻腔をくすぐる葉っぱの青臭さに目を細める。

 そうして全ての植木鉢・プランターに水をやり終えた晴菜は、如雨露を元あった場所に戻しながらクローゼットへと歩を進めた。


「~♪」


 上機嫌に鼻歌を奏で、クローゼットを開く。

 寝間着を脱ぎ、クローゼットから取り出した服をスパッと身につける。

 晴菜が特に気に入っている、青を基調とした制服風のファッションだ。


 それから、指貫きグローブを両手に装着する。

 黒塗りの革で作られたそれは、晴菜が好んで身に付けているお気に入りの小物。

 指を引き締めるようにして具合を確かめ、グーとパーを繰り返す。


 ネクタイをキュッと締めた晴菜はテーブルへと向かい、傍に立て付けてある鏡へと向き直った。

 ゴムを手の中で転がしながら、自身の青い髪を手繰ってサイドテールを作っていく。それをゴムで留め切るまでに、果たして1分も経過しただろうか?

 昔は姉貴分の傘音カサネ 智慧チエなどにやってもらっていた作業だが、今の晴菜ならば1人でも難なくこなせるものだ。


 次いで、晴菜はテーブルの引き出しから2種類の耳飾りを取り出した。

 1つは、星空を象った意匠のイヤリング。割れ物を扱うかのように手に取ったそれを、晴菜は慣れた手つきで左耳に取り付ける。

 そして、もう1つは……


「…………こっちは、まだ慣れねぇな」


 星空ではなく、1つの大きな星がモチーフの意匠が施されたイヤリング。

 先ほどのイヤリングとは違って比較的新しいものらしく、その細工は曇り1つ無いピカピカだ。

 晴菜はそのイヤリングを見つめながら数秒逡巡すると、今度は恐る恐るといった手つきで右耳へ取り付けていく。


 左耳から下げられた夜空のイヤリング。右耳から下げられた一等星のイヤリング。

 それらの塩梅を鏡で見定めながら、晴菜は「善し」と頷いた。


「…………」


 目を瞑る。

 すぅ、と息を吸い、はぁ、と息を吐く。


「──よし、今日も“ボク”は準備万端です」


 “俺”から“ボク”へ。


 そうして目を開いた晴菜の口調は、先ほどまでの砕けたものとは真逆の、理性に満ちた冷静なものだった。

 眼鏡の向こう側で目がキリリと研ぎ澄まされ、居住まいもどこか落ち着いた印象を受けるだろう。


「とりあえず、支部長に挨拶しに行かないとですね」


 UGNチルドレン、雨崎 晴菜。

 晴菜たっての希望で波紋市支部に転属したのと同時期、彼女が新たに授かったコードネームは“快晴の奏者テンペスト”。

 本日は快晴也。晴菜の日常が始まる。





「おはようございます、敷石シキイシ支部長」

「ああ、おはよう」


 UGN波紋市支部、執務室。

 ノックと共に入室した晴菜を、快く迎え入れた声が1つ。

 自身の下へ歩み寄る晴菜に対して穏やかな笑みを見せるのは、波紋市支部長である敷石シキイシ 弥勒ミロクだ。


 愛用のデスクに座り、コーヒー片手に新聞を読む落ち着いた雰囲気と振る舞い。

 成る程、“地に根を下ろしてダウン・トゥ・アース”というコードネームに違わぬ安定感というもの。

 彼の帯びる「理性の香り」は、彼に仕える者たちに確かな安心を与えるカリスマ性を宿しているのだ。


「もう、こちらでの生活には慣れたか?」

「ええ、おかげ様で。と言っても、以前からこちらにはよく伺う機会がありましたので、完全な新天地という訳でもありませんから」

「そうか、それは良かった。何かあれば、いつでも俺やサクラに声をかけろ」

「はいっ。その時は是非、遠慮する事なく頼りにさせて頂きますよ」


 晴菜の快活な返答を受けて、敷石は柔らかく微笑みながらコーヒーを口にする。


 何度飲んでも美味いコーヒーだ。ビリッと電流めいた刺激を舌の上に覚えながら、敷石はそう思う。

 “奇妙な同僚ストレンジ・コーリング”なるエージェントが「お土産」と称してたまに持ってくるコーヒー豆は、飲むと元気になるという触れ込み付きのものらしい。

 カフェ【隠者ハーミット】のマスターが育てたという豆から挽いた熱々のブラックコーヒーは、朝の敷石に知性と活力を与えてくれる。


 ほろ苦く芳醇なコーヒーの味と香りを口の中で転がして、敷石は視線を新聞から晴菜へと移り変わらせた。

 眼鏡の向こうから見える晴菜の眼差しはキリリと鋭く、それでいてどこか幼さを感じさせる。


「……何か?」

「……いや」


 まじまじと自分を見つめてくる敷石の目線に、晴菜がコテンと首を傾けた。

 大人びたクールな振る舞いを取っていても、やはりそういった仕草は年相応だな、と。

 14歳の少女らしい可愛げな所作を見て、敷石はクスリと笑いを零す。


「頼りにしているぞ、“雨乞い師レインメーカー”。いや、今は“快晴の奏者テンペスト”だったな」

「アイ・コピー。どうぞ、ボクの力が皆さんの為になるならば」


 そうして、晴菜と敷石は目を合わせて笑い合う。

 晴菜の目に映る敷石 弥勒支部長は、紛う事なく「頼れる大人」。彼から信頼を寄せられる事に、晴菜は喜びを覚えていた。

 対する敷石もまた、新たに加わった部下からの信頼にこそばゆくはにかんだ。


 まったく、平穏で素晴らしい朝じゃないか。


──ドタドタドタドタ!


 執務室のドアの向こう。支部内の廊下を慌ただしく走り回る足の音。

 それがよくよく聞き慣れた2人分の足音である事は、ハヌマーン・ノイマンのクロスブリードである敷石には容易く理解できた。できてしまった。

 ついでに言えば、晴菜も《地獄耳》というエフェクトを行使できる。故に、廊下から聞こえてくる足音の正体を理解できていた。


 チラリ。

 ドアの向こうへと向けられていた晴菜の視線が、再び敷石へと回帰する。


「…………はぁ」


 それはもう、深い溜め息だった。

 新聞をバサリと折り畳み、デスクの上に半ば投げるようにして置きながら。

 コーヒーをグイと飲み干す敷石の姿に、晴菜は如何にも「コメントし難い」という表情で薄く口角を上げる。


 波紋市の支部長として、敷石は“彼”ともまぁまぁ長い付き合いである。

 敷石の脳裏には、10秒後に起きるだろう光景が鮮明に描かれていた。

 だが、彼の予測はアッサリと外れる事になる。


 彼が思い描いた光景は、8秒後に起きたのだから。


「──おっはよー!!」

「おはよーございまーす!!」


 執務室のドアが勢いよく開け放たれる。

 突風めいて入室してきたのは、やはりというかなんというか、敷石と晴菜がよく知る2人の男女。

 朝から元気ハツラツな2人を見て、晴菜は面白そうに顔を綻ばせ、敷石は眉間を指で摘まんだ。


「おー、晴菜ちゃんもいるねぇ。朝から可愛い妹に会えてお姉ちゃんは嬉しいぞー!」

「うんうん、気持ちのいい朝ってヤツだねぇ。……んー? どしたの支部長、そんな顔して」

「……いや……朝から絶好調なようで何よりだ」


 空になったマグカップを、何をするでもなく手の内で転がす。

 そんな敷石の姿に、執務室へと駆け込んできた2人は「はて」と顔を見合わせる。

 そんな一連のやり取りを見た晴菜は、相変わらずだなと溜め息をつきつつ、それでいてほんのりと微笑んでいた。


「ええ。おはようございます、白影シラカゲ兄さん、緋氷ヒエン姉さん。朝からお元気ですね」

「おはよう、晴菜ちゃん! 僕はいつだって元気だとも。ね? 緋氷」

「勿論! 今日もたくさん頑張っていこーね」


 朗らかに言葉を交わす2人の男女。


 スラッとした長身と整った顔立ちが清廉な青年の名は、波紋市在住のUGNイリーガル、緋氷ヒエン 白影シラカゲ

 のほほんとした振る舞いとは裏腹に、絶大なレネゲイド出力を持つ強力なオーヴァードだ。

 彼が肌身離さず身に付いている帽子は、少なくとも晴菜は彼が脱いだところを1度も見た事が無い。


 そんな白影にひっつくようにして立つ、桃色のサラサラとした髪が綺麗な少女の名は、狛狗コマ 緋氷ヒエン

 彼女もまたオーヴァードであり、白影の幼馴染にして唯一無二の相棒、そして恋人だ。

 白影とは長い間生き別れていたが、紆余曲折あって再会。彼と彼女の深い絆は、白影の持つ“永遠の愛と絆ペルソナ”というコードネームからも分かる事だろう。


 そして彼ら2人こそ、晴菜が「兄」「姉」と慕う人物たちである。


「今日はどちらでお仕事があるのですか?」

「んーとね、今日は大学もお休みだから……支部で待機かな?」

「それは重畳。ボクも今日は非番ですので、後でお茶をご一緒しませんか?」

「いいねぇ! ね、白影。一緒に行くよね?」

「勿論さ! 街でお菓子でも買ってくるよ」

「アイ・コピー。では、イチオシの茶葉を用意するとしましょうか」


 その和気藹々としたやり取りを眺め、敷石は「ふむ」と呼吸を漏らす。

 先日の神城グループを巡る一件以降、晴菜は以前よりも明確に、彼らを慕うようになった。

 2人の事を「兄」「姉」と公言する彼女の姿は、まるで本当の兄妹姉妹のようで。


 晴菜がこの支部に転属すると決まった当初、敷石は「あのアホ2人のストッパー役が増えた」と喜んだものだ。

 幼いながらも理知的で常識的なチルドレン。成る程、確かに彼女の存在は敷石にとっての胃薬となり得るだろう。

 だが……


「あー……なんだ。お前ら、ここは一応執務室なんだが?」

「おっと……ボクとした事が。申し訳ありません、支部長」

「まー、いいじゃない。最初に話し出したのは僕たちなんだからさ」

「そうそう、晴菜ちゃんが謝る事無いよー?」

「いえ、ボクはこの支部の職員ですから。そのボクが規律を乱していてはどうにもなりませんよ」


 空のマグカップを啜る。当然、敷石の口には何も入らないが、この形容し難い感情から来る口元の歪みを隠すにはもってこいだ。

 晴菜が転属してきてからこちら、支部の人間と晴菜との間で行われていたやり取りを見て、敷石は気付いた。


──晴菜アイツ、あんまり人に注意とかしないな?


 雨崎 晴菜は、基本的に「肯定」の人である。

 一度自分が「友達」「身内」と定めた人間に対しては、滅多に否定の言葉を発さない。

 甘やかしている、という言い方は違うだろうが、それでも晴菜は身内に甘い。


 とはいえ晴菜も未だ14歳、中学2年生の少女である。

 こないだの一件で明らかになった彼女の過去を勘案すれば、それも仕方ないところではある。あるのだが……


「……どうしたのですか? 支部長。難しそうな顔をしていらっしゃいますが」

「……何でもない。ああ、何でもないさ」


 晴菜は、白影&緋氷のブレーキ足り得ない。

 ガソリンを注ぐ役割でこそないが、彼女はあのポジティブカップルの随伴歩兵である。

 それを再認識するに至り、敷石は生涯何百回目になるかも分からない溜め息をついた。


 だが、それでも。

 敷石の視界には、楽し気な笑顔を見せる晴菜の姿が映り込む。


「まぁ、幸せならそれでいい」


 先の一件の際、晴菜はそれはもう荒れに荒れていた。

 その時に比べれば、今の晴菜のなんと可愛らしい事か。


「……? ええ、それは勿論です。ここには信頼できる上司に、頼れる先輩方。そして、兄さんと姉さんがいますから」

「おー、嬉しい事言ってくれるねぇ、この妹は」

「よーし! じゃあお姉ちゃんが美味しいものでも買ってきてあげようじゃないか!」

「ふふっ、楽しみにしていますよ」


 敷石 弥勒は、UGN支部を管轄する支部長である。

 それと同時に、まだ若き者たちを導く人生の先輩である。


 曇り1つ無い笑顔を見せる晴菜の姿に頷いて、敷石はコーヒーのおかわりを淹れに席を立った。





 白影には、晴菜について以前から不思議に思っている事があった。


「──あっ! バニーちゃん!」


 白影&緋氷と一緒に執務室を後にした直後、晴菜は近くを通りすがった1人の少女の姿を認めた。

 そして少女に声をかけるや否や、パタパタと足早に駆け寄っていくではないか。

 その時の晴菜の表情はとても明るく、どことなく嬉しそうに見える。


「ハルナ! おはよう、今日もお仕事?」

「おはようございます。いえ、今日は非番ですよ。バニーちゃんは?」

「私も同じ。今日はアリスが出かけているから、訓練も無いの」


 晴菜が駆け寄っていった少女もまた、晴菜の姿にニコリと笑い、自らの白い髪をサラリと撫でる。

 お互い楽しそうに言葉を交わし合う2人の姿に、白影は「まるで本当の姉妹みたい」と小さく笑った。


 晴菜と談笑している白い髪の少女。

 彼女はアリス・Bバニー・ワンダーハート。かつて“ヴォーパルバニー”と呼ばれていたオーヴァードであり、彼女を巡る事件の結果、現在は波紋市支部の預かりとなっている。

 そして同時に、晴菜が「親友」と呼んでやまない人物だ。


「そうだ。折角なら、私と模擬戦でもやってみない?」

「ほえっ、いいんですか?」

「多分ね。支部長に声をかければ地下の訓練場を使わせてもらえるでしょうし」

「では、やってみましょうか。それに──」


 キュッ、コキリ。

 わざとらしく指貫きグローブを引き締めて、晴菜の指が鳴らされる。

 今一度バニーを見据えた晴菜の目線は、眼鏡と共にキラリと光った。


「──バニーちゃん相手の戦績は2勝1敗ですからね。負ける気はしませんよ?」


 晴菜がニヤリと笑う。

 小さく歯を剥いて浮かべたその笑顔は、これまでの晴菜からは考えられなかったもの。良く言えば積極的な、悪く言えば攻撃的な表情だ。


「──へぇ?」


 その笑顔に煽られたバニーも同様に、鋭い目つきを併用しながらニヤリと笑った。


「言うじゃないの。あの事件の時、ジャバウォック相手に大立ち回りしていたのは白影よ?」

「ええ、そうですね。敷石支部長のサポートと、ボっ、クっ、のっ! 的確な援護あってこその勝利ですし? ボクだってあなたに痛痒ダメージは与えてましたよぉ?」

「その後でちゃんと見切ったけどね。それに、ハルナの“魔眼”にも“領域”にも、私はちゃんと打ち勝ったわよぉ?」

「ボクだってあれから死線をガッツリ乗り越えてきましたので。甘く見ていると痛い目を見ますよぉ? ええ」

「ふふふふふ」

「ふふふふふ」


 この場に何の事情も知らない者がいれば、きっとその者の目には、晴菜とバニーの背後で睨み合う龍と虎の幻影ヴィジョンが映って見えた事だろう。

 晴菜もバニーも、そんじょそこらのオーヴァードとは一線を画すレネゲイドの使い手だ。

 傍目から見れば、そんな敏腕オーヴァード同士の喧嘩が始まったようにしか見えないとしても頷ける。


 けれども、この場にいるのはそんな見知らぬ誰かなどではなく、のほほんカップルの白影&緋氷である。

 クスクスと互いを煽り合うように笑い合う晴菜&バニーのやり取りを見て、彼らはふわふわと笑みを浮かべている。


「あの2人、相変わらず仲が良いねぇ~」

「そうだねぇ。バニーちゃんも前より明るくなった気がするし、仲良しなのは良い事だ」


 白影と緋氷は、晴菜とバニーのやり取りが決して喧嘩などではない事を知っている。

 彼女たち2人の仲が、険悪になった訳ではない事を分かっている。

 それが、気心の知れた者同士での遠慮のないコミュニケーションである事を理解している。


 白影の目に映っている晴菜とバニーは、さしずめ仲良くじゃれ合っている子猫同士と言ったところか。

 同じ支部で交流を続け、或いは強敵相手に共同戦線を張って。彼女たちがどんな人物であるかなど、今更考える必要などありはしない。

 白影はちゃんと知っているのだ。彼女ハルナ彼女バニーの関係を。


 だからこそ、疑問が無い訳では無いのだが。


(こないだの一件でハッキリ分かったけど、晴菜ちゃんって結構アクティブな子なんだよねぇ)


