恋の音はゴムパッチン
八木寅
第1話
離さないで。でも、離してほしい。
ゴム紐をくわえながら、どっちにしたらいいのだろうと悩む。
忘年会の出し物。なぜか若手はやらないといけない決まりで、僕は一年上の先輩とゴムパッチンをやることになった。けれども、どちらが先にゴムを離すかは決めていない。
どうしてこうなったのか。今さら後悔しては遅いけど、「忘年会なにをやるか、オレに任せてくれ」と言った先輩に託したのが間違いだったと思う。先輩はノリと気分で生きている人間だ。それを十分わかっていたはずなのに。
課内ほぼ全員参加の忘年会。次の仕事も円滑にするためには、今日を楽しい日にしなければならない。ゴムパッチンをおもしろくするにはと、くわえながら考える。
引っ張る時間、離すタイミング。それと、当たったときのリアクションがゴムパッチンには必要だろう。けど、肝心の当たる人がどちらがいいのかわからない。
芸人ならば当たったらおいしい、嬉しいことだ。でも、相手は先輩。芸人ではない会社員。いまだ上下関係が残るこの世界で、先輩を痛めていいものなのか。それに、先輩の顔はローマの風呂技師みたいなカッコよさ。そんな良い男の顔に傷をつけていいものなのか。いや、傷は男の勲章になるからいいのか……もう訳がわからなくなってきた。
「おーい。まだかぁ」
酔ってゆでタコみたいな上司が、声をかけてきた。ぐるぐる回り過ぎて酔いそうな思考は停止した。
どうすればいいのか。困って先輩を見ると、目が合った。穏やかに笑っている。
大丈夫だ任せろと言ってるようで、やっぱり僕はまた頼りたくなる。この人と進めば、新しい温泉郷を作れそう。そんな魅力が先輩にはあって、僕はついていきたくなる。
引っ張る力が弱まった。それは一瞬のことで。先輩が目の前にいて、悲鳴があがった。歓喜の悲鳴とどよめき。
僕と先輩の唇が重なっていた。肉厚で温かい。役割をなくしたゴム紐は床に落ちた。
このまま離さないで。パチンと床で跳ねたゴムの音がそんなふうに聞こえた。
恋の音はゴムパッチン 八木寅 @mg15
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます