沈黙の報酬

Bamse_TKE

第1話

「かわいい、ね、かわいいね。ちょっとかわいいって言いなさいよ。」

 介護施設に似合わぬ存在、現在育児休業中のスタッフが連れてきた赤ちゃん、クーハンと呼ばれる持ち運び用のベッドに寝かされたその姿は誰から見ても愛らしく、そして美しかった。卵を逆さにして手足を付けたような巨体の男性介護士はただただその尊さに圧倒され、賛美の言葉を失っていた。さきほどから赤ちゃんの賞賛を強要する、中年女性介護士は声を失っている男性介護士を睨みつけ、赤ちゃんの母親はそれを困ったように眺めていた。


「あ、有恵ありえさん。」

 小柄な老女がにこにこしながら赤ちゃんを取り囲んでいる介護士たちのところに現れた。この施設にいる入所者では古顔の有恵さんは大人しく優しい人で、赤ちゃんを害することも無いだろう。そこにいた誰もがそう判断し、赤ちゃんに近寄る有恵さんを咎めることは無かった。


「主任に書類出してくるから、少しだけこの子見てもらえる?」

 赤ちゃんの母親は仲間のスタッフに赤ちゃんの見守りをお願いした。中年女性介護士と巨漢男性介護士はもちろん、有恵さんと呼ばれた老婆もにっこりと微笑んだ。その笑顔に安心して、赤ちゃんの母親はクーハンですやすやと眠る赤ちゃんを置いて主任のところへ向かった。

「可愛いですね。何か月ですか?」

 ようやく声がでた男性介護士に中年女性介護士が答えた。

「4か月って言ってたな。やっと褒めたか。子供と女性は褒めるものよ。よろこぶから。ね、有恵さん。」

 中年女性介護士は呆れたように呟いた。有恵さんは何も言わずに頷いた。この有恵さんは必要なこと以外ほとんど話さず、微笑みと頷きで意思表示することが多い。

「赤ちゃんの微笑みも尊いけど、有恵さんのアカデミックスマイルも素敵よね。」

 男性介護士はアルカイックスマイルの言い間違いを訂正することなく微笑んだ。それにつられその場には笑顔の花が咲きこぼれた。



 有恵さんと呼ばれた女性、その女性の出生から少女時代は微笑みから縁遠いものであった。有恵は貧農の6番目としてこの世に生を受け、食うや食わずの子供時代を過ごしていた。そんな中子供心に楽しみを与えたもの、それは少しずつ膨らむ母の腹であった。もうすぐ有恵に弟か妹ができる、それを幼い有恵は楽しみにしていた。


 しばらくして有恵は期待通り姉となり、弟ができた。有恵は嬉しかったが、父母はそうではなかったようだった。それでも有恵は上の兄弟たちと、弟の誕生を喜んだ。


 弟の生まれた年、有恵たち農家は冷害に見舞われた。父母の収入はがくっと落ち、それが有恵たちの食卓にも反映された。母はその栄養不足から乳の出が悪くなり、

「ごめんね、ごめんね。」

と赤ちゃんに呟いていた。

 それを見ていた父が呟いた。

「子返しだな。」


 それは深夜の出来事であった。胸騒ぎがして目を覚ました有恵は母の寝室をそっと覗いた。

「ごめんね、ごめんね。」

 そう言いながら母は生まれて四か月ほどの赤ちゃんをうつぶせに寝かせた。そして嗚咽を漏らしながら母も床にもぐりこんだ。見てはいけないものを見てしまったように感じた有恵は急いで子供部屋に戻り、眠っている兄弟たちのそばで布団をかぶった。得も言われぬ恐怖に震えながら。


 翌朝弟は息をしていなかった。眠るように息を引き取ったようで、その死に顔は穏やかであった。弟の葬儀が終わってしばらくしてから、有恵は母に呼ばれた。


「あれはね、子返しっていうの。」

 あの夜誰かに見られていたのを母は知っていた。そして有恵の兄弟たちから布団を被って震える有恵の姿を聞いた。母の言葉には怒りも悲しみもなく、ただただ虚しさが漂っていた。

「育てられない赤ちゃんをうつぶせにしてあげるとね、眠るようにお空へ帰っていくのよ。」

 呆然と聞いている有恵を抱きしめながら母は言った。

「あなたはこんなことをしなくて済む人生を生きてね。自分の子を死なせたり、飢えに苦しませない人生を生きてね。」


 中学校を出た有恵は住み込みの使用人として生まれ故郷を離れ、寒村の豪農に雇われた。おんぼろな家で育った有恵の目には雇われ先の家が城にさえ映っていた。その家には寝たきりの大旦那様、お年の割にしっかりしていてこの家の実権を握っている大奥様、家業を担う若旦那様、常に大奥様の視線に怯えながら暮らす若奥様がいた。そして年の言った二人の女性住み込み使用人、前はもう一人若い女性の使用人がいたそうだが、相手の分からぬ子を孕んで働けなくなり実家に戻ったらしい。その後釜に有恵が入った訳である。


 有恵には昼の農作業、夜には大旦那様のお世話が割り振られた。農作業は実家の手伝いで経験があったものの、介護の経験は無かった有恵ではあったが、そこは先任者たちが優しく指導してくれた。有恵の慣れない介護に大旦那様は感謝を表すかのように微笑んでくれていた。この家は笑顔に溢れていた、若奥様を除いては。


「跡取りはまだなのですか?」

 大奥様の叱責を聞いたことがない使用人は居なかった。有恵を含めて。若奥様に向けられたその叱責が止んだ時、涙を隠して若奥様が部屋を後にする。有恵は同じ女性として同情し、ほおっておけずにその後を追った。それに気づいた若奥様は立ち止まり、有恵に向き直って有恵の頬を平手で打った。涙がこぼれ続ける目をこれでもかと吊り上げて。

「あなたなんかに同情される謂れは無いのよ。」


 有恵は腫れた頬のまま大旦那様の介護をしていた。自分の出過ぎた真似を後悔しながら。

「有恵、聞いたぞ、済まなかったな。」

 後ろから若旦那様の声がした。振り返るとにこやかに微笑む若旦那様が立っていた。

「父さん、ちょっと有恵を借りるよ。」

 若旦那様がそう言ったとき、大旦那様が悲しそうに首を振ったように見えた。


「誰にも話さないでね。」

 離れの一室で身支度を整えながら若旦那様が言った。有恵は破瓜の鈍い痛みを感じながら、前の使用人が孕んで辞めていった理由を理解した。大旦那様の悲しいそうな素振りも。

「たまに違う女を抱かないと、妻との子作りが上手くいかないんだよ。有恵だってこの家に跡取りが出来たほうが良いことくらいわかるだろ。」

 若旦那の勝手な呟きに呆れながらのそのそと体を起こした有恵、若旦那はその有恵からの去り際にもう一度言った。

「誰にも話さないでね。」


 若旦那様が言っていたことは正しかった。若旦那様が有恵を弄ぶようになってからしばらくして、若奥様が身籠ったのである。家中が歓喜に沸いた。若奥様を除いて。誰よりも子を授かることを望んでいた若奥様の笑顔を奪ったものは有恵の妊娠であった。


 若奥様以外の誰もが有恵を郷に返そうとした。だが若奥様が頑として譲らなかった。若奥様は有恵を手が届くところに置き、虐待と言う復讐を成すことに決めたのである。有恵はことあるごとにほほを打たれ、時には膨らんだ腹を蹴られた。暑い最中膨らんだ腹のまま長時間の庭仕事をさせられたこともあった。もちろん有恵に給水は許されなかった。これが若旦那様を寝取られた若奥様の報復であった。