 雨崎 晴菜。かつての名前は荒海アラミ 晴菜。

 彼女の過去についてはさておくとして、本来の晴菜はその苗字に違わず、極めて攻撃的な気性の少女だったという。

 それを、彼女が「お姉様」と呼び慕う神城カミシロ 蓮華レンゲらによって今の性格へと矯正されたと聞いた。


 同時に、晴菜という少女は「身内」を害される事を強く厭う人物だ。

 家族、友達、或いは好きな人。そういった「大切な人」たちに危害が加わると、晴菜は強い攻撃性を発露する。


 “マスターアビス”との邂逅がまさにそれだ。

 彼女に敷石と、バニーの姉であるアリス・Eエクスポート・ワンダーハートを侮辱された時には、いつもの晴菜からは考えられないような暴言さえ飛び出した。

 そして先日の、アルケア・アーティフィシャルとのやり取り。


 あれが晴菜の“素”なのだろう。今の白影にはよく理解できる。

 そこで、当初の疑問へと回帰するのだ。


(バニーちゃん──ジャバウォックとの戦いでは、あの時ほどキレてなかったんだよね)


 アリス・ジャバウォック。

 それは、かつてのバニーがアリスを取り込んで覚醒した強大なオーヴァードだ。


 白影、晴菜、敷石はかつて彼女に挑むも、その圧倒的な力の前に追い詰められた。

 そしてそんな危機的な状況の中を、3人は“奇妙な同僚ストレンジ・コーリング”、そして蓮華に逃がされた。


 そこからの逆転劇は割愛する。

 重要なのは、自分が最も敬愛する“蓮華お姉様”を危機的な状況に脅かしたジャバウォック──現在のバニーを前にして、晴菜は負の感情を見せていない点である。

 “マスターアビス”に対するような殺意も、アルケアの本性を見た時の暴走状態も。バニーと会話している時の晴菜からは、その兆しが一切見える事は無い。


 それどころか、今の晴菜はバニーを「親友」と呼んで憚らない。

 やや矛盾しているようにも思える晴菜の言動。さて、これは一体どういう事なのか。


 とはいえ、これまでの共闘で少しずつ晴菜の事を知ってきた白影には、何となく想像がついているのだが。

 彼がその目で視る雨崎 晴菜は、いつだって信念の一貫した少女だ。


「……きっと、昔の自分と重ね合わせているんだろうね」


 晴菜の過去とバニーの過去には、類似性はさほど多くない。

 それでも、晴菜の目に映ったバニーの姿は、きっと幼い頃の「荒海 晴菜」を想起させるに足るものだったのだろう。

 だから晴菜は、ヴォーパルバニーを憎まない。


「んー……? それ何の事?」

「いや、何でもないよ。ただの独り言」

「ふーん……?」


 コテン、と幼子めいた所作で首を傾ける緋氷。

 そんな恋人の振る舞いが何とも愛おしくて、白影は思わず彼女の頭をワシャワシャと撫で回す。


「わひゃっ!?」

「ふふん♪」


 突然のスキンシップに、緋氷が顔を赤らめる。

 そうして恋人の可愛らしいリアクションをひとしきり堪能した白影は、改めて晴菜とバニーの方を見た。

 言葉ジャブの応酬も終わったのか、彼女たちはこれから地下の訓練場に向かうところの様子。


 そこで白影は、ふといい案が閃いたと言わんばかりに言葉を紡ぐ。


「ねぇ、緋氷」

「んむぅ……なぁに?」

「僕たちも晴菜ちゃんたちに混ざって組手しに行かない?」

「いいね!」


 速攻で緋氷の機嫌が直った。

 それを確認して、白影はブンブンと手を振りながら晴菜たちに声をかける。


「晴菜ちゃーん! バニーちゃーん! 僕たちも混ざっていいかーい?」

「「えっ」」


 2人の少女から漏れる素っ頓狂な声。


「私も参戦するよー! 白影の事、いーっぱいサポートしちゃうもんねー!」

「「えっ」」

「おー、それは頼もしいねぇ。よぉし、僕も緋氷にカッコいいところたくさん見せちゃおう!」

「「……」」


 どちらからともなく、晴菜とバニーが目を合わせた。

 親友同士、目を見れば分かる。目の前の相手は、自分と同じ事を考えているに違いない。


「バニーちゃん」

「ハルナ」

「手を組みましょう。ボクたちが協力しないとあの2人には勝てません」

「オーケイ。前は私が跳ね飛ぶから、背中は任せたわ」


