第17話 追

 シャツを捻るように絞ると、布地から染み込んだ水が滴り落ちた。

 ありったけの力を入れて絞り、振り向くと幸一と目が合った。

 じっくりと舐め回すような目で、上から下まで見てくる。

 誰もいないふたりきりの世界で、幸一は遠慮を忘れてしまったらしい。

「雨、止まないな」

「止まなかったら、ずっとふたりだけだ」

「っ……そうだな。どうしてここにいるんだ? 薫子と出かけたんじゃないのか?」

「お茶だけしてすぐに帰ってきた。父さんが席を立ったときに、いろいろ話してくれたよ。俺たちの父親が、俺を結婚させたがっているのは感づいていたって」

「それでどうなった?」

「いずれ嫁にいかなければならない立場。でもどうするのが適切な判断か判らない、だそうだ。今は勉強に興味があって、将来は医者になりたいって話してくれた」

「僕は何も聞いていないぞ」

「落ち着けよ。他人の俺だから気安く話せたんだと思う。女性で医者なんてすごい夢だ」

「それで? 薫子はお前と結婚する気はあるのか?」

「あの様子だとないだろうな。それに俺、他に好きな人がいるって話した」

「話した、のか……?」

「話した。目を伏せて『そうですか』だそうだ。それ以上の会話はしていない」

 雨が洞窟の外壁に叩きつけ、幸一の声が聞こえづらい。

 距離を縮め、彼の耳元に唇を寄せた。

「眠くなってきた」

「寝ていいぞ。ほら」

 幸一は自分の太股を叩いた。

 虎臣は素直に横になると、あっという間に意識を手放した。




「本田、本田……晴れたぞ」

 身体を揺さぶられ、重いまぶたを開けた。

 暗かった洞窟内には明かりが差している。

「悪い……本当に寝てしまった」

「気にするな。実は俺も少しだけ寝たんだ。そろそろ戻ろう。家族が心配している」

 身体を起こして背伸びをすると、幸一は太股を揉んでいる。

「痺れたか?」

「少しね。でも大丈夫。問題ない」

「いつ頃止んだ?」

「お前が寝てから十分くらい経ったあたりかな。豪雨だったけど、すぐに嵐は去ったんだ」

「すぐに起こしてくれて構わなかったのに」

「そんなに気持ち良さそうにしていたら、起こすに起こせないだろ。ほら、立って」

 腕を取られるとバランスを崩し、幸一へもたれかかってしまう。

 広い胸に伸びた腕、それに肩の位置が高い。

「高校に入ってからも背が伸びたな。見上げないといけなくなっている」

「お前だってすぐに伸びるさ」

 特に会話らしい会話も交わさず、しばらく抱き合っていた。

 幸一の顔が降りてきたので、自然と目を瞑る。

 舌が滑り込んできて、固いものが舌に当たる。

 口の中で転がすと、懐かしい甘みが広がっていく。

「十二歳のときの飴?」

「ああ、そうだ。あのときもこうして食べたなあ」

「すごく美味しいよ」

「もっと食べる?」

 飴はまだ口の中にある。もっとほしくて、虎臣は自ら唇を差し出した。




 その日の夕食は、薫子はいやにおとなしかった。

「薫子、なにかあった?」

「ううん、なんでもないの……」

「八重澤と何か話した?」

「いろいろ。ねえお兄様、今日は私の宿題を見てくれる?」

「もちろんだよ。今日は一緒に過ごそう」

 薫子に少しだけ笑顔が戻った。

 夕食後は薫子の部屋で過ごした。

「ずっと元気がないな。八重澤から何か言われたのか?」

「兄様って、将来の夢はある?」

「夢か……、まずは大学で勉強したいとは思っているよ」

「兄様は家業を継ぐの?」

「父さんはきっとそれを望んでいる。でも今は大学へ行くことしか考えてない。将来の夢で悩んでいるのか?」

 薫子の目線が泳いだ。無理に聞こうとはせず、辛抱強く待った。

「どうして、女は結婚しなきゃいけないの?」

 言葉を選ばなければならない。薫子と、虎臣自身のために。

「子を生むのが女性の仕事でもあるって言うのが国の声でもある。薫子は結婚したくないのか?」

「したくないし、お嫁に行くのが嫌なの」

「婿を取りたいの?」

「うん……それか、結婚したくない」

「大人になれば考え方も変わってくるし、今の薫子の気持ちを尊重するよ」

 ようやく薫子の顔から緊張が解れた。

「女が結婚しなくちゃいけないのは、世間体があるから?」

「それも大きいけど、女も男も関係ないよ。結婚に関しては男の方が社会では一人前とされないから。いつか、結婚しなくても問題ないお国になるといいね。今は薫子のしたいことをすればいい」

「私、たくさん勉強したいの。将来は医者になりたい」

 幸一にだけ夢を話し、実の兄には言えないのか、と嫉妬で渦巻いていた気持ちが和らいだ。

「こんなに一生懸命勉強している薫子なら、きっとなれるよ。もし父さんに反対されたら、僕が味方になる。遠く離れていても、誰よりも薫子を思っているから」

「ありがとう、お兄様。私も、ずっとお兄様の味方でいるわ」

 薫子の気持ちは幸一へ向いていない。彼女の口から彼の名前は一切出ず、将来は医者になることに集中していた。

 安堵もありつつ、中途半端な立場でしかいられない自身に、地に足が着かない状態だった。





 時間は有限であり、高校生活も残り一年となった。

 高校三年に上がったばかりの春の試験でも、虎臣は一位だった。二位には林田がつけている。

 ぼんやりと廊下に貼られた試験結果を見ていると、林田が横に立っていた。

「試験お疲れ様。一位、おめでとう」

「ありがとう。林田は医学部に入るつもりなのか?」

「もちろんだとも。祖父も父も代々医師だ。僕が継ぐねばならないんだ」

 林田の表情は誇らしい。

「興味があるのか?」

「僕じゃないんだけど、僕の妹なんだ。医者を目指しているんだ」

「それは素晴らしいことだ。よければ、医学部の資料を送ろうか?」

 驚いたのは虎臣だ。

「女子で医師を目指すんだから、風当たりは厳しいと思う。林田は、そういう風に思わない?」

「なぜだい? 性別関係なく、人が人を救おうとしているんだ。立派じゃないか」

「ありがとう。医者を目指している君にそう言われると、とても嬉しい。妹も喜ぶと思う。資料の件、よろしく頼む」

 寄宿舎へ戻る最中、廊下に人だかりができていた。

 試験結果ではなく、別の貼り紙に人が集まっている。

「今年の夏季休暇はずれるってさ」

「工事の都合って書いてあるな」

 紙には、八月の二週目から九月半ばまでが休暇となっていた。

 自室では試験を終えた幸一が、寝そべりながら本を読んでいた。

「今年の夏季休暇の話、聞いたか?」

「ああ、聞いたよ。ずれるらしいな」

 答えてはくれるものの、幸一は顔を上げない。

 すでに敷かれてある布団に、虎臣も横になった。

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