 若奥様と有恵はほぼ時を同じくして男児を出産した。二人の男児はよく似ていた、当然であろう父親が同じなのだから。出産後有恵はこの家で子育てすることが許された。この頃には若奥様は自分の子にかかりきりとなり、有恵に嫌がらせをする余裕もなくなっていた。そしてもう一つこの家に変化が訪れていた。


 若旦那様は夜な夜な外出し、外で酒色に耽るようになっていた。若奥様と有恵が子育てにかまけている間家庭内で己が欲望を向ける相手がいなくなり、若旦那様は夜の世界にそれを求めたのである。若旦那様は酩酊して帰ってくることが多くなり、タクシー運転手に抱えられて家に入ってくることも少なくなかった。


 雪の吹きすさぶ寒い夜、車が走り去る音に有恵は目を醒ました。有恵は玄関から一番近い部屋を赤子と二人で与えられていたのである。赤子を背負い玄関を出ると、若旦那様が雪に埋もれて眠っていた。相当酔っぱらっているようで、寒さにも気づいていないかのように昏々と眠り続けている。有恵はちょっと思案したあとにっこりと微笑み、何事も無かったかのように玄関の戸を閉め自室へと戻った。赤子と二人だけで。


 翌朝若旦那様は凍死した状態で発見された。大奥様の嘆きぶりは見ていられないほどであったのと対照的に、若奥様は悲しそうな素振りを見せなかった。それほど若奥様は若旦那様に愛想が尽きていたのだろう。これで家の血筋を繋ぐのは二人の赤ん坊だけとなっていた。


 若旦那様の四十九日が終わり、疲れが出たのか若奥様は乳の出が悪くなった。仇敵である有恵に授乳を頼むのは若奥様にとって屈辱であったが仕方なく受け入れた。そして有恵は跡継ぎである赤子にすぐ乳をあげられるように若奥様の隣に寝室を用意された。


 ある日の夜ふと目を醒ました若奥様はベビーベッドにいる我が子の異変に気付いた。うつぶせに寝たままピクリとも動かない。慌てて抱き上げてもぐったりしたまま、呼吸もしていない。若奥様は慌てて有恵を呼んだ。有恵はすぐに若奥様のところへ駆けつけ、動かない赤子を見て首を振った。若奥様は頭を抱え、髪の毛をかきむしった。その動揺は我が子を失ったことだけではなく、跡取りを死なせてしまった自責、そして自分が追わされるであろう責め、それを危惧してのことだろう。取り乱す若奥様に有恵は微笑みかけた。そして自分の赤子を若奥様に抱かせ、死んだ子を自室へ連れて戻っていった。若奥様は生きている赤子を抱えながら、有恵の微笑みを思い出し恐怖に震えていた。有恵の微笑みは若奥様に有恵への服従を強いていた。


 翌朝有恵と一緒に朝を迎えた赤子は病院に連れていかれ、乳児突然死症候群と診断され、病院関係者にお悔やみを告げられた。かくして有恵の子は若奥様の子として何不自由なく育てられ、そして大奥様の亡き後若奥様は有恵の微笑みに支配され、その沈黙に代償を払い続けた。



「あ、すごい。まだ四か月なのにこの子寝返りできるんだ。」

 介護施設にてクーハンの中で寝返りを打ち、うつぶせになった赤ちゃんをみて中年女性介護士が手を叩いて喜んだ。それを巨漢の男性介護士が咎める前に有恵さんが手を差し伸べた。有恵さんはいつもの微笑みを浮かべながら赤ちゃんを仰向けに戻した。

「すごーい、有恵さん慣れてる。上手。」

 中年女性介護士が有恵さんの手際を褒めたたえる中、男性介護士は有恵さんの知識に驚いていた。有恵さんはうつぶせ寝が乳児突然死症候群のリスクであることを知っていたのだろう。男性介護士は感心しながら肉付き良すぎる頬を上気させた。


 そう、有恵さんは知っていた。そして慣れていた。数十年前、寝ていた赤子をこっそり仰向けからうつぶせに寝かせる。これを毎晩繰り返していた。今回はそれを逆にしただけなのだから。




 

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