 2人の拳と拳が、軽く打ち合わされる。

 ここに休戦協定は締結された。今の2人はライバルに非ず。共に手を取って強敵に立ち向かう戦友だ。


「うんうん、2人ともやる気だねぇ。緋氷、僕たちも絆パワーで行こう!」

「もっちろん! 白影と私は無敵のタッグだもん!」


 そんなこんなで、わちゃわちゃと掛け合いながら地下へ歩を進める4人のオーヴァード。


──彼ら4人に敷石の雷が落とされるまで、残り20分。





「まったく、もう。晴菜さんも大概問題児ですねぇ。こんなに傷だらけになっちゃって」

「痛て……しょーがねーだろ。兄さんと姉さんのコンビに勝つには、俺もちょっと本気を出さなきゃさぁ……」

「あ、今は“そっち”モードなんですね」

「ちょっとテンション上がり過ぎてな。暫く“ボクあっち”には戻せそうにねぇ」


 ところは医務室。

 支部職員にして医務室の管理人であるサクラが、消毒液の染み込んだ綿を晴菜の額に当てる。

 エタノールが傷に染み込んでいく痛みに、晴菜は思わず目を歪ませた。


 白影&緋氷との模擬戦(と敷石からのお説教)を終えた晴菜は、ボロボロの状態で医務室を訪れていた。

 男子小学生めいて全身が傷とホコリまみれになり、トレードマークのサイドテールさえほどけ切った晴菜の姿に、サクラは呆れたように溜め息をつく。

 彼女の視界では、先に傷の手当てを終えたバニーがベッドによいせと腰掛け、棚に並べられていた子供向けの漫画を読んでいる。2度目の溜め息がサクラから漏れる。


 なんだかんだ言って、この2人は波紋市支部の中でも「幼い」部類に入る少女たちだ。肉体年齢でも、精神年齢でも。

 幾ら振る舞いが大人びていたって、その性根は酒も飲めないしタバコも吸えないガキンチョコンビ。

 まぁ、このくらいならまだ可愛げのある方だろう。そう結論づけて、サクラは晴菜のおでこに絆創膏を貼っていく。


「はい、これでもう大丈夫。ソラリスのエフェクトも撃ちましたから、じきに回復しますよ」

「ん、サンキュ。……はー、やっぱ兄さんたちには勝てねぇや」

「あともうちょっとで届きそうだったんだけどねぇ。緋氷のサポートも強いのよこれが」


 コキコキと肩を揉み解す晴菜の後ろで、バニーがパタンと漫画を閉じる。

 彼女たちがどのような模擬戦を行ってきたのかを容易く想像する事ができて、サクラが苦笑いを零した。


「あの2人は、ウチの支部でもトップクラスの戦力ですから。“白影砲”の異名は伊達ではありません」

「ホントにな。兄さんや支部長に比べたら、俺なんてただの小娘だもん」

「ハルナ? あなたも“普通”から突出したオーヴァードなんだけど?」


 一体どこの世界に、目に入るモノ全てを射程範囲内に捉えた回避困難なMAP攻撃を連発する女子中学生がいるというのか。

 バニーのツッコミに「えー」と声を出しながら、晴菜は戦闘でほつれた髪を結っていく。

 鏡を見る事なく髪を結うその手つきは中学生にしては随分と手慣れたもので、不思議そうにサクラが晴菜の所作を覗き込んだ。


「チラッとお話は聞き及んでいますが、その髪の結い方は神城グループの方から?」

「んー? まぁな。UGNに拾われた直後の俺ってロクに身だしなみもしてねーから、髪がボッサボサでさ。それはもう智慧様に叱られたもんだよ」


 話しながらも手早く手繰った髪にゴムを止めれば、顔に貼られた絆創膏以外はいつもの晴菜へ元通り。

 眼鏡のホコリをキュキュッとハンカチで拭いつつ、晴菜の意識は右耳の耳飾りへと向けられる。


「……アオイ様が、この髪型を教えてくれたんだ。色んな髪型を試してさ、これが一番俺に似合う、って」

「…………」

「ハルナ……」


 言葉に詰まるバニーとサクラ。

 バニーは、先の一件の顛末を知っている。サクラは詳細を知らないが、それでも月御原ツキミハラの姉弟が話していたのをチラリと耳にした。


 自分が慕っていた存在の裏切り。それは、因縁の相手である実の父親と対峙した時以上の衝撃と絶望を晴菜にもたらした。

 最終的にはそれを乗り越え、更なる成長を得た晴菜だったが、それでもその心中は穏やかではないのではないか?

