第16話 嘘
「うん。行く」
言葉短めに答え、唇を重ね合った。
人間の欲は有限ではなく、抑えもきかず暴れ回る厄介なものだ。
幸一の部屋はほぼ昔のままだった。小学生の頃の記憶が鮮明になっていく。
「本当に宿題は終わってなかったのか?」
「ないよ。まさか終わっていると思ったのか?」
「薫子から離れたくて嘘ついたのかと思った」
幸一がカステラを持ってくる間に帳面を覗いていると、三分の二ほどしか進んでいなかった。所々解かれていない問題もあり、彼の言うとおり進んでいるのは半分ほどだ。
「なるべく早めに終わらせよう」
「そうだな。遊ぶ時間がなくなる」
幸一は地頭が良い。元々備わっているものにやる気が追加されれば、努力を繰り返しても勝てないものがある。
「昨日さ、」
「うん」
「薫子さんはどうだって本格的に言われたよ」
時間をかけてカステラを咀嚼し、飲み込んだ。
「本格的に? 今までは軽めに言われてたってこと?」
「そういうこと」
「なんて答えたんだ?」
「好きじゃない」
「はっきり言うな」
「なにむくれてるんだよ」
「仮にも僕の妹だぞ。何が不満なんだ」
「結婚してほしくないと言ったり、どっちなんだ。本当に俺の趣味じゃないだけだ」
「お前の趣味って、」
「だからお前だって」
カステラがもうなくなった。
幸一はフォークでカステラを切り、虎臣の目の前に差し出す。
遠慮なくかぶりついた。
「父さんに言ってみようか。虎臣を俺に下さいって」
虎臣。初めて名前を呼ばれた。
一瞬、頭が真っ白になり、何をしているのかと記憶が飛んだ。もらったカステラを食べている最中だったと思い出し、珈琲で流した。
「虎臣」
「……っ…………」
「これからは名前で呼ぶ?」
「今までは名字で呼び合っていたから、急に呼んだらおかしく思われる……」
「意識しすぎだって。でも……そうだな……俺たちがもっと深い仲になったときに、名前で呼び合うのもいいかもしれない」
「どのくらい深く?」
「お前を貫くくらい?」
「変なこと言うな」
「大事なことだろう。ずっと夢見てる」
唇がくっつくと、カステラと珈琲の味がした。
「さっきの話だけど、薫子さんよりお前に興味があるって言ってみようか」
「お前の言いたいことは判るよ。真剣に考えてくれていて、嬉しい。でも僕は勇気が出ない。僕と八重澤の想いの異なる重さまでのしかかってきて、さらに悪循環になっている」
「環境や三男か長男かの違いだってある。俺の呑気な立場とはどうしたって違う。俺もいざとなったら逃げ腰になる可能性だってあるしな。今は言うべきときじゃないのかもしれない。将来を考える前に、まずは宿題を終わらせないとだな」
「今……僕は最低なことを考えてしまったよ」
「なんて?」
「宿題を終わらせなければ、ずっとふたりでいられるのに」
「いや、宿題はさっさと済ませて、予習しよう。そうすれば、どのみちふたりきりでいられるさ」
「海にも行きたい」
「もちろん、行こう。あの洞窟もどうなっているのか気になるし」
ふたりきりの時間は、そう長くは続かなかった。
「虎臣君、お願いがあるんだが」
夕食後に幸一の父に呼び止められ、嫌な予感が頭をよぎった。
「明日も幸一と勉強をするつもりかい?」
「ええ……約束をしています」
「明日一日だけでいいんだ。薫子さんと幸一に二人の時間をあげてほしいんだ」
よほど嫌な顔をしてしまったのだろう。正一は手と頭を振りながら、
「何も君の妹をどうこうしようって話じゃない。数時間だけでも一緒にお茶をと思ってね。もうすぐ私の妻の誕生日なんだ。うちでは男ばかり生まれて、女性が何を喜ぶか判らないんだ。だから参考までに薫子さんに意見を聞きたいんだよ」
口から出任せにもほどがある。
虎臣は怒りとやるせなさを拳に込め、菩薩のように微笑んだ。
「正直、嫁入り前の妹を男とふたりだけにするのに、どうぞと言えないです」
正一は面食らった顔をしている。根拠もなく良い返事をもらえると思っていたのだろう。
「第一、薫子の意思が一番だと思います。妹がお茶をしたいという気持ちがあるのかと確認してみないと。僕だけの判断で妹を渡すなんて、薫子は物じゃない」
「それはその通りだ。事前に薫子さんへ女性への贈り物を選んで選んでほしいとお願いしたところ、承諾はしてくれた」
今度は虎臣が面を食らう番だった。なぜわざわざ確認をとったのかと、彼の企てを考えてみる。
幸一への気持ちが漏れてしまっていた、妹を溺愛していると知っている、または両方。
虎臣としてはどちらも大切な気持ちだ。
「すまないね。君の父君に話を聞いたところ、虎臣君から薫子さんへの気持ちは盲愛だと聞いたものだから」
「僕は……薫子がいいと言うなら、構わないと思います」
「そうか。ありがとう」
考えていた嘘を見抜かれ、お互いに嘘を重ねた結果、取り引きのような語らいとなってしまった。
遠くで幸一は聞こえないふりをしていた。
虎臣も幸一も歩み寄りはせず、干渉すべきでないと目を合わすこともなかった。
幸一が薫子と出かけている間、一人で海へやってきた。
潮干狩りをする親子に交じり、ひたすら穴を掘っていく。
幸一も薫子もいない中、ただ同じ作業に没頭した。するとバケツに半分ほどシジミが溜まった。今日の夕食か明日にでも、タエにシジミのみそ汁を作ってもらおうと頼むつもりだ。
途中、雲行きが怪しくなってきた。遠くにあったはずの灰色の雲が人の波へ近づいてきて、一気に雷光を浴びせてくる。
別荘へ戻るつもりが、足が動かない。不思議と想い出の場所へ向かっていた。
十二歳の夏と変わらぬままの姿で、洞窟は存在していた。
あのときと違うのは、虎臣が大きくなり、屈まないと中へ入れないことだ。
焼きついた手の跡も、戦争時代の名残をそのままに存在している。
数年経った今も平和な世の中で、勉強に勤しむ日々を送っていた。
戦争が来なければいいと願ったあのときから、今はまだ願いが届いている。
暗闇の中、一瞬の光に遅れて鼓膜に異常をきたすほどの低音が鳴った。
どこかに雷が落ちたのか、すぐ近くから悲鳴が聞こえる。
時間にして三十分ほど洞窟の中で過ごしたが、一向に止む気配がなかった。
洞窟に足音が響いた。虎臣は座っているため、誰か知らない人が入ってきた。
徐々に気配が近くなり、悪いことをしているわけではないが身を縮こませた。
「やっぱりここにいた」
顔を上げると、幸一が目の前に立っていた。
「…………白昼夢?」
「それもいいかもな。寝ても覚めてもふたりでずっと夢を見続けるんだ」
「お前……どうしてここに、」
「別荘に戻ったら、お前が遊びに行ったっきり戻って来ないって聞いてな。居場所なら判るって言って、飛び出してきた」
横殴りの雨により、彼の身体も濡れている。布が肌に張りつき、肌の色が透けていた。
虎臣は目を離せなくなってしまい、慌てて目を閉じた。
「寒いか?」
「うん。雨に当たったから」
「上は脱いだ方がいい。絞って乾かそう」
幸一は勢いよくシャツを脱いだ。
虎臣も後ろを向いて半裸になる。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます