はなさないままで

ツユクサ

はなさないままで

「『わたしを離さないで』って、読んだことある?」

 付き合って2年の彼女が言った。僕の部屋で、TVを見ているときだった。隣の彼女の目は、今もTVを向いている。彼女はこうやって、なんの脈絡もなく、会話の繋がりも無視した質問をしてくることがあった。

 無い、と答える。彼女は、そう、と関心も無さそうに言った。

 質問したくせに、答えを聞く頃にはもう別のことを考えている。気まぐれ。掴みどころがない。それが彼女の嫌いなところでもあり、彼女の魅力だとも思ってしまう。


「面白い?」

「ざっくり言うと、臓器提供のために生まれたクローンの話」


 そのとき、彼女はやっとTVから目を離し、僕を見た。彼女の目は、他の人より茶色っぽい。蛍光灯の光に当たると、より薄くなる。


「読んでみるといいよ」

「そうする」


 素直に僕が頷くと、彼女はいたずらっ子のように目を細めた。形の良い唇が、綻ぶ。彼女は、笑顔が可愛い。僕よりひとつ年上で普段はしっかり者の彼女だけど、笑った顔は年下のように幼く見えた。


「心音を聞かせて」


 いいよ、と言う。彼女は、僕の胸に耳を当てる。彼女の体温と重みが、伝わってくる。さらりとした髪。黒っぽい茶髪。彼女は地毛も明るく、中学生の頃は大変だったと言っていた。花のような匂いがする。いつものシャンプーの匂いだった。


「少しはやくなったね。えっち」


 くすくすと、彼女が笑う。僕は彼女をそっと抱きしめる。彼女の吐息が、腕にかかった。


「ちゃんと、あなたに合わせて動くんだね」


 感心したように、彼女は呟いた。どこか、惜しむようでもあった。その意味は、聞かなかった。

 僕の心臓は、僕のものじゃない。僕の、本来の心臓は、とうの昔に壊れてしまった。

今の心臓は、15歳のとき移植されたものだ。提供者は、17歳の青年だった。術後は、生きていけるという安堵と、顔も知らない青年への感謝と罪悪感でいっぱいになった。

 23歳のとき、調査を依頼した。彼の墓を調べてもらい、墓参りに行った。彼の両親には会えなかった。調べてはもらったが、会う勇気がなかった。

 彼女と出会ったのは、彼の墓参りから1週間後だった。

青年には仲の良い幼なじみがいた。付き合っていたらしいと、もののついでのように調査員は話した。

 彼女が、その幼なじみなのかもしれない。彼女と出会ってから何度も思った。彼女は全て知っていて、僕に近づいたのかもしれない。彼女が僕のものじゃない心音を聞くたびに、彼女がいたずらっ子のように笑うたびに、思った。彼女に聞いてみようと、何度も考えた。

でも話せば、彼女は離れていく。そんな気がして、そのたびに言葉が出なくなる。

 彼女の真意は分からない。分からないままで良かった。この安寧が崩れるのなら、話さずこのままでいる。それが僕の意思なのか、それとも心臓がそうさせるのか。それすら分からない。それでいい。

 今の僕は、彼女を離せない。


「ねえ、はなさないでね」


 彼女が言った。僕は答える代わりに、彼女を強く抱き締めた。


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参考

『わたしを離さないで』カズオ・イシグロ著

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