 そんな思いがバニーの中にあり、それ以上の言葉を紡ぐ事ができない。


 やがて、そんな場の空気を見かねたのか、晴菜がわざとらしく溜め息を落とす。


「そんな辛気くせー空気にしなくてもいいさ。兄さんたちの助力もあって、葵様とはキッチリ決着をつけたかんな。もう気にしてねーよ」

「……本当?」

「マジもマジ。もう死んじまった人を憎んだってどうしようもねーだろ。俺の中ではとっくの昔に決着がついてんだから、周りが気にしてたってしょーがねーよ」


 そう言い、眼鏡を装着し直す晴菜。

 指貫きグローブをグイグイと嵌め直し、両手で自身の頬を叩いてみせる。

 それで気を整えたのか、晴菜は満足げに「善し」と呟いた。


「だから、お2人が心配する事は無いんです。虚勢や強がりではなく、ボクはもう、過去を乗り越えましたから」


 ニコリと微笑む。

 いつの間にか口調が“俺”から“ボク”に戻った晴菜を見て、サクラは「ならいいのですが……」と救急箱を片付けに入る。


(……ハルナ、あなたは)


 そしてバニーは、ベッドに腰掛けながら晴菜を見る。

 自らの過去を乗り越えた。晴菜はそう言った。

 かつて、もう1人の自分アリスに対峙した過去アリスとして、バニーは晴菜の心情に思いを馳せる。


(憎んではいない。そう言ったけど……あなたは、彼女に憐憫を感じているんじゃないかな)





「──という訳なんですよ、ヤナギちゃん」

『無茶するなぁ……智慧さんが聞いたらなんて言うか分かったもんじゃないよ?』

「アハハ……勘弁してくださいな、智慧さんのお説教は電話越しでも強烈なんですから」


 夜。太陽はとうの昔に地平線の向こうへと沈み込み、キラキラと輝く月が夜の空を照らす頃。

 自身に割り当てられた部屋にて、晴菜は友達との通話を楽しんでいた。


『智慧さんの教育もあって、歯鉄市に配属される前後はお淑やかになったなって思ってたのに……最近の晴菜ったら、以前の荒っぽい振る舞いが戻ってきてるんじゃないの?』

「そこは、『己の攻撃性を受け入れた』とかそういう感じで言ってくださいよぉ。ボクが成長した証ですから」

『晴菜? それは「成長」じゃなくて「はっちゃけるようになった」って言うのよ?』


 そんな風に晴菜と絶賛通話中の少女、その名は帯刀タテワキ ヤナギ

 “明星の守兵ガード・オブ・デイスター”というコードネームを持つ有力なオーヴァードであり、晴菜がまだ神城グループにいた頃からの友人だ。

 現在は神城カミシロ 早月サツキの護衛を担当しており、晴菜が別の支部に所属した事もあってあまり会う機会は無かったが、先の一件の折に再会・共闘した仲である。


『その調子だと、心の方はもう大丈夫みたいだね』

「ええ、おかげ様で。支部の皆さんにも『お前の“俺”口調にももう慣れたわ』って言って頂けましたし」

『……本当に受け入れてよかったの? その攻撃性とやらは』


 相も変わらず理知的なのかアホなのか分からない晴菜の台詞を聞きながら、スマホ越しに呆れたような、それでいて楽しそうな溜め息をつく柳。

 その溜め息の意図を知ってか知らいでか、晴菜は手元のホットココアを艶やかに啜った。


「そうだ、早月様と智慧さんはどうされていますか?」

『こっちも変わりは無いよ。2人が頑張っているおかげで、ちゃんと回ってる。葵さんがいなくなったけど、それでも…………あっ』


 ズズ。

 晴菜がココアを啜るその音は、きっとスマホの向こう側で柳にも聞こえただろう。

 どうコメントしたものか。そう逡巡するような静寂が、音も無く晴菜の耳に届いてくるようで。


『……ごめん、不躾な発言だったね』

「……はぁ」


 溜め息。


「バニーちゃんやサクラさんもそうでしたけど、ボクに気を使わなくていいんですよ? 葵さんの事はちゃんと折り合いをつけたって言ったじゃないですか」

『確かにそう言ってたけど……本当に大丈夫、なのね?』

「イエス。もう彼女を憎む事はありませんよ。ボクのお気に入りのプランターを賭けてもいいです」

『基準がピンとこない……まぁ、あなたがそう言うなら、私からは何も言わない事にする』


 そう語る柳にスマホ越しながら頷きつつ、それでも晴菜は「ピンとこない」という言葉には「えー」と不満を吐き出した。

 一体、何が不満だというのか。お気に入りのプランターと言えば、自分が《成長促進》のエフェクトを交えてコツコツと世代交代を繰り返してきた、とっておきの花々が植えれているというのに。


『……っと、ゴメン。早月に呼ばれたの。今日はここまでにしましょ』

「そうですね。おやすみなさい、柳ちゃん。またお話しましょうね」

『ええ、また必ず。おやすみ、晴菜』


 そうして通話が切れる。

 スマホをテーブルの上に置いて、晴菜はココアの注がれたマグカップを手に取った。

 彼女の視線の先には、夜空を切り取ったような構図を見せる部屋の窓と、窓際に置かれた小さな植木鉢がある。


 その植木鉢には、小さな花が植えられていた。

 淡いマゼンタ色の花を咲かせるその植物の銘柄を、「葵」という。

 窓際というひと際目立つ、それでいて最も日光を浴びる事のできるポジションに置かれたそれを眺めて、晴菜は今一度ココアを啜る。


 甘いミルクココアだ。

 その温かな甘さを口の中で転がして、晴菜は小さく溜め息をつく。


「……何度やっても、あなたの淹れてくれた味には届きませんよ、葵さん」


 蒼桐アオギリ アオイ。その真の名を、“蒼藍の仇花ブルーイミテーション” アルケア・アーティフィシャル。

 彼女との因縁やその決着については、ここで多く語らないとして。

 葵がこの世を去って以降、晴菜の周りには様々な変化が起きていた。


 父親との、本当の意味での決別。

 波紋市支部への転属の決意。

 コードネームの改名。


 葵が遺したメモ書きもまた、晴菜が受け継いだものだった。

 彼女から託されたその本は、晴菜の部屋の本棚に大切に仕舞われている。

 そこに記されていた「甘いココア」の淹れ方は、今後どのような事が起きようとも、晴菜の脳から忘れ去られる事は決してないだろう。


 そしてそれは、蒼桐 葵という存在に対する想いメモリーもそうだ。


「……『明日あすありと、思う心の仇桜あだざくら夜半よわに嵐の、吹かぬものかは』」


 ポツリ。

 晴菜が紡いだその呟きを聞く者は、部屋を埋め尽くす植物たち以外には存在しない。


 彼女が口にしたのは、浄土真宗の宗祖・親鸞シンランが詠んだとされる和歌だ。

 今、美しく咲いている桜を、明日も見る事ができるだろう。そんな風に思っていると、夜中に強い風が吹いて桜が散ってしまうかもしれない。

 一寸先は闇。今を精一杯生きるべし。そのような想いの込められた歌である。


 そして仇桜とは、散りやすい儚い花を指す言葉。

 そんな儚い花を散らすのは、夜に吹く嵐だという。


「過去と今を手にせども、真実には届かない」


 甘いココアを飲み干す。

 空になったマグカップをそっと置き、晴菜はもう1度、窓際に置かれた葵の花を見た。

 少女の唇が紡ぐのは、いつかどこかで聞いた、しかし誰が言ったかは分からないうた


「──だから、心に指を入れないで」


 星空の光を浴びるようにして咲き誇る葵の花は、仇花あだばなや造花ではない、本物の花。

 晴菜がいずれ、新たな「お気に入りのプランター」リストに入れようと思案している、綺麗に生きる花弁はなびらだ。

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